3.辺境狼の襲撃
***
彼は走っていた。ちょうど目の前に馬が止まっている。
「あの女ァ!」
彼は忌々しげに吐き捨てた。
――巻き込んでしまってごめんなさい。
彼女は、そういった。少年を抱えるようにしている彼女の背後には、普通の人間とは思えぬ醜悪な姿の”何か”が集団で迫っている。
「乗ってきた私の馬に乗れば貴方は逃げられます。巻き込んでしまってごめんなさい。貴方だけ先に逃げて」
そういって女は腰の剣を抜き、彼を追いたてるようにして逃がしたのだ。
(あの女! ふざけたことぬかしやがって! そんなに逃げてほしけりゃ、一人で逃げてやるよ!)
彼は腹立ちまぎれにそう考えて馬の手綱を握った。彼は馬の扱いには自信があるし、一人で逃げるなら十分だ。
しかし――。
「俺にだって意地ってもんがあるんだぞ! 馬鹿にするなよ!」
彼は馬の腹に蹴りを入れると、そのまま馬の首を返したのだった。
奴隷として売られていた辺境の狼人の子供をつれ、彼らは辺境の森を目指すべく都から出、森の近くの街まで行くことにした。
本当は、彼には何の関係もないことだった。彼は、ただ気まぐれからその女の手助けをしてしまっただけだ。女のいうように、その奴隷の少年が辺境のものであるということは、彼にとっても懸念事項ではあったが、それにしたって彼はそこまでして彼女を助ける理由を持たなかった筈だ。
それだというのに、彼は結局都を出て彼女たちに同行してしまっていた。
(退屈しのぎなだけだ)
彼は自分にそう言い訳をしていた。今日はただ仕事が休みの日で、かといって女と遊ぶ気も起きなかったから、街をフラフラと歩いていただけだ。刺激がなさ過ぎて退屈だったから同行していただけだ。辺境の狼人の子供など、めったと見られるものでもないのだから。
しかし、めったとみられるものではないその少年は、奴隷としても価値の高い存在だった。一度はレックハルドの仲裁もあり少年を売った奴隷商人たちであったが、心変わりをして彼を取り返しに来たのだ。森に近い街に向かうまでに、すでに彼らは追われていた。
何とか馬で逃げ切って、森に近い街たどり着いたところで、彼らは本性を現していた。普通の姿をしていたはずの奴隷商人の追手たちは、いつの間にか黒く不定形な醜い何かとなり下がり、彼らに襲い掛かったのだ。
彼女はそれを圧倒するほど強かったが、それでもこのままでは彼を守り切ることはできないと考え、巻き込まぬようにと先に逃げるように言ったのだった。
彼が馬を飛ばして、元来た場所に戻ると紅い髪の女が剣を振り回して戦っているところだった。少なくとも女は強かった。猫のようにしなやかな体で黒い化け物たちに絡みつかれそうになりながらも、彼らを打ち払っていた。
しかし、彼女の足元には狼人の少年が半べそをかきながらしがみついている。成人すれば人間を遥かに超える力を持つ狼人だが、幼少期の彼らは人間の子供とさほど変わらぬ弱い存在だった。
「貴方!」
女は戻ってきた彼を見て、少なからず驚いたようだった。
「早く乗るんだ! 一気に駆け抜けてやる!」
彼がそう叫ぶと、彼女は襲い掛かる黒い有象無象達を大きく払った。そして、少年を抱いて飛び上がった。腕を広げた彼につかまるようにして上がり込み、彼女は馬上の人になった。
「貴方、戻ってきてくださったの?」
少年を鞍の前につかまらせ、彼女は背後の彼に尋ねた。そして、ゆっくりと紅い唇にほほえみを浮かべた。はからずも、彼は「綺麗だな」と素直に思って、追われているのも忘れて一瞬見とれてしまっていた。
「ありがとう」
彼は自分が何を考えたのか気付いて、一瞬赤面した。
「べ、別にあんたのためじゃねえ。見捨てて死なれたら、俺の寝覚めが悪いからだ」
彼は冷徹さを装って、意地悪く吐き捨てたものだった。
だが、まだ危機は去っていない。後ろからはもはや不定形になった黒い塊が、這いずるようにしてこちらを猛烈な速さで追いかけてきている。
「あたしはメアリズ。貴方、お名前は?」
場違いにそう尋ねられ、彼はふんと鼻を鳴らす。
「あんたが名前を知る価値もない男だよ」
***
辺境の森の中で人影が揺れたとき、レックハルドは不審には思っていた。
しかし、その時、レックハルドはファルケンを探していて、もしファルケンであるのなら見逃すわけにはいかなかったのだ。
「ファルケン?」
レックハルドは半信半疑ながらにたずねてみた。
ファルケンではないのなら、獣? いや、しかし、ちらりと見えた影は人の形をしているようだ。
もし、ファルケンでないのなら、それは噂に名高い『辺境の狼人』かもしれないのだが、相手は一人のようだ。狼人は群れるときいているので、一人ならやはり――
「ファルケンか?」
人影が、突然ざっと音を立てて走り出した。
「あ! ま、待ってくれよ!!」
レックハルドは、あわててその人影を追いかけた。逃げる人影は、ずいぶん向こうのほうにわずかながらにちらちら見える。
(やっぱり、オレのこと、怒ってるのか? ファルケン……)
それは、仕方ないとは思う。自分だってそんなことをされたら、きっと怒るに違いないのだ。
「待ってくれ! オレが悪かったよ! 一言だけ謝らせてくれよ!!」
草を跳ね飛ばし、レックハルドは影を追いかけた。木々がまばらになるところに、影は抜けていく。全速力でレックハルドは、後を追ってそちらに抜けた。
だが、影は突然、ふっと消えてしまっていて、気配も感じられなかった。
「ファルケン?」
森は奇妙に静まり返っている。妙に不安になり、レックハルドは今度は小声で呼びかけた。
「ファルケン? どこだ?」
ふと、うなり声が聞こえた。レックハルドはゆっくりと、そちらのほうに目を向ける。
ぴりぴりと、皮膚の上に妙な緊迫感を感じ、レックハルドは身を引いた。獣のうなり声は、彼が目を向けた瞬間に咆哮に変わった。
(まずい!)
彼のほうに、何か黒いものが飛びかかってきた。咄嗟に。体をひねってレックハルドはそれをかわす。飛びかかってきた黒毛の獣は、着地して彼のほうを向いた。目が異様な輝きをはなって、光って見える。
「ひっ! へ、辺境狼!」
レックハルドの全身に冷たいものがひた走った。そこにいたのは、黒い毛並みと金色の瞳を持つ大きな狼だ。
しかも、狼は一匹ではない。反対側に五匹ほどいた。辺境にすむ狼は、普通の森の狼よりももっと獰猛だとされている。
一般の狼より、もっと黒い闇のような毛色、うわさに聞く、辺境狼に違いない。思わず後退し、どうやって逃げようかと焦った頭で考える。 しかし、逃げ道は限られていた。
狼が動いた。レックハルドは考えるのをやめ、そのまま振り返って走り始めた。
「ちきしょう!!」
彼は吐き捨て、それでも自分の戻ってきたほうを頼りに走った。奥に行ったら、きっと逃げ場がなくなる。辺境から出てしまえば、狼も追ってこれまい。
だが、人間よりも狼のほうが足は速い。おまけに、ここは相手の縄張り内。土地勘があるのは、レックハルドではなく狼のほうだ。
そして、ここはほかならぬ辺境の森の中。
ほどなく、長いとげのある植物にズボンのすそを引っ掛けて、レックハルドは転んでしまった。上から狼たちが飛び込んでくる。
「ちきしょう! 離せ、馬鹿野郎!!」
悪態をついて、ズボンに噛み付きかかった狼を、レックハルドは力いっぱい蹴飛ばした。ぎゃいんと悲鳴をあげて、狼は引き離された。だが、次々、狼は飛びかかってくる。
(ダメだ! やられる!!)
ぞっとした。だが、観念するしかなかった。
と、そのとき、彼らの近くにいた狼が跳ね飛ばされた。馬の音が聞こえ、そして、女性の声が聞こえた。
「レックハルドさん!! 早く!!」
われに返り、レックハルドは、身を起こして走り抜けようとした馬の鞍に手を伸ばした。そのまま、体を力任せに持ち上げて、鞍の後ろ側にまたがった。
馬に乗っていた人物が、後ろをちらりと見やった。紅い髪の毛がふわりと揺れていた。
「マ、マリスさん!」
にこっと、マリスは笑って見せた。
「あなたの様子が、なんだかおかしかったので、後を追ってきたんです。悲鳴が聞こえたから、何かあったんだと思って辺境の中に……」
なんて危険なことを。と思いながら、ふっとマリスが右手に持っている物を見た。彼女が、さっき狼を追い払うのに振り回していた物であるが、それは細身の長剣だった。もっとも、鞘を払わずにそのまま振り回していたようだが。
(マリスさん、見かけによらないな。意外と武闘派?)
そんな悠長なことを思いながら、レックハルドはそれはそれでいいかもしれないと、一瞬のんきなことを考えてしまって不意に気付いた。二人乗りをしているため、マリスと自分の距離があまりにも近い。とたん、顔が真っ赤になる。だが、マリスの方は気にしていないのか、さらにこんなことを言った。
「何にもつかまらないなんて危ないわ! あたしの肩につかまってください!」
「いっ、いやぁ、そ、そんなことできません!」
あまりにも恐れ多い。
「危ないですから!」
マリスは大真面目だ。一気に心拍数があがり、レックハルドは胸の鼓動を聞かれやしないか。などと、狼に追われている者とは思えない心配をした。
「ほんとに! オレ、遊牧民出身ですから、大丈夫なんです!」
これ以上心拍数が上がったら、幸せすぎて死んでしまうかもしれない。ましてや、肩に触れるなんて……。
「でも……」
「いやっ、ホント。大丈夫ですって。落馬なんてしません」
追われていると言う状況をすっかり忘れてしまいそうだ。
しかし、馬術に明るいのは嘘ではない。幼いころは、奴隷同然の牧童としてこき使われていたが、おかげで馬のことには詳しくなったし、馬術の腕も向上した。裸馬にだって乗れる。
しかし、だからこそわかってもいた。二人乗りになっているからには、それほど速くは走れはしまい。振り向けば、すでに馬の後ろ足と並ぶほどの距離にいる。
(速い。辺境は馬には走りにくい所だろうが、それにしても速い。この狼ども。)
辺境は危険なところだ。という、通説をレックハルドは痛いほど思い知った。
「マリスさん、このまま二人で乗ってたら、追いつかれます! オレは木の上に逃げますから! 早く辺境から!」
無理だと判断したレックハルドがそう申し出る。
「何言っているの? そんなのはいけないわ!」
「いけないとかそう言う問題ではなく! お願いですから!!」
「だめです! あなたを見捨てるなんてことはできないわ!」
(なんてお優しい。マリスさん)
しかし、そんな悠長なことを考えている場合ではない。
不意に木々の間を縫うように走り抜けていた馬の目の前に、高い岩壁が出現した。これを飛び越すことはできそうにない。上ることも難しい。二人は、袋小路に逃げ込んでしまったのだった。
「しかたないわ。レックハルドさん! いったん馬を止めます!」
マリスは緊張した声色でそう告げ、手綱を引いた。馬は少しいななき、断崖の前でその足を止めた。さっとレックハルドは、地上に降り立ち、すぐにやってきた狼たちの群をにらむ。
相手は飛びかかるタイミングを計っているようだった。レックハルドは、帯にさしていた短剣を抜くとそれを逆手に構えた。
「レックハルドさん! 危ないわ!」
小声で鋭くマリスが言った。
「マリスさん! 危ないときは、オレを見捨てて逃げてください!」
今のは少しかっこよかったかも。そんなことをレックハルドは考えてみるが、目の前の狼は短剣一つで勝てるような相手でもなさそうだった。
(くそ! 人生の春に向かって、直進中なんだ! 絶対こんなところで死ねるかよ!!)
どうにか逃げる方法を考えなければ。
狼とのにらみ合いも、そろそろ限界だ。ゆっくりゆっくり、狼たちは体勢を下げ、飛びかかる姿勢に移っていく。うなり声が低くなり、そして、それが途切れた時こそ、彼らが飛び掛ってくる瞬間だ。
レックハルドは、つばを飲み込み、必死で逃亡の方法を考える。
火を使ったら? と、誘惑のような考えが頭をよぎる。
火を使えば、狼も恐れるのではないだろうか。だが、それと同時に、珍しく真剣な顔で「辺境で火を起こしてはいけない」というファルケンの言葉がよみがえった。なにか、そこに大きな禁忌があるような気がする。それに、火打石で火をつけているような悠長な時間はないのだ。せめて、カンテラに火ぐらい入れておけばよかったのだが。
「レックハルドさん!!」
マリスの鋭い声で、レックハルドは我に返る。狼はまさに飛び上がる一瞬前だった。きっと、唇を噛むとレックハルドは、短剣を狼のほうに向けた。
が、あまり武芸に自信のないレックハルドには、狼は荷が重すぎた。すぐに飛び掛られ、上からのしかかられる。狼の生臭い息が顔にかかり、レックハルドは絶望感が一瞬にして全身を支配していくのがわかった。
だが、狼が彼に噛み付く前に、その狼は払いのけられた。マリスが例の長剣で狼を殴りつけていた。いつの間にか、彼女は下馬していたのだ。
(ま、また助けられちゃったよ)
危機を脱したことより、守るべき女性に助けられてしまったショックの方が大きく、レックハルドは一瞬、動作が遅れる。マリスがその様子に感づき、大声で言った。
「レックハルドさん! 早く立ち上がって!!」
だが、マリスが一匹を払い飛ばした時、すでに第二陣、三陣が、彼らめがけてとびかかってきていた。狼たちは、二人に同時にねらってきていた。
「きゃあ!」
「マリスさん!!」
レックハルドは叫び、思わず天の助けを願う。
そのとき。
ざざざざ……という下草を、突風が吹きぬけるときのような音が聞こえた。闇の中から、一塊の黒い影が飛び出し、レックハルドの前に着地する。赤いぼんやりした光が、目の前を横切った。それはレックハルドの前に着地し、彼の前に大きな影を落とした。
目の前の者は、踏み切って宙に舞い上がった狼、二、三匹をすぐさま叩き落した。そして、少し後ろを向いた。
「レック大丈夫か!?」
緑が混じった金色の髪が、ふわっと風に揺れる。大柄の影の主の正体を知って、レックハルドは歓喜の声をあげた。
「ファルケン!!」
助かった! レックハルドは、一気に明るくなった。そして、すかさずマリスを安心させるべく声をかける。
「大丈夫ですよ。オレの馬鹿な相棒です。あれ」
すっかり得意げな様子でレックハルドはマリスに言った。
ファルケンのほうは、辺境狼と向き合って睨み合っていた。ファルケンの目は心なしか、いつもよりも鋭く、まるで獣のように光って見えた。そっと、ファルケンの手が背中に背負った両手剣の柄をつかむ。わずかに引き抜いたとき、辺境の微かな光を集めて、刀身がきらりと冷たく輝いた。
それを見たせいか、辺境狼の群れは急に尻尾を巻きだした。耳は垂れ、明らかに怯えたそぶりを見せる。やがて、彼らはその空気に堪えきれなくなったように、方向を変えて走り去った。
すっかり彼らの姿が見えなくなってから、ファルケンは大きくため息をつき、柄から手を離した。ちゃりんと刃物が鞘に収まる音がして、それから、彼はゆっくり振り返った。
「大丈夫だったか?」
「ああ! なんとかな」
レックハルドは応えて、ファルケンの方に歩み寄った。
「しっかし、お前が出てきてくれてよかったよ! オレ、もうだめかと思ったんだぜ」
すっかり、自分が約束を破ったことを忘れて、レックハルドはあつかましくもファルケンの肩をたたく。
「やっぱり、お前はいいやつだよ!!」
だが、ファルケンは心配そうな顔をして、レックハルドをみた。
「レック、右手、血が……。噛まれたのか?」
「え? あ」
そういえば、ちょっと痛い。右腕の袖が破けて、そこから血がにじんでいた。どうやら、さっき、相手をしたとき、爪か牙かどちらかがかすったようだ。
「まぁ、大変」
マリスが駆け寄ってきて、やはり心配そうな顔をした。
「早く手当てしたほうがいいです」
そういわれると、だんだん痛くなってきた気がした。しかし、レックハルドは、先ほどマリスにかばわれた事を、彼女をみて思い出してしまっていて、これ以上、格好悪いところを見せたくなかった。わざと強がってなんでもないふりをしてみる。
「たいしたことないんですよ。かすり傷だし!」
「こういういうのは甘く見ると危ないんだ。オレ、薬草持ってるからそれで!」
ファルケンはそういって、小さなビンを荷物の中から取り出した。ビンの中には、水でつけられた緑色の葉っぱが一枚入っている。水筒の水で傷口をきれいに洗い、それからビンの中に漬けられた葉を取り出して、ファルケンは傷の上にのせた。本当は、結構、この葉っぱが滲みる。普段なら、ファルケンにもっとそっとやれとかなんとかどやしつけるところだが、マリスの手前、なんでもないような顔をしていなければならないのが結構辛い。
「あたし、手伝いますね」
マリスが、持っていたらしい包帯を取り出して、きれいにレックハルドの右腕に巻いてくれた。憧れの人に傷の手当てまでしてもらって、レックハルドは痛いながらも笑みが浮かぶのをとめられない。
(なんだ、これ、夢じゃないのか。極楽じゃねえか)
それを不審に思ったのか、ファルケンが首をかしげながらたずねる。
「レック、なんか、面白いことあるのか?」
「だ、黙ってろ!」
ファルケンしか聞こえないぐらいの小声で乱暴に言って、にやけ顔をごまかすように声色を少し変えてマリスに言った。
「本当にいろいろありがとうございます。後は自分でやりますからっ!」
「そうですか?」
マリスはまだ心配そうな顔をしている。その顔を見ていたファルケンがようやく気づいたらしく、うれしそうな声を上げた。
「あ! わかった。あんた、マリスさんだね? 赤くてくるくるした髪の毛で、すごくやさしそうで、話に聞いてたとおりだ! あの、いつもレックがオレにマリスさんの話を……」
といいかけたとき、レックハルドがファルケンの口をすばやくふさいだ。
「話を?」
「な、なんでもないんです!! あははははは。こいつ、馬鹿ですから~!!」
レックハルドは笑ってごまかし、ぐっとファルケンを後ろのほうに引き寄せて小声で言った。
「マリスさんに、そのことは絶対言うな!」
「何で?」
「何でもだっ!」
念を押したが、どうも信用できない。
「あの……」
と、マリスが声をかけてきたので、あわててレックハルドはファルケンを乱暴に離すとにこにこしながら振り返る。
「な、なんですか?」
「そろそろ、戻ったほうがいいかもしれないと思いまして。空が暗くなってしまいましたわ」
そういって、レックハルドとファルケンは同時に上を見上げた。彼女が言うとおり、空は真っ暗だった。
これ以上ここにいると、また辺境狼やほかの獣に襲われかねない。
「今日はありがとうございました。レックハルドさん。ファルケンさん」
マリスを町まで再び送っていって、ようやく彼らは別れることになった。ファルケンは、相変わらず満面の笑みを浮かべた。
「気にすることないよ。当然のことだもんな、レック」
「そ、そうそう。それに、こちらこそ。ありがとうございました」
(なんだかんだ、結局、オレ、助けられたしな……。あぁぁ、惚れた女の子にかばわれるとかさ、オレ、ほんっと情けねえ)
レックハルドが軽く自己嫌悪に陥っている間に、マリスは横乗りの鞍に颯爽と乗った。細身の長剣を腰に下げた姿はちょっとした女剣士といった感じで、なかなか堂に入っている。マリスは、にこりと微笑んでこういった。
「あたし、普段はヒュルカに住んでいますの。ハザウェイの家にいますから、きっとすぐにわかります。もし、ヒュルカに立ち寄ることがあったら、どうぞ訪ねてきてください。また、色々なお話しがききたいわ」
「あ、はい! それはもちろん。そうさせていただきます!」
マリスにそういわれ、レックハルドの顔は華やぐ。うれしくてうれしくてたまらないといった顔だ。どうやら、彼女に気に入ってもらえたらしい。
「それに」
マリスは思い出したように、こう付け加えてほほえんだ。
「レックハルドさん。いい友達をお持ちですね」
「え?」
レックハルドは、思わずファルケンを見上げた。
「それでは、あたし、これで失礼しますね」
「あぁ、はいっ! それでは、また!!」
マリスは、宿の方に向かって馬を進めていった。彼女の姿が闇にまぎれて見えなくなると、レックハルドはいきなり落ち込んで、地面に座り込んだ。
「レック? どうしたんだ?」
「なぁ、ファルケン……」
レックハルドは、やけに暗い顔をしていた。
「男って、強くなきゃいけねえよなぁ」
ファルケンは首をかしげる。
「なんで?」
「なんでって……、ちっ、強い奴はこれだから。とにかくだっ! あぁ、頭の隅まで全身筋肉になりたい。男はやっぱり、筋肉だよな」
「この前、男は頭脳だって言ってたのに?」
「オレァ、そんな事いってねえ! お前は、強いからそういう余裕の一言がいえるんだ! 女の子にかばわれるとか、超情けねえよ。あぁ~、オレももうちょっと強くなりてぇなあ」
「何で? いいじゃないか。マリスさんが強いみたいだし、レックが守ってもらえばいいよ」
「それが嫌なんだよ! ったく、お前にゃぁ絶対わかんねえよ!」
レックハルドはきつく言ってしまってから、ふと思い出したようにばつの悪そうに笑った。
「あ、そうだ……、昼間のことだが」
ファルケンは何を言われるのかわからず首をかしげる。
「その、悪かったな。何も言わないで、どっかいっちまって」
ファルケンはニッと笑った。
「あれはいいんだ。レック、マリスさんとせっかく会えたんだもん。仕方ないよ。オレも、きっとどうしても会いたい人と出会ったら、約束破ってしまうかもしれないし」
「でも……、お前、昼飯さ……」
といいかけて、レックハルドは、少しだけ優しい微笑みを浮かべた。
「ホント、お前は人がよすぎるよ」
「そうかな?」
「そうだよ。まぁ、お前がそういうなら、いっか。お詫びに今日はオレが飯をおごってやろう。光栄に思えよ」
だが、すぐにいつものえらそうな態度に戻るのは、いかにもレックハルドらしかった。
「ホントか?」
「まぁなぁ。助けてもらったし、結果的にマリスさんとも、お近づきになれたし。そうだな、痛い目みたけど、今日はそれなりに楽しかったから」
そういって、レックハルドは札を二枚出した。
「贅沢するのは、今日だけだぞ!」
「うん。わかってる!」
ファルケンはうれしそうな顔をした。
「でも、マリスさん。ホントにきれいな人なんだな。心もきれいだし」
「だろ!」
「そうかぁ。オレの王女様もマリスさんみたいだといいなぁ」
「はっはっは。そうだ……ん?」
ファルケンの不穏な一言を聞き逃さず、レックハルドは彼のマントをつかんで引き寄せた。
「そりゃあ、どういう意味だ?」
「え、だから。前にきいたんだけどさ。男には、運命の人が現れるんだって。で、その人、すごく困ってて、それが王女様で、すごく優しくて、で、オレが助けてあげて、その人となんか「こい」っていうものに落ちるんだって言ってた。オレ、「こい」ってどういうものだか、わからないけど、楽しいってそいつが言ってたんだ。だから、王女様が現れるのを待ってるんだ」
「いつか王女様が~って奴だな。はは、お前も意外とかわいいじゃねえか……って、それは絶対許さねえぞ!」
「なんで?」
「マリスさんは駄目だ! マリスさんみたいなのをお前の王女様にするのは禁止!」
ここで、ライバルを増やすわけにはいかない。レックハルドは、かなり真剣だ。
「え? なんで?」
「なんでって! お前、恋だの愛だの全然わかってねえくせに、一人前のこと言ってんじゃねえ!!」
ふいに手持ちの帳面ではたかれ、ファルケンは「いてて」と頭を押さえる。
「だって、マリスさんすっごくいい人だったから」
「それはわかったから、でもマリスさんは駄目だ!」
「何で?」
「何でも駄目だ!!」
そこまで威勢良く、押し問答を繰り返していたが、急に怪我をした腕がぴりっと痛んだ気がして、レックハルドは軽く右腕を押さえた。ファルケンが、さっきはたかれたことも忘れて、心配そうな顔をする。
「レック? 痛いのか?」
「いや、何か今、ぴりっと……。まぁ、大した事ねえよ」
といいながら、レックハルドは何か違和感を覚えた。どうも、誰かに見られているような気がする。しかも、敵意をこめた視線で。
「ごめんな」
ファルケンは、少ししょげた様子で一言謝った。レックハルドは、陽気にそれを笑い飛ばした。
「馬鹿だな。何でお前が謝るわけだ? あれに襲われたのは、オレがそもそもお前との約束破ったからだろ? オレは無事だったし、お前が謝るいわれはないんだよ」
「そ、そうだな」
そういって、ファルケンは少し元気を取り戻す。
「さてと、飯に行こうぜ。今日は、走り回ってむちゃくちゃ疲れたんだよ。早くメシくって体力つけないと、明日からの旅がつらいからなぁ」
「そうだなっ!」
ファルケンはいつものように、元気よく笑った。
(言ったとおりだろ。ロゥレン)
ファルケンは少し得意な気分になっていた。
(絶対、レックは悪いやつじゃないって!)
何かいい香りのする料理屋に向かって足を速める。そんな奇妙な二人組を、美しい羽を持つ少女が空の上から冷たく見下ろしていたことを、さすがのファルケンも知る由はなかった。
***
辺境の森の中で見た夢は、目覚めたときにすべて忘れ去ってしまうものだった。
それはまるで過去の記憶を封じ込めてしまうように。――ただ、頭の片隅に彩られた映像を傷跡のように残していくだけだ。
その夢の内容は、甘い、苦い、大昔の「その男」の物語でもあった。
古代メソリアの女将軍メアリーズシェイル=エレス=ル・フェイ・ラグリナは、女神のように微笑んで彼の前に立っていた。
「今度はお名前をちゃんと教えてくださいますか?」
「あ、ああ」
茫然としていた彼はそう尋ねられて、はっとした。
「その、俺の、名前は……」
彼はそして、彼女に名乗ったのだった。
――やがて、後世まで轟かすその悪名を。