脅威なる風
穏やかな午後の余韻は、突如として切り裂かれた。
――バンッ!
悲鳴に近い音を立てて、執務室の重い扉が勢いよく撥ね飛ばされる。 そこに立っていたのは、いつもなら冷静沈着の代名詞とも言える通信、あるいは作戦立案の要――大淀だった。
普段なら眼鏡の奥の瞳を理知的に光らせ、一分の隙もない仕草で報告を行う彼女が、今は肩を激しく上下させ、額にうっすらと汗を浮かべている。その手には、震える一枚の電文が握られていた。
「て、提督! 失礼します……っ!」
息を整える間も惜しむように、大淀が声を張り上げる。その切迫した表情だけで、事態が平時ではないことを物語っていた。
「大変です……鎮守府沖合、至近距離に深海棲艦の反応あり! 哨戒網を潜り抜けた敵潜水艦、および小規模な遊撃部隊が急接近しています!」
その言葉に、室内の空気が一瞬で凍りついた。 球磨が警戒心剥きだしに、多摩の目が鋭く細められる。椅子から立ち上がろうとした私を支えるように、迅鯨がさっと背後に回った。
「大淀、落ち着いて状況を。……哨戒網を抜けた、と言うのか?」
私の問いに、大淀は悔しそうに唇を噛み、眼鏡の位置を直しながら頷いた。彼女は自身の失態を何よりも嫌う。だからこそ、この報告は彼女にとって痛恨の極みであり、同時にそれだけ敵の侵攻が巧妙だったことを示していた。
「……申し訳ありません、詳細は不明ですが、磁気感知の死角を突かれた可能性が高いです。現在、迎撃準備中の艦娘たちを集結させていますが、敵の速度が予想以上に早く――」
大淀が手元に広げた海図を指差す。そこには、鎮守府という私たちの「家」を真っ向から突き刺すような、紅い進撃ルートが描かれていた。
つい先ほどまで、間宮の店で朝潮たちと笑い合っていたあの穏やかな光景が、脳裏をよぎる。 彼女たちの命。彼女たちの笑顔。そして、やっと取り戻した血の通った日常。
それを、再びこの海が呑み込もうとしている。
(……奪わせはしない)
私は、手元にあった提督帽を深く被り直した。 以前のような、駒として彼女たちを使い捨てる冷徹な判断ではない。 全員を生かして帰し、再びあの不格好な要望箱の中身を叶えるために。
「大淀、非常招集を。第一、第二、第三種警戒配備を敷く。……迅鯨、長鯨、君たちは防空および後方支援の指揮を。球磨、多摩は私の指示を各艦隊へ飛ばしてくれ」
私の指示に、大淀は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。彼女の計算高い頭脳が、今の私の声に宿る「昨日とは違う何か」を瞬時に察知したのだろう。
「了解しました、提督! ……出撃、および迎撃準備、直ちに取り掛かります!」
大淀が背筋を伸ばし、一礼して駆け出す。その背中は、提督の意志が揺るぎないものであることを確信した、心強い軍人のそれに戻っていた。
嵐が、そこまで迫っていた。
「すべて完璧だったはず……どこから抜けてきたんだ」
私が地図を睨みつけ、呻くように呟いた。
これまでの私のやり方だ。哨戒ラインは幾重にも重ね、資源の無駄を厭わず効率的な網を張ってきた。計算上、深海棲艦がこの至近距離まで「無傷で」侵入する確率は、限りなくゼロに近かったはずだ。
「……提督。……悔しいですが、敵は既存の『航路』を通っていません」
大淀が痛恨の思いを滲ませ、震える指先で海図の端、潮の流れが複雑に絡み合う「魔の海域」の入り口を指した。
「通常、大型艦や潜水艦であっても座礁を免れない浅瀬と暗礁の群れ……そこを強行突破してきたようです。いえ、あるいは『深海』ならではの特殊な潜航法を用いたのか……。こちらの計算式を、嘲笑うかのようなルートです」
理詰めで状況を分析しようとする大淀の横顔には、自分の完璧な防衛計画を打ち破られた困惑と、予測不能な敵への恐怖がわずかに混じっていた。
以前の私なら、ここで大淀を叱責していただろう。「なぜ予測できなかった」と冷たく言い放ち、彼女の誇りを傷つけていたはずだ。
けれど、今は違う。
「……そうか。計算を超えてくるのが奴らだ、ということを忘れていた。大淀、自分を責めるな。君の計画が完璧だったからこそ、奴らはあえて無茶な道を選んだんだ。それはつまり、奴らも余裕がないということだ」
私の言葉に、大淀が弾かれたように顔を上げた。眼鏡が少しだけズレているのも構わず、彼女は信じられないものを見るような目で私を見つめる。
「提督……。はい。お仰る通りです。立ち止まっている時間はありませんね」
彼女はすぐさま眼鏡をクイと押し上げ、再び鋭い参謀の顔に戻った。
「敵部隊は急速に浮上中。このままでは、演習中の駆逐艦たちが背後を突かれます! 今すぐ、最短で迎撃できる戦力を出さなければ!」
背後を突かれる――。 その言葉と共に、私の脳裏に先ほどまで笑っていた睦月や、朝潮たちの姿が浮かぶ。
「球磨、多摩! すぐに全艦へ通信だ。これは演習ではない、実戦だ。……全娘、抜錨! 彼女たちの『家』に泥足で踏み込んできた不届き者を、一匹残らず追い出すぞ!」
「了解だクマ! 吠えてやるクマ!」
「……多摩、回線開いた。……やるニャ」
執務室が、戦いの熱気に包まれる。 完璧だったはずの計算が狂ったのなら、それを埋めるのは血の通った意志だけだ。
「大淀、計算の狂いを悔やむのは後だ! 今、この瞬間動ける戦力を即座に叩き込め!」
私は海図を拳で叩き、矢継ぎ早に命じた。
「第一哨戒隊――白露、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨! 彼女たち六隻を直ちに現場へ向かわせろ!!」
大淀が目を見開き、コンマ数秒の速さで状況を照合する。
「白露型六隻ですね! 了解、彼女たちは現在、鎮守府西方の海域で待機中です。最短ルートを取れば、敵先遣部隊の横っ面に間に合います!」
大淀は淀みない動作でマイクを掴んだ。その声は、私の決断を信じた揺るぎない参謀の響きを取り戻している。
「第一哨戒隊、白露型各艦へ緊急伝達! これは演習ではありません、繰り返します、実戦です! 目標、鎮守府近海に侵入した深海棲艦。一番艦、白露を筆頭に直ちに迎撃を開始してください!」
スピーカーの向こう側から、雑音混じりに少女たちの凛とした声が返ってくる。
『――了解! 一番かっこいい私たちが、さっさと片付けてあげるから見てなさいよね!』
白露の勇ましい声。その後ろで『……分かってる、ボクたちが行くよ』という時雨の静かな闘志が混じる。
これまでの私なら、彼女たちを「使い勝手の良い戦力」としてしか見ていなかった。だが今は、彼女たちの命が今まさに荒波へ飛び込んでいく重みを、胸の奥で痛みとして感じる。
「球磨、多摩! 白露型のバックアップを急げ。周辺の海域にいる全艦娘に、第一哨戒隊の援護を優先するよう伝えろ。……一人も沈ませるな。これは命令だ」
「分かったクマ! 全速力でつなぐクマ!」
「……多摩、各周波数固定。……白露型を独りぼっちにはさせないニャ」
執務室内の慌ただしさは最高潮に達していた。 大淀は次々と上がってくる戦況報告をさばきながら、時折、私の方へ驚きを含んだ視線を向ける。私が「効率」よりも先に「命」を優先する命令を下したことに、彼女の中の論理が揺さぶられているようだった。
「……提督、白露型、敵潜水艦群と接触! 交戦開始しました!」
大淀の叫び。 戦略ミスという、かつての私が最も忌み嫌った「汚れ」を、今の私は全責任を背負って飲み込む。 すべて完璧だったはずの計算が外れたのなら、その先に待つ最悪を覆すのは、私のこの「声」だけだ。
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鎮守府の喧騒を遠くに置き、海上は既に、硝煙と鉄の匂いが支配する戦場へと変貌していた。
――ドォォンッ!
至近距離で炸裂した水柱が、一番艦・白露の甲板を激しく叩く。
「ちょっとぉ! いきなりやってくれるじゃない! 一番かっこいい私が、そんな不意打ちでやられるわけないでしょ!」
白露は飛沫を振り払いながら、主砲を吠えさせた。彼女の叫びに呼応するように、白露型の姉妹たちが、荒れる波を切り裂いて陣形を展開する。
「……敵の動き、やっぱり少し変だ。ボクたちの予測をわざと外してきている……」
時雨が冷静に海面を見据え、舵を切る。彼女の勘が、波間に潜む不気味な気配――計算では導き出せない「殺意」を捉えていた。
「うふふ、素敵なパーティになりそうね。村雨、いっきまーす!」
「夕立も、もっともっと頑張るっぽい! 突撃しちゃうっぽい!」
村雨が軽やかに砲火を潜り抜け、夕立が瞳に紅い光を宿して加速する。春雨と五月雨も、互いを庇い合うように弾幕を張り、敵潜水艦の浮上を阻んでいた。
その時、彼女たちの耳元で、ノイズ混じりの通信機から「あの声」が響いた。
『――白露型各艦、聞こえるか。提督だ』
いつもなら、淡々と座標と撃破目標だけを告げる冷たい声。けれど、今響いているのは、彼女たちの無事を心から祈り、共に戦おうとする者の熱を帯びた声だった。
『無理な深追いはするな。君たちの命は、何よりも優先される。敵を追い出すこと以上に、六隻全員で帰ってくることが、今の私の「最優先任務」だ。……頼んだぞ』
一瞬、通信機越しに白露たちの息を呑む気配が伝わった。
「……提督? 何よそれ、らしくないじゃない……」
白露が照れ隠しに鼻をすする。けれど、その頬は高揚し、握る操舵輪にはこれまでにない力がこもっていた。
「……ボクたちの命が、最優先、か。……ふふ、重い命令だね。でも、嫌じゃないな」
時雨が小さく微笑み、鋭く指示を飛ばす。
「全艦、単縦陣から梯形陣へ! 提督の言った通り、一隻も欠けさせない。……ボクたちの『家』を守るよ、みんな!」
『――了解!!』
六隻の声が重なる。 かつて彼女たちは「兵器」として消耗されることを覚悟していた。けれど今、彼女たちは「一人の少女」として、自分たちを愛してくれる提督のために、限界を超えた力を発揮し始めていた。
白露型の猛攻が、侵入者の陣形を確実に、そして力強く押し戻していく。
白露型の奮戦によって敵の潜水部隊が後退し始めたのも束の間、時雨の鋭い警告が無線を揺らした。
「……待って。前方、深い霧の奥から……何か来る」
波間を切り裂き現れたのは、深海棲艦の水雷戦隊だった。 それは、この世の理から外れた、憎悪を形にしたような異形。深海を漂う亡霊の残滓か、あるいは沈みゆく艦の未練が、海水の重圧に耐えかねて歪んだ姿なのか。
先頭を走る「駆逐ハ級」や「イ級」は、有機物とも無機物ともつかぬ異様な皮膚を纏い、そこから生え出した主砲は、まるで苦悶に喘ぐ口のように赤黒い光を湛えている。それらは意志を持つ軍隊というより、ただ破壊と捕食を繰り返す「現象」のように見えた。
「――深海の増援だクマ! 水雷戦隊、ハ級後期型を確認。数が多いクマ!」
執務室で受信した多摩の報告に、大淀の顔が再び強張る。
「……あれは、感情を持たない殺戮兵器です。私たちの言葉も、慈悲も、一切通じない。ただ『こちら側』にある生命を、すべて深い底へと引きずり込もうとする……海の底の悪夢そのもの」
大淀が震える指でモニターの影を指す。 白露型六隻に対し、敵は倍以上の数。しかも、異形の主砲から放たれるのは、こちらの防油塗装を腐食させるような禍々しいエネルギー弾だ。
「夕立、危ないっぽい!」
「分かってる! でも、こいつら……さっきの潜水艦よりずっと速いっぽい!」
夕立の悲鳴に近い叫び。 ハ級の放った一撃が夕立の艤装を直撃、彼女の白い肌を黒い煤が汚す。
「うわーん!!痛いっぽいー!!」
通信機越しに聞こえる、白露型たちの荒い息遣い。 画面に映る、おぞましい深海の影。
(……あんな化け物に、あの子たちを触れさせはしない)
私は、無意識にマイクを握る手に力を込めていた。 以前の私なら、この戦況を「敵の物量に押されている。多少の損害は許容範囲内だ」と冷淡に判断しただろう。 けれど、今の私には、あの異形の砲火が、彼女たちの瑞々しい心と体を傷つける「汚物」にしか見えなかった。
「大淀! 白露型を単縦陣に戻せ。回避を最優先しつつ大破した夕立を庇いながら、敵の突進を分散させるんだ。……それと、第一艦隊の準備はどうなっている!」
「……! 第一艦隊全員まだ鎮守府の岸壁をあまり離れていません!」
「すぐに加賀、赤城から艦載機を発艦させろ。長門、陸奥の砲撃を開始するんだ。彼女たちの盾になるんだ。白露型を、あの奈落の底へは一歩も近づかせるな!」
私はモニターの中の異形を睨みつけた。 死を象徴する深海棲艦。対して、生の喜びを知り始めた艦娘たち。 どちらが勝つべきか、その答えは私の心の中で、既に燃えるような確信に変わっていた。
「――大淀! 躊躇するな、全戦力を解き放て!」
私はモニターに映る白露型の窮地を凝視しながら、叫ぶように命じた。
「ですが提督、ここで全力の砲撃戦を展開すれば、流れ弾や爆風で鎮守府の施設に多大な被害が……!」
大淀が沈痛な面持ちで叫び返す。彼女にとって、この美しい鎮守府を守ることもまた、完璧な管理任務の一つなのだ。だが、今の私にとって、建物の瓦礫と彼女たちの命は、天秤にかけるまでもなかった。
「構わん! 建物などいくらでも建て直せる。だが、彼女たちの命は代えがきかないんだ! 多少鎮守府が壊れてもいい、あの子たちを……一人も欠けさせるな!!」
その言葉に、室内の全員が息を呑んだ。 管理と効率の化身だった男が、施設の破壊すら辞さず「命」を選んだ。その気迫に押されるように、大淀が震える手で回線を開く。
「……第一主力艦隊、砲撃戦、航空戦を開始してください! 全艦、全力で第一哨戒隊を援護してください!」
鎮守府の岸壁を蹴り、ついに「最強」たちが動く。
先頭を行くのは、一航戦の赤城と加賀。静謐な殺気を纏う加賀が、その弓を引き絞る。 「……提督の決意、無駄にはしません。一航戦、攻撃隊発艦」 「いなさいな。私たちの翼からは、逃げられませんよ」 赤城の穏やかな声と共に、空を覆い尽くさんばかりの艦載機群が放たれた。それは死を運ぶ異形共への、天からの裁きだ。
その後ろから、巨大な威容を現したのは戦艦長門と陸奥。 「我らがここにいる限り、深海の不届き者共の好きにはさせん。……長門、主砲一斉射!」 「あらあら、提督がそこまで言うなら、お姉さんも本気出しちゃおうかしら。うふふ、火遊びは嫌い?」 長門の鋼の意志と、陸奥の妖艶なまでの破壊衝動が、戦艦級の巨砲となって唸りを上げる。
さらに、その懐を守るのは、防空の要・秋月と、提督の変化をいち早く感じ取っていた霞だ。 「秋月、防空射撃、開始します! 弾幕で、皆さんの頭上は私が守り抜きます!」 「ちょっと、白露型! チンタラしてんじゃないわよ、あんな化け物、さっさと沈めなさい! ……ほら、私たちが来たからには安心しなさいよね!」 霞は毒づきながらも、誰よりも早く白露型たちの元へ駆け寄り、その盾となっていた。
空を裂く艦載機の咆哮。海を震わせる巨砲の衝撃波。 そして、提督の意志を体現するかのような、苛烈なまでの猛攻。
「おのれ、深海棲艦……。あの子たちの居場所を、私たちの日常を汚した代償は、高くつくぞ」
私は拳を握りしめた。 鎮守府の壁が崩れ、硝煙が立ち込めても構わない。 この戦火の先に、全員で笑い合える「明日」があるのなら。




