4.同じ顔の狼
部下からの報告を聞き、首領銅鈴のレナルは、思わず持っていた水がめを取り落とすほど驚いていた。
「なに! センティーカのグループが人間を襲ってるって!」
彼は顔をしかめていた。前には、乾いた青い花を頭に挿したベニシッドが立っている。
「どういうことだ。詳しく話せ!」
「オレ、さっきあちらこちらに走り回ってたんですが」
ベニシッドは、やや自分を落ち着かせながら話した。
「センティーカとその群の連中が、人間を襲ってたんですよ。それで怪しいと思ったから、オレ、センティーカの根城にこっそり忍び込んだんです」
ベニシッドは、少し話しづらそうにした。
「そこには、あいつらの食事が置かれたまんまで、まるで食べた直後にいなくなったみたいな状態だったんです。でも、なんかヘンな匂いがすると思って、オレ、ちょっと。そしたら……」
レナルが、ぴくと眉を動かした。
「ザメデュケ草だな! 食事に混ぜてあったのか!」
「はいそうです」
ベニシッドは、悄然と頷いた。レナルは、少し歯噛みした。
「……司祭だな! ザメデュケ草は、狼人が戦のときに噛むもんだ。センティーカみたいなのんきな奴が、あんなもんを噛むわけがない。ましてや、火柱がたって群が混乱しているような時だ。首領なら、そんなときにそんな馬鹿な真似はしない」
「司祭が? でも、首領、どうして司祭が、そんなこと」
ベニシッドの横にいた、木の実の首飾りをつけた狼人が不思議そうに訊いて来た。レナルはいらだったように吐き捨てた。
「人間を排除するためだろ。辺境が不安定になっている時、司祭の連中がこぞって口にするのは、『人を辺境に入れるな』『火を使うな』だろ。辺境がここまで荒れてきてるんだ。そもそも、食事にザメデュケ草を加えるなんて、同族じゃなきゃできない」
とここまで感情的に話たところで、レナルはふと息をついた。
「だが、証拠はない。ちょっと調べたほうがいいな。直接司祭に聞いたところで相手にしちゃくれないだろうから、ベニシッド、近衛の狼人のラディッセスを知っているだろう? ちょっと情報くれるように頼んできてくれないか」
「近衛の?」
辺境に住まうものには、三つの階級がある。精霊と直接接し、話を聞く『司祭 』。そして、最下階級で有事の際には、真っ先に戦いに出る辺境の外郭を守る『兵隊 (ビーティア)』。その中間に位置するのが、辺境の奥側を守る戦士である『近衛 (チィーレ)』である。
これら三つの階級は、生れ落ちた時の才能や魔力の強さなどで割り振られるが、成長の度合いや年齢によって入れ替わる流動的なものだ。だからこそ、十二人しか選出されない司祭と違い、基本的には兵隊と近衛は意識の上では、著しい差がなかった。階級の格差を鼻にかけるものも少ないためとっつきやすく、その上、司祭に近い為に内部事情にも詳しい。
「ラディッセスは、オレのちょっとした知り合いだから、オレの名前を出せば協力してくれるぜ。場所は、ここから北東にいったとこだ。ある程度いくと、向こうから接触してくるはずだ」
「ラディッセスですね。いってきます!」
ベニシッドは、たっと地面を蹴った。
レナルはその背中を見送り、再び作業に戻る。妖精は魔法を狼人よりうまく使える。それを使って火柱に水をぶつけるという手があるのだが、そのためには水をなるべく火柱の近くに持っていかないといけない。泉などから水を汲んで運び、火柱の近くに集めなければならなかった。
「しかし、人間が襲われてるってことは……」
レナルは、少し表情を暗くする。横にいる狼人が、怪訝そうに覗き込んできた。
「どうしたんです。首領?」
「いや、レックハルドが目をつけられてねえかなって心配してな。ファルケンとも連絡がとれねえし……」
レナルは心配そうに目を細めた。
「なにも起こってなきゃいいんだが…」
無事でいてくれよ。と、小さくつぶやき、レナルは声をはげました。
「お前達! もっと早く水を集めろ! 火事は広がってきているぞ!」
なるべく早く、あの火柱の近くにいかなくては……。レナルは、焦る心をなるべく鎮めようと必死だった。
***
光が飛び込んできて、しばらく彼の思考は停止していた。全身を光の矢に射られたような感覚があったが、その痛みも今はもうない。
ただ、空中を漂っているような感覚がするだけだ。
しろい光の中に、不意に映像が、目の前に広がった。それは対照的に暗い映像だった。石畳の引かれた地下の廊下といったところである。ちょうど誰かが数人の部下をひきつれて、その廊下を歩いていた。
ファルケンはその誰かの視点で、その映像を見ていた。
これ、誰の記憶なんだろう。
ファルケンは、そんな風に思った。これは自分の記憶ではない。それは間違いない。まるで別人の記憶を傍で見ているような感覚だった。
辺境の森の中では、時折誰かの思念を受け止めてしまうことがある。彼は、そうして他人に感応する力はあまりなかったから、そういう経験はあまりなかった。けれど、彼も狼人だから、そうした誰かの影響を受けることはないこともないし、そういうことがあることぐらいは知っている。
でも、こんなにはっきりとした映像を見るのは、多分初めてだ。
石畳の床は音がよく響いていて、何となく冷たかった。あまり居心地がよくなくて、ファルケンは自分が受け止めた記憶の持ち主が、かすかに緊張しているのを感じていた。
仮に、その男を”彼”としよう。
目の前の兵士が、”彼”の姿を見ると、深くお辞儀をして引き下がる。大きな刀を背負ったまま、彼は地下牢への扉の前に立つ。兵士の一人が、お待ちください、といいながらこういった。
「首領、お気をつけください」
首領といわれているのだから、狼人だ。ファルケンは、”彼”が狼人の長なのだと理解した。しかし、目の前の兵士は人間らしくて、人間に首領と呼ばれる狼人は珍しいと思う。
「奴はとんでもなく口のうまい男。おそらく、首領を口先で懐柔しにかかるに決まっています」
兵士は困った顔で言った。
「うっかり、うちの部下が二人、昨日、奴に買収されそうになりまして……。危ないところでした」
「ああ、気をつけるよ。ありがとう」
”彼”は、そう返して、そのまま地下牢へと足を進める。どうやら、新しい捕虜はとんでもない曲者のようだった。
ファルケンにも、断片的に彼の記憶や心の動きが流れ込んできていた。どうやら、彼はこの都市で知らぬ者のいない戦士であるらしく、激しい戦闘で知られていた。英雄といわれる一方、怪物としておそれられもしていた。それでも、彼が一定の尊敬を集めているのは、先ほどの兵士の態度でわかる。
しかし、その立派な英雄である筈の”彼”の心が乱れているのもわかっていた。
牢屋の中には、一人の男がいた。彼は、視線を送って、後ろの部下を追い返してから、牢屋の中に入った。
「誰だ? まさか、もう俺の首を斬りに来たんじゃねえだろうな? ったく、看守を金で丸め込んで逃がしてもらおうだなんていうのは、ちと軽率な行動だったかな~」
そんな声が聞こえて、”彼”はどきりと立ち止まる。
「まぁいい。昨日の飯は最悪だったぜ。大切な捕虜扱ってんだ。もっと丁寧に扱いな」
鉄格子の向こうで男は思ったよりもゆったりと座っていたが、彼が入ってくるのがわかると、目だけをそちらに向けた。それから、にやりと皮肉っぽく笑う。黒い服が、ゆらりと揺れた。
「なんだ、アンタか」
男はにやりとした。
「へぇ、アンタが死刑執行人かい?」
細い目が皮肉っぽくこちらを見ている。彼は、首を振り、そうじゃない、と答えた。
ひょろりと痩せていて、立てひざを立てて座ったその男の態度は、大胆不敵といった方が良かった。噂程は悪辣ではなくて、妙に親しみを持たせる愛嬌も持ち合わせてはいる。
「ちッ、うまくいかねぇな。アンタの紹介で、カルナマクに会えると思ったんだが。まあいいさ、今すぐ首飛ばされるわけでもないんだろ」
男はやれやれとため息をつく。
「陛下には、手紙で報告してはいたんだが」
「陛下に届いてたところで、周りの奴が暴走しちまったんじゃあ、どうしようもねえさ」
男はにやりとした。
「もうちょっとで謁見の間だったのに、途中で急に制止されちまった。ふん、俺の面知ってるやつが、他にもいるとは思わなかったよ」
「俺が一緒に上がればよかった」
「それはどうだろうな。一緒に謁見なんざしてたら、今頃、どうなってるかわかんねえよ」
男はにんまり笑った。
「俺はアンタの紹介で通ったとは”言ってねえ”。俺を連れてきた兵士を買収して連れてきてもらったとは言った。そいつらはアンタの部下だから、アンタがどうにかしたんだろ?」
「ああ、手違いだった、騙された、ということで放免してもらった」
「そりゃよかった」
男は胡坐をかいて、顎をなでやった。
「まあでも、ここに来たってことは、アンタ、まだ俺に協力してくれるつもりがあるのかい?」
「俺は、俺なりに考えた末で、陛下に会わせることにした。嘘をついているとは思っていない」
「へへへ、それは俺にとって嬉しい返答だね、どうも」
男は、生殺与奪を握られているとも思えない態度だった。
「それじゃ、ここで作戦会議といこうかい。俺の首が飛ぶまでは、まだ何度だって機会はあるはずさ」
にやっと男は笑った。
「作戦会議?」
「俺がここにいる限り、帝国の軍隊はココ攻めてこねえよ。まだ一週間ほどはな」
男は続けた。
「俺とお前の協力関係についても、周囲にはまだそれほどばれてもいない。ということは、お前が仕事フけるフリしてここにくりゃいいんだよ。俺の様子を定期的に監視することは、別に命令違反じゃない。俺はほかの兵士には買収を持ち掛けているから、余計にな」
「そんなこと、できるだろうか」
「やれなきゃ、終わりさ。実のところ、俺は暇してんだよ。たまには遊びに来い」
男はそういいながらあくびをした。足を組んだままそのまま両手を頭の後ろに持って行き、そのまま昼寝でもしそうな雰囲気だ。
”彼”と同じく、ファルケンもその男の態度にややあきれていた。なんでこんなにのんきなんだろう。自分の置かれている状況がわかっていないのだろうか。
(これが、レックハルド=ハールシャーか)
「てことで、俺は寝る。あ、ちょっと寝心地悪いから、今度来るときは毛布でも持ってきてくれよ」
”彼”は鉄格子の向こうで警戒心もなくうとうととし始めた男をもう一度眺めていた。
「頼むぜ、ザナファル=ロン=ファイェーシェン」
ザナ、ファル?
その名前には聞き覚えがある。ファルケンは、どきりとした。けれど、今は、何故かその名前が何の名前であるのか、すぐに頭に浮かんでこない。
一体、誰だったんだろう。そんなことを考えていると、視界が大きく歪み、突然目の前が再び真っ白になった。
***
真夏の太陽のような、日差しがまっすぐに降りてくるが、それは不思議と翳っている。丸い光は暗闇に食われていた。
――日蝕?
気がつくと、牢屋も男も何もない。視界がぐるりと回り、落ち込むようにして、それが急に目に入る。
部分蝕だ。
彼が見上げた場所からは、ちょうど虫が食ったように太陽の下半分がわずかに欠けている。見慣れたせいか、ファルケンはそれを不気味とは思わなかった。ただ、妙な違和感を感じただけだった。
(夢だったのか? さっきのは。)
夢というより、映像のようだった。気になったが、すぐにファルケンは、もう先ほどみた映像の断片すら思い出せなくなっていた。
それよりも、光がまぶしい。今の彼には、その日蝕で落ちた光でも眩しかった。手をあげて、光をさえぎろうとしたとき、全身に焼け付くような激痛が走る。
ファルケンはようやくそれで、先ほど、光に包まれた後の一瞬の記憶がないことに気づく。あの光に包まれたとき、確か自分はその衝撃で飛ばされたようだった。軽く頭をねじって周囲を見ると、先ほどの光の影響で、その一帯の細い木々がなぎ倒されているようだった。小さな爆発が起こった、といった感じである。
「まさか……」
怯えるような声が聞こえた。
ファルケンは、我に返って声のほうに目を走らせた。そこには、シャザーンが立ち尽くしていた。彼がまだ、自分に止めをさしていないことから考えて、気絶していた時間は本当に一瞬なのだろう。
「こんな、ひどい事を、どうして!」
シャザーンの目は、なぜか悲しげで、下に転がっている自分に止めを刺そうともしていない。彼はまるで別の場所を見ている。それも不思議だったが、ファルケンにはシャザーンのうつろで辛そうな目がどうしても気にかかった。正気ではないみたいだ。
「殺してしまうつもりだったのか!」
(誰に?)
ファルケンは喉の奥から漏れそうになる呻きを押し殺すようにしながら、それを見上げていた。
(誰に、話しかけてるんだ?)
彼が不思議に思ったのも当然だ。シャザーンの周囲にはだれもいない。
「なにも、ここまですることはないだろう?」
シャザーンは怯えたような口調になっていた。
「死んでしまったらどうするんだ!」
何を誰としゃべっているつもりなのか、少なくともファルケンには、シャザーン以外の人影は見えない。
「もう、これでいいだろう! やめてくれ!」
ふと、シャザーンの口元が、引きつり、邪悪な笑みを浮かべた。ファルケンは、はっと目を見開く。
「お前はまだそんな事を言っているのか、クレーティス!」
表情の変化だけではない。まるで、口調も、声の調子も、すべてが別人のように変わった。ファルケンは、思わずあることを思い出していた。
「お、お前は!」
反射的にファルケンは、片肘をついて痛みをこらえながら半身を立ち上げた。
「わかった! お前、 妖魔だな!」
ファルケンは、そのことをおとぎ話程度にしか聞いたことがない。しかし、確かに効いたことはあった。妖魔とは、人や森の者たちにも取り憑くものである。心に隙があるものは、妖魔に取り憑かれて操られ、やがて人格ごと乗っ取られてしまうのだと。
「シャザーンにとりついているのか?」
「やかましい!」
シャザーンならぬものはファルケンの問いに答えもせず、突然彼を蹴り倒した。
蹴られて再び地面に叩きつけられた彼の腹部を、さらに蹴り上げる。うつぶせに地面にはいつくばったファルケンの口から、赤い血が流れた。当たり所が悪かったのか、ひどく痛んで息ができない。妖魔の声が聞こえた。
「お前の望む世界にするためには、すべて私の言うとおりにしなければならないと教えたはずだ! ほら、見ろ! お前が邪魔をしたせいで、こいつに余計な苦しみを負わせることになったのだ!」
きっと、狂気じみた目が、ファルケンのほうに向いた。ぞくりとするような視線だった。
「や、やめろ!」
直後、真っ青になったまま、シャザーンの声がその口から発せられたが、表情だけは変わらない。直後、暗い妖魔の声がそれに続いた。
「死に損ないには死んでもらったほうがいいだろう? 違うか?」
ファルケンは、右手で身体を支えるようにしながら、軽く咳き込んだ。唇についた赤い痕を左手でぬぐい、何とか立ち上がろうともがく。戦おうと思っても、彼の持っていた剣は、光の衝撃で遠くに飛んでしまったらしく、近くに確認する事ができない。
シャザーンは剣を抜いた。
「……苦しそうだな…」
その声は妖魔のものだ。ファルケンは、悔しさをこめて相手をしたから睨みあげた。シャザーンの表情は複雑だった。悲しそうな表情と、愉悦の表情が同時に表に出て完全に歪んでいた。普通ならありえない表情だ。
「楽にしてやろうか? 魔幻灯の。どうせ、お前はどこに行っても、はぐれ者だ。こんな世の中に未練はないんだろう?」
「だ、だま、黙れ!」
痛いところを突かれ、ファルケンは少しカッとする。それを面白そうに見やり、シャザーンの中の妖魔は、ファルケンに切っ先を向けた。
ふと、シャザーンが動いた。ファルケンに向けた切っ先を下げ、逆の方向へと飛び下がる。近くの地面に剣が突き立っていた。
「てめえ! 何してんだ!」
叫ぶ声には聞き覚えがあった。フ
ァルケンは顔を上げた。予想通りの人物が、森の陰から現れるのを見た。赤いマントが翻り、鼻っ柱の強そうな威勢のいい顔が、すでに闘志を感じさせていた。
「ダルシュ」
ファルケンは、呆然とつぶやいた。ダルシュがどうしてここにいるのか。いくら、ダルシュが辺境の森を調査していたのだとしても、すぐには結び付かなかった。
「その狼野郎は、オレと知り合いなんだぞ! てめえ、何しようとした! 殺そうとしてたな!」
ダルシュは、腰にある別の剣を抜いた。
シャザーンは突然無言に落ちる。ふと、唇がぞくりとするような笑みを作り出す。妖魔の方が強く出ているのだ。
「だんまりかよ! オレは気が短いんだ! 実力行使に出させてもらうぜ!」
ダルシュは、マントをさあっと翻すとだっと走り出す。シャザーンの顔色は真っ青になっていたが、その口元には不気味な笑みが浮かんでいた。
「だめだ、ダルシュ。こいつは……」
ファルケンの声は小さくて、とてもダルシュには届かない。せめて、レックハルドでもいてくれたら、きっと彼を止めてくれるに違いないのに。
「ダメだよ。……こいつは……」
ファルケンは、精一杯の声を上げたが、それでもまだささやき声程度だった。
「そいつは、……まともじゃない……!」
ダルシュの気合の声が聞こえる。ファルケンは、自分の無力さを呪った。
(レック……)
ファルケンは、おそらく初めてレックハルドに本当に助けを求めた。
(オレじゃ無理だ……。助けて……助けてくれ…!)
*
なんだか、ふわふわとした感覚を覚えていた。誰かに抱き上げられているのか、足が地についていない。
「……レン……?」
どこか遠くから、声が聞こえた。最初、夢だと思ったが、どうもそうでもないらしい。
「ロゥレン!……ロ、レン……!」
レックハルド?
いいや、違う。レックハルドよりはもう少しやわらかい声だ。そして、もっと聞き知った声である。
目を開けると、そこに誰かがいた。
「誰?」
ロゥレンはそう口にしたと思ったが、実際に声にはならなかったらしい。相手は心配そうにこちらをのぞきこんでいるようだった。緑の目が、赤い光に射られて不思議な色をたたえている。見覚えが限りなくあるようなのに、それはまるで別人のようにすら見える。
(誰? いったい、だれ?)
緑色がかった金色の髪が、かけた布の間からゆれるのが分かった。半分以上あらわになった顔は、線の細い狼人には珍しく、どちらかというと精悍なほうに入るだろう。まだ若い狼人らしく、あどけなさが抜けきっていない。そして、赤い紋様は、大胆だが少し特徴的である。陽気そうだが、寂しげな翳りを同時に感じさせてもいた。
その面影には見覚えがあった。いや、見覚えがありすぎて間違いようが無かった。しかし、何故だろう。ふいに猛禽のように鋭く視線を背後にやる彼の表情は、いつも知っているその彼とは違う。
(ファルケン? ……じゃない?)
ファルケンなら、こんな厳しい目はしない。こうした戦に臨むものがするような、こんな冷徹で何かを見通すような目を、ファルケンは知らない。彼はもっと穏やか優しい目をしていた。目の前にいるものはファルケンに似ているのだが、まるで彼とは似ても似つかない性質を持っていた。
「誰?」
ロゥレンがつぶやいた言葉は、男に通じたようだった。彼は気づいたように、にこりと笑った。
「あぁ、よかった。大丈夫みたいだな」
狼人は安堵したように言うと、今更顔の覆面がずれているのに気づいて、慌てて顔を布でぐるりと巻いた。それから、彼女を抱きかかえたまま、木の上に飛び上がる。狼人特有のとてつもない速さで、木の上を飛び回り、あっという間に炎の放つ熱が消える場所まで行くと、彼はロゥレンを木の枝に下ろした。
「ここからは、自分で帰れるな?」
覆面の狼人は、穏やかな口調で言った。ロゥレンは呆然として、こくりと頷いた。何となく、妙な胸騒ぎがした。
「じゃ、オレはあっちを助けに行かないといけないから。危ないから、もう一人でアレに近づくんじゃないぜ」
彼はそういうと、きびすを返した。再び去ろうとする狼人に向かい、ロゥレンは慌てて声をかける。
「ま、待って!」
狼人は、少しだけ彼女を振り向く。ロゥレンは口を開いたが、言いたい事をうまくまとめる事はできなかった。彼女は、首を振った。
「ごめん、なんでもないの」
「そうか。じゃあ気をつけて」
「あ、あんたも気をつけてね」
ロゥレンは慌てていった。それから、小声でぼそりと付け足す。
「そ、それから、ありがとう」
男が笑ったのは、目を見ればすぐにわかった。
ロゥレンは少しだけ赤面した。狼人の目は、先ほどとは対照的に優しく、ひどく穏やかだった。そう、誰かのように――。
「じゃあな」
「う、うん」
ロゥレンは、反射的に答える。
狼人は、もう振り返る事もなく、そのまま走り出した。すぐに彼の姿は見えなくなり、ロゥレンはぽつんとそこに取り残される。
(どうして……)
ロゥレンは、困惑気味にその見えない後姿を追った。
「あんた、どうして、ファルケンと同じ顔してるのよ……」
彼女はぽつりとつぶやいた。風がざわざわと、上の木の葉を揺らしている。答えをくれるものは誰もいない。




