九
徹の熱は翌日には下がっていた。
夕食時には、昨日は寝ぼけていたのかもしれないな、と思いつつ幸恵が作った唐揚げをぺろりと食べて皆を驚かせた。
食べなくなった理由もわからなければ食べるようになった理由も誰にもわからない。
「どぉいう心境の変化?」
おどけて栞が尋ねたが、徹はふふふ、と笑うだけだった。
久しぶりだ、と栞は思う。そう思うくらい徹の自然な笑顔は久しぶりだった。
「お母さん、リュックどこだっけ?」
夕飯が終るとふいに徹がたずねた。
「リュック? そっか、本は重たいからバッグよりリュックの方がいいかもね」
納得、という顔で幸恵は押入れの天袋からリュックを取り出す。
「あとね、水筒」
「水筒? 大袈裟ね、図書館に行くだけでしょ」
幸恵は取り合わない。徹が困ってもぞもぞしていると、廊下から栞が手招きした。
「これ、使いな」
自分の部屋に入った栞がプラスチックの水筒を投げてよこす。徹は慌てて手を伸ばす。掴み損ねた水筒はお手玉のように手の上で2・3回回転してから徹の手の中に納まった。
「ナイスキャーッチ」
栞は微笑むとドアを閉めた。
「ありがとう」
聞こえるように大きな声で徹は言う。
「どういたしまして」
聞こえないように栞は小さな声で言う。少し考えるように首を傾げてからドアを開ける。思ったとおり、徹はまだそこに居た。
「ね、なんで鶏肉食べることにしたの?」
徹はすこし考える。
「……なりたいから」
何に? 誰に? どんな風に? 聞き取れなかった言葉を栞は聞き返さなかった。何があったのかはわからない、わからないけどこれは何かきっといい変化なんだ、と栞は思った。
「おばあちゃん、ぼく今日ちょっとお昼に遅れるかもしれない」
翌日の朝、忙しそうに洗い物する母の目と耳を避けて徹はキヨに言った。
「まあ、徹ちゃんはお出かけ? 冒険かな?」
キヨは徹の背中のリュックを指差して声を潜めて聞き返す。
「ヒミツ」
徹が言うと、キヨはリュックを指していた指を口に当て頷いた。
「いってきます」
小声で言うと徹はそっと廊下に出ると音を立てないように玄関へ向かい靴を履いた。入念に何度も靴紐を結びなおす。
おとといびしょぬれになった靴は8月の太陽がすっかり乾かしていてくれた。 玄関を音を立てないように開けてスルリと出ると、また細心の注意を払って閉めた。
朝の空気はまだ幾分か涼しさを残していたが、太陽は確実に町からそれを奪いつつあった。
出勤に向かうのであろう車の数はピークの時間を過ぎているとはいえ、昼間はほとんど通らないことを考えるとまだ多い。
外に出て数分も経たないうちに徹の目には走ってくるアナザーさんがうつった。
アナザーさんは徹を一瞥もせずに通り過ぎていく。
徹はちらりと時計を見て「七時四八分」と言うと背負ったリュックの肩紐を掴むと追いかけだした。
リュックの中では、水筒・お菓子・雨合羽・タオルが踊っている。手ぶらだったおとといより早い地点で徹はアナザーさんを見失ってしまった。
歩いたり走ったり水筒の水を飲んだりしながら徹は三叉路にたどり着いた。腕に巻いたデジタル時計を見る。
「十一時ニニ分」
つぶやくと座り込み、リュックから真新しいノートを取り出して二つの時間を書き付けた。チラチラと時計を見ながらお菓子を食べる。
フウ、とため息をつくと徹は周りを見渡した。うるさいほどに鳴いているセミとは対照的なほど、他の音は何も聞こえない。
「十一時五二分」
また時計に目をやってノートに書き付ける。立ち上がると一瞬空を見上げてから来た道を走って戻り始めた。
しばらく走ると後ろから足音が聞こえて徹は振り返った。アナザーさんが走ってくる。徹は立ち止まって時計を見る。アナザーさんは相変わらず徹などいないように走り去った。
「え?」
徹は時計から顔を上げた。「帽子」と聞こえた気がした。
首を捻るとノートを取り出して書き付ける。
「十二時二六分」