1.墓所
***
つい眼前の空中に、火の玉が現れ、そのまま燃え上がる。
それが幻覚であることを彼女は知っていたが、それでもなお、辺境の者としての本能は、炎の姿を恐れていた。
「二番目」
彼女は、司祭同士で話すときですら、肉声で使うことが多かった。本来の司祭は、魔力を使った一種の精神感応を使って伝達をすることを好むが、彼女はそういう意味では変わっていた。昔から。
金色の髪をなびかせながら、幻の炎を数十個浮遊させ、そして玉虫色の翅を六枚広げている彼女は、能力だけでなくその考えも妖精の中でも異質であった。
二番目の司祭である彼女の力を凌駕しながら、彼女は表向きは高温を操る力が辺境の中では異質であるから、と責任ある立場を拒んだ。しかし、それはただの言い訳で、本当は彼女は責任を持ちたくなかったのだということを知っている。その為に彼女が、代わりに二番目の司祭になった。だが、その力の差はことあるごとに感じていた。
「暁のロゥザリエ」
「二番目の。あなたの仕業だったのね。封印を解いたのは……」
五番目の司祭、暁のロゥザリエは、彼女をにらんで威圧しながら言った。
「司祭であるあなたは、自分が何をしたのか知っている筈でしょう? 何故そんなことを?」
ロゥザリエの目の前に浮かぶ火球が大きくなった。
「私は高温を使う妖精。疑似的な炎を使う。あなたは、私のこの力ですら恐れている筈。なのに、どうしてわざわざ炎の平気な狼人をけしかけてまで、封印を解いた?」
「ふふふふっ」
二番目の司祭は笑い出す。
「ロゥザリエ、あなたは本当に変わらない。私がこうなったのは、あなたのせいでもあるのにね」
彼女は悲しげにロゥザリエを見て自嘲的に笑った。
「何ですって?」
「私も、あなたみたいに自由で、言いたいことが言えて、そして強くありたかった」
二番目の司祭は、そうぽつりと告白した。
「どうして、私にはそれができなくて、あなたにはそれができるんだろう……。それが実力の差。私には、それが耐えがたかった」
***
レックハルドが、あくる日、仕立て屋のベーゼルを訪れたのは、昼になってからだった。
待ってましたとばかりに現れたベーゼルは、メガネの奥からやや狂気じみた光をきらきらさせながら、鼻息荒くレックハルドを迎えた。
「レックハルド! 約束の日は明日だったよなあ! 見ろ! オレとその弟子達と、その辺の仕立て屋呼びかけて仕立て屋連合作って明日までに仕上げてやるぜ! 見たか! オレを尊敬しろ!」
すでに狂気の世界に入ったような笑い声を立てながらベーゼルは言った。
後ろで数人の仕立て屋風の連中がせっせと縫い物をしているのを見ると、どうやらベーゼルは、年甲斐もなくあの時の彼の言葉に本気で腹を立てたようだ。いつもなら、苦笑して「おっさん、あんたも仕方がねえな」と言うところだが、今日のレックハルドはそんな気分にはなれなかった。
彼の顔にいつものような活気はなく、暗く沈んでいた。
「今、できてる分はあるのか?」
レックハルドは話をきいていないかのように訊いた。ベーゼルは面食らって、ああと答える。
「えーと、あの大男のは上着とお前の上の短いのは完成してるぜ。だがなあレックよ。三日だったら、オレは全部……」
「それだけくれ。いますぐいるんだ」
そういって、レックハルドは迷いもせずに札束と金貨を机に置いた。
「お、おい!」
その多さと、レックハルドの態度に、ベーゼルは半ば呆然とした。
しかし、レックハルドが返事をしないので、仕方なく服を差し出した。自分のを荷物入れに突っ込み、レックハルドはファルケンの着るはずだった長い外套を見やった。くっと、奥歯を噛み締める。少しだけ安い布でつくったそれが、思い出されて辛くなる。
どうして、あの時、一番高い布にしてやらなかったのか。こんなことになるのなら、一番上等なもので送ってやりたかったのに。
あの時、たった数枚の紙幣を渋った自分が、レックハルドには今は呪わしかった。
「おい、レックハルド、どうしたんだよ?」
「なんでもねえ。明日、ここにマリスっていうあのお嬢さんが来る。そのときに、頼んだものの残りを渡してくれ」
後ろを向いたまま、レックハルドはそういう。ベーゼルは変な顔をした。
「おい、どうしたんだ? なんか、いつものお前らしくないな」
「……別に」
ベーゼルは金を数えてそれがあまりにも多いので、半分釣りに返さなければいけないな、と彼にしては律義なことを考えた。
「面倒なことしやがって。多めに出してもつり銭が面倒なだけ……」
「釣りはいらねえ」
ええっとベーゼルは大げさに声をあげた。
「お、お前大丈夫か? なんかふらふらしてるし、飯食ってないんじゃ……」
「おっさん」
それを無視して、レックハルドはいった。
「店の前に、布積んでるから。それ、オレが持ってた在庫だけど、いらなくなったからあんたにやるよ」
「お、おい!」
あの守銭奴で有名なレックハルドが、まさか自分にそんなことを……。
ベーゼルは本気で心配になってきて、足早に去るレックハルドを追いかけた。
「あの相棒のでかい奴どうしたんだよ!」
レックハルドは応えない。ベーゼルは、ぱちんと指をはじいた。
「そうか! お前、やっぱりあいつに辛く当ったんだろ! あのなあ、ああいう馬鹿正直なのは大切にしてやらねえと、お前、本気で友達無くすぞ! 大体なあ、お前、あの娘さんに妙に優しかったけどなあ、女だけいりゃ人生潤うと思ってたら大間違いだぞ!」
ベーゼルの見当はずれな忠告が聞こえてきた。
「女に捨てられたら、誰も頼れねえじゃねえか。そういう時、酒飲んで愚痴って悲しみを分かち合おうと思っても、誰もいなかったらむなしいぜ~!」
ベーゼルは親切心なのか、なんなのか、そんなことを言って得意げに笑った。レックハルドがなにも言わないのを、肯定と取ったようだった。
「ははん、やっぱそうだな。今すぐ謝ってこいよ! あれなら、きっと許してくれるって!」
そう言い放ち、ベーゼルは一人満足したようだった。そのまま、得意顔で店に帰っていく。彼としては、若者の悩みにすばらしい忠告をしてやったというつもりらしかった。
(…そうじゃねえ、オヤジ。)
レックハルドは、心の中で呟いた。
(あいつは……もうこの世にいねえんだよ。)
レックハルドは、わずかに空を仰いだ。すがすがしすぎるほどの青空だった。
――あんたのせいよ!
声が蘇ってくる。昨日いわれた言葉が、もう一度彼の耳に蘇り、レックハルドは微かに眉をひそめた。
*
ファルケンを弔うことは、レックハルドには許されなかった。
彼は辺境の森に火を放った大罪人。普通の狼人が死んだのと同じようにはできず、レナルが駆けつけてまもなく、司祭の命令でやってきた近衛の狼人達に連れていかれてしまった。
抵抗しようとする彼をレナルが止めたが、もし、レナルに止められていなければ力ずくで排除されていたことだろう。
そして、呆然としているところに、ロゥレンが駆けつけてきた。
彼女が誰から何を聞いたのかしらないが、すでに事情を知っていたようだった。
「あんたのせいよ!」
ロゥレンが叫ぶように言った。
「ファルケンは”誠意の水”を飲まされていた。だから、本当は司祭に逆らっちゃだめなのに、それなのに森に火をつけたんだわ。それはあんたを助ける為としか思えないんだから!」
「……まさか、あの時オレが……」
ふと、レックハルドはあの白昼夢を思い出していた。
闇の中で彼は声と影たちに取り囲まれ、ファルケンに助けを乞うた。ファルケン助けてくれ、と何度も叫んでしまった。もしかして、それで? 確信はもてない。だが、あれがもしファルケンに聞こえていて、彼が妖魔と対峙していたのだとしたら、どうするかはレックハルドにはよくわかる。
レックハルドは、何も答えず、黙って地面を見ていた。
「あんたが戻ってきたから、あいつはあんたを助けるために、辺境に火をつけたのよ!」
ロゥレンは、泣き叫んでいた。
「それであいつは死んだんだわ! あんたがあいつを殺したも同然なんだから!」
「よせ! ロゥレン!」
レナルが見かねて止めに入る。
「何よ! ホントのことでしょ!」
「黙ってろ! 大体、お前がレックハルドを呼びにいったんだろ! おい! 誰か、ロゥレンを連れてけ!」
レナルが呼ぶと、彼によって呼び出されていたらしい、数人の狼人がおっかなびっくりやってきて、それでもロゥレンをつかんで引き離そうとし始めた。いきなり引っ張られて、ロゥレンは暴れる。
「痛いわよ! 離してってば!」
「しばらく頭を冷やせ!」
レナルは、少しきつい口調で言った。ロゥレンはしばらくもがいていたが、狼人の力には勝てずにそのまま引きずられていく。
「あたし、許さないから!」
ロゥレンの碧の可憐な目に、涙と一緒に憎悪と敵意が浮かんでいる。それが自分に向いていることは十分に承知していた。元はといえば、彼女がファルケンを助けるために自分を呼び出した。そんなことはロゥレンだってわかっているに違いない。
けれど、彼女の気持ちもよくわかった。わかっていても、レックハルドを責め立てなくていられなかったのだ。
「あんたなんか、許さないから!」
ロゥレンの姿は、草むらの中に消えた。レックハルドはただ黙って、言い訳すらせずにややうつむきながら立ち尽くしていた。レナルがレックハルドに優しく言った。
「気にするな。あんたのせいじゃねえんだから」
「いいや……」
レックハルドは首を振った。
「オレのせいだよ」
そう答え、レックハルドは空を仰いでいた。
あれから日蝕は起こっていない。それが一体何を意味するのか、レックハルドにはどうでもいいようなことだった。
シレッキを出てそれから森へ急ぐ。ファルケンがどこに連れて行かれたのかはわからなかった。ただ、この服を届ける先は辺境にしかないと、レックハルドは確信していた。
「森の奥へ、司祭達が運んでいくのを見ましたよ」
タクシス狼のソルが、そうやって教えてくれていた。彼は司祭の護衛である近衛の狼人達を尾行していったらしい。
「俺は先に行かせてもらったが、あんたは行かない方がいいかもしれないな」
そういったのは、少し沈んだ様子の銅鈴のレナルだった。
「ファルケンの弔いは、普通の狼人でもできない。俺は特別に通されたが……。人間のあんたじゃ、かえって危険だ。司祭を刺激するかもしれない」
レナルは、兵隊の狼人としても破格の扱いを受けているらしい。彼は人間の世界に行って見聞を広めてきた狼人であり、それだけで一目置かれているという。
「オレはあいつと最後の別れもできねえのか」
レックハルドは、ため息をついた。
「いや、それどころか葬式されることも許されないんだよな、あいつは……」
「できることはしたよ。花は供えてきたから」
レナルが慰めるように言った。
「レックハルド、あんたの気持ちだけで、あいつは十分だと思ってくれてると思うから……」
だから無茶はするんじゃない、レナルは、気遣いながらも戒めるようにそういったものだった。
(無茶をするつもりはねえよ。ただ……)
静かな森の中を、レックハルドは延々と歩き続けていた。
(オレはオレなりにアイツの葬式を挙げてやらなきゃならねえんだ……)
小鳥の声が聞こえる、平穏な森だった。それは彼が愛した森そのものだ。
まるで平和で、昨日あんなことが起こったとはにわかに信じがたかった。いつも先導していたファルケンが、ふと脇道から現れるような気すらした。
レックハルドはため息をつく。これからは一人だ。ファルケンと旅をしてきたこの世界を、レックハルドは一人でやっていかなければならないのである。もう多くの荷物も運べないし、何かの時に彼を守ってくれる人もない。こうして辺境に入ることもなくなるのかもしれない。
(アイツが好きだった泉に、こいつを届けてやろう。あいつに会えないなら、せめてそれぐらい……)
そんな風に思って、レックハルドは彼がいつも水を汲むのに使っていた泉の方に向かっていた。それぐらいの浅い場所なら、一人でももう迷うことはない。
と、その時、不意に周囲の空気が変わった。
「『待ちなさい』」
それは女の声だが、直接頭の中に響くような、普通とは違う聞こえ方をした。
「だ、誰だ!」
ドキリとしてレックハルドは立ち止まる。周囲を見回すが、人影はない。
「『貴方がレックハルド、ですね?』」
「何故オレの名前を知ってるんだ?」
そう尋ねるが、直接的な答えは期待できそうもない。だが、その声に敵意は感じられなかった。
「『貴方はファルケンに会いたいですか?』」
「もちろんだ。だが、許されないんだろう? オレが人間で、あいつが罪人だから……!」
相手は一体だれだろう。司祭? それならまだいいが、もっと大変な存在の可能性だってある。しかし――。
「『そのまま、まっすぐに進みなさい。……彼に会わせてあげましょう』」
「本当だな?」
レックハルドは念を押す。
「『嘘はつきません。行く先々で私の護衛の狼人達が貴方を見守っている。道に迷うこともないでしょう。さあ、進みなさい』」
「よし」
レックハルドは、とりあえず相手を信用することにした。しかし、もし仮にそれが嘘だったとしても、別に今のレックハルドに命を大切にする必要もなかった。
そのまま、森の奥へと足を進める。先ほどの声の言うように、明らかに視線を感じた。木の枝の上、木陰。静かにしているが、狼人達がそこで彼を見ているのがわかる。彼が移動すれば、彼らもまた移動していく。
「『まっすぐにそのまま森の奥に進むのです』」
女の声が響く。
そうして、そのまま進んだ先に、朽ちた大木が立っていた。その先はきりたった崖があり、道はそこで途絶えている。大木には大きな洞があり、そしてその周囲には何か魔術めいた紋様が石で描かれている。
「『よく来ましたね。レックハルド』」
もう一度声が聞こえ、彼の目の前にふわりと何者かが舞い降りてきた。
金色の糸のような長い髪を、風もないのに舞わせて、それは彼の目の前に降り立った。華奢で細い肢体に四枚の虹色の翅を背負い、少女のように見える美しい顔ははかなげな影を帯びている。ガラス細工のような繊細な顔立ちの女だ。
妖精だ。
しかし、レックハルドにもわかるほどに、彼女は強い力を持っている。その気配が、空間を静かに支配していた。
「司祭、かい?」
レックハルドが恐る恐る尋ねると、彼女は頷いた。
「『私は今の二番目の司祭エアギア』」
しかし、その唇は開いておらず、レックハルドの頭に直接声が響くようだった。
「『ここは彼、ファルケンの墓です。もうすぐ入り口は塞がれ、永久に閉ざされる。しかし、それまでに時間がある。貴方に彼との時間を与えることができます』」
二番目の司祭は、微かに悲しみを帯びた声をしている。
ファルケンは司祭によって死んだ。そのことはレックハルドも知っているが、しかし、彼女に対して何故か怒りがわいてこなかった。
「なんで、オレをここに案内したんだ。アイツが死んだのはオレのせいだって、……アイツが火をつけたのはオレの為だって、あんた知ってるんだろう?」
「『ええ。……しかし、彼への処罰は司祭でも意見の分かれるところでした』」
二番目の司祭は、ふと目を伏せる。
「『私には止める力はありませんでした。しかし、貴方を彼に会わせることはできる』」
「それでオレを呼んだのか? ここへ」
「『彼も貴方に会いたいでしょう。あの影が、ここに傾くまで……、貴方の自由になさりなさい』」
二番目の司祭の本心は、レックハルドにはわからない。ただ、彼女が自分に彼に弔う機会を与えてくれたのだけは確かだった。レックハルドは頭を下げた。
「すまねえ。恩に着る」
そして、レックハルドは、ふと思い立ち、周りにある花畑に走った。そこに生えている小さな薄紅色の花を一抱え分折り取って抱えた。
墓だといったのは、大樹の洞の中だ。緑の苔で覆われたそこに入ると、少しひんやりとしていた。中は広く、ちょっとした祠のようになっていた。朽ちた大樹の穴から光がふってきてきて、眠気を誘うように優しい。
その奥に、まるで眠っているかのようにファルケンが寝かされていた。それが昼寝と違うのは、おそらく地面に何か魔法陣のような図形が何重にも描かれていることだった。知識の無いレックハルドにはわからないが、おそらく封印か何かの一種なのだろう。
「すまねえな。なかなか来れなくてさ」
レックハルドは、そういいながら奥に寝かされているファルケンを見た。まだ血の付いたマントや服のままで、相変わらず口許は微笑んでいるようだった。両手は組まされていたが、指先がぼろぼろで見ていて痛々しくレックハルドは目を伏せた。
紋様をしていない素顔のファルケンというのは、あまり見たことがなかった。彼を少し強そうに見せているのは、おそらく半分はそれのせいなのだろう、とレックハルドは漠然と思った。紋様がなければファルケンは、彼の人格どおり、穏やかで大人しい性質の、少し二枚目の青年といった感じで、レックハルドが一緒に旅をしていた彼と比べて、ずいぶんと特徴がなかった。どこかの村にでもいれば、そこで平和に暮らしている農夫の若者にも見えたかもしれない。そののどかな印象は、ファルケンの持っていた少し暗い部分を全部消してしまっていて、まるで別人に思えた。
(別人なら良かった)
レックハルドはしみじみと思った。薄紅色の花をその体の上にかける。狼人の弔い方など知らないが、花ぐらい構わないだろうと思った。
「ふん、お前にしちゃ、いい場所じゃねえか」
ゆっくりと周りを見回して、レックハルドは笑いながら言った。そうでもしないと、この空気に堪えられそうになかったからだ。
「話は聞いたよ。お前が死んだのは、オレのせいなんだな。なんで言わなかったんだ。また、お前、オレに遠慮して黙ってたのかよ」
気に入らねえよ、とレックハルドは吐き捨てた。
「オレが死にそうだってんで、お前、シャザーンの言うこと聞いて、あいつら裏切ったんだ。そうだな?」
レックハルドは、答えるはずもない彼に向かってそうきいた。
「でも、あの時、やっぱりお前が助けてくれたんだな。……ありがとうな」
――普段のお前らしい決着をつけてくれ。
こんな時にあの時の鑑の中の男の声がよみがえった。
(これが、あんたの望んだ決着かい?)
レックハルドは鏡の中の男にそうきいてみたかった。 鏡の男は、こうなることも想定してああいったわけでもないだろう。
(どちらにしても、オレは後悔していたんだ。でも……)
――でも、良かった……。オレ、きっと一人で死ぬと思ってたから……。
あの時ファルケンはそういった。それは多分本心で、その場にいてあげられたのはよかったのかもしれないと自分を慰めてみた。本当は、最期ぐらい誰かが傍にいてほしかった。そういったファルケンの言葉だけが、レックハルドの救いだった。
「昔な……・」
レックハルドは語りかけるように、静かに言った。
「ゲルシックの話を聞いたとき、正直、馬鹿だと思ったよ。てめえでてめえの友達を殺したようなもんなのに、そんな財産払ってまで生き返らせたいのかよってさ。そんなに大切なら、嫁も相棒も、最初からちゃんと守れって。だから、昔、オレはあの話が大嫌いだった。だけど、今ならわかるかもしれねえ」
そういいながら、レックハルドはいつもファルケンが持ち歩いていた木の入れ物を取り出した。それには赤い顔料が入っている。それを指先に塗り、ファルケンの顔に紋様を描いていく。やったことはなかったが、いつもみていた通り、見よう見まねでそれを描く。
「だけど、すまねえ。オレはゲルシックじゃない。女神の助けは来ないし、それに、金貨は命の水には変わらないんだ」
レックハルドは寂しげに笑った。
「そうだよな。オレは英雄じゃないし、ましてや正義の味方からは程遠い」
何とかいつも彼がしていたような紋様の形になった。レックハルドはため息をつき、いつも見ていたファルケンの顔に目を落とした。
「やっぱり、お前にはそれが似合ってるよ。ないとしまらねえよな」
だが、メルヤーをしていると、やはりファルケンがそこにいるのがわかって、レックハルドの心は痛んだ。目を伏せ、静かに彼は言う。
「本当は、お前の為にちゃんとした葬式でも何でもあげてやりたかったんだが、そうはいかなくって。結局、オレがしてやれるのはこれだけなんだ。すまねえ、ファルケン……」
もちろんファルケンが答えるはずもなかった。沈黙が痛かったが、レックハルドはあえて微笑んだ。
「だからさ、はなむけに服をやるよ。そっちは寒いだろうから、これでも着て温かくしてくれよな」
そういって、レックハルドはファルケンの上から例の長い該当をかぶせた。裾に、文字のようなものが縫い取りされている。レックハルドには、それが旅の安全を願うおまじないの言葉であることがわかっていた。黒っぽい紺の、縁が金色で彩られたそれは、レックハルドが予測していたより、ファルケンに良く似合った。
「オレが、それを値引いたこと、お前なら怒らないだろうな」
レックハルドは、寂しげに微笑んだ。
「すまねえ、全部オレが悪いんだ。許してくれとはいわないぜ」
レックハルドは、ファルケンの前髪を払い、冷たくなった額に触れた。それはあまりにも冷たくて、まるで氷のようだった。レックハルドは、目を伏せる。
「……オレがあの時、お前をすぐに楽にしてやればよかったよな。でも、本当に、すまねえ。オレには、そんな力もなかったんだ。お前があんなに苦しそうだったのにさ。恨むなら存分に恨んでくれよ。そのほうが、オレは気が楽なんだ。……なあ、気にするなとか言わないでくれよ。お前のせいだって、オレに一言言ってくれ」
レックハルドは、せがむような口調で言った。
「お前が一言、あの時、恨み言の一言でもいって死んでくれたら、……オレはずいぶん気が楽だったんだ。所詮、他人なんてそんなもんだと思えたよ。お前の事なんか気にせず、とっとと水に流してやったさ。そうして、オレはいつもどおり生きていけたんだ。だけど……」
目を閉じた。その目から涙が静かに流れて伝い落ち、ファルケンの冷たい体にかけられたあの外套をぬらした。
「……お前ッ、謝ってばかりで……、笑ったまま死にやがって! だ、だから……、だから……オレは……」
レックハルドは声を詰まらせ、感情を押し殺すように奥歯をかんだ。それから目の周りを袖口でぬぐう。
「ごめんな、ファルケン」
彼が使うばかりでレックハルド自身は、一度も「ごめん」とは言ったことがなかった。謝罪の言葉を口にしながら、そっとファルケンの頭を軽くなでてやった。自分まで凍りつきそうな、この冷たさはなんだろうとレックハルドは思ったが、それを追求する気にはならなかった。この洞の中が冷たいからかもしれない。
だが、この空間なら、きっと静かに眠れるだろうとレックハルドは思った。苔むしたふるい大木の洞の中。そこなら、彼には似合いすぎている空間だった。
「ゆっくり休め。もう、無理に戦う必要なんてないんだから。お前には、平穏無事な世の中が似合ってる。ちょっと臆病なぐらいで十分だよ。顔に血を塗るのは、今回で終わりにしようぜ、な」
自分ではなくファルケンを慰めるように、彼の言葉は続いた。
「お前は悪党なんかじゃないよ。オレからすれば、お前はまるで英雄みたいだ」
ファルケンの表情が、少し明るくなったような気がして、レックハルドは少しだけ微笑んだ。
「魔幻灯は、お前が言う通りにオレがもっていく。……あばよ、ファルケン」
ファルケンの周りの花を整えて、彼はもう一度いった。
「今まで、ありがとうな。本当に……」
「『時間です』」
冷たい義務的な声が聞こえた。
レックハルドは、ああと答えると、思い出したようにファルケンの外套をつかんだ。そうして、今度は顔の上にかけてやる。
「本当にさよならだ」
レックハルドは立ち上がり、そのままきびすを返した。
振り返りたくはなかった。おそらく、ファルケンもそれを望んでいないはずだ。レックハルドは、口を固く結んだまま、足早に外に出た。
洞から出たとたん、外の光に目を細める。その明るさに慣れた時には、すでに二番目の司祭の姿は消えていた。
「ありがとうな」
見えなくなった彼女に、レックハルドは礼を述べて硬い表情のままその場を立ち去った。




