六
「仕方ないのよ」
幸恵は言った。
「おばあちゃんにはあの家は広すぎるし、第一不便でしょう?」
キヨは久志の亡くなったあと徹の家に同居することが決まった。キヨは一人で大丈夫だと言ったのだが、珍しく幸恵が一歩も引かなかったのだ。来週末には引っ越してくることになっている。
長らく押入れにしていた部屋の整理をしながら幸恵は続ける。
「この家ではピーちゃんを飼うことは出来ないの。アナザーさんが貰ってくれなかったらどうしようもなかったのよ?」
よいしょ、と衣装ケースを廊下に押しやりながら言うと徹はぎゅっと口を結んで俯いてしまった。
アナザーさん、といのは幸恵の実家のある坂の並びの一番上の家に長いこと一人で住んでいる老人で、苗字を穴沢という。
下の名前を知っているのはおそらく区長くらいのものだろう。ほとんど誰とも話をせず、毎朝どこかへランニングで走っていき、お昼をだいぶ回った頃にやはり走って帰ってくる。
どこかで学校の先生だったらしいとか、もう80歳を過ぎているらしい……などと噂になることも時々あるが、ああ、今日も穴沢さんが走ってるな、と見かけた町の人が思うだけだ。
どのような経緯があったのか、その穴沢さんにピーちゃんを引き取ってもらうことになった、と祖母から連絡があってから今までずっと徹はごね続けていたのだ。
子どもたちの間でもアナザーさんは有名だった。
真冬でもランニングと短パンで走る老人はかなり目立つ。しかしその噂は大人たちのものとは違って面白おかしく捻じ曲げられている。
うっかり話しかけた子供が家まで走ってついてこられたとか、夜はもっとすごいスピードで走っていて車だったのに追い抜かれただとか、ほとんど妖怪扱いである。
子供たちのほとんどはアナザーさんが穴沢という苗字であることを知らない。このアナザーさんという呼び名も穴沢老人の妖怪化に一役買っているようで、例えば口裂け女や人面犬のようにアナザーさんのことも得体の知れない怖いもの、気味の悪いものとして恐れている。
アナザーさんを追いかけた、などは男の子たちの格好の武勇伝になった。
「この話はお終い。そっちもって徹」
幸恵がハンガーパイプの片方を持って呼びかけると仕方なさそうに反対側を持つ。
「おばあちゃん来るの、楽しみね」
「……うん」
「週末暇になるわね、ソフトボール、今度見に行ってみる?」
「……いかない」
ふう、幸恵はため息をついた。
キヨが引っ越してきても生活はほとんど変わらなかった。気を使う性格であるキヨは隆が出社するまでは部屋から出てこなかったし、帰る前には夕飯を済ませて部屋に引き上げる。
徹は穏やかで何かを押し付けたりしないこの祖母にとても懐いていたが、冬休みになると祖母の部屋に入り浸り昔の話などを聞きたがった。
年末が近づきソフトボールチームの練習が休みになると健介と真人は以前のように徹も遊びに誘うようになり幸恵を安心させた。毎朝、早いうちに真っ赤な頬で迎えに来る。
その日は公園に遊びに来ていた。
流行の携帯ゲームの新作が発売されたが、健介の父はゲームを良しとしないので彼の休日は家ではゲームができないからだ。
徹は携帯ゲームを持っていない。健介がときおり「やる?」と声をかけるが首を横にふっていた。陽射しがあるとはいえ十二月末の早朝はかなり寒かった。キョロキョロしているとアナザーさんが走ってくるのが目に入った。
「……アナザーさんだ」
小さい声で徹がつぶやくと健介と真人も顔を上げてそちらを見る。
「アナザーさーん!」
いきなり健介が大きな声をあげたので徹も真人も驚いて健介の顔を見た。
「ピーちゃん元気ですかー!」
健介が更に大きな声で続けたがアナザーさんは気がつかないのか気がつかないふりをしているのかそのまま三人の横を通り過ぎる。
健介はむっとした顔をしてアナザーさんを追って走り出した。徹も真人も慌てて後を追う。
「ねー! ピーちゃん元気ですかー!ねー!アナザーさん!」
健介が繰り返すのを真似て真人も徹も叫んだ。叫びながら走った。
「アナザーさん! アナザーさん! アナザーさん! アナザーさん!」
前を走っていたアナザーさんが急に足を止める。合わせて止まった健介の背中にぶつかりそうになって真人が止まり、すこしたって徹が到着する。
「ついてくんな」
振り返ったアナザーさんの老人とは思えない大声に3人の首が一瞬縮こまる。
「ピーちゃん元気ですか!」
びびっている、と思われたくない健介も意地になって大声で聞き返す。
ハアハアと白い息を吐きながら自分を見ている3人の子どもを眺めていたアナザーさんの視線が徹の前で止まった。
「ニワトリか?」
こっくりと徹は頷いた。
「ニワトリは食った」
当たり前だ、というように言い残すとアナザーさんは何事もなかったようにまた走り出した。
その日から徹は一切鶏肉を食べなくなった。