黒き狭間の騎士(2)
私が“王国騎士団副団長”としての表の顔と、“黒の御者”としての裏の顔を使い分けるようになってから数年が経った。
その頃になると、私は「王命には絶対服従」という家訓の意味をなんとなく理解しつつあった。
“黒の御者”は、迷ってはいけない。意義や意味を考えてはいけない。王に逆らってはいけない。
要は、自分の立場や精神を守るためのものなのだ。
王の権力は絶大であり、唯一であり、絶対である。バンフィールド王国の国王は五国の中でも一番の権勢を誇っている国の頂点であり、王に逆らうことなど許されていないし、うっかり抵抗しようものなら一気に家ごと没落するだろう。
また、王命に従っているという大義名分は、人を手にかける重みに気付かぬふりをするためには大切だった。よく「戦でたくさんの命を奪えば英雄だが、平常時に行えば大量虐殺者である」というが、それに近い心境なのだ。これは仕事であり、仕方がないこと。一瞬でも立ち止まってしまえば御者の仕事はできない。
対象者が貴族という特権階級の人間ということも大きかった。彼らは権力を持っている。だからこそ消される理由もあるし、それなりに悪事に手を染めていることも多いからだ。騎士としての自分は平民を守り、御者としての自分は不要な貴族を屠る。その範囲が重なっていないからこそ、なりえたのかもしれない。
──だが、無理を重ねた日々は、いつか終わりを迎えるものだ。
「あの、ありがとうございます。わたしはルチア・アルカと申します」
そう名乗った少女は、まっすぐな目をした普通の子だった。
アールタッド城を襲った魔物の脅威から、単身人々を救った英雄とは到底思えないほど、平凡な少女。初めての王の謁見に着ていくものがないと蒼褪めるほど、貴族とは無縁の存在だった。
彼女が平凡でない点はただひとつ。“シャボン”というおかしな魔法を使えたことだけだ。普段は洗濯にしか使ったことがないというその魔法は、実は王都を魔物から守るほどの威力を秘めていたのだ。
運命とは皮肉なものだと思う。
そんな凡庸な彼女が、何故聖女の旅に連れ出され、英雄の目に留まり、“浄化を果たしたもう一人の聖女”として王都に戻ってくるのか。
“竜殺しの英雄”とさえ結ばれなければ、浄化をしたという事実を伏せて、また以前の生活に戻れただろう。黙って報奨を受け取り、王の命に従って身を引けば、悠々と幸せに暮らせただろう。
だが、彼女はまっすぐな目を曇らせることもなく、王の命を撥ね退けた。
悲劇の始まりは、たったひとつの想い。
譲れないひとつの想いが、彼女の運命を決め、私の運命さえも決めた。
「フロリード、“黒の馬車”を用意せよ」
その合図が、これほど重く聞こえたのは、初めて馬車を牽いたあの日以来だった。