決意の先の未来は
まどろみの淵から引き戻されたのは、窓の外で鳴く海鳥の声だった。
「……っ」
机に突っ伏していた体を強引に起こすと、固まった関節が小さく悲鳴を上げた。 視界に入ってきたのは、使いかけの万年筆と、昨夜から進んでいない書類の山。そして、朝の白んだ光が差し込む執務室の光景だった。
(寝ていたのか、僕は……)
深い眠りだった。あんなに頑なに自分を律しようとしていたはずなのに、まるで泥のように意識を失っていた。 ふと、肩にわずかな重みを感じて視線を落とすと、そこには厚手のブランケットが掛けられていた。昨夜、迅鯨が用意してくれたものだ。
「もう……朝か」
呟いた声が、誰もいない部屋に虚しく響く。 室内を見渡すが、人影はない。迅鯨も、長鯨も、既に持ち場へ戻ったのだろうか。 あんなに濃密だった彼女たちの気配が消えた執務室は、昨日までよりもずっと広く、そして冷え冷えとして感じられた。
ブランケットを指先でなぞる。 まだ微かに、彼女たちが淹れてくれた茶の香りと、独特の甘い残り香が染み付いている気がした。
私が眠っている間、彼女たちはどんな表情でこれを選び、私の肩に掛けたのだろうか。 起こさないように細心の注意を払いながら、寝顔を覗き込み、満足げに微笑んで部屋を後にしたのではないか。
そんな想像をするだけで、胸の奥が騒がしくなる。 一度「兵器ではない」と認めてしまった心は、彼女たちがいない静寂に対して、以前にはなかった「寂しさ」という鋭い棘を突きつけてきた。
私は大きく伸びをして、冷めた顔を両手で叩く。 仕事に戻らなければならない。私は指揮官だ。 けれど、肩にかかったその温もりだけが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを、静かに主張し続けていた。
窓の外へ視線を向けると、遥か沖合の水平線に、白い飛沫を上げる小さな影が見えた。
睦月型駆逐艦たちだ。
まだ若い彼女たちが、朝の光を浴びながら懸命に演習を繰り返している。遠目に見てもわかる、ひたむきで危ういその動き。 昨日までの私なら、あれを見て「貴重な戦力の練度が上がっている」と、冷徹なデータとして処理していただろう。あるいは、燃料の消費効率や、今後の作戦への投入順序を頭の中で弾き出していたはずだ。
だが、今は違う。
(あの子たちにも、それぞれ帰る場所があるんだな……)
演習を終えて戻れば、間宮で甘味を囲んだり、入渠ドックで騒いだり、あるいは誰かに甘えたりする「日常」がある。 兵器として海を駆ける彼女たちの背中には、鋼鉄の艤装よりもずっと重い、一人の少女としての人生が載っている。
ブランケットを握りしめる。 睦月型たちの演習風景は、平和そのものに見える。けれど、その平和は常に、彼女たちの献身という名の犠牲の上に成り立っているのだ。
「……おはようございます、提督。睦月さんたちの演習、ご覧になっていたのですか?」
不意に背後からかけられた声に、肩がびくりと跳ねた。 振り返ると、そこには昨夜と変わらぬ、けれど朝の光を浴びてよりいっそう清廉に見える迅鯨が立っていた。
「いつの間に……」
「ふふっ、お疲れのようでしたから。……よく眠れましたか?」
彼女は私の問いには答えず、ただ私の体調を案じるように首をかしげる。その手には、湯気を立てる新しい茶が握られていた。
窓の外の睦月型。そして、目の前の迅鯨。 すべてが地続きの「命」なのだと、改めて突きつけられたような気がした。
「よく眠れた気がするよ」
自分の口から出た言葉は、思った以上に素直な響きを持っていた。 あえて虚勢を張ることも、事務的な報告にすり替えることもせず、ただ感じたままを口にする。それだけで、胸のつかえが少しだけ取れたような気がした。
迅鯨は一瞬、驚いたように目を細め、それから春の海が凪ぐような、穏やかで深い微笑みを浮かべた。
「……それは良かったです。提督がそうおっしゃってくださるのが、私にとって何よりの報いですわ」
彼女はしずしずと歩み寄り、私の手元に温かい茶を置いた。 昨日までなら、その献身を「重い」と感じ、逃げ出したくなっていたはずだ。けれど、今はその重みが、不思議と心地よい。
「睦月さんたちも、提督が見守ってくださっていると知れば、もっと張り切るでしょうね。……あの子たちは、とても純粋ですから。提督の温かな眼差しを、よく分かっているはずです」
迅鯨の視線も、窓の外の小さな影たちへと向けられる。 彼女の言葉は、まるで私の中に新しく芽生えた「彼女たちを兵器とは呼べない」という想いを肯定してくれているようだった。
「提督。……そんなに、ご自分を律しなくても良いのですよ? 私たちは、あなたの剣であり、盾ですが……それ以上に、あなたの『家族』でありたいと願っているのですから」
家族。 その言葉が、私の心の奥底に静かに沈んでいく。
兵器としての運用。指揮官としての義務。 それらを完全に捨て去ることはできない。けれど、彼女が差し出すその「家族」という救いに、少しだけ身を委ねてみてもいいのではないか。
窓の外では、睦月型の一隻が、演習を終えた合図の信号弾を上げた。 空に小さく弾けた光を見つめながら、私は初めて、迅鯨の方を真っ直ぐに見返して、小さく頷いた。
「僕は少し間違っていたのかもな」
茶碗から立ち上る湯気の向こう、窓の外で波を蹴立てる睦月型たちの姿を見つめながら、独り言のように呟いた。
今まで、彼女たちを兵器として、単なる数値や戦力として見ようとしてきたこと。それが指揮官としての正義だと信じ、自分に言い聞かせてきた。 けれど、その頑なな態度こそが、彼女たちが差し出そうとしていた真心さえも拒絶し、この鎮守府の空気を歪めていた原因だったのかもしれない。
隣に立つ迅鯨は、私のその告白を遮ることなく、ただ静かに聞き入っていた。
「……間違い、ですか?」
彼女は慈しむような声で、私の言葉を繰り返した。
「いいえ。提督はただ、お優しすぎただけですわ。私たちを失うことを、傷つけることを恐れるあまり、ご自身を檻の中に閉じ込めてしまっていた……。それは決して、間違いなどではありません」
迅鯨が、私の手にそっと自分の手を重ねた。 昨夜感じたあの粘りつくような「重さ」は、不思議と感じなかった。そこにあるのは、ただ確かな体温と、寄り添おうとする純粋な意志だけだ。
「これからは、その檻の鍵を開けてくださいな。私たちが、いつでもそのお隣にいますから」
彼女の微笑みは、朝日を浴びて神々しいほどに澄んでいる。 私は、重ねられた手の温かさを拒まず、そのまま受け入れた。
ふと、廊下からパタパタと小走りの足音が聞こえてくる。
「お姉様! 提督! 朝食の準備ができましたよ。今日は、提督が以前『美味しい』っておっしゃっていた、とっておきの献立なんですから!」
元気な、けれどどこかこちらを気遣うような長鯨の声が、執務室の空気を一気に朝の活気で塗り替えていく。 私は自嘲気味に、けれど少しだけ晴れやかな気持ちで、彼女たちの方を向いた。
「……ああ。今、行くよ」
境界線を引くのをやめたわけではない。けれど、その線の引き方は、昨日までとはきっと違うものになるだろう。
長鯨に促されるまま、私は重い腰を上げた。 歩き出すたびに、肩に掛けられたブランケットが心地よい重みで私を現実へと繋ぎ止める。
ふと、執務室の窓を最後にもう一度だけ振り返った。 朝日に輝く海原はどこまでも美しく、そして残酷なまでに果てがない。
(私は……この決意の先の未来を、見通すことができるのだろうか)
彼女たちを「人」として愛し、慈しむと決めた。 それは、彼女たちが傷つくたびに私の心も削られ、彼女たちが海に消えることがあれば、私の魂もまた等しく沈むということだ。 兵器として割り切っていた頃にはなかった、底知れない恐怖がそこにはある。
愛ゆえの狂気か、あるいは救いか。 その先に待つのが、共に笑い合える安息の日々なのか、それとも、情に溺れた果ての破滅なのか。
「提督? どうかなさいましたか?」
扉の側で待っていた迅鯨が、不思議そうに首をかしげる。 その隣で、長鯨が早く食べましょうと、私の袖を遠慮がちに引いた。
「……いや。なんでもない。行こう」
今の私には、未来を予見する力などない。 ただ、彼女たちの温もりを知ってしまった以上、もうあの日々には戻れないことだけは分かっていた。
私は彼女たちの導きに従い、光の差す廊下へと一歩を踏み出した。 その足取りが、昨日よりもずっと脆く、そしてずっと確かなものになっていることを自覚しながら。




