主人には愛する女性がおりまして
「こんにちはぁ」
このところ、すっかり聞きなれてしまった声がする。
若く可愛く少し甘ったるい発声。
玄関の扉を開ければ、声に相応しい容姿の女の子が立っていた。
装いも可愛らしく、ピンクのチェック柄の布巾をかけたバスケットを両手で持っている。
脇を締め、細い体をより華奢に見せるテクニック。
もう幾度目かの訪問だが、毎回隙が無い。
「こんにちは」
「あの、ディマス様は御在宅でしょうか?」
「主人は仕事に出かけておりますが」
「そうですか。ではまた出直します」
女の子がくるりと回れ右をすると、バスケットから甘い香りが漂う。
「よろしかったら、お茶でもいかがですか?」
「え?」
振り返った女の子は驚いていた。
まさか、訪ねた相手が不在の家に招かれるとは思っていなかったようだ。
「……じゃあ、少しお邪魔させていただきます」
女の子は自分の持つバスケットに視線を落とした後、顔を上げて返事をした。
小さな家なので、食堂のテーブルでお茶を出す。
「今日は学校はお休みですか?」
「淑女学校は、この前卒業しました」
ということは、この子は十六歳くらいか。
「何度も主人をお訪ねですが、理由をお聞きしても?」
「実は、前に街で助けていただいたことがあって」
話を聞けば、酔っぱらいに絡まれて困っていたところ、騎士として巡回中の夫に助けられたそうだ。
「それで直接お礼をと思って、手作りのお菓子を持って騎士団の本部に行ったんですけど」
騎士は男女問わず憧れの存在だ。
差し入れはたくさん持ち込まれるのだが、中には少々悪質なものもあるらしい。
毒の入った食べ物など持ってくれば、態度の怪しさから即逮捕のことが多いようだ。
けれど、それより厄介なのは好意の贈り物である。
騎士団の長い歴史の中では、トラブルを避けるためのノウハウが蓄積されている。
「ディマス様に会いたいと言っても取り次いでくれないし」
きちんとした理由があって正式な手順を踏めば面会はかなうのだが、仕事中に突然来られても会えるわけがない。
「ディマス様に渡してくださいと言っても、皆でありがたくいただきますって返事されるし」
実際は食べ物の差し入れには媚薬などの心配がぬぐい切れないので、鑑定の能力を持った職員が安全確認したのち、最寄りの孤児院に回されるのである。
「思い切って、こうして自宅を訪ねても、メイドさんしかいないし」
おっと?
この子はわたしのことを留守番のメイドだと思っていたのか。
夫のことを『主人』と口にしていたから、勘違いさせてしまったようだ。
「あの、ディマス様は第二騎士団を辞めて、辺境伯家の騎士団に移られると聞きました。
その前に、どうしてもお会いしたいんです」
「会って、どうなさるの?」
「わたしの気持ちをお伝えすれば、ひょっとすると、お付き合いしてもらえるかもしれないし」
「でも、主人には愛する女性がいるとか」
これはもう、彼が近衛騎士であったときからずっと言われ続けている話だ。
「知っています。でも、かなわない恋なんでしょう?
噂で聞きました」
誰がどこでどう流した噂だろうか?
わたしの経験からすれば、噂のほとんどは作り話だ。
中でも恋の噂なんてものは特に、当事者と無関係な自称関係者が適当に作って流すものだ。
登場人物が実在しているというだけで、なぜか信憑性が高まる。
わたしの夫のディマス・オロスコは伯爵家の三男だった。
騎士に憧れ、騎士を目指し、体躯にも才能にも恵まれてとんとん拍子で出世した。
見目の良かった彼は、王族を警護する近衛騎士に抜擢されて職務を全うし、定年である三十歳まで勤め上げた。
その後は王都警護の第二騎士団に配属され副団長職に就いているが、従兄であるエンシナル辺境伯様に請われて辺境伯騎士団に属するべく、あと一年で退団の予定である。
これまで大きな挫折や失敗が無かったのは彼の慎重さによるもの。
何事もしっかり見極め、誠心誠意ことに当たる、彼はそういう人だ。
職務中に見目を損なうような怪我をすることも無かったから、今でも女性にモテる。
実家は伯爵家であるし、婿入りの話もたくさん持ち込まれていたそうだ。
だが、彼は職務の妨げになるからとすべて断って来た。
確かに王族に直接仕える仕事をしていれば、派閥や親戚に忖度を迫られるようなことは避けるべきである。
その態度は、特に恋愛方面で極度の堅物であるという印象を周囲に与えていた。
その彼が近衛騎士を辞するにあたり、突然わたしに婚姻を申し込んできたのである。
王太后様の侍女であった、このわたしに。
当時三十歳の彼に対し、わたしは二十八歳。
とうの昔に婚姻を諦めていたので、寝耳に水の話に心底驚いた。
王族に仕える身として彼と顔見知りではあったが、特に親しいというわけでもなかったのである。
王太后様からは『彼のように優秀な騎士の血筋は残すべきですよ』と諭された。
更に、いずれは辺境の地に移ることが決まっているとも聞いた。
そこで納得したのだ。
わたしは、辺境へ赴く有望な騎士と王家とにつながりを残すための一本の糸に過ぎないのだろうと。
長く離れてしまった実家とのつながりも薄いし、王太后様の侍女としてのみ人々に認識されている一個の駒なのだと。
けれど、その考えはすぐに覆される。
初めて二人だけで話をした日、彼は再びわたしを驚かせた。
「ずっと貴女のことを好ましく思っていた。
燃えるような恋というものはわからないが、自分の隣にいてくれるなら貴女がいいと感じた。
近衛を辞した今しか機会がないと思って、申し込んだんだ」
「え?」
彼が王太后様の警護にあたるときに、わずかな言葉を交わすだけの間柄だったのに、どうして?
「貴女を目にするたび、一心に主人に仕える姿勢に感心していた。
宰相様を通して婚姻の話をつないでもらったのだが、王太后様からは直々に『大事な侍女を不幸にしたら許さない』と釘を刺されたよ」
わたしから見れば彼の方こそ、その真面目な仕事ぶりが好ましかった。
人気のある男性だからと、わずかな時間でも努めて距離を置いた。自分の心が彼に近寄って行きすぎないように自制していたのだ。
駒だとか糸だとか、いろいろ言い訳をしていただけで、きっと心の奥では初めて言葉を交わしたときから惹かれていた。
「ディマス様、わたしを見つけてくださってありがとうございます」
「貴女こそ、私の前に現れてくれてありがとう」
そうしてわたしたちは、穏やかに夫婦となった。
夫に恋する女性は多かったが、中にはファンを自称する人々もいる。
彼らはストイックにひとりの女性を思い続け、三十歳まで独身を貫いた推しの姿に萌えたらしい。
彼を偶像視する人々から見れば、一介の侍女と婚姻したなど我慢がならないのではないか?
そう思ったわたしの強い希望で、婚姻はひっそりと行われた。
王太后様の後押しがあるのに心苦しくはあったが、彼もそれには賛成してくれたのだ。
婚姻後、わたしは仕事を辞め、騎士団の妻帯者が多く住むエリアで借家暮らしを始めた。
ほんの小娘の頃に城に上がったわたしには、家事の中で苦手なものもある。
けれど彼がそれを責めることは無いので、焦らず確実に覚えて行こうと思った。
「ディマス様が愛する女性って、どなたなのでしょう?
ご存じないですか?」
彼女がストレートな質問を投げかけた時、勤務時間中の夫が家に戻って来た。
「ロシータ、居るかい?」
「あら、どうなさったの?」
「制服のボタンが緩んでしまって、直してもらえるかな?」
「はい、すぐに」
料理はあまり経験がないせいか苦手だが、裁縫は得意なのだ。
脱いだ上着を受け取り、窓際で糸の様子を確かめる。
「ああ、お客様だったのか。お邪魔して申し訳ない。
えっと、あなたは?」
「あ、あの……」
すぐには返事が出来ない彼女に代わって答えた。
「街で偶然知り合って、お友達になった方なの。
今日はわざわざ訪ねてくださったのよ」
夫は笑顔になる。
「そうですか。
妻は長く王城勤めだったので、街に知人もいなくて。
あなたのような若い方が話し相手になってくださるとは、ありがたい」
「つ、妻……い、いえ、私もお姉様のような奥様とお話しできるのは楽しいです」
お嬢さんはなんとか気持ちを落ち着けたようだ。
話も自然な流れで、辻褄合わせの筋もいい。
感心している間にボタンも直った。
「はい、出来ました」
「ありがとう、詰め所で自分で直していると時間がかかるので、ちょっと寄ったんだ」
「これくらいならお安い御用です」
「じゃあ、行ってくるよ。お嬢さんもごゆっくり」
「ありがとうございます」
「いってらっしゃい」
夫が去ると、しばしの沈黙が場を支配する。
「私、何て勘違いを。
奥様に失礼なことばかり言ってしまいました。
申し訳ありません」
「いいのよ。
主人は本当にモテるから、騒ぎにならないよう婚姻はひっそりと進めたし」
「でも、本当にご迷惑でしたよね」
「それでも、恋をする気持ちは誰にも責められるべきではないわ」
「奥様」
急に夫の顔を見たせいで緊張し、それがほどけて彼女のお腹がクゥと小さく鳴った。
「あ、あの、よろしかったらこのお菓子、一緒に食べてくれませんか?」
「あらいいの? 思いを込めた大事なお菓子でしょう?」
「いえ、この恋は今日弔うことにします。
それから、毒薬も媚薬も盛ってませんから大丈夫です」
あんなふうに素直に謝ることのできるお嬢さんを疑う理由はない。
「お弔いのお相伴ね。ありがたくいただきます。
お茶を淹れなおしましょうね」
「ありがとうございます」
彼女の手作りのお菓子は程よい甘さで、とても美味しい。
「お菓子作り、上手なのね。
もしかして、お料理も得意かしら?」
「ええ、料理やお菓子づくりしか取り柄がないのですが」
「度胸もあると思うけど?」
「そうですね、どちらかというとうじうじするのは嫌いなんです」
少しはにかんで笑う彼女はとても可愛い。
きっとまた、素敵な恋を見つけるだろう。
「今度、時間があるようだったら、少しお料理を教えてもらえないかしら。
わたし、王城の寮暮らしだったので今でも料理は不得手なの」
辺境伯領に移るまで、後一年ほどある。
手の足りない時は辺境伯家で手伝いを頼むかも、と言われているので、時間のある今のうちにもう少し苦手を克服したいと思っていた。
「私でよければ、喜んで」
「ありがとう、助かるわ」
それから彼女は本当にわたしの友達になって、何度か我が家で料理を教わった。
わたしの腕がそれなりになったころ、たくさん料理を作るからと第二騎士団の若い人を何人か呼んで一緒に食卓を囲んだ。
もちろん、彼女にも手伝ってもらって一緒に食事をした。
やがて、騎士の一人が彼女にお付き合いを申し込んだと聞き、わたしは夫に詰め寄った。
「あなたが家へ連れてくるほどの騎士さんだから信用はしているけれど、本当に彼女にお勧めできる人?」
「君の大事な友人に、下手な男は紹介しないよ」
引っ越しが近づいて少しずつ片付けを始めた家の中。
わたしたちは若い人の前途に光あることを祈って、乾杯した。




