霧がかった空
海を切り裂く轟音と、空を覆い尽くした艦載機のエンジン音が止み、鎮守府周辺に再び元の静寂が訪れようとしていた。
水平線の彼方、形を保てなくなった深海棲艦の残骸が、黒い泥のように海へと溶けて消えていく。その不気味な気配が霧散したとき、執務室のスピーカーから、安堵と達成感の入り混じった報告が響いた。
『――こちら長門。敵水雷戦隊、および後続の遊撃部隊の全滅を確認。……ふぅ、提督の言う通り、少し派手にやりすぎたかもしれんが……敵は一匹残らず海の藻屑だ』
『一航戦、攻撃隊帰還します。……提督、私たちの盾も、なかなか強固だったでしょう?』
加賀の静かな、けれどどこか誇らしげな声が執務室に届く。 私は深く椅子に身を沈め、握りしめていた拳をゆっくりと解いた。手のひらには、マイクを強く握りすぎていた跡が白く残っていた。
「……提督。敵反応、完全に消滅しました。私たちの……勝利です」
大淀がモニターを見つめたまま、力無く、けれど晴れやかな声で告げる。彼女の視線の先には、被弾して黒煙を上げる鎮守府の燃料貯蔵庫や、ひび割れた岸壁が映し出されていた。管理責任者として頭の痛い光景のはずだが、彼女の瞳には涙が溜まっていた。
「ああ。……よくやってくれた、みんな」
私は震える手でマイクを取り、全艦に向けて声を絞り出した。
「白露型、第一哨戒隊。主力艦隊。……一人も欠けることなく、よく持ちこたえてくれた。君たちの命に代えられるものなど、この鎮守府には何一つない。……胸を張って、帰ってきてくれ。私が、ここで待っている」
「夕立は大丈夫じゃないっぽーい!!」
通信の向こうで、白露たちの泣き笑いのような声や、霞の「当たり前でしょ、バカ提督!」という照れ隠しの怒鳴り声が聞こえた。
ふと窓の外に目を向けると、夕闇が迫る海辺に、傷ついた建物のシルエットが浮かんでいた。窓ガラスは割れ、外壁は剥がれ落ちている。かつての「効率」を重んじていた私なら、この損害額を計算して暗憺たる気持ちになっていただろう。
けれど、今の私にとって、その壊れた壁は彼女たちが生き残った証であり、誇りだった。
「提督、みんなが無事でよかったクマ……。建物は、球磨たちが泥だらけになって直してやるクマ!」
「……多摩も、手伝う。……瓦礫拾い、得意だニャ」
球磨と多摩が、私の両脇でそっと寄り添うように言った。 迅鯨と長鯨も、私の背中にそっと手を添え、その温もりで私の戦慄きを鎮めてくれる。
勝ったのだ。 兵器としてではなく、一人の人間として彼女たちを愛することを決めた、その最初の戦いに。
私は、ボロボロになった鎮守府の地図を見つめながら、これから始まる「復興」という名の新しい任務を思い、小さく、けれど確かな笑みを浮かべた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私は執務室を飛び出し、硝煙が薄くたなびく鎮守府内へと足を進めた。
真っ先に向かったのは、主力艦隊の砲撃戦に巻き込まれ、至近距離で爆風を浴びた工廠エリアだった。
「……こりゃ、ひどいな」
目の前に広がる光景に、思わず独り言が漏れた。 かつて整然と積まれていた歴史ある赤いレンガの壁は、無残に崩れ落ち、瓦礫の山と化している。黒く煤けた梁が剥き出しになっている。
以前の私なら、この光景を見て「修復に要する資材量」と「工期」を真っ先に計算し、溜息をついていただろう。だが、今の私は、その崩れた壁を愛おしくさえ感じていた。
「……提督。申し訳ありません。私の砲撃の余波で、大切な工廠が……」
背後から、長門が沈痛な面持ちで近づいてきた。その艤装には激戦を物語る傷跡が刻まれ、白煙が上がっている。彼女の後に続く陸奥や秋月、そして白露型たちも、壊れた建物を見て申し訳なさそうに視線を落としていた。
私は振り返り、崩れたレンガの一つを拾い上げた。掌に残る、まだ熱い感触。
「何を言っているんだ、長門。このレンガの一枚一枚が、君たちの代わりに傷ついてくれたんだ。建物の壁が壊れたおかげで、君たちが無傷で済んだ。……そう考えれば、安いものだよ」
私の言葉に、艦娘たちがハッとしたように顔を上げた。
「これくらいのレンガ、またみんなで積み直せばいい。元の形よりも、もっと頑丈で、もっと良い場所にしてみせよう。……な、明石?」
瓦礫の中から「もう、無茶苦茶なんですから!」と、煤だらけの明石が這い出してきた。口では文句を言いながらも、その瞳には「腕が鳴る」と言わんばかりの輝きがある。
「あーあ、提督がそう言うなら、特注のレンガを焼き上げちゃいますからね! 予算、たっぷり用意しておいてくださいよ!」
明石の明るい声に、沈んでいた空気が一変した。 白露が「一番かっこいい工廠にするのを手伝ってあげる!」と笑い、夕立も服がボロボロになりながらも「夕立もレンガ運ぶっぽい!」と腕をまくる。
壊れたレンガを見つめながら、私は確信していた。 形あるものは壊れる。けれど、あの子たちが守り抜いたこの絆だけは、どんな爆風でも壊すことはできない。
「夕立は入渠しに行きなさい」
「はーい!夕立入渠するっぽーい!!」
ボロボロになりながらも夕立は元気よく返事をする。
私は夕立に入渠を促しながら拾い上げたレンガをそっと地面に置き、夕闇に包まれ始めた鎮守府を見渡した。 復興という新しい任務は、きっと今までで一番、やりがいのあるものになるはずだ。
「よし、私も手伝おう。レンガ運びなら力仕事だ、人手は多い方がいい」
私が上着を脱ぎ捨て、袖をまくり上げようとしたその瞬間だった。
「はい、ストップ! 提督、そこまでだクマ!」
球磨が両手を広げて私の前に立ちはだかった。続いて、多摩が瓦礫の影からひょいと顔を出し、呆れたような視線を向けてくる。
「……提督。……場違い。……提督の手は、レンガを運ぶためじゃなくて、ペンを握るためにあるニャ」
さらに、帰還したばかりの霞が、煤で汚れた顔のままズカズカと詰め寄ってきた。
「ちょっと! あんた、自分の立場わかってんの? こんなところで泥まみれになってる暇があったら、さっさと執務室に戻りなさいよ! これからの修復予算の計算に、各方面への被害報告、それに戦功の集計……山ほど仕事があるでしょ!」
霞の鋭い叱咤に、周囲にいた長門や白露たちも「そうだぞ、提督」「私たちはこっちをやっておくから!」と口々に賛成し始めた。
「いや、だが……みんなが苦労しているのに、私だけ部屋にこもっているわけには――」
「甘いわね!」 霞が腰に手を当てて言い放つ。 「あんたが書類仕事を早く終わらせなきゃ、私たちの艤装の修理資材も、明石の新しいレンガも届かないじゃない! それが『あんたの戦い』でしょ! シャキッとしなさいな!」
ぐうの音も出ない正論だった。 彼女たちは、私を「一人の男」として案じながらも、「指揮官」としての責任を果たすよう促してくれているのだ。
迅鯨が困ったように微笑みながら、私の脱ぎかけた上着を拾い上げ、丁寧に埃を払った。 「提督、皆様の仰る通りです。……私たちはここで、精一杯の復旧作業に努めます。ですから、提督は私たちの『未来』を整えるお仕事をお願いいたしますね」
結局、私は大勢の艦娘たちに、半ば「追い返される」ような形で執務室へと促された。
「……わかったよ。その代わり、無理はするな。夜になったら、温かい食事を用意させるからな」
「わかってるクマ! さっさと行くクマ!」
背中を押され、私は苦笑しながら執務室へと続く廊下を歩き出す。 かつての孤立した「効率」の檻へ戻るのではない。彼女たちの想いと、明日への希望を背負って、私は再びデスクに向かうのだ。
執務室の扉を開けると、そこには既に大淀が、膨大な被害報告書を抱えて待機していた。
「あ、提督。お戻りですね。……覚悟はできていますか? 徹夜になりますよ」
眼鏡を光らせる大淀の挑戦的な笑みに、私は「ああ、望むところだ」と力強く答えた。
夜も更け、執務室にはカリカリとペンが走る音と、時折大淀が書類をめくる音だけが響いていた。
復興予算の策定、各方面への被害報告、資源の再配分……。山積みのタスクを一つずつ片付け、ようやく「第一哨戒隊・戦闘詳報」という綴じ目に手をかけた時だった。
そこに記された夕立の損耗状況の記述を見た瞬間、視界がぐらりと歪んだ。
「……っ、あ……」
ペンを握る指先が、自分のものとは思えないほど激しく震え出す。 報告書には『艤装大破、および各部損傷。修復に要する時間は……』と、ごくありふれた文言が並んでいる。物理的な数値としては、命に別状はない軽微なものだ。
だというのに。
心臓が警鐘を鳴らすように跳ね上がり、こめかみの奥を重い鉄の杭で打ち抜かれたような鋭い頭痛が私を襲った。
(なんだ……? 夕立は無事だ。みんな、笑って帰ってきたはずだろう……?)
そう自分に言い聞かせようとするが、頭痛はさらに激しさを増していく。 視線の端、白く乾いた報告書の紙面に、今そこにはないはずの「真っ赤な海」が重なって見えた気がした。耳の奥で、誰かの叫び声が、あるいは水底へと沈んでいく艦が最期に上げる断末魔のような軋み音が響く。
「……提督? どうされましたか、顔色が真っ青ですよ」
隣で作業していた大淀が、異変に気づいて椅子を蹴るように立ち上がった。彼女の差し出す手が肩に触れようとしたが、私はそれを拒むように、自分の頭を抱え込んだ。
「……いや、なんでもない。少し、疲れが出ただけだ……」
絞り出すような声。 頭の奥に、分厚い鉄の扉があるのを感じる。その扉の向こうで、何かひどく悲しい、冷たい「氷のような記憶」が渦巻いている。だが、それを思い出そうとすればするほど、脳を焼くような激痛が拒絶反応を起こした。
私は……何かを、忘れている。 この痛みは、失うことへの過剰な恐怖なのか。それとも、かつて私が犯した「取り返しのつかない何か」の残滓なのか。
「提督、今日はもう無理です。これ以上は効率が落ちるだけだクマ。強制終了だクマ!」
いつの間にか戻っていた球磨が、厳しい顔で私のペンを取り上げた。 私は答えを返すこともできず、ただ額に流れる冷や汗を拭い、激しい痛みの波が過ぎ去るのを待つしかなかった。
(……この痛みは、なんだ。僕は……一体何を失ったんだ……?)
暗い海に沈んでいくような感覚。 今夜、勝利を祝うはずだった鎮守府の夜が、一瞬にして底冷えのする深い闇に覆われたような気がした。
激痛に顔を歪める私の異変を察したのだろう。音もなく執務室の扉が開き、迅鯨と長鯨が静かに入ってきた。
二人の手には、湯気の立つ湯呑みが乗ったトレイがある。
「提督、少し根を詰めすぎましたね。……こちら、気分を落ち着かせるハーブをブレンドしたお茶です」
迅鯨が、私の震える肩にそっと手を添えながら、温かなお茶を目の前に置いた。長鯨も、私の顔色を心配そうに覗き込みながら、冷たいタオルを用意してくれている。
「夕立さんのことは、明石さんがしっかり診てくれています。艤装の修復も順調ですから、提督がそんなに思い詰めなくても大丈夫ですよ……?」
長鯨の優しい声が、痛みの渦に飲み込まれそうだった意識を、辛うじて現実に繋ぎ止めてくれた。
温かな湯気を吸い込むと、鼻腔を抜ける香りが少しだけ頭痛を和らげていく。だが、それでもなお、心の奥底にある「冷たい塊」は消えなかった。
「……ああ、すまない。二人の言う通りだ。少し……考えすぎていたようだ」
私は、震える手で湯呑みを持ち上げ、一口その温もりを喉に流し込んだ。 迅鯨は何も言わずに、私の背中を一定のリズムで優しくさすり続けている。その献身的な所作は、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧で、今の私の脆さをすべて受け入れてくれているようだった。
「提督。……お辛い時は、私たちを頼ってください。一人でその『痛み』を抱え込まないでくださいね」
迅鯨の瞳が、暗い室内で深い光を湛えている。 彼女たちは、知っているのだろうか。私が忘れてしまった、あるいは閉じ込めてしまった「記憶」を。
はたまた、それは私だけ頭の中の空想上の出来事に過ぎないのか。
お茶を飲み終える頃には、激しい動悸は収まっていた。だが、机の上に置かれた夕立の報告書が、今はまるで呪いの一枚であるかのように不気味に見える。
「……今日は、もう休もう。……二人とも、ありがとう」
「はい。寝所までお供いたしますね、提督」
長鯨が私の腕を支えるように寄り添う。 私は、崩れ落ちたレンガの瓦礫や、傷ついた艦娘たちの顔、そして何より、頭の奥で疼く「誰かの悲鳴」を振り払うように、重い足取りで執務室を後にした。
夜の帳に包まれた鎮守府は静まり返っていたが、私の心の中では、開いてはいけない扉が、微かに、けれど確実に軋む音を立て始めていた。
自室の重い扉を閉め、背を預ける。 静寂が訪れると同時に、先ほどの頭痛の余韻がまたこめかみを突き刺した。
月明かりだけが差し込む部屋で、私は椅子に深く腰掛け、自分の両手を見つめる。 なぜ私は、あんなにも冷酷になれたのだろうか。 なぜ、彼女たちの温もりを無視し、ただの「兵器」として、数字の羅列としてのみ扱ってこれたのか。
思い返せば、この鎮守府に着任した当初の私は、もっと違っていたはずだ。 だが、ある時期を境に、私の記憶には霧がかかっている。 そしてその霧の向こう側から、「効率こそが正義だ」という強迫観念だけが、呪いのように私を支配し始めた。
(……そうだ。心を動かしてはいけないと、誰かが囁いていた気がする)
艦娘を愛してしまえば、彼女たちが傷ついたとき、自分の心も砕けてしまう。 彼女たちを人間として見てしまえば、冷徹な判断を下さなければならないとき、指揮官としての腕が鈍る。 一人を救うために全体を危険に晒すような、そんな「弱さ」を排除するために……私は自ら心に厚い鉄板を貼り付けたのではなかったか。
感情を殺し、彼女たちを消耗品として見なすことで、私は自分自身の精神を守ろうとしていたのだ。
「……臆病だったんだ、私は」
暗闇の中で、自嘲気味な呟きが漏れる。 失うのが怖くて、最初から何も持っていないふりをしていた。 傷つくのが怖くて、愛することを放棄していた。
今日の夕立の報告書を見て走ったあの激痛。 あれは、無理やり封じ込めた「何か」が、私の心の鉄板を内側から叩き壊そうとしている合図だったのかもしれない。
かつて、私は何を失った? 私の記憶が拒絶している「何か」の光景、あれはなんだった……?
考えようとすると、また視界が歪む。 今はまだ、その扉を開ける勇気がない。 だが、今の私には、傷ついたレンガを一緒に積み直そうと言ってくれる彼女たちがいる。
私は、デスクに置かれた「要望箱」から持ち帰った数枚の紙切れを手に取った。 彼女たちの拙い字を見つめながら、私は自分に言い聞かせる。『みんな提督の味方だよ』と書かれている紙切れを手に取る。
「もう、逃げない。……たとえ、この先にどんな絶望的な記憶が待っていたとしても」
震える呼吸を整え、私は目を閉じた。 明日もまた、復興という名の「任務」が待っている。




