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提督のやり直し  作者: 逸見烈沙
4/9

甘味処へ

扉が閉まった直後の執務室は、それまでの静寂が嘘だったかのように、奇妙な活気に包まれていた。


「ほらほら、提督! ぼーっとしてる暇はないクマ! この書類の山、球磨たちが片付けてやるから、提督は判子を押す機械になるクマ!」


 球磨が机の端から次々と書類を私の目の前へスライドさせてくる。その手つきは意外にも素早いが、勢いが良すぎて数枚が床に舞い落ちた。


「球磨、落ち着いて。……多摩が拾うから。提督、これは急ぎの資材申請。……こっちは、入渠ドックのスケジュール。……これは、猫の集会のお知らせ……じゃないニャ」


 多摩が淡々と、けれどちょっと楽しそうに書類を仕分けていく。彼女たちのやり取りを見ていると、先ほどまでの感傷的な気分がどこかへ吹き飛んでしまう。


「あ、待つクマ! この書類、端っこが折れてるクマ! 縁起が悪いからアイロンをかけるクマ!」

「……球磨、それはやりすぎだニャ。提督が困ってる。ほら、お茶。迅鯨が置いていった茶葉、多摩が淹れた。温度は......多分適当だニャ」


 差し出された湯呑みを受け取ると、確かに少し熱すぎたが、その武骨なもてなしが今は心地よい。


 かつての私なら、「もっと静かに、効率的に動け」と一喝していただろう。秘書官は私の手足であり、余計な雑音は不要だと思っていたから。  けれど、目の前で「クマクマ」と騒ぎながらも、提督の仕事量を減らそうと懸命に動く彼女たちの姿は、どうしようもなく「生」を謳歌しているように見えた。


「……ふふ」

「……? 提督、今笑ったクマ? 多摩、提督が笑ったクマ! 疲れて頭がクマになったのかクマ!?」

「……提督、壊れた? 多摩が修理する? 叩けば直るかニャ」


 多摩が本気で心配そうな顔をして近づいてくる。私は慌てて手を振り、ペンを走らせ始めた。


「いや、なんでもないよ。……ありがとう、二人とも。助かるよ」


 私の言葉に、球磨は一瞬だけ動きを止め、それから顔を真っ赤にして「……当然だクマ!」と叫んで、さらに激しく書類を動かし始めた。多摩も満足げに自分の作業に戻っていく。


 賑やかで、少しだけ落ち着かない時間。  けれど、この「慌ただしさ」こそが、今の私が必要としていた鎮守府の鼓動そのものだった。


「頭を叩いてもバカになるだけだから、やめてくれ...」


 苦笑まじりに私が制すると、多摩は上げた手を所在なげに空中で止めた。


「……そう。多摩の修理法、却下...残念だニャ」


 多摩は少しだけ不満げにしながら、また淡々と書類の整理に戻る。一方の球磨は、私の言葉を聞いて「クマッ!?」と大げさに驚いてみせた。


「提督! 球磨たちが付いてるんだから、バカになる暇なんてないクマ! もし提督がバカになっても、球磨たちが代わりに考えてやるから安心するクマ!」

「……それはそれで、この鎮守府の未来が心配になるな」


 思わず本音が漏れると、球磨は「ひどいクマ!」とぷくっと頬を膨らませる。  かつての冷徹な執務室では、ジョークの一つも許されないような凍てついた空気が流れていた。けれど今は、ペンを走らせる音の合間に、彼女たちの些細な冗談や、どこかズレた気遣いが混じる。


 それが、ひどく心地いい。  私は判子を押し、書類を多摩へと渡す。


「はい、これは完了。次は……工廠からの資材受領書か」

「……了解。多摩、仕分け。球磨、運び。……提督、判子。……完璧な連携だニャ」


 多摩が尻尾でリズムを取りながら、テキパキと(彼女なりのペースで)仕事を振り分けていく。  慌ただしい。確かに慌ただしい。  迅鯨たちがいた時の、至れり尽くせりの「静かな献身」とは正反対の、騒がしくて雑多な時間。


 けれど、こうして彼女たちと軽口を叩き合いながら仕事をしていると、自分が「指揮官」という記号ではなく、血の通った「人間」としてこの場所に存在していることを、一秒ごとに実感できる気がした。


「……あ、提督、手が止まってるクマ! またバカになりかけてるクマ!? 叩くクマ!? 叩くクマ!?」 「だから、叩くなって言ってるだろう……!」


 詰め寄ってくる球磨をなだめながら、私は笑いを堪えきれずにペンを動かした。


「そういえば、廊下に要望箱的なものを置いていたな……」


 ふと思い出して口にすると、書類を抱えていた多摩が足を止めた。


「……あのアクリル製の箱のこと? ……昨日から急に現れた、怪しい箱だニャ」

「怪しくないクマ! 提督が『みんなの声を聞く』って言ってたから、球磨が中身を回収してやるクマ!」


 そう。以前の私なら「何かあれば報告のラインを守れ」と切り捨てていただろう。けれど、昨夜の決意を形にする第一歩として、あえて名前を書かなくてもいい、匿名性の高い「要望箱」を設置したのだった。


「球磨、多摩。少し休憩にしよう。その箱の中身、今ここで確認してもいいかな?」


 私の提案に、二人は「クマッ!」と勢いよく頷き、廊下へと飛び出していった。  すぐに戻ってきた球磨の腕には、いくつか折り畳まれた紙切れが入った箱が抱えられている。


「意外と入ってるクマ……。みんな、提督に言いたいことがいっぱいあるクマね」


 机の上に広げられた紙片を、一つずつ手に取る。


『間宮さんのアイス、新メニューの試食会をやってほしいです』 『入渠ドックの入浴剤、たまにはヒノキの香りにしてほしいかも』 『夜戦演習のあと、もう少しだけ消灯時間を遅くしてほしい……』


 どれも軍事的な重要事項ではない。けれど、そこには間違いなく、ここで生活する彼女たちの「願い」が記されていた。


「……これ。……『提督、最近あんまり笑わないから、たまには笑って』。……誰かニャ、これ書いたの」


 多摩が読み上げた一枚の紙に、私は言葉を詰まらせた。  無記名のその手紙は、冷徹であろうとしていた私の壁が、いかに彼女たちを不安にさせていたかを物語っていた。


「……そうか。みんな、こんなふうに思っていたんだな」


 紙を指先でなぞる。  要望の一つひとつが、今まで私が見落としてきた「彼女たちの人生」の断片だった。


「提督、これ全部叶えるクマ? 予算が大変クマ!」


「全部は無理でも、できることからやっていくよ。まずは……そうだな、入浴剤から変えてみるか」


 私がそう言うと、球磨と多摩は顔を見合わせ、それから今までで一番明るい声で笑った。


「いいと思うクマ! さっそく明石に発注するクマ!」

「……提督。……少し、表情が柔らかくなったニャ。……多摩の修理より、この箱の方が効き目あったみたいだニャ」


 慌ただしい秘書官たちに囲まれながら、私は要望箱の中身を大切に整理し始めた。  一つひとつの願いに向き合うことは、彼女たちの命を預かることと同じくらい、今の私にとって重要な任務になっていた。


「みんなと向き合うのも、大切な任務なんだな」


 私が自分に言い聞かせるように呟くと、球磨と多摩が動きを止めてこちらを見た。


「任務……? 難しいことはよくわからないクマ。でも、提督がみんなのことを考えてるのは、みんなに伝わってるクマよ!」

「……そう。任務でも、趣味でも、なんでもいい。提督が『こっち』を見てるのは、悪い気分じゃないニャ」


 多摩が少し照れくさそうに視線を逸らすが背中は嬉しそうだ。


 これまでの私は、「任務」という言葉を、感情を殺して事務を遂行するための盾にしていた。効率的な進撃、被害の最小化、資材の最適運用。それこそがすべてだと。  けれど、今、私の手元にある色とりどりの要望の紙切れこそが、この鎮守府を維持するために最も重要な「作戦書」のように思えてくる。


 彼女たちの心が健やかでなければ、どんなに精巧な作戦を立てても意味がない。  一人の人間として彼女たちの声を聞き、喜びも痛みも分かち合うこと。それは「甘え」ではなく、彼女たちの命を預かる指揮官としての、避けては通れない、そして最も尊い義務なのだ。


「……よし。まずはこの『入浴剤』と『試食会』、すぐに関係各所へ連絡を入れよう」


 私が意気込んでペンを取ると、球磨が「待ってましたクマ!」と拳を突き上げた。


「多摩。通信機で明石を。球磨、君は間宮さんのところへ行って、今から行くことを伝えてきてくれ…秘書官、頼めるか?」


 私が真っ直ぐに二人を見つめて指示を出すと、二人は一瞬、驚いたように顔を見合わせ――それから、今まで見たことがないほど誇らしげに、ビシッと敬礼した。


「了解だクマ! 球磨、全速力で行ってくるクマ!」

「……多摩、通信開始。明石を捕まえるニャ。……任せて」


 二人は風のように執務室を飛び出していった。  バタバタと廊下を駆けていく足音が、鎮守府中に私の「新しい決意」を運んでいくような気がした。


 静かになった部屋で、私は最後の一枚の要望を手に取る。  そこには、震えるような字で『明日も、笑っていてください』とだけ書かれていた。


「……ああ。約束するよ」


 誰もいない空間に、私は誓うように答えた。  見通せない未来への恐怖は消えないけれど、この温かな騒がしさを守り抜くためなら、どんな「任務」だってやり遂げられる。そんな、確かな力が心の底から湧き上がってくるのを感じていた。


執務室を飛び出した球磨と多摩を追うように、私は間宮の店へと足を運んだ。


 暖簾をくぐると、甘い砂糖と小豆の香りが鼻をくすぐる。  そこには既に、先触れとして到着していた球磨が間宮さんと熱心に打ち合わせをしており、多摩は店の隅で品書きを眺めながら尻尾を揺らしていた。二人は要望箱の中身を把握しているため、私の登場にも驚くことなく、「あ、来たクマ」といった様子で軽く手を挙げた。


 店の奥の大きなテーブルには、数人の駆逐艦たちが座っていた。  朝潮、大潮、そして満潮。  彼女たちは私に気づくと、弾かれたように背筋を伸ばし、整然と居住まいを正した。


「あ、提督。お疲れ様です! 第八駆逐隊、休息中です!」


 朝潮が凛とした声で報告する。その瞳には、かつての冷徹だった私に対する、ある種の緊張感がまだ微かに残っている。


「……提督、何よ。こんな時間に珍しいじゃない」


 満潮が少しぶっきらぼうに視線を逸らす。大潮は「提督も甘いものでアゲアゲですか!?」と元気に笑っているが、やはりどこか探るような気配があった。


 私は彼女たちの前に立ち、穏やかに言葉を紡ぐ。


「いや、急に済まない。実は要望箱に『新メニューの試食会をやってほしい』という意見があってね。間宮さんと相談に来たんだ。もし良ければ、君たちにも協力してもらえないだろうか」


 私の言葉に、朝潮型の一同が呆気にとられたように顔を見合わせた。  特に、規律を重んじる朝潮は、信じられないものを見るような目で私を見つめている。


「私たちが……試食会に、ですか? 提督自ら、そのような細かな要望のために足を運ばれるなんて……」


「これも立派な任務だと思っている。朝潮、君たちの率直な意見を聞かせてほしいんだ」


 私が真っ直ぐに彼女の目を見て告げると、朝潮の頬がわずかに赤らんだ。


「……了解いたしました! 司令官がそう仰るのなら、精一杯努めさせていただきます!」


 間宮さんが奥から「あらあら、それなら腕によりをかけないとね」と、嬉しそうに新作の甘味を運び出してきた。


 球磨が「いい匂いだクマ! 提督、早く食べるクマ!」と急かし、多摩が「……まずは、毒味(味見)からだニャ」と、茶碗を用意する。


 かつての私なら、彼女たちが何を食べているかなど、興味すら持たなかった。  けれど、目の前で期待に目を輝かせる朝潮たちの表情を見ていると、このささやかな時間が、彼女たちの戦う力に直結しているのだと痛感する。


 私は朝潮たちの隣に腰を下ろし、運ばれてきたばかりの新作に手を伸ばした。


「これは……おいしいな」


 一口含んだ瞬間、思わず素直な感嘆が漏れた。  それは、ただ甘いだけではない。春先の陽だまりのような、どこか懐かしくて温かい味がした。


「クマッ! でしょ、でしょ!? 間宮さんの作るものは天下一品だクマ!」

「……多摩も、そう思うニャ」


 球磨が自分のことのように胸を張り、多摩は無表情ながらも尻尾を機嫌よさそうにパタパタと振っている。


 ふと隣を見ると、朝潮が一口ずつ、大切そうに咀嚼していた。


「はい、司令官。本当に、元気が出る味がします。ありがとうございます、私たちのための『任務』にしてくださって」


 朝潮が居住まいを正し、深く頭を下げる。その声は、いつもの報告の時よりもずっと柔らかく、一人の少女としての響きを持っていた。


「司令官、これなら次回の作戦も、第八駆逐隊は完璧に任務を遂行できます。私、なんだか、今まで以上に頑張れそうです!」


 彼女の真っ直ぐな言葉が、私の胸に温かく刺さる。  ただの甘味。ただの試食会。  けれど、こうして膝を突き合わせ、同じものを「おいしい」と笑い合うことが、彼女たちの心のいかりになるのだ。


「ふん。提督がそこまで言うなら、認めてあげなくもないわ。……まあ、ちょっとだけ、いい鎮守府になったんじゃない?」


 満潮が横を向いたまま、ボソリと呟いた。その小さな呟きの中には、確かに私を受け入れる響きが混じっている。


「ああ。これからも、こういう時間を大切にしていきたい」


 私は、お代わりを運んできてくれた間宮さんにお礼を言い、再び箸を取った。


 見渡せば、店の中には活気と笑顔が満ちている。  かつての私は、この光景を「無駄な時間」と切り捨てていた。何という間違いを犯していたのだろう。  彼女たちがここで笑い、明日への活力を蓄えること。それを守るために、私はデスクで戦略を練るのだ。


 窓の外には、穏やかな海が広がっている。  明日にはまた厳しい海域への出撃命令が下るかもしれない。けれど、今の私には、共に戦い、共に帰る場所がある。


「提督、これ全部食べたら太るクマよ! 球磨が半分助けてやるクマ!」

「……球磨。それはただの、横取りだニャ。……多摩も、手伝うニャ」


 騒がしい秘書官たちのやり取りを聞きながら、私は確かな手応えを感じていた。  要望箱の一片から始まったこの小さな任務は、私と彼女たちの間に、もう二度と壊れない新しい絆を紡ぎ始めていた。


「ああ、美味しかった。......さて、そろそろ執務室に戻って、残りの仕事を終わらせないといけないな」


 私が名残惜しさを振り切るように腰を上げると、朝潮たちが一斉に立ち上がり、美しい敬礼で送り出してくれた。


「はい! 司令官、お忙しい中ありがとうございました。私たちも、午後の演習に全力を尽くします!」


 朝潮の真っ直ぐな言葉に見送られ、私は間宮の店を後にした。


「提督、歩くの早いクマ! 待つクマ!」

「……球磨、食べすぎ。多摩は、お腹が重くて走れないニャ……」


 背後で騒がしく追いかけてくる秘書官たちの声を聞きながら、私の足取りは以前よりもずっと軽かった。  執務室に戻れば、また山のような書類が私を待っているだろう。けれど、今の私にはそれが「単なる事務作業」には見えない。一つひとつの書類の向こう側に、先ほど笑い合っていた彼女たちの生活があり、未来がある。


 廊下を曲がり、執務室の前に辿り着く。  扉に手をかけようとしたその時、中から微かに、けれど聞き覚えのある落ち着いた声が漏れ聞こえてきた。


「……提督、そろそろお戻りになるかしら」

「そうね、お姉様。お仕事が溜まっていないといいのだけれど」


 迅鯨と長鯨だ。  彼女たちは秘書官の引継ぎを終えた後も、陰ながら私が戻る準備を整えてくれていたのだろう。


 私は一度深く息を吸い込み、表情を和らげてから扉を開けた。


「ただいま。来てたんだな」


 部屋に入ると、そこには完璧に整頓されたデスクと、ちょうど淹れられたばかりの香ばしいお茶の香りが満ちていた。  そして、振り返った二人の顔には、私が朝に見せたものと同じ、深い慈しみと信頼が宿っていた。


「おかえりなさいませ、提督。お顔を見ればわかります。良い『任務』だったようですね」


 迅鯨が優しく微笑み、私の椅子を引く。  その光景は、いつもの日常に戻ったようでいて、決定的に何かが違っていた。


 私は席に着き、ペンを取る。  さあ、仕事の続きだ。彼女たちの笑顔を守るための、私にしかできない戦いを始めることにした。

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