十
あの日から、徹とアナザーさんのおかしな追いかけっこは続いている。
アナザーさんは毎朝ほぼ同じ時間に走ってくるが、徹を追い抜く時間はまちまちだった。
徹はリュックの肩紐に二本の紐を通して、胸の前とお腹の辺りで結んでリュックがグラグラしないようにすると走りやすいことに気がついた。リュックの中身の詰め方でも走りやすさに違いがあることも知り、試行錯誤の上納得いく配置になっている。帽子もかぶるようになっていた。
キヨがそっとおにぎりをもたせてくれるので、帰り道にお腹がぐうぐうなる事もなくなっている。
少しづつ歩くよりも走る距離が長くなり、三叉路に到着する時間はいくらか早くなっているが、アナザーさんがどちらに曲がるかまではまだ確認できずにいた。早く出て待ち構えればいいようなものだが徹はそれをしなかった。
アナザーさんとは相変わらず会話も何もない。2学期が始まろうとしていた。
「おはよう」
徹は誰に言うともなく小さな声で言って教室に入ったが、聞こえたものか聞こえないものか話しかけてくるものは誰も居なかった。
学期が変わったら何か変わるかもしれない、という徹の小さな希望は見事に消え去った。
放課後になると徹は誰よりも早く校門を出た。ランドセルをかたかたと鳴らして走って帰る。いつものリュックを背負うと、夏休みに毎日向かっていた方向とは逆方向に徹は走りだした。
いつも車だったとはいえ一年前には毎週通った道なので、迷うことなく母の実家にたどり着いた。ひと夏中走っていた徹は、母の実家が驚くほど近かったことに気がついた。
目に馴染んだはずのその家は、締め切った雨戸のせいか雑草が伸びすぎている庭のせいか……妙によそよそしく徹の目に映った。
坂に並んだ数軒の家から少し離れた坂の上に穴沢という木の表札のかかった平屋建ての家があった。そこで坂道は途切れており、竹の生い茂った崖となっている。
「穴沢……」
徹はつぶやく。家は垣根で囲まれていたが、ところどころ枯れていて家の様子が透けて見えるので、大きな隙間を見つけて徹は座って覗き込んだ。今ではあまり見なくなった土壁の平屋の家で、トイレとお風呂は別棟になっている。
数秒も経たないうち、徹の目はある一転に釘付けになった。木箱に緑色の金網を貼った粗末な小屋の中にいるのは、白いニワトリだった。
人の気配をかんじたのかアナザーさんが掃きだし窓を開けて顔を出した。徹はかがんだ姿勢のまま垣根に隠れて後ろ向きに進み、垣根のなくなったところで坂を下って走り出す。背中をアナザーさんが見つめていた。
次の日も、徹は学校が終るとまっすぐアナザーさんの家に向かった。途中、歩いてくるアナザーさんを見かけて驚いて路地裏に隠れた。通り過ぎたアナザーさんを路地裏から目で追うと小さなスーパーへ入っていった。
徹は全速力で走って息を切らせてアナザーさん宅の庭に入り込んだ。昨日、遠目ではピーちゃんかどうか確信が持てなかったが、鳥小屋の中に居るニワトリは間違いなくピーちゃんであった。
「ピーちゃん」
ピーちゃん好物のピーナッツをポケットから取り出すと、金網のスキマから中に落す。
小屋の中は徹が一週間に一度掃除をしていた頃よりきれいになっており、水桶も清潔だった。何よりもピーちゃんのとさかはピンと赤く健康なことが見てとれる。ピーちゃんは嬉しそうに(と、徹には見える)ピーナッツを食べた。
「またくるね」
早々に庭を出て母の実家の塀の後ろに隠れる。
「三時五ニ分」
時計を見てつぶやく。アナザーさんが通ったのは四時二五分の事だった。
次の日から、アナザーさんの家に向かい、途中でアナザーさんから隠れる。アナザーさんがスーパーに入ったことを確認し、全速力で庭に向かう。ピーちゃんにエサをやり、四時十五分になると実家に隠れ、アナザーさんが通り過ぎるのを確認して家に走って帰る、が徹の日課になった。
土日には相変わらずどこかへ向かうアナザーさんを追いかけている。
栞は時々何か聞きたそうに徹を見つめるが何もいわず、キヨはおにぎりを作り続けた。
幸恵は久しぶりの仕事が思った以上に楽しいようで、徹の靴がどんどん磨り減って買い換えるペースが速いことにも気がついていないようだった。
「最近、高い靴を欲しがるけど、恋でもしたのかしらね」
と栞に言って白い目を向けられたのだった。




