五
ピーちゃんが幸恵の実家に預けられてから一年が経った。
それから休日には幸恵の実家に行ってピーちゃんの世話をするのが徹の習慣となっている。
4年生になると同時に野球少年だった健介の父は健介をソフトボールのチームに入れた。つられるように真人も入ったため、徹と二人は学校では話すが放課後や休日に遊ぶことが少なくなった。
心配した幸恵はソフトのチームに入る?とかなりしつこく誘ったが本人に全くやる気がないのだからしかたがない。
昨年末に体調を崩した徹の祖父の久志が、最後は自宅でと言う本人の希望で治療を諦めこの夏から自宅療養するようになると、毎週末に徹が訪問してくれることが祖母のキヨにとって少ない楽しみとなり幸恵もソフトボールをさせることを諦めたのだった。
栞は中学生になりソフトボール部に入った。長かった髪をばっさり切って真っ黒に日焼けをしている。毎年県大会出場は当たり前の強豪校の練習は厳しく、毎週土日もほぼ毎日練習で、今日も練習試合で隣の県まで遠征し、付き合いで隆が車を出していた。
今週末も徹と幸恵だけで実家を訪ねていた。
「おじいちゃんの調子どう?」
何気ない口調で幸恵はキヨに問いかけた。
「そうねえ、ご飯もほとんど食べないし散歩も行きたがらなくなってしまって・・・でもおじいちゃん気持ちはしゃんとしてるから大丈夫よ」
キヨは明るい声を出す。
幸恵はやっと四十になったところだが、キヨはもう七十五になる。
望まれて望まれて生まれてきた幸恵はキヨの愛情を一身に受けて育ったことを自覚している。
「そう、よかった」
今だって気をつかわせまいと強がっているに違いないのに、その優しさに気がつかないふりをした。本当はしばらくこちらに住みたいが・・・きっと隆はいい顔をしないだろう、一人娘なのに家を出てしまった事に幸恵は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「今日は徹と夕飯まで居られるから」
言い訳のように聞こえるわ、と幸恵は思った。
奥の間の座椅子に座った久志がコンコンと悪い咳をする。
六十年もタバコを吸い続けた久志の肺にできた悪いものは既にリンパ腺から脳へと広がっており、夏の時点での医者の見立てではもって三ヶ月と言うことだった。
キヨより五つ年上の久志は昔ながらの考え方をする人で、幸恵には優しく声をかけられたり頭を撫でられたりした記憶が何もない。
こんなときでさえ途方にくれたような視線を向けるだけで声のかけ方がわからなかった。
庭では徹が黙々とピーちゃんの小屋を掃除していた。ピーちゃんはよく懐いている……ということはなかったが徹に対して攻撃などもしない。
溢れるように咲いているコスモスを背景にただ黙って悠々と掃除をする徹を見ている姿は「苦しゅうない、大儀である」とでも言っているように見えて幸恵は苦笑した。
久志の容態が急変したのはそれから間もない秋の終わりだった。
一度落ちた体調は戻らず、布団から自力で起きられなくなってからたったの一週間であっけなく逝ってしまった。
幸恵は一人っ子で、久志とキヨの兄弟もほとんどが亡くなっていたので、通夜も式も気のおけない親戚だけで質素に行われた。
納棺の時に徹がおかしなことを言い出した。
「おじいちゃんね、ウソついたんだよ」
と花を棺に入れる。
「ウソ?」
幸恵が聞き返す。
「うん。おじいちゃん、お花あげたら、いらねえっていったの。花なんか男らしくねえって。だから踊らなかったのにね」
徹は年齢よりも幼い喋り方をする。一瞬なんのことだかわからなかった幸恵だが幼稚園のクリスマス会のことだわ、と思い当たった。
「そうだったの」
なるほどこの人が犯人だったか。そういえばあの時は珍しくクリスマス会を見にきたんだっけ……
遠い記憶を思い出すように幸恵は目を細めた。
「おじいちゃんはうそつきだからねえ。徹ちゃんのお母さんが生まれたときもね。なあんだ、女かよって。でも次の日にコスモスを庭中に植えたんだよ」
キヨは懐かしそうに盛りが終って花も小さくなったコスモスがまだ数輪風に揺れている庭に目をやった。
「うん、うそつきだったよ。せっかくじいちゃん見に行ったのになんで踊らねえんだ、って言うんだもん」
その場に居た全員が笑った。笑いながら目が小さく濡れて光っている。
幸恵は「幸せに恵まれるように」と名づけてくれた久志の穏やかな顔をもう一度見つめた。自分の為にコスモスを植えたという父親を。
「ありがとう、お父さん」
生きている間に言えたらよかったのだろうか。いいや、と幸恵は思う。きっとこれで良かったんだわ、ね、お父さん。
栞と徹がコスモスを棺に入れようと庭先に出るとピーちゃんが昼過ぎだというのに
「コケコッコー」
といつもより一段と大きな声で鳴いた。
「あらあらピーちゃんもありがとうだってよ、おじいちゃん」
また皆が笑った。そして皆で泣いた。