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提督のやり直し  作者: 逸見烈沙
3/9

もう一度この目で

食堂の重い扉を開けると、食欲をそそる出汁の香りと、食器が触れ合う賑やかな音が私の感覚を叩いた。


「あ、提督。おはよう。……って、何よその顔。寝不足? 少しは指揮官らしくシャキッとしなさいな」


 給仕の割烹着に身を包んだ霞が、トレイを脇に抱えながら鋭い視線を投げかけてくる。相変わらずの毒舌だが、その瞳の奥には体調を案じるような色が微かに混じっている。


「おはよう、提督! ほら、霞もそんなにツンツンしないの。今日の朝飯は気合入ってんだから。しっかり食べて、ガツンと仕事しなよ!」


 その隣で、長波が快活な笑い声を上げながら、湯気の立つ飯碗を並べていた。  彼女たちの存在は、私の内側にある湿った葛藤を、あっけらかんと吹き飛ばすような力強さがある。


 そして、その「日常」の中に、長鯨も混じっていた。


「提督、こちらですよ。……霞さん、長波さん、お疲れ様です。提督のお食事、私が運びますね」


 長鯨が二人に頭を下げ、慣れた手つきで私の膳を預かる。その所作は献身的で、どこか誇らしげだ。


「……長鯨、あんたね。甘やかしすぎじゃない?」


 霞がジト目で長鯨を睨むが、長鯨は「ふふっ」と優しく微笑み返すだけだった。


 私は、案内された席に腰を下ろす。  目の前には、長波が言った通り、手間のかかった朝食が並んでいる。


 霞の叱咤、長波の激励、そして長鯨の深い慈しみ。  この食堂に溢れるすべてが、かつて私が「兵器」として遠ざけようとしていたものだった。


 箸を手に取りながら、私は改めて周囲を見渡す。  ここにいる全員に、私が見失いかけていた「生」の輝きがある。


(……僕は、この光景を守りきれるだろうか)


 昨夜の決意が、温かな味噌汁の湯気とともに、より具体的で、より重い責任感となって私にのしかかってきた。


運ばれてきた膳を前にして、私はふと、自分の「以前」の姿を思い出し、胸の奥がチリりと痛んだ。


 これまでの私は、食事の時間さえも「効率」という名の檻に閉じ込めていた。  片手には常に次発作戦の練度表や資材の算出資料。目は文字を追い、口はただ栄養を摂取するためだけに動く。霞たちが給仕をしてくれていても、「苦労をかける」といった言葉は、口先だけの乾いた記号としてしか発していなかった。


 彼女たちを一人の人間として見ていなかった。だから、その言葉に血が通うはずもなかったのだ。


「……提督? 今日は、資料はよろしいのですか?」


 長鯨が不思議そうに、私の手元を覗き込む。  いつもならそこにあるはずの紙の束がないことに、彼女は真っ先に気づいた。


「いや……。今日は、ちゃんと味わって食べようと思ってね」


 私の言葉に、近くにいた霞がピクリと眉を動かした。


「……ふーん。変なものでも食べたのかしら。まあ、いいけど。せっかく長鯨たちが朝から出汁取ってたんだから、残さず食べなさいよね」


 ぶっきらぼうに言い捨てて背を向ける霞だったが、その耳たぶが少しだけ赤いのを見逃さなかった。長波も「おっ、いいじゃん提督! そのほうが飯は旨いぜ!」と、私の背中を景気よく叩く。


 箸をつけ、口に運ぶ。  丁寧にとられた出汁の深み。米の甘み。  資料の行間を読み解くことに必死だった頃には決して気づけなかった、豊かで優しい味がした。


 これまでは、この味に気づくのが怖かったのかもしれない。  美味しいと感じること、彼女たちの努力を愛おしいと感じること――。それは、戦場へ送り出す側としての「冷徹さ」を失うことと同義だと思っていたから。


 だが、今、資料を広げていない私の視界には、忙しく立ち働く彼女たちの後ろ姿や、食事を楽しむ睦月型たちの笑い声が、鮮やかな色彩を帯びて映り込んでいた。


(……今まで、どれだけのものを見落としてきたんだろうな)


 私は、自分でも驚くほど穏やかな気持ちで、二口目の飯を口に運んだ。


「ごちそうさま。……美味しかったよ。長鯨、霞、長波も」


 私がそう言って箸を置くと、給仕をしていた三人の動きが一瞬、止まった。  これまでの事務的な「ご苦労」ではない。私の視線はしっかりと彼女たちの瞳を捉え、その奥にある一人の少女としての輪郭をなぞっていた。


「……っ。当然でしょ、残してたら承知しなかったんだから」


 霞はぷいと顔を背けたが、トレイを持つ指先がわずかに震えている。長波は「へへっ、でしょ!」と快活に笑いながらも、どこか照れくさそうに鼻の頭をかいた。


 そして長鯨は、ただ、嬉しそうに、そして深く安堵したように胸に手を当てて微笑んでいる。


 食堂を出て、執務室へと続く廊下を歩く。  すれ違う艦娘たち、一人ひとりに声をかけることはまだできない。けれど、私はもう目を逸らさなかった。  重い主砲を背負った戦艦も、足早に駆け抜ける駆逐艦も、皆それぞれに名前があり、声があり、守るべき心がある。


(ちゃんと、みんなを見ていこう。一人残らず)


 それは、今までの何倍もの苦悩を引き受けるという宣言でもあった。  彼女たちの怪我に心を痛め、彼女たちの悩みに耳を傾け、そして、勝利の先にある本当の幸せを共に模索する。  「指揮官」としてではなく、この鎮守府という場所を分かち合う、一人の人間としての責任。


 廊下の角を曲がると、そこには昨夜からずっと私を待ち続けていたかのような静かな佇まいで、迅鯨が立っていた。


「……提督。とても、良いお顔をされていますね」


 彼女は私の変化を、言葉にする前から察していた。  その瞳に映る私は、もう昨日までの、冷たい檻の中に引きこもっていた男ではなかった。


「ああ。……少し、時間がかかってしまったけれど」


 私は迅鯨の隣に並び、再び歩き出す。  これから始まる一日は、きっと今までで最も忙しく、そして最も価値のあるものになる。


 視界が開けていく。  艦娘たちが生きるこの世界を、私は初めて、曇りのない目で見つめようとしていた。


食後の茶を飲み終えると、私はそっと椅子を引いた。  自然と隣に並ぼうとした迅鯨と、私の袖を掴もうとした長鯨へ向けて、穏やかに、けれどはっきりとした口調で告げる。


「迅鯨、長鯨。……少し、一人にさせてほしい」


 二人は意外そうな顔をして、一瞬だけ動きを止めた。  拒絶されたと思ったのか、わずかに陰る彼女たちの瞳に、私は言葉を重ねる。


「突き放すわけじゃないんだ。ただ、自分の目でもう一度、この鎮守府内をよく見まわってこようと思ってね。……これからみんなをちゃんと見ていくために、まずは自分の足で歩きたいんだ」


 私の意図を汲み取ったのだろう。迅鯨は少しだけ目を見開いた後、誇らしげに、そして深い信頼を込めて微笑んだ。


「……承知いたしました。提督がそう望まれるのでしたら。長鯨、私たちはここで提督の帰りを待ちましょう」 「はい、お姉様。……提督、いってらっしゃい!」


 背中越しに二人の温かな視線を感じながら、私は食堂を後にした。


 まず向かったのは、先ほどまで演習をしていた駆逐艦たちが戻ってくるであろう桟橋だ。  いつもなら執務室の窓から点として眺めていた彼女たちの姿を、今は同じ目線の高さで見つめる。


 潮の香りに混じって、硝煙の匂いと、彼女たちが放つ熱気が伝わってくる。  波に揺れる艤装、整備員と談笑する声、使い古されたタオルで汗を拭う仕草。


「お疲れ様。いい演習だったね」


 通りすがりの睦月に声をかけると、彼女は驚いたように丸い目をさらに大きくした。


「えっ、提督!? ……えへへ、見ててくれたんですか? ありがとうございますっ!」


 弾けるような笑顔。  データ上の「練度」や「疲労度」という言葉では決して表せない、瑞々しい命の輝きがそこにあった。


 私はそのまま、工廠へ、入渠ドックへ、そして間宮の裏手へと足を運ぶ。  今まで見ているようで見ていなかった、この鎮守府の「血の通った日常」を一つひとつ、心に刻みつけるように。


 歩けば歩くほど、胸の奥にある「兵器ではない」という確信は、重く、確かな輪郭を持って私を支配していった。


桟橋を離れ、静かな居住棟の廊下へと足を進めると、正面から圧倒的な存在感を放つ二つの影が近づいてきた。


 一航戦、赤城と加賀だ。


 これまでの私なら、彼女たちとすれ違う際、その圧倒的な航空火力をどう運用するか、次の作戦での艦載機熟練度はどうなっているか……そんな計算ばかりが脳裏をよぎっていた。しかし、今の私の目に映るのは、戦力としての「一航戦」だけではない。


「お疲れ様です、提督。……あら、今日は執務室ではなく、こちらを散策ですか?」


 赤城が柔らかな、けれどどこかすべてを見透かすような微笑みを浮かべて足を止める。隣に立つ加賀は、いつも通りの静謐な面持ちで、軽く頭を下げた。


「ああ。少し、自分の目でこの鎮守府を見つめ直したくてね」


 私の言葉に、加賀がわずかに眉を動かした。彼女の鋭い観察眼が、私の内側の変化を捉えたのが分かった。


「……いい目になられましたね。今のあなたなら、私たちを単なる『艦』としてではなく、正しく導いてくれそうです」


 加賀の言葉は短く、冷徹なようにも聞こえる。けれど、その奥底には、自分たちの命を預ける指揮官への、確かな信頼が宿っていた。


「赤城、あまり引き止めては失礼よ。提督は今、大切なものを見つけに行こうとしているのだから」


「ふふ、そうですね。失礼いたしました。……提督、お腹が空いたら、いつでも食堂へいらしてくださいね。美味しいものが、きっとあなたを待っていますから」


 二人は再び歩き出し、私とすれ違っていく。その際、彼女たちが纏う凛とした空気が肌を撫で、私は背筋が伸びるような思いがした。


 一航戦のような誇り高い者たちであっても、一人の人間として私を信じ、向き合おうとしている。その信頼に応えるということは、彼女たちの命の重さを、そのまま自分の心に刻みつけることだ。


(……本当に、一人ひとりが違う「色」を持っているんだな)


 赤城たちの後ろ姿を見送りながら、私は深く息を吐いた。  鎮守府という場所が、ただの軍事施設ではなく、無数の想いが交錯する「家」なのだという実感が、歩くたびに強くなっていく。


建物の影を抜け、私は再び海沿いの道を歩き始めた。


 コンクリートの護岸に寄せては返す波の音が、規則正しく鼓動のように響く。潮風が頬を撫で、先ほどまで食堂で感じていた熱気を心地よく冷ましていった。


 かつて、この海は私にとって「戦域」という名のチェス盤でしかなかった。  駒をどう動かし、どう守り、どう敵を削るか。その合理性の果てに、勝利という名の冷たい果実がある。そう信じて疑わなかった。


 けれど、こうして自分の足で沿岸を歩き、潮の匂いを嗅ぎ、水平線を眺めていると、その考えがどれほど傲慢だったかを思い知らされる。


(……この海に、彼女たちは身を投じているんだ)


 冷たい水。予測不能な荒波。そして、深淵から這いずる敵。  その過酷な世界へ、あの子たちは「兵器」としてではなく、私の言葉を信じる「一人の少女」として向かっていく。


 一航戦の凛とした誇り。  睦月型たちの無邪気な笑顔。  霞や長波が守り抜こうとする日常。  そして、執務室で私を待ち続ける迅鯨と長鯨の、底知れない献身。


 それらすべてが、この広大な海と隣り合わせに存在している。


 私は足を止め、手すりに手を掛けた。  錆びた鉄の感触が、現実の重みを伝えてくる。  昨日までの私なら、この海を見ながら「次の作戦の成功率」を計算していただろう。だが今の私は、この海の向こうから、彼女たちが笑顔で帰ってくることだけを願っていた。


(僕は……決意したんだ)


 見通せない未来、いつか来るかもしれない喪失の痛み。そのすべてを、もう「指揮官」という肩書きで誤魔化したりはしない。  傷つくのなら共に傷つき、喜ぶのなら共に笑う。  それが、彼女たちを「兵器」とは呼べない私に課された、新しい戦い方なのだ。


 一際大きな波が護岸に当たり、白い飛沫が舞った。  私は深く息を吸い込み、潮風を肺いっぱいに満たす。


 視界の端に、先ほどすれ違った赤城たちの姿が、遠く訓練場へと向かっていくのが見えた。  私は彼女たちの背中を見守りながら、確かな足取りで、彼女たちが待つ場所へと戻るための踵を返した。


見まわりを終え、どこか清々しい、けれど心地よい疲労感を伴って執務室の重い扉を開ける。


「ただいま」


 その言葉が、以前のような事務的な報告ではなく、ごく自然な「帰宅」の響きを持って口を突いて出た。


 部屋に入ると、そこにはいつものように待機していた迅鯨と長鯨の姿があった。だが、彼女たちの隣に並んで、せっせと書類を整理している二つの「耳」が目に入る。


「おかえりだクマ! 提督、どこ行ってたクマ? 迷子かクマ?」


「……おかえり。提督の顔、なんだか少し……変わった気がする。……多摩の勘だニャ」


 球磨が元気よく手を振り、多摩が書類の山から顔を覗かせてじっとこちらを見つめる。


 そうだった。今週の秘書官当番は、この木曾型軽巡洋艦の二人だったことを思い出す。  普段なら「兵器の運用効率」を優先して、彼女たちの独特な語尾やマイペースな振る舞いを「規律を乱すもの」として適当に聞き流していたはずだ。


 けれど、今は違う。


 球磨のどこか憎めない明るさも、多摩の静かだが鋭い洞察も、この鎮守府を形作る大切な「個」なのだ。


「ああ、少し歩いてきたんだ。……球磨、多摩。今週の秘書官、よろしく頼むよ」


 私が一人ひとりの名前を呼び、真っ直ぐに視線を合わせてそう告げると、球磨は「……クマッ!?」と驚いたように声を上げ、多摩は耳をぴくりと動かして、それからふいと顔を背けた。


 迅鯨と長鯨が、そんな私たちのやり取りを、どこか誇らしげに見守っている。


 執務室という箱庭の中に、新しい風が吹き込んだような気がした。  私は自分の席に座り、再びペンを握る。  目の前にあるのは昨日までと同じ書類の山だが、そこに記された名前一つひとつが、今は血の通った「仲間」として、私の胸に重く、温かく響いていた。


私が席に着くと、迅鯨と長鯨がしずしずと球磨と多摩の側へ歩み寄った。


「球磨さん、多摩さん。……今週の秘書官、よろしくお願いいたしますね。提督の体調管理については、こちらのメモにまとめてありますから」


 迅鯨が丁寧に綴じられたノートを差し出すと、球磨は「お、おぅ……分かったクマ。すごい気合だクマ……」と圧倒されたように受け取った。長鯨も、名残惜しそうに私の方を一度だけ振り返ったが、すぐに凛とした表情で多摩へ頭を下げた。


「提督を、お願いしますね。……もし何かあったら、すぐに私たちを呼んでください」


 彼女たちは、自分たちの「役割」を理解していた。  提督が自分たち以外の艦娘とも向き合おうとしていること、そしてそれを支えるのが、自分たちの本当の役目であるということを。


「それじゃあ、提督。私たちはこれで失礼します。……また後ほど、お茶をお持ちしますね」


 迅鯨が、慈愛に満ちた、けれどどこか清々しい笑顔を浮かべる。長鯨もそれに習い、花が綻ぶような笑みを私に向けた。  二人はそのまま、仲睦まじく寄り添いながら、静かに執務室を後にしていった。


 パタン、と扉が閉まる。


 これまでの彼女たちなら、独占欲にも似た重い献身で、ずっと私の側に留まろうとしたかもしれない。けれど今の笑顔は、私の決意を信じ、背中を押してくれているようだった。


「……なんか、嵐が去ったみたいだニャ」

「提督! さっさと仕事始めるクマ! 球磨たちがバリバリ手伝ってやるクマ!」


 球磨と多摩のどこか抜けたやり取りが、静かになった室内を再び賑やかにしていく。


 二人が去った後の扉を見つめ、私は心の中で感謝を告げた。  彼女たちの愛は、私を縛る鎖ではなく、外の世界へ踏み出すための道標に変わったのだ。


 私はペンを握り直し、隣で耳をピコピコさせている新しい秘書官たちへ向かって、小さく微笑んだ。

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