再燃の炎
あれから数日が経過した。
あの日、工廠で感じた脳を焼くような激痛は、嘘のように鳴りを潜めている。春雨や大淀が頑なに口を閉ざした「過去」への疑問は、依然として私の胸に澱んでいるが、目の前の復旧作業に追われるうちに、それは心の奥底へと押し込められていた。
そんな折、執務室の重厚な扉を叩く音が響いた。
「失礼します、提督。至急、確認していただきたい情報が入りました」
入室してきた大淀の表情は、ここ数日の穏やかな復旧作業中には見せなかった、鋭く張り詰めたものだった。彼女は机の上に、一枚の海域図を広げる。
「SO海域……ソロモン諸島沖周辺にて、深海棲艦による不審な動きが捕捉されました。偵察機からの報告によれば、敵の新型戦艦を含む遊撃部隊が、こちらの補給線を断つように遊弋を開始しています」
SO海域。 かつて多くの艦艇がその底に沈み、「アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)」とまで呼ばれた、呪われた激戦区。この鎮守府からは距離があるものの、ここを封鎖されれば復興に必要な資材の輸送が完全に止まってしまう。
「不審な動き、というのは?」
「はい。敵は通常、こちらの艦隊を発見すれば即座に攻撃を仕掛けてきます。しかし今回の部隊は、一定の海域を円を描くように旋回し、何かを『待ち構えている』ような動きを見せているのです」
大淀の指先が、地図上の一点を指し示す。そこは、かつて大きな海戦があったと記録されている座標だった。
「この海域には、今も多くの『眠れる魂』が沈んでいます。……提督、これまでの傾向から見て、放置すれば敵はさらに増援を呼び、本格的な侵攻拠点を築く恐れがあります」
報告を聞くうちに、また少しだけ、こめかみの奥が脈打つような感覚があった。 SO海域。その名を聞くだけで、視界がわずかにセピア色に染まるような、奇妙な既視感が襲う。
「……出撃が必要か」
「はい。現在、戦力として即応可能なのは、修復を終えたばかりの白露型を中心とした第一水雷戦隊、および主力戦艦数隻です。ですが……」
大淀が言葉を濁し、私の顔をじっと見つめた。
「提督。あそこは、一度飲み込まれれば戻るのが困難な、底なしの海です。今のあなたの状態で、指揮を執れるでしょうか」
彼女の問いは、私の体調を案じている以上に、私の「記憶」がその海域で何を呼び覚ましてしまうのかを、恐れているように聞こえた。
「現在、龍驤と祥鳳含む第三哨戒隊がSO海域付近に偵察機を飛ばしています。……提督、もしかしたら、敵の狙いは……」
大淀が手元の資料を捲る指を止め、声を潜めた。
「集積地棲鬼が、そこに拠点を築こうとしている可能性があります」
その名前が出た瞬間、執務室の空気が一段と重くなった。 集積地棲鬼。膨大な物資を溜め込み、不気味な兵站基地を形成する深海棲艦。もし彼女がSO海域に居座り、あのアイアンボトム・サウンドの入り口を完全に封鎖してしまえば、私たちの鎮守府は干上がるのを待つだけの、文字通りの孤島と化してしまう。
「龍驤からの報告では、海面に異常なまでの油膜と、こちらの補給物資を狙ったような哨戒網が確認されています。祥鳳の偵察機も、敵輸送船団の不自然な集結を捉えたとのことです」
大淀の言葉を聴きながら、私は地図上のその座標を見つめた。 集積地。膨大な資材。……そして、それを守るために配置されるであろう、強力な随伴艦隊。
かつての私なら、即座に損害計算を行い、「投資に見合う戦果が得られない」と判断して後退を選択したかもしれない。だが今は、復興を願う艦娘たちの顔が、そして瓦礫の中で汗を流す白露たちの姿が脳裏をよぎる。
あそこを叩かなければ、この鎮守府の明日は、新しいレンガ一枚すら届かない暗闇に閉ざされる。
「……第三哨戒隊にはそのまま偵察を継続させ、敵主力の正確な位置を特定させてくれ。大淀、白露型各艦と、戦艦部隊に即応待機を命じる。弾薬と燃料の補給を最優先で行え」
「……了解しました。ですが提督、SO海域での対集積地戦は、夜戦を含む泥沼の消耗戦になることが予想されます。……覚悟は、よろしいですね?」
大淀の問いに、私は短く頷いた。 こめかみの奥で、また小さな痛みが微かに疼いた気がしたが、私はそれを無理やり意識の外へ弾き飛ばした。今は、過去の幻影に怯えている暇はない。
「命令だ。……奪わせはしない。彼女たちの未来を、あんな真っ黒な海に沈ませてたまるか」
私の言葉に、大淀は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに深く頭を下げた。
「……承知いたしました。第一水雷戦隊、および主力艦隊、出撃準備に入ります」
窓の外、夕闇に染まり始めた海を、一筋の電探の光が撫でていく。 決戦の予感が、潮風に乗って執務室まで入り込んできていた。
数十分後。私は執務室で、第三哨戒隊からの続報を待っていた。 指先でデスクを叩く音が、無意識に速くなる。大淀は無線機の前にかじりつき、ノイズの混じる音声に神経を研ぎ澄ませていた。
「大淀、それで龍驤と祥鳳から連絡は? 敵の布陣は割れたか」
私の問いに、大淀はヘッドセットを片手で押さえながら、険しい顔で振り返った。
「……祥鳳の偵察機が、敵先遣隊との接触を避けて北上。龍驤の攻撃隊が、集積地棲鬼の正確な位置を特定しました。やはり、SO海域の最深部……かつての激戦地の中心に、不気味なほど巨大な兵站基地を構築しつつあります」
大淀が書きなぐったメモをデスクに置く。そこには、偵察機が捉えた生々しい状況が記されていた。
「龍驤からの入電です。『敵さん、えらい数のドラム缶積み上げとるで。ありゃただの補給基地やない、前線拠点や。……それと、嫌な予感がするんやけど、空気が重い。まるで海全体がうちらを飲み込もうとしとるみたいや』……以上です」
龍驤の直感は、時に数値よりも正確だ。 海全体が飲み込もうとしている――その言葉を聞いた瞬間、私の背筋を冷たい悪寒が走った。
「祥鳳は? 彼女の艦載機は無事なのか」
「祥鳳機は敵防空網の隙間を縫って離脱。ですが、彼女からの電文にはこうあります。『集積地の周囲に、何かの残骸のようなものを集めている形跡あり』……提督、これは通常の深海棲艦の行動原理を超えています。彼女たちは、あの海域で一体何を……」
大淀の声が、微かに震えていた。 何か形が残っている状態の残骸。 その言葉が、私の頭の奥にある「扉」を激しく叩く。
視界がふらつき、デスクの端を強く掴んだ。 集積地棲鬼が、ただ物資を溜め込んでいるのではないとしたら。あの呪われた海域に沈んだ「何か」を掘り返し、利用しようとしているのだとしたら――。
「……大淀。龍驤と祥鳳に、深追いはせず帰還軌道に入れと伝えてくれ。これ以上の偵察は危険だ」
「了解しました。……ですが提督、彼女たちが持ち帰ったデータを見る限り、一刻の猶予もありません。今、叩かなければ……」
「わかっている。……すぐに第一艦隊を招集しろ。私が直接、作戦を説明する」
私は、震えそうになる膝を叩き、椅子から立ち上がった。 SO海域。鉄底海峡。 そこに行けば、すべてがわかる。私が何を失い、なぜ心を凍らせていたのかも、すべて。
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間もなくして、執務室の扉が勢いよく開いた。
「ただいま戻ったで、提督! ……堪忍な、あんまりええ報告やないんや」
真っ先に飛び込んできたのは、飛行甲板を抱えた龍驤だった。その後ろから、祥鳳が少し疲れの色を滲ませながらも、凛とした佇まいで続く。二人とも、偵察機を極限まで飛ばし続けたせいか、潮風と熱気が混じった独特の匂いを纏っていた。
「二人とも、無事で何よりだ。……直接聞かせてくれ。SO海域で何を見た?」
私が促すと、龍驤はデスクに広げられた地図の上に、自ら撮ってきた航空写真を叩きつけるように置いた。
「これを見てや。集積地の奴、ただの資材置き場やない。あいつ、海の底から『何か』を釣り上げとる。……まるで、沈んだ船の怨念をかき集めて、自分の身体の一部にしとるみたいやったわ。うちの艦載機が近づいただけで、海面が真っ黒に泡立って……鳥肌が止まらんかった」
龍驤の言葉は、いつも以上に切迫していた。続いて、祥鳳が静かに口を開く。
「……龍驤さんの言う通りです。私の機が見たのは、集積地棲鬼の周囲を取り囲むように浮かぶ、無数の『破片』でした。あれは……かつてあの海で散っていった、軍艦の数々…成れの果てです。彼女はそれを苗床にして、何かを育てている……。そんな不気味な気配を感じました」
祥鳳のその言葉を聞いた瞬間、私の視界がまた、嫌な火花を散らすように歪んだ。
(苗床……。沈んだ艦……。そうだ、あの日も、海はあんな風に黒く淀んでいた……)
頭の奥で、鍵をかけたはずの箱がガタガタと震え出す。私はそれを必死に抑え込み、二人の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……龍驤、祥鳳。君たちの報告で確信した。あれは、ただの兵站基地じゃない。私たちの過去を、誇りを冒涜する化け物だ。放置すれば、この鎮守府どころか、海そのものが死に絶える」
龍驤が、私の顔をじっと覗き込んできた。その鋭い視線は、私が隠そうとしている内面の動揺を射抜こうとしているかのようだった。
「提督。……あんた、えらい覚悟決めた顔しとるな。けど、無理は禁物やで? あの海域は、一度入り込んだら『記憶』まで持っていかれる。……あんたが何を怖がっとるんか知らんけど、うちらがおることを忘れんといてや」
「……わかっている。ありがとう、龍驤」
私は二人に向かって深く頷き、大淀の方を向いた。
「大淀。第三哨戒隊、龍驤と祥鳳の報告を元に、最終的な突入ルートを策定しろ。……集積地棲鬼を、あの海ごと焼き払う」
「……了解いたしました。第一艦隊、出撃準備の最終段階に入ります」
龍驤と祥鳳が退室し、執務室には再び静寂が訪れた。 だが、私の耳の奥には、彼女たちが持ち帰った「黒い海のざわめき」が、いつまでも止むことなく響き続けていた。
私は地図上の、かつて「鉄底海峡」と呼ばれたその座標を、指先で強く押さえた。
「そうだな……作戦名は……『サボ島沖奪還作戦』。……いや、違うな。失われた誇りと、閉ざされた未来をすべて取り戻す。……『第一次SO海域奪還作戦』。これでいこう」
私がその名を口にした瞬間、執務室の空気が一変した。 「奪還」という言葉に込められた私の意志を感じ取ったのか、大淀が手元のペンを止め、背筋を正す。
「……奪還、ですか。ただの撃滅ではなく」
「ああ。あそこは深海棲艦の苗床になどしていい場所じゃない。あそこには、私たちが……あるいは私の前任者たちが歩んできた、決して忘れてはならない戦いの足跡がある。それを奴らの手から引き剥がし、私たちの海として取り戻すんだ」
大淀は静かに目を閉じ、反芻するようにその作戦名を呟いた。
「第一次SO海域奪還作戦……。承知いたしました。各艦へ伝達。この作戦は、単なる拠点の破壊にあらず。海域の完全なる浄化、および制海権の奪還を目的とする――」
龍驤が、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて、自らの飛行甲板をポンと叩いた。
「ええ名前やんか、提督。うちらが奪われたもん、利子付けて全部返してもらうで! 祥鳳、準備はええな?」
「はい。この命に代えても、道を切り拓いてみせます。……提督、どうか最後まで、私たちの旗印でいてください」
祥鳳の言葉が、私の胸に重く、けれど温かく響いた。
作戦名が決まったことで、物語は単なる「防御」から「反攻」へと舵を切った。 私の記憶の奥底で、あの黒い海に沈んだ「誰か」の声が、今は悲鳴ではなく、私を呼ぶ力強い鼓動のように聞こえ始めていた。
「全艦、抜錨準備。明朝、夜明けと共に進撃を開始する」
「第一艦隊、および第二艦隊の編成状況を報告してくれ」
私の問いに、大淀は淀みなく手元のボードを差し出し、各艦の状況を読み上げた。
「はい。まず集積地棲鬼の撃滅を主眼とした、第一艦隊。旗艦は長門、護衛に白露、時雨、村雨、夕立。そして航空支援として、先ほど帰還した龍驤を組み込みました。夕立さんの艤装調整は、明石さんの手により突撃仕様で完了しています」
大淀の指が、次に第二艦隊の列をなぞる。
「続いて、周辺海域の哨戒および補給路の確保を担う第二艦隊。旗艦に祥鳳、護衛に霞、春雨、そして重巡洋艦を配備。こちらは敵増援の遮断と、第一艦隊の退路確保が主任務となります。各艦、燃料および弾薬の積載率は最大。ドラム缶や大発動艇の積み込みも、昨夜のうちに霞さんたちの手で終えています」
大淀は一度言葉を切ると、私をまっすぐに見つめた。
「白露型の面々は、提督の『奪還』という言葉を聞いて、かつてないほどに士気が高まっています。……特に夕立さんは、あの海域に対して並々ならぬ執念を見せているようです」
編成表に並ぶ名前を見つめる。長門の圧倒的な火力と、龍驤の鋭い航空攻撃。そして、練度を上げた白露型の水雷戦力。これ以上ない、今の我が鎮守府における最高の布陣だ。
「……よし。第二艦隊は先行して哨戒ラインを形成。第一艦隊はその後を追い、集積地へ一点突破を図る。大淀、各艦へ最終通達。作戦開始まで残り三時間。……各自、悔いのないよう準備させろ」
「了解しました。……提督、武運を」
大淀が敬礼を送り、執務室を後にする。 私は一人、窓の外に広がる、嵐の前のような静かな海を眺めていた。
「他の鎮守府からの援護が出るそうです」
大淀が無線機から顔を上げ、少し驚きを含んだ表情でそう言った。
「他の鎮守府からの援護? ……この時期にか」
「はい。連合国軍側の技術検証を兼ねて派遣されていた、アイオワ、ウォースパイトの二隻が、SO海域の近海を航行中とのことです。こちらの奪還作戦の報を受け、側面からの砲撃支援を申し出てくれました。彼女たちは敵の増援艦隊を抑え込み、第一艦隊が突き進むための『風穴』を開けてくれるはずです」
海外艦の参戦。それは予想外の強力な追い風だった。 アイオワの圧倒的な高速砲力と、ウォースパイトの老練な戦術眼。彼女たちが加われば、集積地棲鬼の周囲を固める分厚い随伴艦隊も、紙細工のように切り裂けるだろう。
「ありがたい。……大淀、すぐに返電を。支援に感謝する。我が第一艦隊は、彼女たちが切り拓いた海路を全速で突破し、集積地の心臓部を叩くと」
「了解しました。……提督。これで、駒はすべて揃いましたね」
大淀の言葉通り、執務室に漂っていた重苦しい空気は、希望という名の熱気に塗り替えられつつあった。 白露型たちの水雷戦、龍驤と祥鳳の航空支援、長門の重火力。そして、海を越えて駆けつける海外の戦友たち。
私は、デスクに置かれた軍帽を深く被り直した。
「全艦へ、最終伝達。この作戦に、もはや妥協の二文字はない。他の鎮守府の援護に恥じぬ戦いを見せろ。……第一次SO海域奪還作戦、開始だ!」
窓の外では、出撃を告げる鋭い汽笛が鳴り響いた。 夜明けの光が水平線を白く染め始め、艦娘たちの艤装が朝露に濡れて輝いている。
夜明けの冷たい霧が立ち込める桟橋に、重厚な金属音が反響する。 燃料の匂いと、海水の香りが混じり合う独特の緊張感。そこには、昨日までの瓦礫撤去に従事していた「作業員」の姿はなく、ただ勝利のために牙を研いだ「兵器」としての、そして「少女」としての覚悟を宿した艦娘たちが並んでいた。
「第一艦隊、抜錨準備完了。……いつでもいけるっぽい!」
先頭を行く夕立が、新しい艤装を鳴らしながら力強く拳を突き出した。その隣で、時雨が静かに、しかし決意を秘めた瞳でこちらを見つめている。 長門の重厚な主砲が朝日に鈍く光り、龍驤と祥鳳の飛行甲板には、発艦を待つ航空隊のエンジン音が低く唸りを上げていた。
「援護艦隊との合流地点は、サボ島沖北方。……提督、あとの指揮はお任せします」
大淀が私の傍らに立ち、凛とした声で言った。 私は、一人ひとりの顔を焼き付けるように見渡した。かつては数字でしか見ていなかった彼女たちが、今は、この絶望的な海域から光を奪還するための、かけがえのない戦友としてそこにいる。
「……全艦、抜錨! 目標、SO海域集積地。海域を浄化し、我らが海を取り戻せ!」
私の号令と共に、一番艦の長門がゆっくりと岸壁を離れる。 続いて白露型たちが、水面に白い航跡を鮮やかに描きながら、次々と外海へと滑り出していった。
「行ってくるよ、提督。……帰ってきたら、またあのレンガを積み直そう」
時雨が最後にそう言い残し、霧の向こうへと消えていく。 その背中を見送りながら、私は再び襲ってきた微かな頭痛を、今度は拒絶しなかった。 この痛みの先に、失われた記憶と、彼女たちの本当の笑顔があるのだと信じているからだ。
水平線の彼方では、アイオワたちのものだろうか、巨大な砲声が遠雷のように響き始めていた。 第一次SO海域奪還作戦。 止まっていた私の時間が、今、轟音と共に動き出す。




