プロローグ
ごう。ごう。
走行距離10万Kmオーバーの3ナンバーの白いバン。その助手席の開いた窓から隙間風が入り込む。車内のデジタル時計は「1:26」。ひび割れたアスファルトがろくに補修もされていないような古い湾岸道路をひたすらに走っていた。辺りは霧が立ち込めハイビームで照らしても視界は開けず、思うようにスピードは出せない。気持ちだけが焦る。
失敗だった。まったく27歳にもなって何をしているのだろう。年甲斐もなくわくわくして、後には引けなくなって、ついには超えちゃならない一線を越えた。
がさり。
後部座席に積んである大きな黒いビニール袋。それが緩やかなカーブを曲がるたびに遠心力に引っ張られ音を立てる。
8月の中旬。深夜とはいえまだまだ暑い時期だが、車内の冷房はまだまだ現役だ。快適な温度を提供してくれている。それだというのに額からはじんわりと汗をかき、シャツは身体に張り付いてしまっている。もう何度目かわからないため息とともに煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
思い返せばいつもそうだった気がする。学生時代も会社に勤めるようになってからも、引くくじはいつも決まって「はずれ」だ。運がないというよりはなるべくしてなっているのだろう。結果には過程ががあり、結果は過程の延長線上だ。引いたくじを活かすも殺すも自分次第。うまくやる奴ならうまくやるのだろう。……でも、これは「はずれ」だ。断言できる。
手元の小さな液晶画面に目を見やると「43°01'53.6"N 141°17'53.0"E」の文字。コーヒーを飲もうと左手を伸ばしたが既に空になっている。ため息は時間の経過とともに深くなる。もうすぐだ。
湾岸道路から街を抜け、暗い山道に入った。ぐねぐねとしたRのきついカーブを何度も曲がり、目的地を前にしてトラックが道を塞ぐように止まっているのが目に入る。どうやらここからは徒歩のようだ。白いバンを路肩に止め、ペンライトを片手にトラックの脇を横切る。近くで見るとそのトラックにはあちこちに錆びがあり、もう長い間そこに鎮座していることを示しているようだった。
夏の山の中だ、普通であれば虫がうるさいくらいでもいいのに、その日は何故だか異様な静寂に包まれ、そして、そこで出会った彼女は異様に美しかった。
「やぁ」
宝石をちりばめたような都市の光が眼下に広がり、西の空には夏の大三角形が輝き、天の川は光量を増している。その世界の中心に彼女はいた。暗闇をそこだけ切り取ったかのような白い肌。流れるような長い黒髪は絹糸のよう。少しつり上がった大きな目は暗闇の中はっきりと意思を感じさせた。白のワンピースから伸びるすらりと長い手足は病的に細く見えたが、その立ち姿からは妙な力強さを感じる。
「君がイノウエ?」
声をかけられているのに数瞬反応が遅れた。あわてて声を返す。
「……あ、ああ。そっちはカヤかい?」
「うん」
頷き。
「では行こうか」
言いながら彼女、カヤが近づいてくる。足元に広がるラベンダーを意にも介さずまっすぐに。ラベンダーの匂いが強く香ってくる。イノウエはもう何も言うことが出来なかった。彼女の存在が現実とあまりにかけ離れたように見えたからだ。そうしている間にカヤは目と鼻の先ほどの距離まで近づいていた。
「どうしたんだい。時間は有限で貴重なんだ。特に若い時間はね」
唇を薄く歪め笑う。嗤うと表現したほうがよいかもしれない。
「……そうかもな」
なんなのだろうか。イノウエは思う。やはり「はずれ」だ。嫌な予感しかしないのだから。