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辺境遊戯・改訂版  作者: 渡来亜輝彦
第二章:マリス
10/98

2.閃光のロゥレン

***

 その時。

 彼は彼女と歩いていた。

「そんなガキ、連れて行ってどうするつもりだ? 奴隷なんてこの国のどこにでもいるし、貴重な労働力さ。全部買い戻すなんて言わねえよな?」

 雑踏の中、街を歩いていた。

 行きかう人や馬。

 整備されていない道。乾いた空気。

 見覚えのない筈だが、非常によく知った懐かしい場所。

「偽善だね。あんたのやってることは。一人のガキを助けたところで、何にもなりゃあしねえんだぞ」

 彼は不機嫌にそう言い捨てていた。

 彼の隣には紅い髪の女がいて、彼女は金髪の少年の手を引いている。

 少年は、ややにらみ合うような彼女と彼の間で目をぱちぱちと無邪気に瞬かせていた。金色の髪には緑の色が混じっている。彼が時々声を上げるが、その言葉は少なくとも彼のわかる言葉ではない。

 彼は皮肉を言ったつもりだったが、それでも彼女と歩調を合わせていた。

 ――何故だ。こんなに腹が立つし、この女の偽善者ぶりにもあきれ果てているというのに、自分は彼女の行為を助けようとしている。

 俺らしくもない!

 内心、彼は焦りすら覚えていた。


 彼女と最初に会ったのは、街の中だった。


 彼は何の目的でか、たまたま街の中を歩いていたのだ。多分、仕事が休みの日で息抜きのつもりだったのかもしれない。

 当時はまだ若く、官僚の一人だった彼は、たまたま市場の傍を通りすがったが、その時、奴隷商人が子供を一人売っているのを見た。

 彼自身、かつて奴隷であった。奴隷の特に子供が檻に入れられて売られるのを見るのは、冷めた彼でも少し感傷的にならざるを得ないものだった。

 嫌なものを見たと思って、目をそらそうとして、彼は目の前に彼女が立っているのに気付いた。

 紅い髪をして、目が大きい白い肌の女だった。女ではあるが、武装している。それは珍しくはあったが、こんな場所を通るような身分にも見えなかった。甘く優しそうな顔立ちではあったが、芯が強そうなというか、凛々しく見える部分もあって彼の印象に残った。

 素直に「イイ女だな」、と彼はその時思っただけで、彼はその女の脇をすり抜けてその場を後にしようとした。

 しかし、突然背後で喚き声が聞こえて彼は振り返った。

 何か女と商人が口論になっていた。気が付くと、彼は女と商人の間に割って入って仲裁を始めていた。

 気まぐれとしかいいようがない。

 他人に興味のない彼が、何故、そんなおせっかいを焼いたのかはいまだによくわからない。

 結局、彼がうまく商人を言いくるめ、女に金を払わせてその場は何とか収まったのだ。

「貴方のいうことはわかるわ。悲しいことだけれど、貴方のいうことは正しいもの」

 女はうなずいたが、彼から目を離さなかった。彼女の目は大きかったが、意思が強そうでもあった。

「でも、この子はダメだわ。貴方はこの子が何者かわかって?」

 女に言われて連れている少年をもう一度見た。少年は彼をちらりと見上げた。少し怯えているようでもあったが、その特異な髪の色に碧の瞳が印象的だ。西方の人間にも見えたが、この髪の色、そして少年の口から出る見知らぬ異邦の言葉で、彼もおおよそ予想がついていたのだ。

「この子、辺境の狼人おおかみびとよ。……狼人の子供をさらって奴隷にしているの。このことが、彼らをどんなに刺激するか、貴方にはわからないかしら」

「こいつが、狼人の子供だって?」

 彼はそういわれて少年をまじまじと見た。


 辺境の狼人は、辺境の守り人だ。

 人間とは違う、非常に強靭な体を持った男たちだ。

 ――そして、彼らは、辺境に侵略する人間を許すことはない。

 人間から彼らを攻撃すれば、彼らは森から出てくることもいとわなくなるだろう。戦闘においては、彼らに分がある。

 しかし、人間もやられっぱなしと言うわけでもなく、本気で戦い合えば、街の一つや二つ滅んでもおかしくない。

 悪意に対して、彼らは敏感だと言う。

 同胞意識が非常に強い彼らは、同胞を守る為なら命などいとわない。

 そのきっかけは、些細なことであるかもしれない。たとえば、この少年のように。拉致されて売られてきたこの少年の身の上を、森の者が知ればどうなるか。

 女が懸念しているのは、きっとそのことに違いなかった。


 ***


 レックハルドは、歩いている間に何を自分が話したのか全く覚えていなかった。きっと自己紹介や何かもしたのだろうが、うまく思い出せない。

 何となく思い出せるのは、マリスの趣味が遠乗りだということと、彼女の家のものが彼女をあまりにも過保護にするので困っているということだった。

「あたしを大切にするあまり、お屋敷に近づいてくる人にすぐ弓矢を向けてしまうんです。この前は、泥棒さんが忍び込もうとしていたところを発見して、お父様ったら、毒矢なんか持ち出して、相手の方に向けたそうなんです。相手の方が気の毒で。あの毒は、猛獣も一滴で痺れるようなとんでもない毒だったので。大丈夫かしら」

(す、すいません。毒矢に打たれそうになったこそ泥の正体はオレです)

 思えばそのときにマリスを垣間見て、それから決意して、こうして堅気商売についているわけなので、毒矢には感謝しなければならないのかもしれない身の上の彼だった。しかし、当たってなくてよかったとレックハルドは、今更ながらにほっと胸をなでおろした。

「外への道はここをまっすぐです」

 レックハルドは、大任を終えて少しホッとしていたが、同時にものすごく名残惜しかった。本音を言えば、もうちょっとだけでもいいから、夢が長続きしてほしいと思った。しかし、ここで未練がましいのもずいぶんとかっこう悪い。

「じゃあ、オレはこれで」

 それでも、これ以上マリスと話せる理由がない。レックハルドは素直に引き下がることにした。

「あのっ」

 マリスがそれを引き止めた。

「もしよろしければ、お昼ご飯なんていかがでしょう? こんなにご親切に道を教えていただいたんですし、お話も楽しかったわ」

「いや、あの、でも……」

 今の彼には、ファルケンの存在など頭の隅にもない。ここで躊躇しているのは、単に事が上手く行き過ぎて、動揺しすぎてどうすれば良いのかわからなくなっているだけのことだ。

「遠慮なさることはないんですよ。あたしも、その方がうれしいですし」

 憧れの人からここまで言われれば、レックハルドにそれを断る理由などない。

「ご、ご一緒させていただきます!」

 レックハルドの顔は大概真っ赤になっていたが、どうやらマリスはそれにも気づいていないらしい。とんでもなく鈍感な娘なのだが、レックハルドは、彼女が鈍感なことすら気づかずに、相手に自分の想いが気づかれていないかどうかを、ひたすら心配していた。


*


 とっくに、昼の時刻はすぎていた。

 その場に座ったままのファルケンは、三角座りをしたまま、ずっとその場で待っていた。

 だが、レックハルドは帰る気配すらない。ファルケンは、横目で果物の入った麻袋を眺めた。かなり空腹だった。甘いサリエラの木の実を食べれば、さぞかしおいしいことだろう。

 ごくんと唾を飲み込み、ファルケンは首を横に振った。

(だめだ。レックがいないのに、オレだけ食べるなんてだめだ)

 ファルケンは、自分に言い聞かすと膝を抱えてため息をついた。

「レック。どこで何をしているんだろう? レックは何か食べてるのかなぁ」

 空腹の余り倒れていたりしたらどうしようか。と、まだファルケンはそんな心配をしてしまっていた。

 例の動く蔓が、ファルケンの足下に忍び寄っていた。彼が動く気配を見せないので、これ幸いと蔓は、ファルケンの右足に巻き付こうとし始めた。ファルケンにとって、その蔓草はさほどの脅威ではない。払う気にもならないので、そのままにしていたが――。

 不意に、それはびくりとして、草をがさがさいわせながら大急ぎで後退した。

 と、ファルケンは顔を上げる。蔓が逃げたのは、何かの気配を感じたからなのだ。

 唐突にざぁっと風がなり、森に囲まれた小さな草っ原を渡っていった。それにまじって、くすくすと笑う声が、ファルケンの耳に聞こえた。

「ロゥレン」

 ファルケンは立ち上がり、少し険しい顔つきになった。

 彼の見つめる先に、キラキラした小さな光が降ってきた。やがて、ピンクと黄色のグラデーションが描かれた、トンボの羽のような半透明の大きな羽が見えた。

「あはは。また、そんなところにいるわけ?」

 薄い色の金髪が流れ、獣のように毛の生えた長い耳が垂れ下がった美しい少女が現れた。

 長い耳が垂れ下がり、柔らかな獣の毛に覆われているのは、彼女が人間ではない証だ。羽を持っているのは、辺境の妖精だった。辺境の狼人と対をなす存在だ。

 妖精は、狼人と違っていわゆる魔法というものを得意とする。羽で飛翔することもできたが、羽が動いていないのはそれが魔力を固めて作ったものであるからで、その魔力で飛んでいるが為である。それゆえに、彼女たちは空中で容易に静止することができる。

 彼女は、小悪魔的に笑った。

「ファルケン、あんたってちょっと進歩ってものがないわねぇ」

「ロゥレン。何しに来たんだ?」

 その時も妖精のロゥレンは宙に浮いていたが、ファルケンのちょうど前で、たんと足音をたてて着地し、少し不機嫌そうな顔をした。

「なによ? その顔は?」

 ファルケンは、珍しく露骨に嫌そうな表情をしている。自分が歓迎されていないらしいことを知って、ロゥレンはムッとした。

「どうせ、また人間に嫌われたんでしょ? これで何度目よ? 大体、あんたみたいなのに、人間の友達なんて無理なのよ! あきらめたら? まぁ、辺境に戻ってくるなんてことも、あんたには無理だけどさ!」

「ロゥレンには関係ないだろ? それに、もしかしたら、戻ってくるかもしれない」

 ゆったりとはしていたが、ファルケンは少し反抗的な口調になっていた。

「戻って来やしないわよ!」

 ロゥレンは少しいらだったように言った。

「今まで戻ってきた人いないじゃない?」

「でも、レックは違うかもしれないだろ?」

「あの詐欺師っぽい商人でしょ? 今まで、あんたが仲良くなった人間の中でも最低の性格だと思うわよ、あれ。口先ばっかしで、ぜーったいに帰ってこないんだから。ああいう人間は、人間の中でも嫌われてる類なんだからね! ホント、馬鹿よね。あんた、騙されてるのよ」

 いつもおっとりしているファルケンだが、この時は即座に反応した。

「レックの悪口は言うなよ! レックは悪い奴じゃない!」

「どうしてわかるのよ?」

「とにかく、絶対悪い奴じゃない。オレにはわかるんだ! きっと、レックは戻ってくる! 何か、やむを得ない訳があったんだよ!」

 ファルケンが珍しく口答えするので、余計癪に障ったらしく、ロゥレンは厳しい口調でこういった。

「ふん。じゃあ、死ぬまで待ってれば! 絶対、あんた騙されてるんだから!」

 ロゥレンは吐き捨てると、またふわりと宙に舞った。そして、そのまま、わずかな光を放ちながら消えていった。

 ファルケンは、不機嫌に座り込んだ。ロゥレンはなぜか知らないが、いつもこういうときに現れて、彼に悪態をついて帰っていくのだ。気の長いファルケンも、この毎回のからかいには気を悪くしていた。

 なんだって、ロゥレンは自分に対して、こう絡んでくるのだろう? 自分が嫌いなら放っておけばいいだろう。

(大丈夫だ。きっと、レックは戻ってくる。)

 ファルケンは、自分にもう一度言い聞かせた。

 今回こそ、ロゥレンに「オレの言うとおりだったろ?」と得意げに言ってやりたかった。


 *


 結局、レックハルドは、マリスと一緒に昼をいただくことになり、夢のような時間を近くの町の料理店で過ごした。

 緊張しすぎて何を食べたのかも覚えていないし、味がどうだったかも覚えていない。

 今の彼には、そんなことを気遣う余裕など全くなかった。

 とはいえ、夢のようで幸せだったのは確かだ。

 話にしたって、何を話したのかわからないが、かなり盛り上がっていたらしく、マリスは楽しそうにしてくれた。


 彼が我に返ったとき、どういうわけかすでに空の太陽は、すっかり西に傾いていた。改めてそんなに時間が経っていたのかと驚いたものだ。

 その後、マリスを、彼女が泊まっているという宿まで送って、レックハルドはようやく、本当の大任を終えたのだった。

「今日は本当にありがとうございます。なんだか、買い物にまでつきあってもらってしまって。おまけに荷物まで持ってもらうなんて。なんだか、悪いわ」

(え! オレ、買い物につきあってたの? そういや、荷物が重いぞ)

 食事を食べた後の記憶があまりないらしいレックハルドは、抱えた荷物の重さでようやく、自分が買い物につきあっていたことを少しだけ思い出した。

「あ、あはは。いや、申し訳ないのはオレの方で……。本当に今日は楽しかったです!」

 深々と礼をしながら、レックハルドは笑いすぎてひきつってきた頬をまだ酷使する。

 今日は生まれてこの方、なかったぐらいに愛想笑いをしたような気がする。マリスを見ていると頬がゆるむということもあったが、彼女の話を聞き続けてずっとにこにこしているのは、さすがの彼にもきついことではあったようだ。

 何せ普段が普段。どちらかというと仏頂面なほうだから。

「そういえば、レックさんは、一人旅をしていらっしゃるんですか?」

 にこり、とほほえんでマリスがたずねた。レックハルドは頭に手を当てながら、にこにこ笑いながら応えた。

「いやぁ~、この前までそうだったんですが。最近、馬鹿な相棒ができまして、それで二人で……」

 そこまで言って、レックハルドは初めてファルケンのことを思い出した。

(そういや。あいつに何もいってこなかったな。すっかり遅くなっちまったが、大丈夫かな?)

 さすがに罪悪感を感じ、レックハルドの顔から笑みが消えた。一体、何時間ほったらかしただろう。さすがのファルケンも怒っているかもしれない。

「あの、マリスさん。オレ、ちょっと、これで。今日は、本当に楽しかったです。ありがとうございました」

 急いでいるような、レックハルドを見てマリスは心配そうな顔をした。

「何かお急ぎの用事がおありだったの?」

「いっ、いや、そんなんじゃないんです。すみません。また、どこかで会ったら……」

「ええ。その時は、またよろしくお願いしますね」

 マリスは、ほほえんで頭を下げた。レックハルドも同じように頭をさげ、そして、あわてて走り出した。

 斜陽を浴びて、赤く染まった町並みをレックハルドは、全力で走りぬけた。もともと、足の速いレックは、あっという間に街道の方に出た。ここから、辺境までは大した距離は無いはずである。

「やばいなぁ。夕方になっちまってるとは!」

 レックハルドは舌打ちをした。時の流れが自分でも把握できなかったので、別にわざとというわけではないのだ。しかし、さすがに後味が悪い。

「あいつ、さすがに怒ってるかなぁ。心配して、オレのこと探し回ったりしてないだろうな」

 ファルケンならそのくらいのことはする。辺境の中を探し回っていたりするかもしれないし、あの人の良さを考えると、きっと今頃ひどく心配しているに違いない。

 いきなり消えた自分が悪いのだから、今回ばかりは何を言われても仕方がないと思いながら、レックハルドは走った。

 辺境の森の中に足を踏み入れ、勘で方角をはかりながら、待ち合わせたあの草原を目指した。そんなに奥ではない。草が足を取りそうになり、少しつまずきながらも、レックハルドは懸命に走って、とうとう、あの草原までたどり着いた。

 さすがの彼も息がすっかり上がってしまっていて、レックハルドは、ゆっくり歩きながら徐々に息を整えた。同時に辺りを見回す。

 ファルケンの姿は、見あたらない。

「ファルケン! どこだよ!!」

 レックハルドは呼びかけてみた。しかし、返答はない。不安になって、あたりをよく見回しているうちに、自分がおいていった荷物が目に留まった。そちらに向かって走る。

 膝をついて、荷物を調べてみた。帳簿が丁寧に荷物の上に置かれていた。確か、これはあのとき、落としたままだったはずだ。

(書き置きぐらいしておけば良かった。)

 後悔の念が心を苦しめた。

 もっとも、レックハルドはファルケンが字を読めるかどうかを知らなかったので、書き置きが重要な役割を買ってくれていたかどうかはわからなかったが、それでも何かわかってくれたかもしれないのに。

 そばに見慣れぬ麻袋がおかれていた。レックハルドは、それを引き寄せて中身を確かめてみた。果物を中心に、食料が中に詰まっていた。到底、一人分とは思えない量だった。手をつけた気配はない。周りにも、果実の種や皮なども落ちていなかった。ここにある食べ物を、ファルケンは食べていないことになる。

「あいつ、昼飯食わずに待ってたんじゃないだろうな……」

 胸の奥がきりきり痛むような気がした。自分がマリスと夢のような時間を過ごしている間、きっとファルケンは独り、話し相手もなく、ここで待っていたに違いない。戻ってくるだろうレックハルドに気をつかって、食料にも手をつけないで。

 半日。彼はずっと自分を待っていたに違いなかった。

(オレ……、なんて事しちまったんだろう)

 レックハルドは、頭を抱えた。そんなつもりはなかったが、結果的に、自分はファルケンをひどい形で裏切ったことになる。

 それで、ファルケンの姿が見あたらないのは、なぜだろうか。

 怒ってどこかに行ってしまったのだろうか。それとも――。

「探さねえと!」

 レックハルドは、急に思い立って立ち上がった。謝るのは嫌いだったが、ここまでしてしまった自分がこのままでは許せなかった。

 ファルケンが行くとしたら辺境の奥しかない。レックハルドは、そう判断してかけだした。もう夜闇の迫る時刻、辺境の奥を歩くのは危険だとはわかっていた。森はすでに暗くなりはじめていて、レックハルドは、一応カンテラを携帯した。

「ファルケン! どこだよ!! オレが悪かったから、出てきてくれよ!! 謝るからさ! なあっ、どこだよ!!」

 深い森の中、迷わないようにとレックハルドは商品として持ってきていた色とりどりのリボンを大量につかんできていた。それを時折、木の枝に結びながら、彼はファルケンの名前を呼びながら、駆け回っていた。

 レックハルドの残した荷物だけが、草原の真ん中に残されていた。ふわりと風が吹き、少女が風に乗って現れると、荷物の上の帳簿がひらりと下に落ちた。

「へぇ……。戻ってきたんだ」

 少女は、馬鹿にしたような笑いを口に乗せた。

「変な奴……」

 少女は、ぽつりとつぶやいてにんまりと笑った。


 

 レックハルドがほうぼうを駆け回っていたころ、ファルケンは、近くの泉にいた。泉の水をすくって一口飲んでから、近くに生えている、辺境ブドウを一房ちぎり、それを無造作に口に入れた。

 もう夕食前の時間だというのに、ファルケンは朝食を食べただけだったので、かなり空腹だった。さすがにこれではキツいので、レックハルドには悪いとは思ったものの食料を探しに来たのだ。もしかしたら、何も食べていないかもしれないレックハルドに、心の中で申し訳なく思いながらも、ファルケンはブドウの甘い味に少し満足した。

(昼用の食べ物は、そのままおいてあるからいいよな、きっと。レックもこのぐらい許してくれる)

 そう自分に言い聞かせて、ファルケンはもう一房口に素早く入れた。自分がいないときにレックハルドが帰ってこないとも限らないので、急いで戻らなければならないのだ。

 なんとか腹をごまかした後、ファルケンは帰途につこうと思い、ブドウの汁で汚れた手をハンカチで拭いていた。

 その時森の奥の方で、ふと悲鳴が起こったような気がした。

 それは微かな声だったので、何の悲鳴かどうかはわからなかったが、何か嫌な予感がしたのだ。ぎくりとして、ファルケンはそちらの方に耳を澄ませる。

「はなせ! 来るな!」

 と、叫ぶ人間の声が微かに聞き取れた。そして、それは自分の知っている声だったので、ファルケンは飛び上がるほどに驚いた。

「レック!!」

 ファルケンは叫び、あわてて駆け出そうとした。その時――。

「もう無駄よ」

 冷たい声が割り込んだ。顔を上げる。上空のほうで、ロゥレンが笑っていた。

「ロゥレン! 何が無駄なんだよ!!」

 ファルケンはロゥレンの相手をするのも、もどかしげに早口に言った。

「だって、あの人、辺境狼に襲われてるのよ。あんたがいくら足が速くっても、きっとついた頃には――」

「何だって!!」

「まぁ、あんたを騙した報いって奴じゃないの? 人間は、こういうのを『因果応報』とかいうそうじゃない。辺境狼は、人間だろうとなんだろうと、無差別に餌って判断する獰猛な動物だから、まぁ、かわいそうだけど……」

「ロゥレン! お前、レックに何かしたな!!」

 きっとファルケンに睨みあげられ、ロゥレンも一瞬ビクリとした。

 ファルケンは同族の者にあるまじき、鋭い目をしている。彼の人格が穏やかなので、普段はわからないが、こういうときのファルケンは、恐ろしく思えた。

「あ、あたしはっ……」

 ロゥレンは、少しどもりながら言った。

「あたしは、あの人の前をふらふら飛んでただけよ! 別に何もしてないわよ!」

「辺境狼の群に出会うように誘導したんだろ! なんて事するんだよっ! レックに何かあったら、オレ、お前のこと許さないからな!!」

「ちが、違うわ! あたしは!」

 ロゥレンを無視して、ファルケンは走り始めた。

 後ろからロゥレンの声が飛んできた。

「何よ何よ! レックレックって! そんなに人間が大事なら、人間なんかつれて辺境に入んなきゃいいじゃないのよ!! 人間には辺境は過酷なんだからっ! わかってるじゃない、そんなこと! 馬鹿! あんたなんか、大ッ嫌い!!」

 当然、ファルケンの返答は無かった。

「あたしは、あんたが騙されてたから復讐してやっただけよ! 人間なんかと付き合うから、いっつも騙されて傷つけられるんじゃない! だから、あたしがあんたの代わりに……!」

 ロゥレンは感情に任せて喚いたが、もうファルケンの姿は見えなかった。

「どうせあたしなんかより、人間と話す方が楽しいんでしょ! 馬鹿!」

 ロゥレンは、なんだか寂しい気分だった。別に、自分はファルケンを怒らせようと思ってこんなことをしたわけではない。やられっぱなしの彼に代わって、人間を懲らしめてやろうと思っただけだ。それなのに、ファルケンは、人間ばかりかばって。

 いつもそうなのだ。ファルケンと別に喧嘩がしたいわけでもないのに、なぜか話すといつもこうなる。

「馬鹿、あんたなんか、大っ嫌い……」

 今度は小声でつぶやいて、ロゥレンは風に紛れながらふっと消えていった。


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