現実と妄想の狭間に
「……いつまで寝てんのよ、このクズ提督!」
耳元で叩きつけられた罵声と、顔にバサッとかかったシーツの風圧で、私は強制的に意識を浮上させられた。 ぼやける視界の先、仁王立ちで私を見下ろしているのは、白露型と同じく昨日の激戦を戦い抜いた、霞だった。
「……霞、か。今、何時だ……?」
「何時だじゃないわよ! とっくに朝食の時間は終わってんの! あんたがいつまでもダラダラしてるせいで、工廠の復旧作業の許可が下りないじゃない。この役立たず!」
彼女は腰に手を当て、容赦のない蔑みの視線を投げつけてくる。 昨夜のあの、脳を焼くような頭痛と、泥のような眠り。私はよろよろと体を起こしたが、まだ頭の奥に微かな痺れが残っていた。
「すまない、すぐ準備する。……みんな、もう現場に?」
「当たり前でしょ! あんたが寝ぼけてる間に、白露型も、長門さんたちも、もう瓦礫の撤去を始めてるわよ。あんた、口では『向き合う』なんて言っておきながら、結局はこれ? 口先だけなら、さっさとその椅子を誰かに譲りなさいよ!」
相変わらずの毒舌。けれど、その言葉の礫が、不思議と心地よい。 以前の私なら、彼女のこうした物言いを「規律を乱す不遜な態度」として処分すら検討しただろう。だが、今の私にはわかる。彼女がわざわざ私の部屋まで怒鳴り込みに来たのは、昨夜の私の「崩れ」を、彼女なりに案じていたからだ。
「……霞、実は昨夜、少し体調を崩してね。君の声で目が覚めたよ。助かった」
「……っ!? な、何言ってんのよ……気味悪いわね!」
霞は一瞬だけ表情を強張らせ、弾かれたように視線を逸らした。その耳の端が、微かに赤らんでいる。
「体調管理もできないなんて、指揮官失格もいいところだわ。……ほら、迅鯨が外で温め直したスープを持って待ってる。それ飲んだら一秒でも早く来なさい。一分遅れるごとに、工場の復旧がその分遅れるんだからね!」
彼女は吐き捨てるように言うと、乱暴に扉を開けて出ていった。 扉が閉まる間際、彼女の小さな呟きが聞こえた気がした。
「……あんまり無理して、また倒れでもされたら、迷惑なんだから……」
私は、まだ少し震える手で顔を洗った。 昨夜、報告書の一行を見ただけで私を襲った、あの「冷たい海」の恐怖。 それはまだ、私の心の奥底にどろりと澱んでいる。
鏡の中の自分は、ひどく頼りない顔をしていた。 だが、扉の向こうには、罵ってでも私を引きずり出してくれる彼女たちがいる。
私は制服を羽織り、霞が待つ――そして、昨日の戦火を共に越えた仲間たちが待つ、騒がしい現場へと向かった。
瓦礫と硝煙の匂いが残る工廠エリアに辿り着くと、そこには既に大淀が立っていた。彼女は乱れた髪を直す暇もなかったのか、指先で眼鏡のブリッジを押し上げながら、手元のバインダーに激しくペンを走らせている。
「すまない、遅れてしまった」
私が声をかけると、大淀は一瞬だけ驚いたように肩を揺らしたが、すぐに事務的な、しかしどこか安堵を含んだ表情に戻った。
「……提督。霞さんに叩き起こされたようですね。お疲れ様です」
大淀はそう言いながら、手際よく数枚の書類を抜き出し、私に手渡した。まだ朝の湿り気を帯びた報告書には、昨夜から今朝にかけての被害状況と、現時点での復旧進捗がびっしりと書き込まれている。
「現状の報告です。工廠の第一から第三区画は、長門さんたちの尽力により瓦礫の撤去が六割完了。明石さんが予備資材の棚卸しを行っています。……ただ、第四区画の火薬庫周辺は構造が不安定で、現在は立ち入りを制限しています」
報告書を読み進める私の指が、ある項目で止まった。
『各艦の入渠・修復スケジュール』
そこには、白露型をはじめ、昨日の戦闘で傷ついた少女たちの名前が整然と並んでいる。大淀は私の視線の動きを追うように、言葉を継いだ。
「夕立さんは先ほど入渠を開始しました。……提督が気にされていた『損耗』については、明石さんの診断によれば、艤装の交換だけで済むとのこと。本体への影響は、今のところ確認されていません」
大淀の声は冷静だった。だが、彼女がわざわざその一言を付け加えたのは、昨夜、私が夕立の報告書を見て激しく動揺したことを、彼女なりに察して配慮してくれたからだろう。
私は報告書を握りしめたまま、立ち入り制限のかかった第四区画の、崩れた壁の向こうを見つめた。 鉄が軋む音、遠くで響く資材を運ぶ掛け声。 そのすべてが、昨夜の暗い回想を打ち消そうとするかのように、力強く鳴り響いている。
「わかった。……第四区画の補強案を最優先で作成しよう。大淀、資材の在庫表も後で回してくれ。それと、入渠中の子たちには……後で私から、間宮さんのアイスでも差し入れに行くと伝えておいてくれ」
大淀は一瞬、意外そうに目を見開いたが、すぐに小さく微笑んで「了解しました。……提督らしい、良い判断です」と、短く、けれど確かな信頼を込めて頷いた。
「昨日、徹夜で二人して今日の分の書類を片付けておいて正解だったな。おかげで、現場の状況をこうして直接確認する時間が取れた」
私がそう呟くと、大淀はバインダーを抱え直しながら、少しだけいたずらっぽく、それでいて誇らしげな笑みを浮かべた。
「そうですね。提督が半分ほど意識を飛ばしながらもペンを止めなかったおかげで、今朝の事務作業は劇的に短縮されました。……もっとも、そのせいで今の寝坊があったわけですが」
彼女はそう言いながら、報告書の一角を指差した。 そこには、昨夜二人で議論を重ねて作成した、各区画への優先資材配分計画が記されている。事前に書類が完成していたおかげで、現場の明石や艦娘たちは、提督の目覚めを待つことなく自律的に動き出すことができていた。
「もし昨夜のうちに方針が決まっていなければ、今頃この工廠は、誰がどこを直すかで大混乱だったはずです。……提督の『効率』への執着が、皮肉にも今は『彼女たちの負担を減らす』という形で実を結んでいますね」
大淀の言葉通り、周囲を見渡せば、白露たちが迷いのない足取りで廃材を運び出している。 効率を追求し、すべてを予測可能な管理下に置こうとしてきたかつての私の冷徹な姿勢。それが今、彼女たちの命を守り、一刻も早く平穏を取り戻すための、血の通った「武器」として機能していた。
「……提督。昨夜、あなたが無理をしてでも書き上げたあの計画書……あれを見た白露型の子たちが、少し驚いていましたよ。『自分たちの癖や得意な作業に合わせて、分担が組まれている』と」
大淀の視線が、報告書から私の横顔へと移る。 かつては「兵器の特性」としてしか見ていなかった個性を、今は「彼女たちの得意分野」として活用している。その微妙な変化を、艦娘たちは敏感に感じ取っていた。
私は報告書を閉じ、大淀に返した。
「計算と効率だけが取り柄だったからな。……せめて、それくらいは彼女たちの役に立たないと、顔を合わせられない」
そう言って私が歩き出そうとすると、第四区画の奥、立ち入り制限のロープが張られた場所から、鉄が激しく擦れ合うような嫌な音が響いた。
現場の復旧作業は、活気に満ちていた。 重い瓦礫を運ぶ白露型たちの威勢のいい掛け声、明石が指示を出す鋭い笛の音、そして折れた鉄骨を焼き切る溶接の火花と、激しく響く金属音。
だが、その音を聴き、慌ただしく立ち働く艦娘たちの姿を目で追っているうちに、視界の端が急速に暗転していった。
(……なんだ、この感覚は)
耳の奥で、現場の活気ある音が、次第に「別の音」へと変質し始める。 それは復興のための建設的な音ではなく、もっと切迫した、絶望的な破壊の音。 悲鳴、怒号、そして――何かが決定的に「失われる」瞬間の、逃げ場のない軋み。
視界に映る工廠の景色が、一瞬、激しく燃え盛る夜の海と重なった。 誰かが私の名前を呼んでいる。 いや、私が誰かの名前を呼ぼうとして、声が枯れて出ないのだ。 目の前を、血の気の引いた顔の艦娘たちが、今の白露型たちと同じように、必死な形相で走り抜けていく。
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『――急いで! まだあそこに……!』 『提督、指示を! 早く、早くしないと彼女が……!』
「……っ、が……あ……!」
こめかみを、灼熱の針で突き刺されたような激痛が襲った。 私はたまらずその場に膝をつき、自分の頭を両手で強く抱え込んだ。
「提督!? 提督、しっかりしてください!」
大淀の焦燥に満ちた声が遠くで聞こえる。 だが、今の私の意識は、目の前の工廠ではなく、記憶の深淵に口を開けた「真っ黒な穴」に引きずり込まれそうになっていた。
(これは何なんだ...思い出してはいけないものなのか?……いや、この何かを思い出さなければならないのか?)
冷や汗が地面に滴り落ちる。 激痛の向こう側で、沈みゆく誰かの白い手が、最後に一度だけ海面を掻いたような幻影が見えた。
「提督! 息を吸ってください、提督!」
大淀が私の肩を強く揺さぶる。 その衝撃で、ようやく視界の「赤い海」が消え、目の前の煤けたレンガの地面に焦点が戻った。
私は荒い呼吸を繰り返しながら、大淀の腕を掴んで、どうにか立ち上がろうとした。だが、膝の震えが止まらない。 現場の作業員や艦娘たちが、遠巻きに心配そうな、あるいは不安げな視線をこちらに向けている。
「……大丈夫だ。……すまない、少し、眩暈がしただけだ……」
嘘だ。自分でも、それが単なる体調不良ではないことを確信していた。 この工廠が直れば直るほど、私の心の中に塗り固められた「鉄板」は、耐えきれずに剥がれ落ちようとしている。
その鉄板の向こうにあるのは、きっと、正気を保つために私が自ら捨て去った、地獄のような記憶なのかもしれない。それが何なのかはわからない。
春雨が気を使って話しかけてくる
膝をつき、肩で息をする私の元へ、一人の少女が駆け寄ってきた。
「提督……? 大丈夫、ですか? お顔が真っ白です……」
不安そうに私を覗き込んできたのは、春雨だった。彼女は作業で汚れた軍手を外し、私を気遣うようにそっと傍らに寄り添った。その瞳には、指揮官に対する敬意以上に、一人の人間を案じる純粋な優しさが宿っている。
「……春雨か。すまない、少し立ち眩みがしただけだ。心配をかけたな」
私は彼女に悟られぬよう、震える膝を必死に抑えて立ち上がった。だが、春雨は私の強がりを見抜いたように、困ったような、それでいて包み込むような微笑みを浮かべた。
「無理しちゃ、ダメですよ? 提督が倒れちゃったら、私たちの『家』を直す魔法が解けちゃいます。……それに、夕立ちゃんも、時雨ちゃんも、提督が元気でいてくれるのが一番のお薬なんですから」
彼女はそう言うと、持っていた水筒から湯呑みに水を注ぎ、私に差し出した。
「これ、冷たくて美味しいですよ。一回、あっちの影で休みませんか? 春雨が、大淀さんに内緒で特等席を作っておきますから」
春雨の穏やかな声は、耳の奥で鳴り止まなかった「誰かの悲鳴」を、霧が晴れるように穏やかに塗り替えていく。彼女の持つ独特の空気感――献身的で、どこか家庭的な温かさが、私の荒れ狂っていた意識を現実へと繋ぎ止めてくれた。
私は差し出された水を一口飲み、渇いた喉を潤した。冷たい水が身体を通り、現実の感覚がはっきりと戻ってくる。
「ありがとう、春雨。……少しだけ、休ませてもらおうかな」
「はいっ! 提督、エスコートしますね!」
春雨は嬉しそうに私の腕に手を添えた。その小さな手の温もりが、記憶の深淵に沈みかけていた私を、光のある場所へと引き戻してくれる。
大淀が少し離れた場所で、心配と安堵が入り混じった複雑な表情で私たちを見守っていた。私は彼女に軽く目配せをし、春雨が案内してくれる瓦礫の影の、小さな休息所へと足を向けた。
瓦礫の影に置かれた、即席の木箱の椅子。そこに腰を下ろすと、春雨は私のすぐ隣にちょこんと座り、ハンカチで私の額に滲んだ冷汗を丁寧に拭ってくれた。
周囲の喧騒が少し遠のき、二人だけの静かな時間が流れる。
「春雨……少し、聞いてもいいかな」
私は、喉の奥に仕え続けている「何か」を、言葉に変えようと試みた。
「最近、時々……自分の中に、どうしても思い出せない真っ暗な靄のようなものがあるんだ。現場の音や、君たちの傷ついた姿を見ると、その靄が急に広がって、頭が割れるように痛む。……私は、以前、何かを……誰かを、取り返しのつかない形で失ったんだろうか」
自分の弱さをさらけ出すような問いかけ。 いつもなら、どんな時でも「はい、提督!」と健気に、献身的に答えてくれるはずの彼女なら、何かを知っているのではないか。そう思ったのだ。
だが、私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、春雨の指先がピタリと止まった。
「……提督」
彼女の横顔を覗き込もうとしたが、春雨はパッと顔を背けてしまった。 いつも穏やかな彼女には珍しく、拒絶するような、それでいて泣き出しそうな、強烈な緊張がその背中に走る。
「……すみません。私、もう戻らないと。明石さんが呼んでいる気がします」
「春雨?」
「もう、大丈夫そうですね。……私はもう戻りますね!提督はゆっくり休んでてください!」
春雨は立ち上がると、一度もこちらを振り返ることなく、逃げるような足取りで人混みの中へと消えていった。
残された私は、差し出されたままの湯呑みを握りしめ、呆然とその背中を見送るしかなかった。 彼女のあの反応――それは「知らない」という拒絶ではなく、明らかに「触れてはいけないものに触れられた」という怯えだった。
艦娘たちは、知っているのだ。 私が自ら封印し、脳が拒絶している「あの日」の真実を。
静かになった瓦礫の影で、私は再び一人になった。 春雨が去った後の空気は、朝日の中でもひどく冷たく感じられた。
春雨が逃げるように去っていった後、私は重い足取りで工廠の隅にいる大淀の元へと戻った。彼女は依然として、焼け焦げた鉄骨の山を前に計算機を叩き、復旧の進捗を管理している。
「大淀、少し……時間をもらえるか」
私の声に、大淀はいつもの事務的な所作で眼鏡を押し上げ、こちらを向いた。
「どうされました? 春雨さんに少し休ませてもらうよう伝えたはずですが……」
私は、先ほど春雨にぶつけたものと同じ、心の中にある「靄」の話を切り出した。思い出すたびに脳を焼くような頭痛、そして艦娘たちの不自然な反応。自分の中に欠落している、冷たい水底のような記憶について。
「……大淀、君も知っているんだろう。私が何を忘れているのか。私が誰を――」
私の言葉がそこまで達したとき、大淀の表情から、一切の温度が消えた。 いつも論理的で、冷静沈着な彼女の瞳が、見たこともないほど深く、暗い色に沈んでいく。
「提督」
大淀の声は、どこか突き放すように冷たく、それでいて懇願するような震えを含んでいた。
「……現状の復旧作業は、非常にタイトなスケジュールで動いています。今は、目の前のレンガをどう積むか、それだけを考えてください。それ以外のこと……過去の記録や個人の記憶について私がお答えできることは、今のところ一文字もありません」
「しかし、大淀――」
「失礼します。第四区画の補強資材が到着したようです。確認に行ってまいります」
大淀は私と視線を合わせることを拒むように、手元のバインダーを強く抱え込み、足早に去っていった。その背中は、春雨の時と同じく、何かから必死に逃げ出そうとしているように見えた。
誰も教えてくれない。 完璧に管理されたこの鎮守府の中で、私の「過去」だけが、触れてはならない禁忌として隔離されている。
遠くで、また瓦礫が崩れる高い音が響いた。 その音すらも、今の私には、真実を隠そうとする誰かの叫び声のように聞こえてならなかった。




