7.嘘をつくもの
前方で待っていたマリスが、レックハルドだけ戻ってきたのを見て駆け寄ってきた。
「あれ、ファルケンさんはどうしたんですか?」
マリスが首を傾げて訊いた。
「ちょっと疲れたって、帰りました」
「そうですか。まだお怪我が良くないのかしらね」
マリスが、残念さと心配の入り混じった表情をして眉をひそめる。その表情に、レックハルドは少しだけ複雑な気持ちになる。
「マリスさんは……」
言いかけてレックハルドは口をつぐんだ。
――マリスさんは、オレよりあいつと一緒にいるほうがいいですか?
「どうしたんですか?」
マリスが言いかけてやめたレックハルドの顔を覗き込んだままきょとんとしていた。慌てて首を振る。
「な、なんでもないんです。そうですね、オレがちょっと無理させちまったみたいで」
この前浮かんだ疑念が持ち上がるのを感じ、レックハルドは少しだけ自己嫌悪に陥った。マリスはファルケンといる方が楽しいのではないかなど、そんなことを考えてはいけないのに。
「そんなことないですよ。私がはしゃいでしまって、あちらこちらの店を覗いたりしたのがいけなかったんです。もう少しゆっくりしながら歩けばよかったわ」
マリスはそういって目を伏せる。
「どちらにしても、レックハルドさんのせいじゃないと思います」
「そうだといいんですが…」
レックハルドは曖昧に笑いながら、自分のような盗賊崩れの商人とマリスの組み合わせは、世間的につりあいが取れていないのかもしれないと思った。深くため息をつく。そんなことは最初から百も承知だったはずだ。
オレは、どうしてこの子がこんなに好きになってしまったんだろう。
「ちょっと安心しました」
不意にレックハルドは言った。
「あいつ、マリスさんと一緒だと、少し安心するみたいですから。最近、何か元気ないし、心配してたんです。でも、マリスさんといるとちょっと元気みたいで……。なんだか、あいつ、この前のことを気にしてるみたいでね。妙にオレにも遠慮したりして……」
レックハルドは少しだけうつむく。
「オレは気にしないでいいって言っているのに……」
少しだけマリスのほうを見る。周囲に人はいない。暗い街の中は荒涼としていて、何だか寂しかった。
「あいつ、変なところだけ繊細なんですよ。普段は、かなり鈍感なんですが」
「きっと、ファルケンさんは責任感が強いんだと思います」
マリスは微笑んで返した。
「レックハルドさんに迷惑をかけたくないって言ってました」
「迷惑が嫌なら、とっくにあいつとつるむのをやめてますよ。何しでかすか、わかんないとこあるし……」
レックハルドは、少しだけ諦めたような笑みを見せた。
「でも、本当に助かりました。オレは、あまり人を気遣うって事ができないですから、何かあいつが傷つくようなことをわざと言ったりしたかもしれません。だから、マリスさんがいてくれて……」
マリスが首を横に振った。
「そんなことないと思いますよ。レックハルドさんはとても優しいと思います」
「しかし……」
レックハルドは、ファルケンを引っ張りまわした後悔からか、少しだけ自信なさげである。マリスは大きな目でまっすぐにレックハルドを見ながら、首を横に振った。
「いいえ。そんなことないですよ。だって、ファルケンさんが言ってました。オレが一番辛い時に助けてくれたって」
「え?」
不意を突かれ、レックハルドはきょとんとした。
「一番辛いとき?」
思い当たることがなく、訊き返す。マリスは、微笑みながら言った。
「ええ。一番辛いときに、って。だからオレは、ずっとこの世の中が好きでいられるんだって言ってました」
「あいつが、そんなことを?」
レックハルドの細めの目が少し大きくなった。マリスは大きく頷いた。赤い髪が揺れるのが、綺麗に見えた。
「はい。だから、そんなレックハルドさんが悪い人なわけがないですよ。あたしもそう思います」
一番辛いとき、一番辛いとき。
レックハルドは、マリスの綺麗な横顔を見ながら考えた。そういえば、旅をしてきたのに、あれが一番辛いときがどれだったか、レックハルドには見当もつかない。それに、辛い顔をするのを見た時があっても、レックハルドはそれを助けた記憶もなかった。
(一体、いつの話をしてるんだ)
考えながらマリスと会話していても、答えがどうにも出なかった。
やがて、たわいのない話をしている間に、マリスの宿についた。その扉の前にたたずみ、レックハルドに軽くマリスは会釈する。
「今日はとても楽しかったです。でも、お金をたくさん使わせてしまって……。私の分なら払いますのに」
マリスが申し訳なさそうな顔をする。レックハルドは手を振った。
「いや、いいんです。今日は、あいつについていてくれたお礼なんですから!」
「そうですか? じゃあ、次に会った時に、今度は私がお二人に何かおいしいものでもごちそうしますわ」
少し首をかしげるようにして、ゆっくりと微笑むのは多分マリスの癖である。
「それは、オレとしては楽しみなんですが」
ふいにレックハルドは、落ち込んだ様子で口を開く。思いもよらない言葉が飛び出していた。
「しかし、マリスさん、ファルケンはともかく、オレみたいな素行の悪そうな奴と、こんなに親しく話していていいんですか?」
レックハルドは、先ほど考えたつりあいの話を思い出しながらふと言った。
「貴女は良家のお嬢さんですが、オレ、本当は……」
「そんな! レックハルドさんは立派だと思います! 素行が悪いなんて、そんなことないですよ!」
マリスは強い口調できっぱりといった。そして、レックハルドの手を取る。
「それに、レックハルドさんも、ファルケンさんも大切なあたしのお友達ですもの! 一緒にいても、誰も文句をいう権利なんかないと思います」
(そうか、お友達か)
レックハルドは、微かに笑いながら思った。
「ありがとうございます。マリスさん」
「そんな。当然のことですもの」
マリスは笑いながら答えたが、何となく不安に思ったらしく、レックハルドを覗き込むようにして訊いた。
「ねえ、レックハルドさん。また、会ってもらえますよね?」
ええ、といいながらレックハルドは頷く。
「当たり前ですよ。また、どこか遊びに行きましょう。今度は、ロゥレンも探し出して……」
「まあ! ロゥレンちゃんも一緒ならいいですね!」
(あのくそ生意気な妖精小娘の引きつる顔が見ものだがな)
レックハルドは意地の悪い方の心でそう思って、落ち込んだ気持ちが少し弾むのを感じた。
「それじゃあ、送っていただいてありがとうございました!」
マリスが元気よく挨拶をする。レックハルドも手を振った。
「ええ。それじゃあまた。お気をつけて」
「はい。レックハルドさんも……」
そういうと、マリスは宿の中に入っていった。彼女の赤っぽい巻き毛が、暗くても跳ねたらしいのがわかった。
一人になって、レックハルドはかえって安堵したようにふうっと大きく息をつく。そして、自分に言い聞かせるよう、心の中で呟いた。
(そうだよ。あぁいうほやーっとした子にはだな、根気が必要なんだ。あせったってどうしようもねえことだ)
レックハルドはふと、ポケットの中の袋を取り出した。中には二枚に減った金貨が入っている。
「うっかり、モノのついででファルケンには渡しちまったがよ」
その中の、女神の描かれた金貨を選り抜いて、レックハルドは目の前にかざした。
「オレが、あの子にこれを渡す日はいつになるんだか……」
レックハルドは自嘲的に笑った。
彼の部族の風習によれば、コレを渡した時点で、相手に求婚した、ということになる。他の金貨とは訳が違い、一度失敗すると取り返しがつかない。
(お友達か。ファルケンと同等の扱いじゃ、嫉妬もへったくれもあったもんじゃねえなあ)
ぽつりと心の中でつぶやき、レックハルドはひそかに苦笑する。現実はまだまだ遠い。それは、がっかりするのと同時に、何となく落ち着く言葉だった。レックハルドは、やれやれとばかりに、しかし少し安堵したようにつぶやいた。
「……道のりは遠いぜ」
レックハルドは、宿に帰ってくる前に、まだ閉まる前だった店で食べ物を買いつけた。
その包みを抱えながら戻ったが、まだ日蝕は続きいているらしく、帰り道はひどく暗く、灯りをつけたままでなければならなかった。
宿のがらんとした殺風景な廊下からどこかの部屋で話している連中の声が聞こえてきた。空の異変について話しているらしい。こういう話をファルケンが聞いていないといいのだが、とレックハルドは思いながら自分の部屋に入った。
「おい、ちょっとは休めて……」
少し明るい口調で言いかけて、レックハルドは思わず包みを落とした。包みの中の果物が、床に転げ落ちる。
がらんとした部屋には、誰がいる気配もなかった。ファルケンの姿もなく、彼の所持品もそこから消え去っていた。レックハルドは、慌てて部屋中を見回った。
「ファルケン!」
呼んでみるが返事をするものはいない。用があってどこかにいっているのだろうか、と見当をつける。
だが、妙な胸騒ぎがして、レックハルドは果物を拾うこともなく、部屋をうろうろと歩き回る。
(まさか……、あいつ……森へ)
ふと机の上に、何か紙切れが置いてあるのが目に留まった。紙には、綺麗な細工のされたマント止めで重しがされていた。それ自体はファルケンが暇つぶしに作っていたもので、何となく見覚えがあった。
「何だ」
レックハルドはそれを慌てて手にとった。そこには悪筆ながら、何とか読める文字で何か書かれている。最初の辺境の古代語らしい難しい絵文字の下に、かなり癖字で書かれたこの地域の文字でその文は綴られていた。
『まず、あんたを騙したことを謝らなくちゃな。それから、あの契約を果たせなかったことも』
手紙はそれから始まっていた。
レックハルドは、そこまで読み上げて食い入るように紙切れを近づけた。署名はないが、一目でファルケンのものとわかる文字は、淡々と次のようにつづられていた。普段彼が喋る言葉より、ややかたい言葉でそれは書かれていた。
『ここのところ、ずっと考えていたんだ。それで、今日、決心したよ。オレは辺境に行くことにした。辺境の異変にあって戦うのが、狼人の使命だし、どうしても辺境が好きだ。行かなければいけない。。
あんたを騙すようなことをしてすまなかった。でも、オレはあんたを巻き込みたくなかったんだ。オレは司祭に操られて、一度あんたを殺そうとした。きっと、これからも有り得るし、今の辺境の森に入れば、人間だからってことできっとこれから辛い思いをする。オレが、人間の街で辛い思いをしたのと同じことだ。
だから、これ以上、あんたは辺境に関わっちゃいけない。でも、オレが行くと言ったら、あんたはいい奴だから、きっと自分も協力するって言うだろう。だから、騙したんだ。
本当にいい奴だったから、オレはあんたと一緒にいる間はとても楽しかったよ。マリスさんやダルシュ、それからシェイザスも、みんないい人だったけど、あんたと一緒に旅をしてなきゃ、たぶん会えなかった。感謝してるよ。
本当は、オレはある時、この世界に嫌気がさしてたけれど、あんたのお陰で嫌いにならずに済んだんだ。ありがとう。
あんたがオレに契約を持ちかけてくれたときも、とてもうれしかった。オレをああいう風に対等に扱ってくれたのは、多分あんただけだったから。
でも、ごめんよ。あんたはいつもオレを助けてくれたけど、オレは結局、レックを助けてやれないな。あの約束を果たす事でオレはあんたを助けたことにしようと思ってたんだ。でも、もう無理だよ。
多分戻ってこれないだろうと思う。
でも、もし、万一戻ってこられたら、またレックと旅をしたいし、あの契約を果たしたいと思う。ああ、でも、あんたに嘘をついたようなオレだから、レックはもう信用してくれないよな。レックのほうが願い下げだよな。ごめんよ、謝っても許してくれないだろうけど、本当にごめんよ。
そうだ。レックにはもらった物がたくさんあるけど、もらった物を返すのと失礼だから、このマント留めを代わりに。売れば少しは足しになるはずだから。どうかマリスさんとお幸せに。
それから、『大地の女神と黄金の祝福があなたにありますように』。
さようなら。』
ぐしゃり、と音を立ててレックハルドはそれを握りつぶした。かすかに震える紙が音を立てる。
真っ青になったレックハルドは、呆然とその紙を眺めていた。
「ば、馬鹿……! あの野郎、な、何考えてんだ!」
レックハルドは声を詰まらせた。
「いかねえっていったじゃないか! 待ってるって!」
理由はわかっている。レックハルドもかつて同じようなことをしようとした。あのヒュルカで、レックハルドはファルケンをわざと突き放して、巻き込まないように消えようとした。それと同じ事を、ファルケンがやっただけのことだ。
あの嘘の下手なファルケンが――
「オレがもう信用しないだと! 馬鹿言うなよ! だったら、オレはどれだけお前に嘘をついたと思ってるんだ! 大体、オレは、お前を信用しようって決めたから、オレはあの金貨を……!」
言いかけて、レックハルドは、歯をかみしめてうつむいた。
(あの馬鹿。死ぬ気だ……!)
なぜ気づかなかったのだろう。あの時のファルケンの様子で。
嘘をつくことになれていないファルケンの、あんなに不自然な様子を見て。どうして、あの時、無理にでも一緒にマリスを送らなかったのか。
確かにマリスと二人きりで話をしたかった。その状況に舞い上がって、あの不自然さにどうして気づかなかったのだろう。マリスとは、これからもいつでも、話をすることぐらいはできたはずなのに。
(そうだよ、馬鹿なのはオレだ! あいつに気を遣わせたオレなんだよ!)
ふつふつと自分に対する怒りが込み上げてきて、レックハルドは叫んだ。
「畜生! とんだ馬鹿野郎だ!」
レックハルドは部屋を出て、そのまま宿を飛び出した。
外はどんどん暗くなっていく。
闇に暮れる街は、ずっと日蝕が続いたままで、夜なのか昼なのかもわからない。その中をレックハルドは、駆け抜けた。遠い辺境での赤い光が、不気味に光っていた。きっと、森が燃えているのだ。またあの時のような火柱を立てて。
ファルケンは、きっとそのことを知っている。
「あの、馬鹿やろう……」
いつのまにか涙が滲んでいたのか、それを誰にも見せないようにレックハルドは袖口でそれをぬぐった。
(なんで、お前が死ぬような目にあわなきゃならねえんだ! 辺境なんて、お前を不幸にしただけじゃねえか! 今更、それに何の義理があるんだよ!)
心の中で繰り返しながら、レックハルドは歯をかみ締めた。
(オレみたいな悪党が死ぬなら自業自得だ。なのに、お前みたいな奴が死ぬなんて言うなよ!)
走る先の赤い光は、空に絶望的な色を染めていた。まるで血の色みたいだ。
「オレがお前を助けたことなんて、本当は今までないじゃないか。オレが借りを返すのはこれからだったのに……」
ファルケンらしい姿は見当たらない。
闇の中に浮かび上がる人影を判別しながら、レックハルドはひたすら走った。だが、その中にファルケンがいるはずもないことも百も承知だった。
辺境の狼人であるファルケンが本気で走ったならば、人間のレックハルドが追いつくはずもない。無駄なことをしているのだということも、わかっていた。それでも、止まることはできなかったのだ。
――死ぬなよ……、ファルケン…
レックハルドはひたすら走っていた。足がそろそろ限界を叫んでいた。だが、ここで止まることはできなかった。
――オレは……、本当は、まだ一人でやってけるほど強かねえんだ……!




