3.俺らしい決着をつけてくれ
***
「『狼の言う封印とは、金属で作られた剣でなされたものだ』」
ギレスの声が静かに、水晶と大理石でできた神殿に響く。何度か反響するが、古の竜の声は落ち着いていてどこか心地よい。
「剣? それは人間が作ったものね」
「『もちろん。狼人は、金属を使わないし、鍛冶の技術も持たない。よって、それを作ったのは人間であることは疑いようもないことだ。……辺境の封印が人間と共に作られたものであることは、司祭の連中も本当はよく知っている。それであるにもかかわらず、奴等の中には人間と手を結ぶことを毛嫌いすることもある』」
困ったものだといわんばかりにギレスは首を振る。
「『そもそも、何故辺境の者たちが金属を恐れるのか……。もちろん、奴等は火を恐れているから、金属が冶金されたものと知っていて観念的にも怖がる。が、本当はそれは体の構造にも秘密があってな……。奴らの多くは、実はある種の電流の流れを嫌うのだ。金属を握るとそれを感じてしまうので、本能的に嫌なのだな。それが人間より非常に敏感だということだ。特に、封印の剣は、より強く奴らが嫌がるように作られている』」
「それで狼人では封印が解けないということか?」
ギリアバスが口を挟む。
「『その通りだ。あれは辺境の狼人でも、そして、辺境に取り込まれた妖魔でも封印が解けない方法として、人の力を借りたもの。本来であれば、人間の力を借りて初めて封印は解ける。特に最後の封印は……』」
「なるほど。でも、金属が平気な狼人達もいるだろう?」
「『もちろん、そういう狼人もいる。生まれつき、炎を恐れざる者。奴らは火に対する恐怖心が少ないが、さらに言えば人間に近しいほど、電流に対しても鈍感な者が多い。そして、……もう一つが人間と狼人が交わった存在だ。しかし、それでも辺境の奥に入ってこられるような、狼人の血に引きずられているような者では、最後の封印を解くことはできないだろう』」
「それで最後の封印を解くためには、人間かそういうのが平気な狼人の力が必要なのか」
ギレスは目を伏せた。
「『そういうことだ。……だからこそ、封印は破られぬ筈だ。しかし、現に封印が破られているとなると、これは由々しい事態だ。もしかしたら、司祭が汚染されている可能性もある』」
「司祭が? まさか」
「いえ、ありえない話ではないわ。今の筆頭司祭、酔葉のツァイザーは、開放的な狼人の司祭だから私たちの前にも姿を現すけれど、彼は敵は中にもいるとも言っていた……」
サラビリアがギリアバスの疑問に答えるように付け加える。
「『あれらは独特の規律に縛られるが、時にそれゆえに悩み苦しむ者もいる。そうしたものが汚染される。……人の子が妖魔に飲まれるのと、理屈は変わらん。太母は人に似せてあれらを創造した。それゆえに、あれらもまた悩み苦しむ。当然の帰結だ』」
皮肉なことだがな、とギレスは苦々しい笑みを浮かべていた。しばらくギリアバスは、ギレスにその身の主導権を譲ったままだったが、ふと口を開いた。
「では、彼らもまた扉を開こうとしているというのか?」
サラビリアは、そっと水晶の窓に手をかける。
「大樹の幹には、時間が流れている。扉を開けたら、時間が溶けだすとお前たちは言っていたよな。……時間が溶けだすとどうなるんだ」
「人は、時に破滅を望むわ」
ギレスに代わってサラビリアが答えた。
「生まれてこなければよかった、こんな世界など消えてしまえばいい。そう思う者だって、この世にはいる。……彼らこそ、そうした邪霊に憑かれやすい」
「『そうだ。利害が一致する、からだ』」
サラビリアは、ふとため息をついた。
「時間が溶けだすということは、たった今の”この世界”がなかったことになるということ……。今、こうなってしまった世界が、自分ごと消えてしまうということよ」
***
「運命は自分で切り開くものだ」
ふと声が聞こえた気がして、レックハルドは顔を上げた。
ここは、どこだろう。
(オレは、確かファルケンを探して……)
空は真っ黒だ。ああ、そうだ、まだ日蝕が続いていて、太陽が見えない。
「運命は、自分で切り開く。……誰も、助けてくれないからだ」
もう一度声が聞こえた。どこかで聞いたような声だ。
振り向くと、そこには大きな鏡があった。真っ暗な世界なのに、鏡はうっすらと光っているようで、自分の姿が映っていた。いや、自分? どうだろう、自分とよく似た男に違いない。
その鏡の中の男がいう。
「それが俺達の信条じゃなかったのか? レックハルド」
「お前は……」
誰だ。
その男はすべて黒の衣装をまとっていた。口にはわずかに髭をたくわえていたが、印象としてはずいぶんと若い。長身で痩せているが、視線が強く、引き込まれそうだった。口許は、皮肉っぽく歪み、細くて鋭い瞳は、わずかに縁に碧をたたえている。それが、叶えようもない野望と、自信に満ち溢れている。
何となく凄みを感じる男だった。
しかし、どこか寂しげな影を持ち、それは誰かにとても似ていた。
「それをお前はどうなんだ? 何をためらっている?」
鏡の中の男は、あざ笑うような顔をしていった。
「何をためらうことがあるんだ?」
男は焦れたように言った。
「どうせ行っても行かなくても後悔すんだろ! 行っちまえよ! 何をためらってやがるんだ!」
「何を? あんたにはわからねえのか?」
せかされてレックハルドは、手を広げて言った。
「オレは、あいつを助けられるほど、強くないんだぜ。行ってどうするというんだよ!」
「それは俺も同じだったな。俺も弱い。何もできやしねえよ」
鏡の中の男は、腕組みをしながら言った。まだ、顔にはうっすらと笑みが浮かんでいて、いつの間にかのんきに煙管をふかしていた。緩やかに煙が立ち上り、彼はそれをふーっと吐き出して煙でかきけした。
「だが、俺達が弱いのは、元からじゃねえか。お前は何故今更悩むんだ」
「じゃあ、尚更、助けに行くことはできないだろ!」
「尚更? 何をあきらめてるんだ、お前は。情けないとは思わないのか?」
指輪、おそらく印章のついた指輪をはめた右手がゆらりと揺れた。鏡の中の男は、笑みを口から消した。
「いつから、お前は、そんな男に成り下がったんだ?」
「いつから?」
レックハルドは、追い詰められて拳を握った。
「元から、オレは、オレはこんな小心者だよ! 本当はな! 怖いし、あんなところで死にたくなんかないんだ!」
レックハルドは必死で吐き出した。
「あいつがいたから強くなった気でいた! でも、オレは本当は臆病で弱い! どうしようもないんだ!」
「それは俺も同じだって言ったろ」
感情的に言った彼に、鏡の中の男は静かに言った。
レックハルドは、思わず絶句した。鳥肌の立つような、不気味な迫力がそこにはある。射すくめるような目をまっすぐに向ける男には、静かでそして有無を言わさぬ力が秘められていた。
「俺も小心だし、臆病だ。お前と俺と、何が違う? 考えろ。何も変わらないじゃねえか」
「あんたは、そんな風に見えないぜ。俺とは違う……」
レックハルドはため息をついた。
「あんたは強いよ。見ててわかる。オレはそんな目でいることはできない」
「そりゃ、年の功じゃねえのか? お前が餓鬼だからそんな風に思うだけさ」
と、自嘲的に、彼は笑った。
ぬっと手が鏡の向こうから飛び出てきて、レックハルドはわずかに身を引いた。鏡の中の男は、逃げようとしたレックハルドの肩をつかんだ。
「俺とお前……つまりは、オレ達、は同じものだ。力なんかないくせに、あきれるほど自信過剰で、狡猾で自分勝手で強欲で嫉妬深くて冷酷で、でも、本当は小心者で人の力の陰に隠れてぬくぬくしてたいと思ってる。自己嫌悪におちいっても、直りようもねえ性格だ。そうだろ?」
そういいながら、軽く彼は笑った。
「そうだよ、俺達はいやな男だよな。生きてたってこの世の害悪にしかなれないゴミだ。でも、屑にだって意地はあるさ? 相棒を見捨ててへらへらしてられるほどの最低野郎にはなりたくねえよな?」
まるで誘惑にかかったように、レックハルドは、ふと口を滑らせていた。
「違う! オレは、力がないから、足手まといになりたくないから、行かないだけだ! オレはあいつを見捨てたくなんかないんだ!」
レックハルドは言った。
「オレはアイツを助けたい! どうにかして、助けてやりたい!」
「そうだろう? 俺もそうさ。助けてやりたいから、自分で窮地に赴く。その結果死んだとしてもさ」
にやりと男は笑った。
いつの間にやら、鏡の中から男は出てきていた。薄ら笑いを浮かべながら、男はそのままレックハルドにいう。
「もし、失敗して死んだら別にいいじゃねえか。どうせ死んだ後の評判なんざ、痛くも痒くもないだろ? もし、生きてたら、あとで目一杯無様に後悔して泣き喚けばいいさ。どうせ、世の中の評判なんてかわりゃしねえ。どうせ、屑の評判だ。だがな!」
それから挑発的な目を向ける。
「今、何もしなかったら、後悔じゃすまねえぜ、レックハルド」
レックハルドは黙ったまま、その目を睨み返した。
――何もしない? ばかな事いってるんじゃねえ! 何もしたくないからここにいたんじゃない! あいつを助けるほかの方法を考えていたんだ!
口には出さず、レックハルドは心の中一杯に叫んだ。頭の中が熱くなったが、いつものように、彼に歯止めをかけようとする心の動きはない。思いの通りに叫ぶがいいと、彼の中の何かが言った。
相手を睨みつけ、怒りをこめて、レックハルドは肩にかかった男の手を払った。
「ふざけるな! オレは無様だって言われても平気だ! 元からオレなんて誰にも評価されない屑なんだ! オレが突撃かますしかねえというなら、そうしてやるさ! あんたの言うとおり、死んで来てやろうじゃねえか!」
考えていった言葉ではない。もちろん、死ぬ気などはない。口から飛び出る言葉を、そのまま勢いでいっただけだった。
男は、払われた手を戻し、ふんと鼻先で笑った。
「まだそんな元気があるなら、大丈夫だな」
そうして、今度は親しみをこめて、肩を軽くたたく。金の印章の指輪には、古代文字らしいものが複雑な形で刻まれていた。
「仮にお前もアイツも死ぬ運命だとしても、アイツを一人で死なせるな。どちらにしてもお前は後悔する。しかし、――アイツを一人で死なせたら、多分お前、生きていられねえよ」
意味深に彼はそういうと、にやりとした。
「さあ、行け。それが、お前らしい決断だ」
レックハルドは視線を指輪から男にうつした。
不敵な笑みを浮かべたままの男に、レックハルドは、既視観を覚えた。前に見た夢で、そういえば鏡に映っていたのもこの男だった。
「あんた、レックハルド=ハールシャーか?」
レックハルドが尋ねると、男はゆったりと首を振った。
「いいや、俺はお前だよ」
そうして、彼の姿はやがて黒い闇に透ける。闇に溶けるように、入り込むように、消えていく。完全に姿を消す一瞬前に、男は、少しだけ微笑んだ。
「さあ、普段の俺らしい決着をつけてくれ」
ちゃりん、と音が鳴った。指輪だけが落ちて、地面で音を立てのだ。
一条の光もないはずの真っ暗な世界に、レックハルドはその指輪の形を見ていた。
「……さん、レックハルドさん」
そして、やがて遠くから声が聞こえた。
「レックハルドさん?」
聞き覚えのある、優しくて高い声だった。
「レックハルドさん!」
聞き覚えのある高い声が聞こえ、レックハルドは目を開いた。
空は暗かったが、目の前に人がいるのがわかった。その人物が何か灯をもっていたからだろう。
その声は、更に続けて、安堵したようにため息をついた。
「よかった、こんなところにいたんですね。探していたんです。宿にも戻っていないみたいだし、どこへ行ったんだろうって……」
「マリスさん?」
やがて、炎はマリスのおっとりした笑顔を浮かび上がらせた。
思い出した。
昨日は、ファルケンを方々に当たっていた。シェイザスに言われたことが気にかかり、街のあちこちをさまよった挙句に、疲れ果てて町外れにある大木の幹に倒れ掛かるようにして眠ってしまったのだった。
「オ、オレは……」
では、さっきのは夢か。そう思いながら、レックハルドは重たい体を起こす。
「でも、マリスさん、ど、どうしてここへ……」
そう尋ねながらレックハルドはマリスを見た。マリスは、レックハルドを心配そうに覗き込んでいる。彼自身は気づいてはいないが、食事をろくに取っていない上に、あちこち走り回った分、少しやつれた印象が彼の顔に残っていたのである。
「ダルシュさんが。レックハルドさんが、昨日からなんだか元気がなくて心配だから、って教えてくれたんです。それで……」
まさか、恋敵から知らせがいくと思わなかった。マリスは、少し首を傾げた。
「ファルケンさんと喧嘩でもなさったの?」
マリスはレックハルドの顔を覗きながら訊いた。レックハルドは静かに首を振る。マリスは少し微笑んだ。
「そうでしたらよかった。レックハルドさん、元気がないし、ファルケンさんもいらっしゃらないから。もしかして、喧嘩したんじゃないかって……」
ダルシュは、詳しいことをマリスに告げなかったようだ。それはそれでありがたいかもしれない。あの無様な様子を、彼女に知られなかったのなら。
「あいつとは、喧嘩らしい喧嘩ってそういえばしたことないんです」
レックハルドは言ってうつむいた。
「あいつは、喧嘩を買わねえたちですから、オレが喧嘩を売っても……あいつとは喧嘩にならない」
寂しそうに微笑んだのがわかったのか、マリスは少し曖昧な表情で笑い返してきた。
「マリスさん」
レックハルドは顔をあげた。
「オレ、やっぱり……辺境へ、少し様子を見に行きます」
マリスはきょとんと彼を見上げる。
「ファルケンさんがそこにいらっしゃるんですか?」
彼は応えずに、あいまいに微笑んだ。
「ただ、様子を見に行くだけですが、オレは何の力にもなれないだろうし。でも……」
マリスは柔らかく微笑み、レックハルドの手を取った。
「大丈夫ですよ! ファルケンさんがもし今、辛い目にあっているのなら、レックハルドさんが来てくれただけで、きっと」
「マリスさん……」
レックハルドは、少し驚いた様子でマリスを見た。
「私には何が起こっているかはわかります。けれど、レックハルドさん、ファルケンさんは、今、大変な目にあってるんでしょう? それだけは、わかるの」
マリスは励ますように、強く言った。
「本当に辛いときは、誰でもいいから心配してくれるだけで、救いになるんだと思います。私なら、きっとそうだわ。だから……」
「マリスさん……」
レックハルドは、考え込むように目を閉じ、マリスにつかまれていない方の手を握り締めた。
――普段の俺らしい決着をつけてくれ。
鏡の中の男の言葉がよみがえった。
(言われるまでもないことだぜ!)
そう言い返したとき、不意にマリスの声が聞こえた。
「ロゥレンちゃん!」
上空から、妖精が一人こちらに向かって飛んできていた。虹色の羽も、暗い闇にまぎれて、ほとんど見えない。
「こんなとこにいたの! あたし、ずっと探してたんだから!!」
そう泣きそうな声で言って、落ちるように地面に着地したロゥレンは、マリスが口を開く前に、レックハルドにすがりつくようにして口早に言った。
「お願い! あいつを止めて!」
「ど、どうしたんだ?」
レックハルドは、きょとんとして訊いた。
「ファルケンよ! あいつ、絶対まともじゃないの! お願い、あいつに戦いなんか止めさせて! あんな、弱っちくておとなしい奴! 勝てるわけない!」
「ロゥレンちゃん、落ち着いて!」
マリスがロゥレンをレックハルドから引き離した。すでに半分べそをかいているロゥレンは、興奮した口調でまだ何か言い続けている。
「教えてくれ、ロゥレン」
レックハルドは、険しい表情をしたまま、静かに訊いた。
「ファルケンは、今、どこにいるんだ?」
ロゥレンは力なく首を振った。
「わかんない、……どこかに行っちゃった。でも、あいつ、きっと死ぬ気なの。あいつのあんな目みたことないの。……お願い、あいつを止めてよ!」
「大丈夫よ、ロゥレンちゃん」
震えるロゥレンの引き寄せて、マリスはレックハルドを見た。
何か考え込んでいる様子のレックハルドは、決意したように顔を上げた。
「オレ、今から行って来ます。マリスさんはロゥレンといてあげてください」
「ええ、任せてください」
マリスはレックハルドを安心させようとしてか、にこりと微笑んだ。微笑み返し、レックハルドはそのまま方向を変える。
辺境に続く、北の道を走っていく彼の姿は、闇に溶け込むように見えなくなっていく。
「ファルケン……」
心細げにつぶやくロゥレンに、マリスは優しく言った。
「大丈夫よ。だって、ファルケンさんは強いもの」
「でも……」
そういうロゥレンの瞳に見る見るうちに涙が浮かんだ。ぎゅっとマリスの服を掴んでロゥレンは彼女に抱きついて、そのまま泣き出した。
「大丈夫」
彼女をあやすように、マリスはにっこり笑った。
「絶対に、大丈夫だから」
レックハルドの姿は、すでに道の向こうに消えている。その背を見つめながら、マリスは深く頷いた。
――レックハルドさんなら、きっと……
まだ、太陽は出現しない。
*
鼓動の激しい音が、耳を突く。しかし、疲れは不思議と感じなくなってきていた。
封印の場所に近づいているのが、勘でわかっていた。
辺境特有の、人よりも背の高い草に覆われた草むらを抜けると、突然草が短くなって芝生のような草原がぽっかりと広がる場所にきた。それは辺境の中では不自然に人為的に思えた。草原の中心に何かを感じる。
(でも、辺境の森の入り口にそれでもほど近い。……何故最後の封印がこんなに浅い場所にあるんだ)
ファルケンは、疑問に思いながら速度を緩めて歩き出す。
何もない。それなのに、どうしてこんなに拒絶されている感じがするのだろう。空気が、重い。
六番目の封印が解けたせいで、封印の場所は、ファルケンにもはっきりとわかるようになっていた。
草原の真ん中の方には黄緑色の柔らかい苔が生えている。しかし、その中に、不自然に苔が生えていない石があり、円を描いていた。
そして、その真ん中に抜き身の剣が一本突き立っているのが見えた。剣は錆びもせず、美しいままで何にも穢されてはいなかった。一体、あれは何でできているのだろう。
普通の狼人は、あの剣をなかなか手にしようとできないだろう。炎を恐れないファルケンでも、圧倒されるほど、それは触れられることを拒絶している。
柄頭に宝石がはめられ、細工がこまやかになされているそれは芸術作品といってもいい優美さを纏っていたが、それは人間でも近づくことを嫌がるのではないかと思うほど、周囲を拒絶している。そう、辺境の苔ですら、土ですら、錆ですら。
だからこそ、普通の狼人であれば、絶対に触れられない。
ここは辺境の浅い場所。しかし、それでも人間は、この場所まで独力で来ることはできないと思われた。
辺境に住まう精霊の子供達の、独特の勘と、その力によって守られ、案内されなければ、ここに来ることは不可能なはずだった。
そして、その剣が立っている両側に、グランカランの苔むした古木が二本立っている。まるで双子のような、まるきり左右対称の木だった。同じように苔が生え、そして同じように地面にあちらこちらに大きな根を張っている。枝の向いた方向もまったく逆で、葉の茂り方も同じだった。
その姿に、いささか、ファルケンは興味を覚えた。辺境の中を色々歩き回ってみたが、こんな木は珍しい。いくら聖なるグランカランだとしても。
だが、それは興味と同時に、畏怖も彼に与えていた。言葉では言い表しようのないような、独特の、少し荘厳な感じさえする神聖な空気が、彼の上にものしかかってくるようだった。
「辺境の浅い場所に、こんな封印をするなんて馬鹿じゃねえかと思っただろ」
ふいに声が聞こえた。ファルケンは警戒して剣に手を触れる。
「不自然だよなァ、絶対に破られてはいけないのに。何故……」
ざっと草を割って現れたのは、覆面の男だった。
「グランカランに守られているとはいえ、何故、こんな浅い場所に……。狼人と人間が手を組んだらこの封印は破られてしまうかもしれないのに」
「誰だお前は!」
その男に、彼は見覚えがあまりない。ただ、司祭に操られている時、会ったような記憶がかすかに残っている。だがそれだけだ。
しかし、男が狼人なのはわかっていた。そして、――彼が司祭に与していないということも。
「お前は、何故アイツの言うことを聞かなかった?」
何故だ。この男からは刺すような憎悪を感じる。しかも、自分に対して。
「何故、お前はアイツを裏切ったんだ?」
「なんでそれを……」
責めるような言葉に、ギクリとしながらも彼は睨み返す。相手の男は間違いなく強い。色褪せた外套をはためかせ、彼は威圧感を放ちながら彼を睨み付けていた。
「オレは、……それでもやらなければと思った! ……そのことが、アイツを守ることにもなるか……」
「違うだろう」
苛立ちを抑えるように低い声で、覆面の男は言葉を遮った。
「お前は、ただ自分がいい格好したかっただけじゃねえか!」
男はギラギラと輝く目でファルケンを鋭く見た。そこには殺意といっていいほどの強い憎悪が滲んでいた。
(なんで、こいつ……)
何故、こんなに自分を憎むのか。この男は。
「言ってみろよ。お前は、ただ、自分が英雄になりたかっただけだ! ……それだけの為にアイツを裏切った! そうじゃねえか!」
男は、怒りと憎悪を端々に滲ませて彼に迫る。
「何が辺境の為だ! お前はただ自分の為に、自分が認められたいからそうした! それだけのことじゃねえか!」
「そうだ!」
ファルケンは認めた。
「そうだよ、オレは、……認めてほしかった! それでレックを裏切ったのなら、そうだ! オレは、オレは、最低だよ! わかってる! オレは本当に最低だ! でも、もう決めた!」
「へへえ、そこまでわかってんのかよ!」
男は、覆面の下で荒んだ笑みを浮かべたようだった。ファルケンは、きっと歯噛みしていった。
「でも、オレはもう後戻りしない! 誰に止められても、もう決まったことなんだ!」
「何が決まったことだ、だ? 馬鹿じゃねえか!」
男は嘲笑って、肩に背負っている剣に手を触れた。
「意地でも後戻りしねえっていうなら、オレが力ずくで戻してやってもいいんだぜ」
「……何故」
ファルケンは静かに問いかけた。
「何故、あんたはオレをそんなに憎むんだ? ……何故、狼人にあるまじき、そんな目でオレを見る」
「狼人にあるまじき、ははは、そうだな!」
男はからっと笑って、ファルケンを睨み付けた。
「そうだ、オレはもう狼人じゃないのかもしれない。……だが、オレはどうしてもお前だけは憎まずにはいられない!」
「……あんたの事情をオレは知らない。でも、オレは封印を守るために戦わなければいけない。あんたが敵になるなら、たとえかなわなくてもあんたともだ……」
「当たり前だ。オレの方が強い。……お前みたいにぬくぬく暮らしてたわけじゃない」
ふいに男が剣を抜いた。そして抜き打ちに空を切る。黒い塊が形容しがたい悲鳴を上げながら、空中で引き裂かれて消えていく。
「妖魔?」
「そうだ。アイツが近づいてきているせいだ。お前が待っているあの男がさ」
男は、ふっと冷酷に笑った。
「こんな奴等でも叩き斬っていなければ、気が晴れねえ……、それぐらい、オレはお前のことが嫌いなんだ! 本当はお前をぶっ殺したいぐらい、気が立ってるんだからな!」
ファルケンは、ふっと目を細めた。
「あんたは……、本当にかわいそうだ」
「何!?」
突然、男は動揺したように目を開いた。
「かわいそうだよ。……どうして、そんなに憎しみと苛立ちばかり募らせてるんだ。あんたはオレと違って強いのに」
ファルケンは、ぽつりと言った。
「オレは弱いから、……弱いからレックを裏切らざるを得なかった。オレが強ければ、レックを裏切らなくたって、英雄にだってなれたよ。……あんたはオレが欲しい力を持っているのに、どうして相手を憎むことしかできないんだ。どうして、そんな力しか使えないんだ」
「だ、黙れ!」
男は強い語気で命令した。しかし、明らかに彼は狼狽していた。
「あんたみたいに強ければ、オレはレックとの約束も皆も守れた……。そんなうらやましい力を持っているのに、なんで、それが気晴らしのための暴力だけに使われるんだ……!」
「だ、黙れ! 黙れ、黙れよ!」
男は視線をさまよわせ、混乱したように叫んだ。
「オ、オレには、オレにはもう、守るものがない! お前とは、違うんだ……! 全部、全部お前の、お前のせいなんだ! オレが、オレがこうなったのは、全部!」
「オレに苛立ちぶつけてどうにかなるならいい。でも、オレはやることをやらなきゃ……、あんたと戦ってでも……」
ファルケンは、静かに視線を落とした。
「そうしなきゃ、裏切ったレックにも失礼だからな……。そんな半端な気持ちで裏切ったのかって……。オレは、……オレだって、オレが狼人として生まれてなければ、レックとの約束を優先したかった……」
「止めろ! 黙れ!」
その時、男は何かに気づいて後退した。キラリと金属の光が目の前を飛び交った。
「ッ、御師匠様!」
何かがファルケンと彼の間に割り込んだ。慌てて男はその場から飛びずさる。それを追って、何者かが草原を揺らしながら走り去る。
ざざ、と草の音が鳴った後、木々の上を伝いながら彼らが遠ざかっているのが、音でわかった。
(逃げた? 何故?)
一人残されたファルケンは、やや呆然としながらそれを目で追う。しかし、もはや肉眼では判別がつかなくなっていた。
いや、そのころには、何故かふと目の前がぼやけはじめていた。ほんの少し、息遣いがあがってきていて、何故か周囲の音が鋭敏に聞こえる。
風の音、草の音、誰かの息遣い。
(ああ、そうだった……)
ファルケンは、ふと目を閉じた。
(時間だ……)
そして、その時、彼の背後に誰かが立っていた。
「また会ったな」
声が聞こえてファルケンは振り返った。顔を見る必要もない。待っていた男だ。
「シャザーン=ロン=フォンリア」
シャザーンの薄い色の金髪が、緑だけの世界の中で少しだけ目立っていた。
端正な顔立ちには、表情が浮かんでいない。おそらく、妖魔と彼自身が交互に現れているせいで、不安定にみえるのだろう。
だが、この周りには、狼人の戦士と司祭 が必死の守りを張っているはずだった。だというのに、どうしてシャザーンがここにいるのか。
ファルケンの思惑を読んだのか、シャザーンは笑った。
「『まるでざるだ』」
顔がわずかにゆがみ、妖魔の方がそう応える。
「『他の妖魔どもの相手で手一杯で、奴等は私が侵入してきたことにも気づかない。狼人も質が落ちたな。昔はこうではなかったが』」
「お前と話し合いたいんだ。乱暴なことはしたくない」
シャザーンのと妖魔が、お互いまるで正反対のことをいっていた。
「『戦っても勝てないこともわかっているはずだ。おまけに、この前私が負わせた傷は、そんなに浅くはない』」
「協力してほしい。お前には、私の気持ちがわかるはずだろう?」
ファルケンは黙って両者の言葉を聞いていた。
「そうだな」
いくらかの沈黙の後、ファルケンは静かに言った。
「オレじゃ、あんたには勝てない」
ふっと諦めたようなさびしげな笑みをうかべた。
「オレがあんたに勝てない理由はいくらでもあるさ。まず、あんたのほうが才能もあるし、オレはまったく戦いには向いてない。それに、オレは、今、あんたにやられた怪我が治ってないし……。とにかく、オレは、弱いから……」
「『なら、我々に協力しろ』」
シャザーンは、そういって薄ら笑いを浮かべた。もはや、クレーティスの表情は一切が消えていた。
「『司祭 に操られるのは嫌だろう?』」
「そうだな。それだけは嫌だよ」
ファルケンは、言いながら顔を引きつらせた。何か、少しだけ、顔が紅潮してきている。
「あのさ、酒に酔う奴がいるだろ。狼人は基本的に酒に強い人がおおいけど、人間ではよくいるんだ」
ファルケンは、妙な話をし始めた。
「例えば、レックは、大酒に酔うと、やけに説教じみるし、ダルシュはダルシュで余計暴れたりして大変だったんだ。人格が変わる奴までいるんだってな。そういうときって、理性が飛んでしまうのかな。オレには経験があまりないから、わからないんだけど」
「『何の冗談だ?』」
シャザーンは、不審そうにファルケンに目を向けた。疑るような眼差しである。
「でも、それってすごいいい方法だと思ったよ。司祭に操られるのも嫌だし、オレはたぶん、戦いに向いている性格じゃないし、それに、今は正直、傷が痛くて立っているのもやっとだ。でも、全部わからなくなったら、どうだろう? ……もしかして、オレでも強くなれるかも……」
ファルケンは目を閉じた。
あの、司祭に操られて、理性なくレックハルドを殺そうとしていた悪夢が頭をよぎる。
あんなことは、もう二度と嫌だ。しかし、あれでわかったことが、一つある。
自分は、おそらく、理性を無くしている間の方が強い。
あの間なら、何だってできる。どんな冷酷なことも、残酷なこともできるのだから。絶対あの時の自分は、普段の自分より強かった。
だが、頭をよぎるその悪夢も、形をどんどん無くして、何か大きな熱い渦の中に引き込まれていくようだった。徐々に変調をきたしていく自分に、ファルケンは気づいている。そして、それを待っていたのだった。
「そろそろ、オレも限界だ……」
ファルケンは、顔をあげ、目をシャザーンに向けてにっとわらった。
「色々考えたんだ。オレが、司祭に操られもせずに、あんたに勝つ方法はただ一つだって――」
ファルケンの目が、少し焦点を無くしてきていた。
先ほどと違い、口調も何かを抑えるような物に変わっている。かすかに呼吸が速くなり、獣のようにハァハアと荒い息になる。
「それ、は……」
シャザーンは、ふと警戒した。
「オレが、正気を、なくす、……ことだ!」
言葉が終わった瞬間、ファルケンの足が地面を蹴った。
今までとは違い、何のためらいもない動きだった。肩に背負っていた剣を抜き、間違いのない殺気を目に点し、ファルケンは飛び込んでいった。叫びながらそのまま抜き放った剣を、力任せにシャザーンに向けて振り回す。
その双眸が急速に凶暴さを増していた。普段の彼ではありえない、その乱暴な動きといい、目といい、シャザーンにある可能性を導き出さずにはおられない変化だった。
赤くなった肌、血走った獣のような目、まそして、怪我をしているにも関わらず、まるで痛みを感じていないかのような動き。
「まさか、ザメデュケ草を!」
シャザーンは、ぽつりといった。
「『はは、そこまでするとは思わなかったぞ!』」
妖魔が、舌打ちする。ファルケンが一閃すれば、足元の草がいっせいに刈り倒されて空中に乱舞する。
「『思ったより出来るな…』」
ファルケンはそれも聞いていないらしく、相手にひたすら攻撃を続ける。クレーティスの戸惑いなど気にする風もなく、妖魔は好戦的な笑みを見せた。
「『なるほど。これもまた一興だ』」
シャザーンの目は、ファルケンが腰から下がる魔幻灯に向いた。火の点されていないそれの蓋いには、ファルケンが細工したのか、何か文字らしいものが刻まれているのがわかった。
 




