第一話 「カメラ・オブスクラ」 ①
第一話 -カメラ・オブスクラー
Camera Obscura それは5年ほど前、突如として現れ爆発的に世界中へと広まった仮想空間の名称である。カメラオブスクラには2つの意味がある。ひとつはラテン語で「暗い部屋」もうひとつは写真の原理による投影像を得る装置のことをいう。この仮想空間「Camera Obscura」通称C・Oを広めたと言われているジョージ・フィッシャーが言うにはこれはカール・グスタフ・ユングが提唱していた集合的無意識の具現化なのだそうだ。その名が示す通り最初こそひとつの「暗い部屋」であったC・Oは、多種多様な用途をもって利用された。医療、政治、教育、音楽、美術、軍事、ありとあらゆる分野でだ。そして今もなお、世界の端がわからないほどにC・Oは拡張し続けている。
そんなC・Oの一画、日本エリアの片隅に「八咫烏の家」はある。ビジュアルとしては鬱蒼とした森の中、いかにもな雰囲気で存在する洋館の形をとっている。ここに入るにはメンバーの紹介が必要とされ、存在を知っているだけでは入ることはかなわない。とはいっても中身はただの暇で趣味の偏った人間が集まっているだけにすぎないのだが。
イノウエはここ「八咫烏の家」のメンバーである。この小さなコミュニティから物語は始まったのだ。
「イノウエ、面白いことないの?」
口を開いたのは小太りの男だ。リビングの中央、猫足の3人掛けのソファに浅く腰掛け、片手には湯気の立つティーカップが握られている。
「今、何時だと思ってるんですか」
イノウエは小太りの男の右斜め後方。窓際の椅子に腰掛け手帳とにらめっこを続けながら答えた。
「んー、2時27分」
「夜中じゃないですか」
「夜中だけど、暇なんだよ」
季節は夏、曜日は水曜、時刻は丑三つ時である。世の中の人間の大半が布団の中で寝息を立てている。
「あのね、八咫烏さん。俺は明日も仕事なんですよ」
その言葉に小太りの男、この部屋の主でもある八咫烏が初めてイノウエの方を首だけ曲げるようにして見やった。
「でも昼からじゃん?」
「どうして僕のスケジュールを把握してるんですかね」
「こんな時間にここにいるのが何よりの証拠」
イノウエはため息をひとつつくと、手帳から顔を上げ、テーブルに置いてある紙巻煙草に手を伸ばす。
「この世界の煙草ってのは偉大だよねーこれがあるだけでこっちにくる意味があるよね」
八咫烏が笑う。彼の笑顔には不思議な魅力がある。人を惹きつける少年のような笑み。イノウエは黙って女神像型の卓上オイルライターで火をつける。
「まぁここだと誰の迷惑にもならず、後ろ指さされることもない。おまけに臭いも自由に調整できますからね」
「俺は昔ながらの煙草の煙、嫌いじゃないんだけどね」
「まぁわからんでもないですね」
八咫烏の家のメンバーは7人。最盛期は30人を越えていたが今ではたったの7人だ。が、それも当然といえるだろう。八咫烏の家には現在、明確な目的がないのだ。残っているのは創設当初からのメンバーや現実世界でも交流がある人間が殆ど。そうでもないのが2人ほど混ざってはいるが。
「そういえば、今日、妙な噂を聞きましたよ」
「お、さすがイノウエちゃん。もってるじゃない」
「……面白いかどうかは知りませんがね」
「まぁいいから話してよ」
「ゴースト。出たらしいですよ。霧雲公園で」
手元のティーカップを傾けながら八咫烏。
「ゴースト…。ようはバグってことでしょ?」
「世間一般では」
「そうじゃないと」
「そんなの知りませんが、えらい美人だって話です」
八咫烏が立ち上がる。勢いがあったために座っていたソファが少しずれるほど。
「行こう」
「……今からですか」
「話し始める前からこうなることはわかってたんだろ?」
「まぁ付き合い長いですし」
なんだかんだ嫌いじゃない。イノウエも暇なのだ。なにをするにも少し格好つけてみたくなるのが男というものだろう。一説によると男が本当に大人になるのは40才を過ぎてかららしい。