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提督のやり直し  作者: 逸見烈沙
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記憶はすぐそこに

第一艦隊がSO海域の深部へと足を踏み入れたとき、重く垂れ込めていた暗雲の切れ間から、その姿が鮮明に浮かび上がった。


「見えたわ……! 提督、前方に海外からの援軍、アイオワ、ならびにウォースパイトを確認!」


 通信機越しに届く大淀の弾んだ声。水平線の向こう側、激しい黒煙を上げる敵先遣部隊のさらに奥から、常識外れの巨体が爆速で海面を切り裂いてくるのが見えた。


「――Hi there! 待たせたわね、Admiral!」


 無線に割り込んできたのは、弾けるような快活な声。アイオワだ。彼女は十六インチ三連装砲を全門、まるで踊るように旋回させると、逃げ惑う深海棲艦の群れに向かって、虹色の閃光を叩きつけた。


 その圧倒的な高速砲力。さらにその傍らでは、ウォースパイトが女王の風格を漂わせながら、一撃必殺の精密射撃を繰り返している。彼女たちが切り拓く砲火の道は、まるで闇を裂く光の回廊のようだった。


「凄い……あれが、海外の力……!」


 白露型の一番艦、白露が感嘆の声を漏らす。  だが、その光景に心を奪われている暇はなかった。アイオワたちが引き受けているのはあくまで外郭の掃討だ。中心部、あの不気味な黒い霧が渦巻く場所には、依然として集積地棲鬼が鎮座している。


「長門より各艦へ! 援護を無駄にするな、アイオワたちが開いた穴から一気に突入するぞ! 全艦、最大戦速!」


 旗艦、長門の号令が全艦に響き渡る。  アイオワが敵の増援を薙ぎ払い、ウォースパイトが防空拠点を潰していく。その隙間を縫うようにして、龍驤と祥鳳の航空隊が、集積地棲鬼の鼻先に急降下爆撃を見舞った。


「うちの航空隊に続け! ソロモンの海に、うちらの旗を立て直すんや!」


 龍驤の叫びと共に、第一艦隊はついに集積地棲鬼が支配する禁忌の領域へと踏み込んだ。


 その瞬間、海面が激しく逆立った。  海水は墨のように黒く濁り、龍驤たちが報告した通り、沈んだ艦艇の残骸が不自然なほどに浮かび上がってくる。


「……提督」


 無線の向こう、時雨の声が不意に低くなった。


「……この海の底。……誰かが、泣いている気がするんだ」


 時雨のその一言と同時に、私の視界が激しく点滅した。  アイオワたちの最新鋭の砲声が、いつの間にか、耳の奥で古い、聞き覚えのある「断末魔の爆発音」へと重なっていく。


龍驤の航空隊が叩き込んだ爆弾が、集積地棲鬼の巨大な本体へと直撃した。  海面が大きく揺れ、黒い霧が一時的に晴れる。その一瞬の隙間から、私は、信じられない光景を目の当たりにした。


 集積地の中心部、黒い海の上に、一隻の深海棲艦が鎮座していたのだ。  その見た目は、他の深海棲艦とは明らかに異なっていた。高速艦特有の流線型のシルエット。背部には、特徴的な連装砲ちゃんによく似た、三体の使い魔が展開されている。風になびく長い髪は深海の色に染まっているが、そこには確かに、かつて見た覚えのある……いや、見るはずのない面影があった。


「あれは……まさか!」


 大淀の絞り出すような声が、無線から聞こえてくる。


「集積地棲鬼の周囲を固める旗艦級深海棲艦……! ですが、こんなタイプの深海棲艦は、これまで報告されたことがありません!」


 その深海棲艦は、私たち第一艦隊を憎悪に満ちた瞳で見つめると、細い腕をゆっくりと掲げた。  その指先から放たれる凄まじい威圧感は、あの長門ですら一瞬怯むほどだ。


「……ユルサナイ……ユルサナイ……! ワタシノ……『ハヤサ』ヲ……奪ッタ……オマエタチヲ……!」


 甲高い、けれどどこか苦しみに満ちた叫び声が、集積地棲鬼の咆哮と混じり合ってSO海域に響き渡る。  その声を聞いた瞬間、私の頭の中で、何かが完全に弾け飛んだ。


(この声……この姿……いや、そんなはずは……!)


 脳裏に、かつて見た「最速」を誇る少女の笑顔がフラッシュバックする。  あの時、私の計算が、判断が、彼女を――。  激しい目眩と吐き気に襲われ、私は膝から崩れ落ちそうになった。


「提督!? 提督、しっかりしてください!」


 大淀の声も、長門の指示も、全てが遠のいていく。  目の前の深海棲艦の姿が、鮮明に、しかし恐ろしいほどに、過去の記憶と重なる。


「……嘘だ……そんな……」


 私の世界は、あの日の黒い海に飲み込まれようとしていた。


激しい頭痛と吐き気の向こう側で、視界が急速にセピア色に染まっていく。 今の、あの禍々しい深海棲艦の姿ではない。もっと眩しくて、誇らしげな「彼女」の記憶が、濁流のように溢れ出してきた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


――数か月前、着任して間もない頃の執務室。


まだ使い込まれていない真新しい机の上で、彼女は我が物顔で腰を下ろし、自慢の長い髪を指先でいじっていた。


「ねえねえ、提督! さっきの演習、見た? 私の速さに誰もついてこれなかったでしょ! やっぱり私が一番なんだから!」


自信満々に胸を張る彼女に対し、私は苦笑しながら書類を整理していた。当時の私は、まだ冷徹な計算機になりきる前の、どこにでもいる一人の人間だった。


「ああ、見ていたよ。速すぎて、記録をつける私のペンが追いつかなかったくらいだ」


「でしょー! もっともっと速くなれるんだから。提督がちゃんと見ててくれないと、置いてっちゃうよ?」


彼女はそう言って、椅子に座る私の顔を覗き込んできた。その瞳は、今のあの深海棲艦のような憎悪ではなく、純粋な好奇心と、提督である私への全幅の信頼で輝いていた。


「……提督。私、ずっとここにいてもいい? 誰よりも速く駆け抜けて、提督の行く手を邪魔する敵を、全部追い越しちゃうからさ」


「ああ、約束だ。君の速さが、この艦隊の希望になる。……置いていかれないように、私も努力するよ」


私がそう言って彼女の頭を軽く撫でると、彼女は照れくさそうに、けれど本当に幸せそうに笑った。その傍らでは、三体の連装砲ちゃんが楽しげに跳ねていた。


あの頃の空気。あの頃の約束。 計算と効率に逃げる前の、私が確かに持っていた「心」。


『ワタシノ……「ハヤサ」ヲ……奪ッタ……!』


戦場の中心で響いたあの呪詛が、かつての彼女の無邪気な笑い声と重なり、私の胸を抉る。 彼女から速さを奪ったのは、深海棲艦ではない。 あの日、あの海域で、彼女を見捨てた「私の判断」だったのではないか。


「……あ……あああああ……ッ!!」


回想から引き戻された私の口から、獣のような呻き声が漏れた。 今、目の前で牙を剥いているのは、私が殺した「約束」そのものだった。


「提督……思い出して、しまわれたのですね」


無線機を持った大淀の声が震えていた。 顔を上げると、彼女の瞳には、冷徹な秘書官としての色はなく、ただ痛ましいものを見るような、深い悲しみが湛えられていた。


彼女は知っていたのだ。 私が記憶を失う前、どれほど「彼女」を信頼し、そしてあの日、どれほど絶望的な決断を下したのかを。


「私が……」


私の掠れた声が、沈黙の執務室に響く。


「私が、彼女の速さを止めたんだな。あの日、あの海域で。……私の計算が、彼女を見捨てろと言ったんだな……!」


大淀は否定しなかった。ただ、溢れそうになる涙を堪えるように、眼鏡の奥の瞳を伏せた。


「……提督の当時の判断は、艦隊全滅を避けるための唯一の正解でした。ですが、正解が必ずしも人を救うわけではありません。あの日以来、提督は……ご自身を壊してしまわれたのです」


そう。あまりの罪悪感に耐えきれず、私は自ら「心」を切り離し、効率だけを求める機械へと成り下がった。そして、それでも耐えられなくなった脳が、彼女に関する記憶すべてを封印したのだ。


だが、海は忘れていなかった。 私が捨て去った「誇り」と「後悔」を、深海棲艦という最悪の形で具現化し、今再び私の目の前に突きつけている。


『……オマエ……ワタシ……ヲ……オイテ……イッタ……』


深海棲艦の姿をした彼女が、再び咆哮する。 その言葉は、アイオワの砲撃よりも、長門の怒号よりも鋭く、私の魂を真っ二つに引き裂いた。


「提督。」


大淀が、悲しみに濡れた声で、けれど決然と呼びかける。


「彼女を……あのままにしておくことが、彼女への贖罪ですか? それとも、今度こそ提督の手で、彼女をあの呪縛から解き放つことが、提督のなすべきことですか?」


私は震える手でデスクを掴み、ゆっくりと、折れそうな体を支えて立ち上がった。 視界はまだ涙で滲んでいる。だが、その向こう側で、黒い海を駆ける「かつての艦娘」の姿を、今度は逸らさずに見据えた。


「全艦隊……攻撃……開始……!!」


 絞り出した私の叫びは、震えていた。だが、それは恐怖からではなく、喉の奥からせり上がる、千切れんばかりの後悔と決意の混じった咆哮だった。


 その瞬間、沈黙していた戦場が爆発した。


「長門、了解した。――全主砲、斉射! 奴の足を止めろ!」  旗艦、長門の咆哮とともに、四一センチ砲が火を噴く。アイオワの十六インチ砲、ウォースパイトの精密射撃が、集積地棲鬼の周囲を火の海に変え、彼女へと続く道を無理やりこじ開けた。


「龍驤、祥鳳、攻撃隊全機発艦! 上空から奴の視界を奪え!」 「任せとき! 提督、あんたのその声……待ってたで!」  龍驤の叫びとともに、艦載機の群れが黒い空を埋め尽くす。


 だが、誰よりも速く動いたのは、白露型たちだった。 「……やっと、提督がこっちを見てくれた」  時雨が静かに、しかし冷徹なまでの速度で魚雷を放つ。 「夕立、行くっぽい! ソロモンの悪夢は、仲間を置いていったりしないっぽい!!」  夕立が炎を纏うかのように、凄まじい速力で深海棲艦へと肉薄する。


 モニター越しに、かつての彼女の面影を残す深海棲艦が、苦しげに顔を歪めるのが見えた。 「……ナゼ……ナゼ……クル……!」


 私は、震える手でマイクを握りしめ、届くはずのない言葉を、それでも海域の全艦に、そして「彼女」に向けて叫び続けた。


「……すまなかった! 君を置いていった私の弱さが、君をこんな姿に変えてしまった! だが、もう二度と、君を一人にはさせない! 今度こそ……今度こそ、一緒に帰るんだ!!」


 その言葉に応えるように、アイオワたちの援護射撃が集積地の防空網を粉砕する。  爆炎と硝煙の中、夕立と時雨、そして春雨たちが、かつての戦友を包み込むように、一斉に魚雷の信管を解いた。


 海が、真っ白な光に包まれる。  あの日、黒い闇に消えていった「速さ」を、今度は私たちが、光とともに取り戻すために。


真っ白な爆炎が、黒い海を切り裂いた。


夕立と時雨の放った魚雷が、寸分の狂いもなくその深海棲艦へと吸い込まれ、凄まじい水柱が彼女の細い体を飲み込んだ。


「……ア、ガ……ッ……!」


かつての面影を残すその艦の艤装が、激しい火花を散らしながら砕け散る。背負っていた連装砲ちゃんに似た使い魔たちが、悲鳴のような音を立てて千切れ、海へと沈んでいった。


爆煙の中、彼女の瞳から憎悪の光がわずかに薄れ、一瞬だけ、かつてのあの純粋な輝きが戻ったように見えた。


「……あ……てい……とく……?」


その掠れた声が無線機から漏れた瞬間、私の心臓は止まりそうになった。 だが、戦場はそれを許さない。


「グオォォォォォオッ!!」


背後に控えていた集積地棲鬼が、自分の「部品」を傷つけられたことに激昂し、地響きのような咆哮を上げた。集積地は依然として健在どころか、周囲の燃え盛る資材を取り込み、さらにその巨大な体を膨張させていく。


「提督、集積地棲鬼が再起動します! 敵、全砲門をこちらへ……っ、ダメです! 標的は損傷した彼女です!」


大淀の悲鳴に近い報告。 集積地棲鬼は、動けなくなった「彼女」を、口封じのためか、あるいは盾にするためか、その巨大な火炎放射器と砲火の渦に巻き込もうとしていた。


「させない……っ! させるものか!」


私はモニターに向かって叫んでいた。 あの日と同じ光景は、もう二度と繰り返さない。


「第一艦隊、全艦突撃! 彼女を遮蔽しろ! 長門、アイオワ、全火力を集積地棲鬼へ集中! 奴の意識を彼女から逸らすんだ!」


私の命令に、海面を滑る航跡が加速する。 長門が、アイオワが、己の艦体が傷つくのも厭わず、燃え盛る海域の最深部へと、盾となって割り込んでいった。


「ソロモンの悪夢は、ここからが本番っぽいっ!!」


夕立が叫び、損傷して海を漂う「彼女」の手を掴もうと、爆炎の中へと飛び込んでいく。


集積地棲鬼がその巨大な火炎放射器を振りかざし、満身創痍の「彼女」を焼き尽くそうとしたその時。


天を切り裂くような鋭い咆哮が、戦域全体に響き渡った。


「――お待たせいたしました。第一機動部隊、戦域に到達いたしました!!」


黒煙に覆われた空を突き破り、無数の艦載機が流星の如く降り注ぐ。その翼に刻まれているのは、誇り高き一航戦、そして五航戦の識別紋。


「赤城、参ります!」


「一航戦の誇り、見せてあげるわ!」


遅れて到着した第三艦隊。赤城、加賀を中核とし、瑞鶴、翔鶴を擁する我が鎮守府最強の機動部隊が、ついにSO海域の空を支配した。


「五航戦、瑞鶴! もたもたしてんじゃないわよ、一気に畳みかけるわよ!」


瑞鶴の鋭い檄とともに、爆撃機が集積地棲鬼の頭上に死の雨を降らせる。先ほどまで猛威を振るっていた敵の対空砲火は、アイオワとウォースパイトの援護射撃によって既にボロボロだ。そこへ一航戦の精密な爆撃が、集積地の「急所」である燃料集積所へと突き刺さった。


「グアァァァァッ!? ヌスッ……ト……ドロウ……!!」


集積地棲鬼が悶え苦しみ、爆炎が彼女の巨躯を内側から食い破る。


「提督、今です!」 大淀の声が、絶望に沈みかけていた私の背中を強く押した。


「第三艦隊、攻撃隊はそのまま敵後方を遮断! 第一艦隊、夕立、時雨! 今のうちに彼女を……島風を救い出せ!!」


ついに、その名を呼んだ。 記憶の底に沈んでいた、一番速くて、一番誇らしかった彼女の名前を。


夕立が爆炎を切り裂き、海面に浮かぶ「彼女」の細い腕を掴み取る。 「……捕まえたっぽい! 離さない……もう絶対、離さないんだから!」


上空では赤城と瑞鶴が描く白い航跡が交差し、海面では長門とアイオワの巨砲が絶え間なく火を噴く。 かつては孤立無援だったこの地が、今は仲間たちの絆と、海を越えた戦友たちの砲火で満たされていた。


「集積地棲鬼……。私たちの『過去』を弄んだ報い、ここで受けてもらう!」


私の号令とともに、第一、第二、第三、そして海外艦隊。全戦力が一点、燃え盛る集積地の心臓部へと集中した。


SO海域は、今やこの世の終わりかと思えるほどの業火に包まれていた。


集積地棲鬼が蓄えていた膨大な燃料と弾薬が、一航戦・五航戦の爆撃によって連鎖的に誘爆を起こし、漆黒の海を真っ赤に染め上げている。爆炎は天を焦がさんばかりに立ち昇り、もうもうと広がる黒煙が、かつてアイアンボトム・サウンドを覆っていた呪いを焼き払っていくかのようだった。


「ア……アア……ワタシノ……シザイ……ワタシノ……カラダ……ッ!!セッカク……アツメタノニ……ッ!!」


炎の渦に巻かれた集積地棲鬼が、絶叫とともに崩れ落ちていく。その足元、かつて彼女が「苗床」としていた沈没船の残骸も、浄化の火に包まれて海の底へと静かに還り始めていた。


その地獄のような光景のただ中を、夕立が「彼女」を抱きかかえて突き進む。


「熱い……熱いっぽい! でも、負けない……! 今度は絶対に連れて帰るって、提督と約束したんだから!!」


夕立の艤装は焦げ、白いマフラーはすすで黒く汚れている。それでも彼女は、腕の中にいる、意識を失ってぐったりした少女を離さなかった。時雨と春雨が、四方から迫る爆炎を機銃で掃射し、夕立の退路を必死に守り抜く。


上空では、赤城や瑞鶴たちが、崩壊する敵拠点から逃げ惑う残党を掃討し、空を完全に制圧していた。


「……提督、見てください。海が……」


大淀の声に誘われ、私はモニターを凝視した。 燃え盛る火炎の向こう側、集積地棲鬼の拠点が消滅した場所から、黒い泥のような海水が引いていき、透き通った本来の青い海が顔を覗かせていた。


「第一次SO海域奪還作戦……目的、達成です」


大淀のその言葉を聞いた瞬間、私の目から熱いものが溢れ出した。 デスクを掴む指が、震えを止めることができない。


燃え盛る炎の中で、すべてを焼き尽くし、すべてを終わらせた。 私の失われた過去も、彼女の奪われた速さも、この火が新しく生まれ変わらせてくれる。


「……全艦、帰還。……一人も欠けることなく、私たちの家へ」


私は声を震わせながら、最後にして最良の命令を下した。 遠く、アイオワやウォースパイトの勝利を祝う砲声が、火柱の向こう側から誇らしく響き渡っていた。

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