4.印『魔幻灯』
*
体が熱かった。頭も体も異様に熱く、目の前が赤く染まって見える。
けれど、体が軽い。怪我をしている筈なのに、痛みはおろか、疲れも感じることはない。心地よいほど、動きやすい。
こんな衝動に突き動かされるのは初めてだったが、気が楽だった。何も考えずに、体中を巡る熱に身をゆだねていればいい。熱とは、暴力衝動と言い換えても良いものだった。だが、気が楽だ。
何も考えずに、相手を打ちのめせるのだから。
とびかかってきたシャザーンを間一髪避けて、その胸倉をつかむ。それを力任せに地面に叩き付け、ファルケンは容赦なくその体を蹴り上げた。そのまま、グランカランの木の幹に叩き付けられる。
「く……」
どうにか顔を上げると、ファルケンが無表情に立っていた。その無表情さは獣の冷徹さそのものだ。瞳だけに殺意をきらめかせ、彼はシャザーンを圧倒して立っている。
シャザーンは思わず咳き込んだ。かすかに血が滲み、胸に激痛が走る。骨折でもしたのかもしれない。
「『ここまで強いとはな』」
妖魔が苦笑する。
木々の間で争われていた戦いは、いつしか場を再び封印の草原に戻していた。
当初はファルケンと互角か、それ以上で押していたシャザーンだが、疲れ知らずのファルケンに徐々に押されるようになっていた。理性を失っている筈の彼の、無駄な動きが徐々に消えている。
ということは、ファルケンにはある程度の理性が戻ってきているということだった。それにも関わらず、彼は戦闘をやめない。
「『きっかけを与えてしまったか』」
妖魔がぽつりとつぶやく。
きっかけ?
シャザーンは言葉にせずにそう尋ねた。
「『もともと、この男は強い。しかし、相手を傷つけないようにしていた。だが、ザメデュケ草で興奮状態に陥ることで、その枷を外した。今は、それの延長』」
そうだろう? と視線を上げると、ファルケンはかすかに目を眇めた。汗で溶け始めた顔に引いた血がにじんでいる。
「関係ない」
ぼそりとファルケンは冷徹に答えた。
「オレは役目を果たす。……だから」
ファルケンは右手の剣の切っ先をシャザーンに向けた。その目がギラリと殺意に光る。
「殺す……ッ!」
シャザーンは不安げに、しかし、妖魔は唇に冷笑を称えながら、その刃が振りあげられるのを見ていた。
「やめて!」
突然声が割って入った。その声は、この場に不似合いな愛らしい高い声だ。
「やめて! ファルケンちゃん!」
その声は、シャザーンの目の前で聞こえた。シャザーンの視界、立ちはだかるファルケンの目の前に、小さな影が割り込んでいた。
「やめて!」
その来訪者に驚いたのは、シャザーンもであったが、ファルケン自身もだった。
「お願いだから、殺すなんてやめて!」
そこに割って入ったのは、一人の小さな妖精だった。
金色の巻き毛に大きな目。小さな体に虹色の羽をした妖精。その髪に水仙の花がさしてある。彼女はこの場にいるはずのないものだった。いてはならない存在だった。
ファルケンは目を見開いた。
「ミメル」
ファルケンは、ぽつりと言った。
「ミメル、どうして?」
「だって、クレイのことが心配で……!」
ミメルは、シャザーンを振り向きそれからファルケンに向き直った。
「お願い。やめて、ファルケンちゃん! 殺さないで!」
ファルケンは、一瞬呆然とした後、ミメルを見た。
「なんで……」
ファルケンの口から、感情的な言葉が漏れる。
「なんで、そいつを庇うんだ、ミメル」
ミメルは返事をしない。
「そいつは、辺境を裏切っている。それだけじゃない。妖魔に取り憑かれて、オレもレックも殺そうとした。どうして、ミメルはどうして……」
ぎっとファルケンは、歯噛みした。
「どうして、そんな……、奴のこと庇うんだよ!」
唐突にファルケンは感情を爆発させて、怒鳴りつけた。当然ミメルにこんな態度で言葉を浴びせたのは初めてだった。戸惑いよりも先に、感じたことないような感情がふつふつと湧き上がる。おびえたように自分を見るミメルは、しかしその目の奥に強い意志を持っている。
「『ははっ……』」
シャザーンの口からふいに妖魔の笑い声が漏れた。
「『これは驚いた。辺境の者にも人間みたいな情愛があるとはなあ』」
「きゃっ!」
シャザーンは力任せにミメルの首を掴んだ。ミメルは声も立てられず、そのまま気絶した。
「ミメル!」
「『安心しろ、まだ死んではいない』」
そういってファルケンを牽制し、足元に気絶したミメルを落としたまま、シャザーンはゆらりと立ち上がる。
「『生粋の狼人のお前には理解できまい。この妖精は本当に罪深い妖精……』」
妖魔は嘲笑う。
「『お前もこの妖精が死んだ方がいいだろう?』」
「何を言ってるんだ! ミメルは関係ないだろ!」
ファルケンは、眉根を寄せた。
「何が一体罪なんだ! ミメルに罪なんか……」
「『あるさ。辺境の者でありながら、この男に情愛の欲を抱いた。それで行動をしてしまった。それだけでも罪だ。お前には彼女の行動が理解できるか?』」
「オレには、確かにできない! でも……」
「『お前は悔しくないのか?』」
言い募ろうとしたときに、妖魔は彼の言葉を遮った。
「『お前は悔しくはないのか。この妖精、お前ではなくこの男を取ったのだぞ。……お前は捨てられた』」
妖魔は責め立てるように言い放つ。
「『お前の大切な妖精だったのにな』」
ファルケンは歯噛みして、妖魔の影に隠れているシャザーンに言い放った。
「オレのことはどうでもいいんだ! それより、シャザーンはそれでいいのか! ミメルにここまでさせておいて、何もできないままで!」
責め立てても、もはや妖魔の後ろにいる狼人の青年は姿を現さない。妖魔の力がどんどん強くなっているのだろう。
「『はは、そんな挑発をしても無駄だ。この男にそんな気概があるなら、この妖精が割り込んできたときに正気に戻れた。しかし、もうこの男には無理な話』」
妖魔は胸に手を当てる。
「『この男はもう限界だ。封印を解き始めた時から、私に食われてはじめ、もう随分経つ。……人の世界にも辺境の世界にも染まれないこの男は、封印を解き放ち、すべてを混沌の中に返してやろうとしか考えられなかった。辺境と人間の世界を隔てるもの、辺境そのもの、太母さえなければ、我々は幸せに暮らせるのだと、そんな妄言を信じた』」
ふっと妖魔は笑う。
「お前もそうではないのか?」
(声が!?)
ふいに妖魔の声がシャザーンのものと重なった。急速に不安げな元の彼の表情が消えていく。表に出ている妖魔が、彼のすべてを飲み込んでいく。
「お前も、辺境を呪わなかったというのか、魔幻灯のファルケン! お前が一度も辺境を呪わなかったといえるのか?」
(妖魔が前面に出てきてしまっている)
妖魔はシャザーンを食ったといった。それは彼と完全に一体化して、自分が主導権を握るということか。そして、その最後の仕上げはおそらくミメルを殺すこと。
妖魔は嘲笑った。
「お前は辺境の為に戦う必要がないはずだ。ならば、目的は変わらない。封印を解く手伝いをするのだ」
「なんでお前の言うことを聞かなきゃならない!」
ファルケンは首を振った。
「オレは、辺境を守る。一度そう言った! 例え、オレがあいつらに裏切られようとも、一度言ったからには、絶対に守り通す! それだけだ!」
はは、と妖魔は笑う。
「相当な強情っぱりだな、魔幻灯の。しかし、この妖精だけでなくもう一人の命も私の手の内にあると知っても、その強情さを貫けるのか?」
妖魔はふと視線を背後に向けた。ファルケンは隙をみせないようにしながら、その視線をたどる。
そこには、黒いよどみがあった。黒い黒い重々しい泥のようなものが、森の中に溢れかえっている。
「ルケン……、ファルケン…・…! 助けて、くれよ!」
聞き覚えのある声に、ファルケンははっと顔を上げた。
「お前、ッ、まさか!!」
一瞬で、ファルケンは青ざめていた。
「お前を呪うだなんて、オレはそんなことは! やめてくれ! 全部嘘だ――!」
「ははは、お前の後を追いかけてきたものだ。少し風を操って、声を聞かせてやっている」
妖魔は勝ち誇った声で言った。ファルケンは慌ててそちらに駆け出そうとするが、妖魔のふるった手で足元に風が起こる。
「行っても無駄だ。あの程度の人間なら、今すぐにでも壊すことは簡単」
「や、やめさせろ! レックに何を!」
「何を? ただ、私の仲間が吹き込んでやっただけだ。その心の中の暗い声を」
妖魔は、シャザーンの顔をゆがめて醜悪に笑う。
「お前の友人であるあの男は、我々にとって非常に好ましい性質の人間だ。憎悪、孤独、嫉妬、そして世の中に対する激しい怒り。疎外感。お前もわかっていただろう? あの男には、そんな感情が渦巻いていた」
「黙れ! レックはそんな人間じゃない!」
ファルケンは怒りに任せてシャザーンを睨んだ。しかし、ファルケンは焦り始めていた。
あの黒い塊は、レックハルドなどの力では到底耐えきれない。あんなどす黒い邪気の中でその闇の中に引っ張り込まれては、彼ではどうしようもない。
時間がない!
「はは、お前もわかるな? あのまま放置しておけば、発狂するぞ」
「……お前ッ!」
妖魔は、くすりと笑った。
「しかし、条件次第では、彼を助けてやってもいい」
妖魔は、二本のグランカランの中央に刺さっている剣を指さした。
「その剣を抜け」
「剣を?」
それは封印の剣だ。ファルケンは何を命令されているのかを気付き、顔をこわばらせた。
「オレに封印を解けと」
「ははは」
妖魔は嘲笑い、首を振った。
「嫌なら、あの男には発狂してもらう。それでいいのかな?」
「っ……!」
ファルケンは少しためらったが、意を決して封印の剣の場所に向かった。右手を伸ばしてその剣を掴む。普通の狼人の者たちは、金属に触れるのを嫌うが、その剣は確かに普通の金属ではない。ファルケンですら触れた時に、妙な感覚を覚えて一瞬手を放してしまうほどだ。
(ほかの狼人に抜けないのはこのためか?)
そう思ったが、もう一度握ってみた時はそれほどの違和感はない。意を決して引っ張ってみると、剣は難なく抜けた。ファルケンは何が起こるのかと身構えたが、何も起こらない。剣は彼の手の中に静かに収まっていた。
「その剣には、特殊な加工がしてある。だから、お前か人間にしか抜けない」
「だが、何も起こらない」
ファルケンは尋ねた。
「何にも起こってないじゃないか!」
「そうだ。封印は実はそれだけでは解けない」
妖魔は、頼み込むように言った。
「だからこそ、もう一つお前に協力してもらわなければならない」
ふとレックハルドの声が聞こえた。切羽詰まった悲鳴に、ファルケンは気がはやる。
「わかった! 協力する! オ、オレはなにをすればいい。何をすれば、レックを助けてくれるんだ?」
「はは、素直だな。お前には魔幻灯があるだろう?」
そういって妖魔は彼の腰にある魔幻灯を指さしだ。魔幻灯、それは人間の世界で使われるただの照明器具だ。珍しくもなんともない。しかし、妖魔がそれを見る目は特別だ。
「その魔幻灯に火をつけて、ここに打ち捨てろ。そうして火を放つんだ!」
「何だって!」
ファルケンは、驚いたような顔をした。辺境の森に火をつける。それはあまりにも大きな罪だ。
「火なら自分でつけられるはずだ! どうでもいいから、レックを巻き込むのはやめてくれ!」
「そうはいかん。この男は、お前ほど完全ではない。やはり火を恐れる。だから、辺境に放火すれば、自分を保てなくなる。私の支配が揺るぐか、それかおかしくなるかどちらかだな。だから、お前につけてもらわねばならない」
妖魔はつづけた。
「お前は気づかなかったのだな。その『魔幻灯』がただの印ではないということを」
ファルケンは腰にある魔幻灯を見つめた。それをはずして手にとる。魔幻灯のガラスを通してみたシャザーンは、何故か真っ黒なタールのようなドロドロした存在だった。
「お前が何故辺境で避けられたのか、それにも気づかなかったか? お前こそが七番目の封印の解除に、一番好ましい存在だからということを」
「オレは、そんなこときいていない」
ファルケンは動揺を隠さない。いわないだろう、と妖魔は首を振る。
「お前が反逆すれば一巻の終わりだ。お前を戦場に呼んだのは、司祭がお前を管理するためでもある。七番目の封印を解くために必要なのは、油と火。それを狼人で使えるのはお前だけだ」
ファルケンは黙り込む。妖魔はさあ、と彼をせかした。
「さあ、どうする。こうしている間に、お前の友人は命を縮めていく。協力するのか、しないのか?」
「ま、待ってくれ!」
ファルケンは咄嗟に言った。
「嘘はつかないな! 本当に、レックを助けるんだろうな!」
今まで様子をうかがっていたのだろう。どこからともなく司祭達の声が聞こえてきた。
『よせ! 貴様、裏切る気か! 辺境に火を放つことは、許されざる大罪なのだぞ!』
その声が頭一杯に響く。
『裏切ったら、貴様は死ぬということを覚えているのだろうな!』
「うるさいっ! 黙れ!」
それを一喝して静める。
今はまだ、自分の方が強い。ザメデュケ草の影響か、まだ痛みも感じずに戦える。その間は、彼の方が力が強く、司祭の介入を防いでもいた。だが、こんなに思考が明瞭になっているのなら、その効果が切れるのもすぐ。もうすぐ司祭の魔術が身に及ぶ。自分の自由でいられるのは、あとほんのわずかだ。その間に決断しなければならなかった。
(オレはいい)
ファルケンは思った。
(オレは、レックより長く生きてるじゃないか)
それに、どうせ、ここに来たときから覚悟はできている。ただ、シャザーンに殺されて死ぬか、誓いを破って制裁を下されて死ぬかの違いだった。すでに反逆者扱いだし、名誉などはどうでもいい。
だが、辺境の森に炎を放つ行為は、さすがの彼でもためらわざるを得ないことだった。それを大罪と責められることに対してではなく、これ以上被害を増やすことで、他の者たちに迷惑をかけるかもしれない。大好きな森を破壊することになる。それだけは――
――魔幻灯のファルケン。
ふと、声が聞こえた。優しい男の声だ。しかし、聞き覚えがない。
はっとして周囲を見回すが、誰もいない。そんな彼の様子に妖魔が不可思議そうに首をかしげる。ということは、この声はファルケンにしか聞こえていないのだ。
――そう、お前にしか聞こえないよ。
何者かはそう告げた。頭の中に響いてきたような気がする。
――目の前にグランカランが二本あるのが見えるだろう。お前が例え火を放っても、彼らが延焼を防いでくれる。お前はやりたいようにすればよい。
「誰だ……」
――誰でもよい。彼を見殺しにしたくないのなら、そうする他はない。炎はグランカランによって守られ、延焼はしない。
声はもう一度告げた。その声に悪意はなさそうだった。
――そして、もう一つお前に告げることがある。お前はあの妖魔を浄化せよ。
声はつづけた。
――お前は魔幻灯を通してあの男の闇の本質を見極めた。それなら、その手の中の封印の剣で、お前はそれだけを斬れる。そして浄化せよ。
ファルケンは、手の中の剣を見た。意匠の細やかな剣で、ただの剣ではない。しかし、だからと言って何なのだろう。ファルケンは浄化の仕方などしらないのだ。そんなことは習ったこともなければ見たこともない。
――お前次第だ。お前の好きな通りにやりなさい。
「魔幻灯のファルケン」
声と妖魔の声が同時に響いた。
「どうする?」
妖魔の声でファルケンはハッと顔をあげた。
「すべてお前次第だ」
ファルケンは黙って魔幻灯を取り上げた。
それに、剣で石をこすって得た火花を使って着火する。司祭の叫び声が悪夢のように遠くから聞こえる。しかし、もはや聞く耳を持たなかった。
火をつけた魔幻灯を持ち上げ、ゆっくりと、まるでこの場所を名残惜しむように、周りをまわる。そうしてから、ファルケンは、ようやく二つのグランカランの真ん中に立った。木の周りはコケにおおわれているが、そのまわりは短い草がびっしりとはえている。
ファルケンは軽く深呼吸する。急に意識が明瞭になった。禁じられた場所の空気は澄み、彼の考えを透き通らせる。
「お前にさ」
ファルケンは、静かに言った。
「最後に言っておきたいことがあるんだ」
「何だ?」
すでに勝ちを得たも同然の妖魔は、うっすらと微笑んだ。ファルケンは首を振り、軽い笑みを返す。
「あんた、すこしは気をつけたほうがいいかもしれない。あんたの中のクレーティスは、多分、もうちょっと慎重だと思うから」
妖魔がわずかに顔をしかめた。ファルケンが、口の端をあげて笑ったのは、そのときだった。
ファルケンは、シャザーンの足元に魔幻灯を投げた。がしゃんとガラスが割れ、なかから油とそれに燃え移る火がすばやく流れ出てきた。
「うっ!」
明らかに彼は動揺した。燃え移りかける火から逃れようと、シャザーンは足を引いた。妖魔が言うとおり、クレーティス自身は火が得意でない。案の定、妖魔を押しのけてクレーティスが現れ、その炎に恐れをなした。
「周りを見ろ!」
ファルケンの声が聞こえた。はっとシャザーンは、周りを見回した。
そしてようやくわかった。ファルケンが先ほどゆっくり周りをまわってあの中心に行ったのは、ただの気まぐれでも、名残を惜しむためでもなかった。ファルケンは、こっそり油をこぼしながら歩いていたのだ。
すぐにその草に燃え移り、火が広がっていく。水を含んだコケすらも、燃やしていくのは、おそらくその場所に何か火の力を強める作用のあるものが含まれていたからかもしれない。
シャザーンは、火の色に立ちすくんでいた。
「この風向きが分かるか? そもそも、あんたは空気や風を操るのが得意だったよな?」
それは、寒気がするような冷酷な笑みだった。
「今更、風を操っても手遅れだ」
炎の中、その狂気にあおられたように、ファルケンは暗い笑みを浮かべた。
すでに回りは炎に取り囲まれている。ファルケンは、わざと風を読み、シャザーンを取り巻くように火を放った。
「オレは多分死ぬ。でも、あんたも終わりだ」
もしかしたら、それはファルケンが浮かべた、最初で最後の嘲笑だったかもしれない。ぎこちない、彼らしくもない、どこか哀しそうな笑みだった。
「これで全部終わりだ。封印は解ける。しかし、すべて炎が消す。それでいいんだ!」
「おのれッ、狼風情が!」
妖魔がシャザーンの顔の半面をゆがめて表に現れる。破れかぶれにとびかかってくる彼は、まるで黒い泥の塊のようだった。
――闇の本質が見えたのなら、それをただ斬り捨てればよい。
先ほどの声が聞こえる。
すでにザメデュケ草の効果は切れていた。あちらこちらの傷が痛み、ファルケン自身の意識も朦朧とし始めていた。しかし、その声の言う通り、無意識にファルケンは剣を走らせた。
とびかかってきた何かを彼は斬った。凄まじい形容しがたい悲鳴と共に、黒い泥があちらこちらに飛び散った。そして、その泥の中心に存在していたシャザーン自身が、そのまま人形のように倒れた。
ふいに近くで声が聞こえた。ミメルの声だというのはわかったが、彼女がシャザーンに駆け寄るのが目の端で見えた。
ファルケンはそれに背を向けた。そのまま、炎の中を歩いて煙の中に彼らを隠した。彼女たちの姿を視界に、入れたくなかった。
疲れた。もう、眠りたい。
そんなことを無意識に考えた。草の焦げるにおいがする。とうとう歩けなくなって、ファルケンはその場で膝をついて倒れた。
炎はそれでも徐々に収まりつつある。あの声の言う通りだ。自分が付けた火が、森を燃やしつくすことになれば、ファルケンも後悔をしなければならない。けれど、これなら大丈夫だ。
(よかった。グランカランに感謝しなきゃ……)
その炎を透かして、森の奥を見る。
レックハルドがとらわれていると思われる、黒い靄はじわじわと霧散し始めていた。
ああ、レックは、大丈夫だったのだろうか。
それだけが気がかりだった。
*
不意に声が掻き消え、レックハルドを包んでいた黒い闇が霧散していった。あの掴まれると熱く焦げ付くようだった感覚もなくなり、急激に圧迫感が失せていく。
レックハルドは、恐る恐る閉じていた目を開けた。おそるおそる手足を動かすが、あの時彼を包み込んだ泥のようなものはなくなっていた。
「な、なんだよ」
あれは、一体なんだったんだ。
少し拍子抜けしてしまいながら、レックハルドはふうとため息をついた。額の汗をぬぐい、辺りを見回す。
あの感覚も、あの声も、すべて幻のように消え去っている。
(夢か? オレは白昼夢でも見てたのか?)
さっと頭上から光がさした。レックハルドは、光のまばゆさに目を細める。
「太陽が……」
闇をわけるように、まばゆい円形がすがたを見せ、森の木々の切れ目からさしこんでくる。昨日からずっと出ていなかった太陽が、今になって出現してきていた。あっという間に、空はいつもの空の青さを取り戻す。そうして、森のほうを見ると、あれほど立ち上っていた火柱も嘘のように掻き消えていた。
「なんだ?」
レックハルドは不審そうに眉をしかめた。今までの現象は一体なんだったのだろうか。考えてみても、まったく納得のいく説明ができそうになかった。
「ま、まあいいや。助かったことは助かったんだから」
レックハルドはため息をついて、背を伸ばした。
「レックハルド!」
ふいに声が聞こえ、彼はそちらをむいた。奥のほうから、レナルと、どういうわけかダルシュが走ってきている。
「なんだ、無事じゃねえかよ」
ダルシュは、安堵した様子になっていた。どうやら一応心配していたらしい。
「な、何でお前が先に来てるんだよ?」
「お前がなんで遅れたんだ? どこか寄り道してたんじゃねえのか?」
ダルシュは、むっとしてそういい返す。
「オレの方が遅く出てきたのに、火柱まで行きついたらお前の姿がないしさ。レナルにきいたらいないっていうから」
「まあまあ、とにかく無事でよかった」
レナルがため息をつきながら二人の間に割って入った。それから、少し緊張した顔で、左右を見回す。
レナルには、そこに何かの妙な気配の残りが感じられるようだった。
「でも、なんか、ここ嫌な気配がするな。レックハルド、あんた、大丈夫だったのか?」
「あ、ああ。別に、大丈夫だ」
あれはおそらく白昼夢だ。そういうことにして、レックハルドは首を振った。
「それだったらいいが」
レナルはそういい、不意に顔をあげる。そして、びくりとした。
「煙が……」
辺境の入り口の方角から、煙が一筋あがっていた。レックハルドも、ダルシュもそれに習って顔をあげる。
「あっちは、湖の方だ」
「ええっ!」
レックハルドは、慌ててレナルに訊いた。
「そ、そうなのか! あそこにファルケンがいるんじゃねえのか?」
「お、落ち着けって!」
ダルシュが、レックハルドの肩をつかんだ。その手を払い、彼はもう一度レナルに訊いた。
「あそこにいるんだよな? そうだよな?」
「オレにも、はっきりとしたことは、ただ、その可能性が高いんじゃねえかと思う」
レナルはレックハルドを落ち着かせるように、ゆっくりと言った。
「じゃあ、行かなきゃ!」
レックハルドは、すぐに駆け出した。
「ちょっと待ってくれ! オレはすぐにはいけねんだ!」
レナルが心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫だ。用心棒代わりにこいつを連れてくから!」
勝手に用心棒扱いされてダルシュはむっとしたが、この状況では文句もいいがたい。レックハルドは、焦っているようで、ろくに彼の話すらきいていないのである。
「くそ! 好き勝手言いやがって!」
それだけをはき捨て、仕方なく走り始めたレックハルドについて走る。
「オレも後で行く!」
レナルの声がおってきた。
「火柱が消えたんだ。あっちを確かめなきゃならねえ」
「ああ!」
レックハルドは、後ろに向かってそれだけを叫んだ。
「おい、もっとゆっくり走れねえのか!」
後ろでダルシュがその後を追いかけながら、何か文句をいっている。
「オレはお前と違って、持ってる道具がいちいち重いんだぞ!」
だが、レックハルドはきかなかった。
(なにか、胸騒ぎがする。嫌な予感がする)
何故だろう。こんな風に太陽も出て、青空も出て、火柱も消えて……、すべてが元の森に戻ったというのに、このざわざわする感覚はなんなんだ!
「ファルケン!」
レックハルドはつぶやく。
「頼む。無事でいてくれよ!」
奥歯をかみ締めるように、何かに堪えるようにそういって、レックハルドは少し目を閉じた。
自分の嫌な予感をかき消すように、また、先ほどの白昼夢だと彼が思っているあの感覚を思い出さないようにするために、レックハルドはもう一度つぶやいた。
「無事でいろ。ファルケン!」
不安な気持ちを消すように、まるでまじないのようにレックハルドはそれを心の中で繰り返した。




