終章 現実世界
終章 現実世界
目が覚めると、視界の向こうに広がっていた景色は、眠る前とはまったく異なったものだった。やはりその前後で見える景色が変わるというのは、時々あることのようだ。
そんなことはどうでもよくて、視界を巡らせて周囲を確認すると、そこには無機質な白の風景が広がっていた。どうやら僕は病院のベッドに寝かされていたようだった。
隣のベッドにはアスカが眠っている。
とりあえずベッドから腰を下ろすと、その気配に気づいたアスカが目を開けてこちらを見てきた。
「おはよう」
立ち上がってアスカに挨拶しようとすると、寝たきりだったせいか、足元がふらついた。自分の体だというのに、自分の体じゃないような不自由さを感じる。
「おはよう。まだ安静にしてなさい」
呆れの混じった声音で僕の挨拶に返してくるアスカ。
「うんそうするよ。体が思うように動かなくてびっくり」
「当たり前よ。一度殺されてるんだから」
「それもそうだね」
そう言って、僕は苦笑した。
「帰ってきたんだね」
自分の世界の空気を感じるように、全身を使って息を吸い込んだ。
「ええそうね。それじゃあ、形式に過ぎないけどいちおう言っておきましょうか」
一旦言葉を句切って、アスカはベッドから身体を起こし、こちらに正面を向ける。
「おかえりなさい」
「うん、ただいま」
そんな昼下がりのやりとり。窓の外から差し込む太陽が僕らを照らしていた。
それから他愛のない話を二人で続けた。病院という非日常的な空間で、僕らはとても日常的な会話をした。
ついさっきまで、魔法が存在する世界に身を置いていたなんて嘘だったかのように、そのときの僕たちは日常の中に身を置いていた。
その後、何度か検査をし、検査の結果以上が見当たらなかったということだったので、僕は数日のうちに退院することができた。
アスカのほうは一足先に退院を済ましたせいで、僕は一日だけ孤独の病室で過ごすことになった。
無事退院の手続きを済まし病院から帰るとき、すでに夜になっており、あたりは闇に包まれていた。
大通り街灯もあって明るいし人がたくさん行き来も激しいが、そこから通りの中に入ってしまうと照らす明かりは月明かりのみで人の気配もめっきり感じなくなる。
一度痛い目にあっているので、周囲を警戒しながら歩いていると、僕の部屋があるアパートの近くの電信柱にもたれかかるようにして、ひとつの人影が佇んでいた。
一瞬、体が無意識に硬直してしまうが、すぐさまその人影のシルエットが、僕を襲った通り魔のものではなく、少女のものだと気づいて弛緩する。
そしてさらに近づくとその人影が顔見知りであることに気づいて話しかけた。
「こんなところでどうしたのマリヤ」
「こんばんは。今日はユウヤの様子を確かめに来た」
ぺこりと頭を下げるマリヤに対して、僕も小さく頭を垂れた。そういえば、「こんばんは」ってちゃんと挨拶できるようになったんだね。
「こっちに戻ってきて調子はどう?」
「まあ、特にこれといったことははないかな……。ちょっと寝たきりだったから、運動不足なのは否めないけど、問題はなし」
「それなら良かった。ただ今日の本題はこれから。あなたに一つ忠告するためにやってきた」
真剣なマリヤの表情に、僕は思わず唾を飲み込んだ。
「あなたはナナに会うためにあの世界にもう一度行きたいと思っているかもしれない。だけど、それはできない相談。それだけは覚えておいて。それと、あなたがこの世界に戻るとき、懸念していたことなんだけれど――」
おそらくはナナとお揃いのナイフのことだろう。
こっちの世界に戻ってきてすぐに、自分の手持ちを探ったがそれらしいものは見つからなかった。
「それなら、あなたの部屋に置いて来た。だから安心して」
「そっか、よかった……。あれ? っていうか、どうやって僕の部屋に入ったのさ」
「それは秘密」
僕の言葉を受け流すように顔を逸らすマリヤ。
「まあいいや。それもマリヤだから、で納得できちゃうしね。それよりもさ、ずっと気になってたんだけど、マリヤって何者なの? サマンサもイヴもマリヤのことを知っていたみたいだし」
言うと、マリヤは表情を変えないまま思案するように少し間を置いた。
「私はとにかく有名人。この世界でいうアイドルみたいな存在。だから私の顔と名前を知っている人は様々な世界にいる」
アイドルって聞いて、マリヤがマイクを持ってステージで歌っている姿を想像してしまった。
寡黙で綺麗な黒髪の十歳位の女の子。なんか、熱狂的なファンとか付きそうだな。
「それだけ? 用事がないならもう行く」
「それだけかな……」
「そう。じゃあユウヤ、元気で。きっともう会うことはないでしょう」
言葉を残し、マリヤはふっと姿を消した。まるではじめからその場には何もいなかったかのように……。
少女の気配を感じながら、僕はマリヤが立っていた電信柱の横を通り、自室へと向かう。
「ただいま」
その言葉に返事があるはずもない。当たり前なんだけど。
一人暮らしということで、この部屋には僕以外は誰も住んでいない。
小さな寂しさを感じながら、なんとなく台所へと向かった。掃除は得意なほうではないけれど、そもそも料理自体ほとんどしていないので、台所は綺麗に片づいている。というよりは何もないというほうが正しいかもしれない。
ただそんなキッチンの上に一つの包丁が無造作に置かれていた。いや包丁というよりはナイフだろう。
「あはは、あった!」
それはナナに上げたナイフとまったく同じものだった。
確かにマリヤの言うとおり、世界の行き来はもうできないのかもしれない。それでもこのナイフがいずれきっと、僕とナナを引き合わせてくれる。
安心したところで眠くなってきた。やはり体力が落ちているのかもしれない。
僕は穏やかな気持ちを抱えてベッドに沈み込んだ。
翌朝、朝というよりはすでに昼に近い時間帯に目を覚ますと、僕はこれといった目的もなく出かけた。
三月の末、桜が咲き始めている枝を眺めながらぶらぶらと歩いていた。
まだ引っ越して間もないせいか、近所を散歩していても見たことのない景色にたびたび遭遇して、なんだか新鮮な気持ちだった。
四月になると新しい生活が始まる。そんな生活に期待と不安を抱きながら、周囲を歩いていた。けれど、昨日まで自分が経験した事に比べれば。これからはの新生活に対する不安なんてとても些細なものに思える。
遊歩道では時々、僕と同じような若者とすれ違ったりもしたが、基本的には年老いた老人たちばかりが目に付いた。
遊歩道の先にあった小さな公園へと入り、近くのベンチニコ師をかける。太陽が眩しく僕を照らしている。その光がとても心地よい。
そんな心地よさに身を浸していると、いつの間にか二時間ばかりが過ぎ、お腹が鳴ってきた。思い返せば目が覚めてすぐに家を出てしまったせいで、朝食を食べるのを忘れていた。
「お腹減ってきたな」
思い立つと同時にベンチから勢いよく立ち上がり、公園を後にする。
公園から出たところで、何を食べようかと考えていると、背後から肩を叩かれた。
「あの~」
どこかであるような間延びした声が耳に入ると同時に振り返ると、そこにはひとりの少女が立っていた。
「これ、ベンチの近くで落としましたよ」
彼女の手に握りしめられているのは僕の財布だった。慌ててポケットを探ると、そこにあるはずの財布はなく、どうやら立ち上がったときに落としたみたいだ。
彼女の顔を認識した衝撃で、僕はほとんど上の空の状態で礼を言った。
「あ、ありがとう」
僕が彼女から財布を受け取ると、善行を成し遂げた彼女は心底嬉しそうな顔をしていた。
「それじゃあ、私はこれで――」
「ちょ、ちょっと待って!」
背中を向けてさって行く彼女を呼び止めると、少女は首を傾げてきょとんとした顔で振り返った。
僕はそのときに彼女の姿を改めて拝見した。
服装は長袖の黒いシャツに、膝丈くらいの長さのスカート。これといって記述するような特徴はない。よく見かける平凡な女子高生の出で立ちだった。
問題は彼女の容姿である。まじまじと彼女の顔を眺めて、さらに僕の思考が混乱する。
年の項は十五、六くらいだろうか。少し丸みを帯びた感じの僕よりも少し幼い顔立ちに、髪は炎のように真っ赤に染まっていて、肩口くらいまでの長さだった。
突然呼び止められたことにも、不快感を示しているというよりは、ただ呼び止められる理由が思い浮かばず、呼び止められたことに対して単純に疑問に思っているだけのようだ。
「僕は二葉勇也。キミの名前は?」
後から考えると、相手の警戒を強めるだけの不用意な問いかけだったと思う。普段の僕だったら、知らない女の子にこんなふうに声を掛けたりしないだろう。
だけどここで何もなく彼女と別れてしまえば、僕は一生後悔すると思ったから、聞かずにはいられなかった。
「私ですか?」
だが少女は警戒した様子も見せずに屈託のない笑顔を浮かべた。
「私の名前は三ツ矢奈々(みつやなな)って言います」
――ナナと同じ顔をした少女は、まっすぐに僕の顔を見つめて答えた。
とりあえずこれにて一区切りです。続きについてはぼんやりと考えてはいる程度なので、どうなるのかは自分でもわかりません。
ここまで目を通して下さり本当にありがとうございます。長々と語っても仕方がないので、このへんで失礼します。




