第3章:不穏な足音と、おやすみなさい
深い、深い眠りの底で、私は昔の自分に出会っていました。
あれは十年前。二十歳の頃の私は、まだ「営業スマイル」なんて便利な武器は持っていませんでした。
当時の私は、もっとお花畑な頭をしていたのです。
『いつか、白馬に乗った王子様が私を見つけて、お城へ連れて行ってくれるはず』
なんて、今思い返せば顔から火が出るような妄想を本気で信じていた。
けれど、現実は無情でした。
二十三歳で、信じていた恋人に「もっと家柄の良い娘と結婚することになった」と振られ。
二十五歳で、お見合い相手に「君は働きすぎて可愛げがない」と断られ。
二十八歳の頃には、周囲の友人たちが次々と結婚し、私は「果物屋の看板娘」から、いつの間にか「果物屋のベテラン雇われ」へと昇進(?)していました。
「……王子様なんて、この世にはいないのよ。いるのは、リンゴを買い叩く客と、鮮度の落ちた在庫だけ」
そう悟った瞬間、私は「女」を捨てて「商人」になった。
プロの笑顔を貼り付け、期待を捨て、一人で生きていくための貯金通帳だけを信じることに決めたのです。
だから。
セドリック様の甘い言葉も、ザックスの不器用な誘いも。
今の私にとっては「質の悪い冗談」か「集客のためのサービス残業」にしか聞こえない。
「……だって、あんなキラキラした人たちが、私を選ぶわけないじゃない。夢は、寝ている間に見るだけで十分よ……」
夢の中でそう呟いた瞬間。
地響きのような「音」が、私の意識を強引に地上へと引き摺り上げました。
――ズ、ズゥゥゥン……ッ!
「……っ!? な、何よ、地震!?」
跳ね起きると、窓の隙間から差し込む朝日は、妙に赤黒い色をしていました。
街の喧騒が、いつもと違う。
楽しげな市場の声ではなく、悲鳴と、逃げ惑う人々の足音。
「おい、アンナ! 起きてるか! 逃げろ、魔物だ! 巨大なのが大門を破りやがった!」
隣の部屋の住人がドアを叩きながら叫ぶ声に、私は血の気が引くのを感じました。
「魔物……? 嘘でしょ、騎士団長様やS級冒険者がいるこの街に……?」
昨日の二人の警告が、冷たい氷水のように脳裏を駆け巡ります。
『夜は戸締まりを厳重にするんだよ』
『ヤバくなったら、俺の所に逃げてこい』
「……営業トークじゃ、なかったの……?」
私は震える手でシーツを掴みました。
外からは、建物を破壊する凄まじい音と、空を裂くような咆哮が聞こえてきます。
かつて夢見た「白馬の王子様」ではなく、本物の「死」の気配が、すぐそこまで迫っていました。




