竜、月を仰ぎて手には華を
志津は、かじかんだ指先にほうと息を吐きかけた。
空は鼠色。早くしなければ、また雪が降ってきそうだった。
「志津!」
庭へ降りようと草履に足を入れかけたところで、大きな声が背中に飛んでくる。そしてそれは間髪入れず、実際の衝撃となってぶつかってきた。
「……痛いです、愛様」
「どこへ行くの?」
齢十三、まだまだ幼い姫はくるくると大きな丸い目で志津を真っ直ぐ見上げてくる。名前の通りに愛らしい仕草に、志津の頬は自然にほころんだ。
「若様を捜しに。兄上に頼まれましたので」
「むぅ、旦那様はまたしてもご政務を怠りあそばしているのか」
愛は子供のように――実際に子供だが――頬をふくらませる。
「志津や、わたくしもお手伝いしよう。人手が多い方が見つかりやすい」
「お気持ちはありがたいですが、私が兄に叱られてしまいまする。奥方様に畏れ多くもお手伝い願ったと言われて」
「小十郎は頭が固すぎる。妻が夫を捜して何がいけないのか」
愛は三春の田村家から嫁いできたばかりの幼い姫君だが、すでに二つ年上のこの城の当主を夫として認め、また慕っている。
志津はそっと溜息をついた。それが聡い愛に気づかれぬうちに、草履を履いてしまう。
「愛様、もし若様がお戻りになったら、小十郎と志津が探していたとお伝えくださりませ」
「うむ……」
「行き違いになってしまっては、手間ですもの」
「そうか。そういうことならば、しかと引き受けたぞ」
うまく思いとどまらせることができたのにほっとして、志津は庭から屋敷の外へ出た。
出羽の国、米沢城は広い。兄の小十郎がいくら探し人の動向を知り尽くしているといっても、到底一人では間に合わないだろう。同じ条件の志津と力を合わせても、果たして雪が降ってくる前に見つけられるかどうか。
まったく、困った若君だ。
そう思いながらも、志津の顔には柔らかな笑みがある。先ほど愛に向けたのとはまた別の、優しい感情が溢れていることに彼女自身は気づいていない。
先代からの信任篤い片倉家の、遠縁とは言え現在の姉兄が備えている美貌の血を彼女もやはり受け継いでいる。黒々とした髪は北国の女特有の白い肌に映え、小作りで優しげに整った面差しの中で特に印象的なのはそのぬばたまの双眸だ。どんなときも穏やかで、相対する者を和ませずにおかない。
足早に進む志津の姿を目にした者は、男ならば一様に溜息をついて歩を止め、女でもつい視線で追いかける。年は当家の若君と同じ十五、今はまだどんな花としてなるかもわからない蕾ではあるが、すでに咲き誇った時を期待させる凛とした風情だ。
「志津」
呼び止められ、はっと振り返った志津だったが、そこにいた声の主を認めてつい軽い失望を覚える。相手はめざとくそれに気づいて苦笑を見せた。
「ひどいな、俺ではいけなかったのか?」
「そんなことは……。ただ、若様を捜しておりましたので」
「まぁたあいつは逃げてるのか」
そう言って小さく笑う声も、探している人によく似ている。伊達成実は若君の従兄弟に当たり、年も近いからそれも道理だろう。
お顔立ちはまったく違うのに、と志津はいつも思う。成実は背が高く、体つきもすでに一人前の武将として遜色ない。精悍な顔が気さくな笑みを絶やさないので、城の女達は陰ひなたで胸をときめかせている。
その笑顔で、成実は志津に近づいてきた。
「俺も用があって来たんだ。一緒に探してやろうか?」
「まあ、でもそんなこと、兄に叱られてしまいます」
「俺の用事でもあるんだからいいじゃないか。それに、この寒いのにお前のような娘に外を走り回らせるなんて」
あ、と声を上げる暇もなかった。
ふわりと身体を包む温もりに、志津はまじまじと目を見開く。
「せめてこれを着ろ。まったく、そんな薄着で風邪をひいたらどうする」
成実の大きな羽織が、すっぽりと志津の指先までも包み込んでしまっている。彼の気遣いは正直嬉しかったが、同時に彼女は困惑した。
「成実様がお風邪を召してしまいます。私は平気ですから」
「駄目だ、こんなに冷えてるじゃないか。何が平気なものか」
やはりとても素早い動きだったので、気づいたときにはとんでもないことになっていた。
「し、成実様!」
大きくて逞しい腕が、しっかりと志津の肩を抱いている。
咄嗟に掌を彼の胸についてしまっているのに思い当たって、彼女は真っ赤になって身をよじった。
「お、お放しください! このような……!」
「駄目だ」
高い位置から耳に囁かれた声が、とても低くて。
いつもとはまったく違って聞こえて。
「……成実様、後生でございますから……」
「志津」
名前を、呼ばれただけなのに。
その、声が。
志津は、息を止めてしまう。動けなくなってしまう。
背中に感じる抱擁が強まって、どうしていいかわからなくなった。男の力は強くて、冷え切った身体に染み入るぬくもりは甘美で。
唇を、噛む。
だが、その時だった。
「何をなさっておいでですか?」
まさにそれは、地を這うような。
そこに籠もる確かな怒りと底知れぬ恐ろしさに、成実だけでなく志津すらもぎくりと身体を硬直させた。
「え、いや、これは……」
「お約束の刻限にはまだ早いかと存じますが。それともこの小十郎めの記憶違いでございましたか?」
寒いはずなのに、だらだらと冷たい汗が背中を伝っている。成実は勢いよく腕を放し、志津は大急ぎでその場から後ずさった。
しかしそれでもなお、二人に向けられる異様な気配は収まってはくれない。
「成実様、どうぞ中でお待ちくださりませ。すぐに若様をお呼び申し上げますゆえ」
「え、あ……」
「今日は寒うございます。お風邪を召されぬうちに」
無言の圧力だった。小十郎の目は奧二重の上切れ長で、睨まれると他の人からの倍は威圧感を感じる。
成実は引きつった笑みを浮かべ、すごい速さでその場から離れていく。それでも、去り際に志津に手を振るのだけは忘れなかったので、内心こっそり感嘆すら覚えた。
「志津」
ぎくんっ、と肩が震えた。
普段から抑揚というものに乏しい兄の声は、何もなくても怒っているように聞こえてしまう。
いや、今は怒っているかもしれない。早く若君を捜さなければならなかったのに、不可抗力とは言え時間を無駄にしてしまった。
だから志津は、うつむいたままで恐る恐る兄の方に向き直ったのだが。
「これを着ていけ」
着せられたままだった、成実の羽織がすっと離れていくのとほぼ同時に、兄の手が志津の肩をふわりと包んだ。
温かな、綿入れの感触。
目を上げた先の小十郎がしっかりと防寒の出で立ちを整えていることから、あることに思い至って目を丸くした。
「わざわざ、志津のために持ってきてくださったのですか?」
「ろくに着もせずに外へ飛び出していったと、姉上が心配なさっておいでだったのでな」
相変わらず兄はにこりともしてくれなかったが、志津はその代わりとでもいうように満面に笑みをたたえた。
不器用な兄の思いやり深い気遣いが嬉しくて。
「ありがとうございます、兄上」
「当たり前のことをしたまでだ。早く若様を捜しに戻れ」
「はい」
「城より外へは出ておらぬようだ。私は向こうを捜すから、お前はあちらを」
「わかりました」
小十郎の頬は赤みを帯びていた。城の外、町の中までもすでに探し尽くしたに違いない。行動が早く、手抜かりのない人だ。
「ああ、それから」
駆けだしかけたところで、再び呼び止められる。何事かと振り返ると、彼はわずかに声を大きくして言った。
「どうしても見つからなければ、お前は城内に戻れ。雪が降る前にな」
「……はい」
勢いよく一礼し、志津は走り出した。
兄は本当に、優しい人だ。
十も年下の、養女の自分を、いつだって実の妹のように思いやってくれる。
志津の両親は、流行病で死んだ。祖父母も当時すでに死んでおり他に兄弟姉妹もなく、志津は五つの年に天涯孤独となった。
幼い彼女を引き取ってくれたのは、母親の遠縁に当たる片倉家だった。出羽の国を治める伊達家によく仕え信任篤い家臣の家系であることなど子供だった彼女にはあずかり知らぬところだったが、母親とも呼べるほど年の離れた喜多とその弟で次期当主の小十郎は、突然できた妹を大変かわいがってくれた。
「若様ー!」
時折あちこちに向けて呼びかけながら、志津は雪のせいで歩きにくい道を進んでいった。このまま先へ行くと物見台があるが、未だに捜し人の気配はない。
歩き続けたせいで少し身体が上気していた。小十郎と別れてから、半刻は歩きづめだろう。
それでも息が上がらないのは、日頃の修練の賜物だ。
片倉は武士の家。喜多も女ながらかつて若君の乳母という身分で今は奥方の側仕えであることもあり、日々武芸の鍛錬を怠らない。志津も姉と供に愛の侍女を務めているが、片倉の姉妹がそばにいれば奥方の身辺は安泰だと家臣達の評判も高い。
だが、志津は……。
「っ!」
頭上から冷たい雪が落ちてきて、志津は小さく悲鳴を上げた。風で木の枝が揺れたのだろうか。
「あ!」
振り仰いで、また声を上げてしまう。だが今度のは、嬉しさのためだ。
「若様!」
ようやく見つけた。
一番低い枝の上に座り、ぼんやり遠くを見つめていた視線が、ゆるゆると志津の方へ降りてくる。
左だけだというのに容易に人を射すくめる、緑青を帯びた不思議な色の隻眼。
寒さに、志津は感謝した。
頬の赤いことを言い訳できる。
藤次郎政宗。齢十五の、伊達家の跡継ぎだ。
「志津……」
「兄がお捜し申し上げております。成実様も、先刻おいでになりました」
物憂げに若君は目を伏せて、無言で幹を伝い降りてきた。志津は急いで駆け寄って、今まで自分の来ていた綿入れをそっと差し出した。
「何だ?」
「私のものですが、ご不快でなかったらどうぞお召しを」
信じられないことに、政宗は羽織すら纏っていなかった。こんな薄い着物一枚で、いったいどれくらいの間外にいたのだろう。見れば薄い唇もすっかり紫色へ変じていて、痛々しさで志津の胸は痛んだ。
「志津が寒かろう」
「歩いて参りましたので上気しております」
一向に、政宗は綿入れを受け取ろうとしない。しかたなく、無礼は承知で志津は彼の後ろに回り無理矢理綿入れを着せかけた。
「急いで城へ戻りましょう。お風邪をお召しになってしまいます」
再三促すと、ようやく政宗は足を前に出した。その後ろを追いかけながら、どこか沈んで見える背中が気がかりでならない。
志津にはわかる。
どうして政宗が、こんなところへ一人でやってきたのか。
「あ」
政宗の歩みが止まる。どうしたのかと息を呑むと、彼はゆっくり天を見上げた。
「降ってきたな」
ひらひらと。
白いひとかけが、とうとう灰色の雲から落ちてきたのだ。
なおさらすぐに戻らなければと思う志津を、唐突に政宗は振り向いた。
「……若様?」
「梵天丸でよい」
鼓動が、乱れた。
梵天丸と、彼を幼名で呼んでいたのはもう遠い過去のこと。
二度と呼ばぬと、決めたはずだった。
「そのような無礼は……」
「何が無礼だ?」
「若様はすでに元服もすまされ、奥方様もいらっしゃいます」
「その程度のことで、志津は俺と距離を置くのか?」
――その程度、などと。
こともなげに、言わないでほしい。
「俺の幼馴染みは、梵天丸は好いていても藤次郎政宗は好かぬか」
「っ、そのような問題では……!」
「では何だ?」
志津には、答えられない。
答えられるはずがない。
「早く戻らねばな」
何かを振り払うように、政宗は身を翻す。
踵を返す直前に、志津の肩に綿入れを残して。
はっと顔を上げたときには、すでに細身の姿が遠ざかりつつある。
志津は、足早にそれを追いかけた。
「今宵は特に、奥方様の身辺にも気を配らなければね」
寝支度は整えたものの、ぴんと背筋を伸ばして座った姉は傍らの小太刀に指を添えた。
「若様のおそばには小十郎殿と成実様がついてくださるそうです。志津、私達も交代で不寝番を」
「はい、姉上」
美しい喜多は、うなずいた志津の髪をそっと撫でた。たおやかで儚げにすら見えるのに、この姉は一度小太刀を振るわせれば志津など及びもつかない勇猛ぶりなのだ。
そして何より、心の底から己の手で育て上げた若君とその奥方に忠義を誓っている。政宗が乳母のいらない年になっても嫁したりせず、今こうして愛姫に仕えているのがその証左だ。
「昨日の今日でまさか、とは思いますが。努々注意を怠らないようにね」
「はい」
志津も、自分の小太刀を手にした。長年使い続けている愛用の武器は、冷たく手に馴染む。
「では先にお休みなさい。わたくしは奥方様の御寝所の次の間で控えています。一刻ごとの交代にしましょう」
「承知いたしました」
喜多に頭を下げ、志津は外の廊下に出た。
地上にこんもり積もった雪が、真っ青に染まっている。雪はもうすっかり止んで、大きな満月が空にあった。
月光が創り上げた青い世界は夢のように神秘的ではあったけれど、志津は憂い顔で自分の足下に目を落とした。
昨日の今日で――と姉は言った。志津も同じ意見だ。相手は偶然を装いたいのだろうし、続けざまに凶事が起きれば警戒心を煽るだけだ。
昨日、政宗の食事に毒が盛られた。
幸い彼が口に入れる前に見つけられて、周囲の者は何事もなかったかのように振る舞えと指示された。
けれど、志津にはわかるのだ。
誰が毒を入れたのか。
そしてそれを、政宗も気づいているだろうこと。
それゆえにどれほど、彼が傷ついているか。
「政宗様!」
「おい、ちょっと待てったら」
騒がしい足音と聞き覚えのある声は、廊下の向こうから慌ただしく近づいてきた。
「兄上? 成実様……」
「すまぬ、志津。奥方様と姉上は?」
「まあ、若様!」
話し声と物音に顔を出した喜多は、目を丸くしていた。
「愛は起きているか?」
寝間着姿の政宗は、周りの者達の様子をまったく気にした様子もなく、淡々とそう尋ねた。
「旦那様」
愛までとうとう出てきてしまう。とことこと駆け寄った小柄な妻を軽く抱き留めて、政宗はぐるりと志津達を見回した。
「小十郎、言ったとおりだろう? 喜多や志津も不寝番の構えだ」
「は、しかし……」
「実質四人の警護、守る対象が一所に集まった方がやりやすかろう?」
事情がわからずにおろおろしている志津と、成実の視線がぶつかり合う。どきりとしたが、彼は常と変わらぬ様子で困ったような苦笑を見せた。
「俺達が警護するって言ったら、どうせ奥方様の方も同じことだろうからって。二カ所で警戒するならまとめた方が何かあったときにも対処しやすいから、こっちに来るって聞かないんだ」
「若様、そのような……」
やんわり窘めるように口を挟んだのは喜多だが、政宗はかつての乳母の言葉にすら耳を貸そうとせず、遮った。
「愛の夫である俺がこうしてここに来ることに何の不都合がある? さあ、いつまでもこのようなところで騒いでいるのはおかしかろうが」
一方的に言い放ち、彼は愛を抱き寄せたままさっさと寝所に入っていった。
「お前達も入れ。隣の間だろう?」
促され、志津達は互いに顔を見合わせたが、結局は主に従ったのだった。
姉に揺り起こされるまで横になっていたことはいたのだが、まったく寝付けなかった。冷え切って重い身体を自覚しているのに、妙に頭は冴えている。
見張りのための部屋に入ると、すでに小十郎がいた。
「遅くなりまして……」
「いや」
短く言葉を交わし、志津は兄の向かいに座った。明かりは灯していなかったが、窓からの白い光が冴え冴えと部屋の中を照らしている。夜目の利く彼女たちには十分だった。
志津は隣室へ神経をとぎすませ、小太刀に手を添える。何かあったらすぐに抜けるように。
何か、あったら。
言葉のあやではあったけれど、その可能性が恐ろしくて奥歯を噛みしめる。
何事もなければいい。
どうして、ゆっくり眠って朝を迎えるという当たり前のことが、あの人にとっては当たり前でないのか。
「志津」
名前を呼ばれた、と思ったときにはすぐ目の前に兄の顔があった。志津はどきりと腰を浮かせかけ、小十郎の手がそれを押し留めた。
「気配が乱れている。若様をお起こししてしまいかねないぞ」
武芸を身につけ、今まさに不寝番を務める者としてあってはならない失態だ。
「……申し訳ございませぬ。兄上」
叱咤の言葉が寄越されるとばかり思っていたのに、小十郎がくれたのは意外にも温かな掌だった。
「眠っておらぬのだな。昨晩から」
見抜かれてしまったことに驚いて、咄嗟にごまかすこともできなかった。
兄の手は幼いときと同じように志津の頭をなで、ささくれ立っていた心をゆっくりと宥めてくれる。
「兄上……」
「無理はするな。ひくべきところ、休むべき時を正しくふまえねば、いざというとき役に立たぬぞ」
理に満ちた言葉の中に、深い情愛が感じられる。優しい響きの声に、泣き出しそうになった。
「でも、私は」
兄の言うのが正しいとわかっている。でも。
ここにいたいのだと。
口から飛び出しかかった想いを、志津はさらに強く奥歯と一緒に噛みしめ、飲み下す。
黙ってうなだれた彼女を、小十郎は何も言わずに撫でている。だが、この兄にはきっともっと以前にばれてしまっていることだろう。
志津の気持ちなど。
「小十郎」
襖一枚向こうから。
志津の鼓動を、止めてしまいそうな声がする。
「いかがなさいましたか」
すかさず小十郎は駆け寄ったが、その前にすらりと向こう側から開け放たれた。
一寸の乱れもない寝間着の上に羽織を掛けただけの姿で、政宗は兄妹を見下ろす。
「愛を頼む。よく眠っているから面倒はないがな」
「は……若様はいずれに?」
「その辺を回ってくる。志津、供を」
志津は、思わず兄を伺った。護衛として伴うならば、言うまでもなく小十郎の方が適任なのだから。
小十郎もやはり何か言いたげな顔で口を開きかけたが、ふと志津に一瞥をくれた。
探るように。
問いかけるように。
「……志津、若様の供を」
「え?」
志津は目を瞠る。兄の心変わりと、何より政宗の意図がわからずに、二人の間で視線を彷徨わせる。
「そのなりでは寒い。支度をしてこい」
だが、再度促されては逆らうことはできなかった。
「はい」
一礼し、志津は急いで部屋に戻った。
行き先を告げず、政宗は黙って歩いている。志津はその背中に、やはり無言で従った。
外ではない。薄暗くしんと寒い廊下を、灯りも持たずに歩いている。
夜中とは言えすべての人間が寝静まっているわけではない。ただの奥方の侍女に過ぎない志津が、若君と一緒のところを見咎められては不用意な噂が立ってしまうから、当然の用心と言える。
けれどそこまでして政宗が自分を連れだした理由が、まだ彼女にはわからない。
時折、ぼんやりした光の中に彼の後ろ姿が浮かぶ。この何年かで志津を遥かに追い越してしまったが、大人の男の逞しさよりも少年らしいしなやかさのほうが感じられる。
志津は、密やかに溜息をついた。
この人は、きっとどんどん志津から遠ざかって行くに違いない。小十郎も成実も、喜多ですらも言っている。政宗は、奥州に覇を唱える人だと。
否、日の本すべてを掌握するにも足るような傑物だと。
志津にはよくわからない。奥州の統一がどれほどの偉業か、日の本を支配することにどれほどの価値があるのかも。
「止まれ」
ほとんど呼気のような声で、政宗は素早く囁いた。
「先に入れ」
そこは、部屋ではなかった。廊下の突き当たりで、正面にはただの薄黒い壁があるのみだ。
彼のいわんとしていることがつかめず、志津はきょろきょろと視線を彷徨わせて。
「――!」
危うく、声を上げかけた。
政宗の手をかけている壁が、ほんのわずか、黒々とした闇の隙間を空けている。
「早く」
「は、はい」
彼は素早くさらに壁を押し開け、志津はそこにさっと飛び込んだ。すぐに彼も続き、秘密の入り口は直後閉ざされる。
何も見えない。
一度ぎゅっと瞼を閉じ、開ける。それだけで、ほんの少しだけものの輪郭がわかるようになる。
志津は微かに伝わる息づかいと温もりから、政宗の位置を確かめた。すぐ近くにいる。ほっとしかけて、別なことに気がついた。
こんな狭いところに。
今、自分は政宗と二人きりだ。
「怖いか?」
気遣ってくれる言葉すら、志津の鼓動を早めてしまう。
灯りがなくてよかった。きっと顔がひどく上気しているに違いない。
「こっちだ」
空気が動く。
志津は、今度こそ小さく叫んでしまった。
指が。
温かい。
「どうした?」
「い……いえ」
思わず、口元を右手で覆う。
左手は。
政宗の、掌の中にある。
くん、とその手を引かれて、志津は取り乱した思考のまま従った。
ゆっくりと歩いてみて、かなり狭い通路であることがわかる。時折風の流れを感じるのは、外と通じているらしい。
いったい、ここは何なのだろう。
そう思っていると、政宗が唐突に足を止める。
右側から細い光が差し込んでいて、志津ははっとした。
「……遅かったな」
ほんのわずか開いた隙間から、人の声が聞こえた。
目を瞠る。
誰のものか、すぐにわかったから。
「どうなっている? 明日にでももう一度仕掛けるのか?」
「畏れながら、それは先方の警戒を煽るだけかと」
もう一つの声は、先のそれよりもずっと年を取っている。やはり、志津の知っているものだった。
「そうか……。そうだな。しかしまさか、あの毒すらも見抜かれるとは」
「噂は真実だったやもしれませぬ。奥方様の侍女は、どんな毒すらかぎわけ、含んでもまったくものともせぬと」
「とんだ毒見役を抱えているものだ。我が兄上は」
志津は、思わず政宗の手を強く握りしめていた。
生まれつき、彼女は嗅覚が人並みはずれて優れていた。長じて後、それを片倉の姉兄や何より政宗のために役立てられないかと思いつき、そして。
「ならば、もう少しほとぼりが冷めてから」
「御意に」
いくつか短く言葉を交わして、陰謀者達は三々五々引き上げ始める。細い視界から人の姿と気配が消えても、二人は動かなかった。
「志津」
政宗が志津を呼んだのは、どれくらい経ってからだったろう。
「戻ろう」
「……はい」
自分の右手の所業にようやく気づき、ぎゅっと奥歯を噛みしめて指を放す。ひやりと温もりを奪う空気の流れが、胸にも突き刺さるようだった。
政宗の弟は、母義姫の愛を一身に受けている。兄の方を厭う気持ちと呼応するかのように、義姫の小次郎に対する心づくしは増す一方だ。
秘密の通路から出て、政宗は愛姫の部屋とは正反対の方へ歩き出した。志津は何も言わず追いかける。
どんな表情をしているのだろう。けれど侍女に過ぎない志津は、次期当主の心の中にまで入っていく権利を持たない。
力づけることも。
慰めることも。
志津には、できない。
「……お前は戻れ」
政宗がひたと足を止めたのは、月見台へ出る扉の前だった。志津は、一瞬躊躇ったあと首を横に振った。
「若様がお戻りにならなければ、志津も戻れませぬ」
「そうか」
一人にできるわけがない。今の政宗を。
政宗は、扉に手をかけた。勢いよく外に向けて開かれたそこから冷たい夜気が勢いよく流れ込んでくる。思わず震えた志津を、彼は何か言いたげに振り返ったが、言葉はついにかけられなかった。
月はどこにもない。天を気まぐれに横切っていく速い群雲の流れに、隠されてしまっているのだろう。
青銀に輝く世界は、高いところから眺めればより一層幻想的だった。しかし政宗の隻眼は、そんな美しい雪原すらも通り過ぎてどこか遠くを見つめている。
見ない、のだろうか。
見えていない、のだろうか。
後者だとすれば、あまりに哀しい。
志津は、月見台の柵に目を落とした。ほっそりした自分の手が視界に入る。
もしも、男に生まれていれば。
兄と同じように、この人と戦場へ行くことができたなら。
この人を、守る立場に在ることができたら。
涙が出そうになる。考えても詮ないことだ。志津はこうして女と生まれ、十五まで生きているのだから。
「……志津」
政宗の声が、ぽつりと肩の上に降りてきて。
次の瞬間、目の前に現れた光景が信じられず、志津は零れんばかりに目を見開いた。
「……寒いか?」
抜けるように白い志津の手を、すでに固く骨張り大人の男のそれになりつつある若君の手が、すっぽり包み込んでいる。
染み入ってくるぬくもりが、夢でないことを教えてくれる。驚いて顔を上げ、思いの外近い彼の眼差しに再び瞠目した。
「いつもそうだな」
「……え?」
「俺に毒が盛られたとき、お前の方がよほど辛く哀しそうな顔をする」
一つだけの瞳は。
夜空よりもなお黒く、優しい。
「お前はそうして、いつでも『俺』を案じてくれるから」
繋いだ手に、力がこもる。
痛いほど。
「俺は……俺を見失わない」
「若様……?」
どういう意味なのだろう。
わからないけれど、志津は政宗の手にもう片方の手を添えた。
「志津」
政宗が、動いた。
ほんの、一歩だけ。
それだけなのに、とてもとても近くなる。
腕を伸ばせば、抱擁できるほどに。
「成実が、お前を嫁にほしいと言っている」
「え?」
頬が熱くなったが、すぐに冷えてしまう。思い出したように吹き付ける寒風に、志津はふるっと身を震わせた。
「血族だから言うわけではないが、あいつはいい奴だ。お前をずっと昔から好いている」
彼のことを、志津は幼いころから知っている。何かと気を遣ってくれて、もったいないと思うことが多々あった。
決して、嫌いではない。むしろこう言っていいのであれば、好意を持っている。
でも、志津は。
「私は……奥方様の侍女です」
明るい笑顔と優しい仕草、そしてあの声。
「奥方様と若様を終生お守り申し上げると、決めておりまする」
政宗とよく似た。
「それでよいのか?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
迷いなど、微塵もない。
迷うわけがない。
どんな毒も見つけられる自分の生まれつきの質を磨くとともに、志津は必死で毒物について学んできた。兄と姉と、何より政宗のために。
志津が、生涯身も心も捧げ尽くすと決めた人のために。
「……すまない」
聞こえてきた言葉に、志津は微笑んで首を振った。政宗が謝るようなことは、一つもない。
これは、志津の我が儘だ。
抑えることのできない想いを形にする、唯一の方法だ。
「戻ろう」
「はい」
促されるまま、志津は政宗と供に月見台をあとにする。
繋がれた手は解かれることなくそのままだったが、どちらも放そうとはしなかった。