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提督のやり直し  作者: 逸見烈沙
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提督の迷い

胃の奥が、じりじりと重い。  執務室の空気が、いつの間にか入れ替わってしまったかのような錯覚に陥る。


 始まりが何だったのか、もう思い出せない。  迅鯨と長鯨。あの二人が着任してからのことだ。


 彼女たちは完璧だった。  軍艦としての任務をこなしながら、私の身の回りの世話を、それこそ爪の先まで行き届くほどに、完璧に、執拗に、こなしてみせた。


「提督、ペンを置く時間が三十分遅れています。……働きすぎは、毒ですよ?」


 迅鯨が、私の背後に立っていた。  いつ入ってきたのか。足音すら聞こえなかった。  彼女の細い指先が、私の肩に置かれる。柔らかな感触のはずなのに、そこには鉛のような重みがあった。


「長鯨が、新しいお茶を淹れました。提督がお好きな、少し濃いめのものです」


 促されるまま視線を向けると、入口には長鯨が立っていた。  盆を捧げ持つ彼女の視線は、真っ直ぐに私だけを射抜いている。その瞳の奥にあるのは、純粋すぎて底の見えない慈愛だ。


「さあ、お仕事はもうおしまい。私たちが、提督を癒して差し上げますから」


 迅鯨の声が耳元でささやく。  それは懇願のようでもあり、有無を言わせぬ命令のようでもあった。  彼女たちは決して怒らない。声を荒らげもしない。ただ、ひたすらに「あなたのための私」という役割を、壁のように塗り固めていく。


 窓の外では、他の艦娘たちの賑やかな声がしているはずだった。  だが、今のこの部屋には、衣擦れの音と、二人の静かな呼吸の音しか届かない。


 ……逃げ場がない。  そう自覚した瞬間、また一段と、部屋の空気が密度を増した気がした。


 触れられたこめかみから、熱が伝わってくる。  私は反射的に椅子を少し引き、彼女の手から逃れるようにして視線を書類へ戻した。


「……いや、いい。仕事が立て込んでいるんだ。二人とも、補給や整備の確認があるだろう。戻っていいぞ」


 なるべく突き放すような、無機質な声を意識した。  彼女たちは「兵装」であり、私は「運用者」だ。その定義を自分に叩き込むように、あえて目を合わせない。


 だが、部屋の湿度は下がらなかった。


「お仕事、ですか? ……確かに大切ですけれど、提督が壊れてしまっては、元も子もありませんわ」


 迅鯨の声はどこまでも穏やかで、私の拒絶など最初からなかったかのように受け流される。  彼女は引くどころか、空いた方の手で、私が握っていた万年筆の軸にそっと指を添えた。


「私たちは『潜水母艦』……帰ってきた子たちを癒し、整えるのが役割です。それは、この鎮守府の主である提督に対しても同じこと。……いいえ、提督にこそ、尽くしたいのです」


 隣では長鯨が、盆に載せた茶菓子を机の端へ、音も立てずに置き直している。  彼女たちの所作には一点の曇りもない。だからこそ、こちらが頑なに引いている「境界線」が、まるで子供の我儘であるかのような錯覚に陥らされる。


「提督。そんなに……私たちのことが、お嫌いですか?」


 長鯨のその問いは、あまりにも無垢で、鋭かった。  向けられた視線の心細さに、私の胸の奥が不意にざわつく。事務的であろうとする理性が、一瞬だけ、感情の波に飲まれた。


「……嫌いなわけないじゃないか。あっ……」


 言葉がこぼれ落ちてから、しまった、と奥歯を噛んだ。  咄嗟に視線を逸らし、拳を握りしめる。


「……いや、なんでもない。忘れてくれ。……今の言葉に深い意味はないんだ」


 慌てて取り繕い、再び冷徹な指揮官の仮面を被り直そうとした。だが、遅すぎた。  部屋の空気が、さらに一段と濃密に、そして甘く変化する。


 迅鯨の口元に浮かんだ笑みが、先ほどまでの慈愛に満ちたものから、どこか確信を得たような、深い色を帯びた。


「……ふふっ。そうですか。お嫌いでは、ないのですね?」


 彼女の声が、先ほどよりも微かに低く響く。  逃げようとした私の肩を、迅鯨の両手が逃がさないよう優しく、けれど拒絶を許さない力強さで包み込んだ。


「嬉しい。ね、お姉様? 提督がそうおっしゃってくださるなら、私たち、もっと頑張らなくては」


 長鯨の瞳からも不安が消え、代わりに底の見えない熱が宿る。  彼女は私の膝にそっと手を置き、縋るような、あるいは縛り付けるような仕草で距離を詰めてきた。


 しまった、と思った。  一線を引こうとしていたはずが、自らの失言でその線を引き抜いてしまったのだ。  彼女たちの献身という名の包囲網が、音もなく、より狭く、私を逃がさないように閉じられていく。


「無理に遠ざけようとしなくていいのですよ、提督。……本当の心を見せてくださったんですもの。これからは、もっと……素直になっていただいても、よろしいのですよ?」


 耳元で囁く迅鯨の吐息が、逃げ場のない執務室の空気を、いっそう重く、熱く塗り替えていった。


「……やはり、少し頭を冷やしてくる。外の空気を吸ってきたい。……一人で、だ」


 これ以上この部屋に留まれば、彼女たちのペースに完全に飲み込まれてしまう。  私は、肩に置かれた迅鯨の手を振り払わない程度の力加減で、静かに、けれど拒絶の意志を込めて横に避けた。


「提督? 外は少し風が冷たくなってきていますけれど……」


 迅鯨が怪訝そうに眉を寄せたが、私はそれを背中で受け流し、壁に掛けてあった上着を手に取った。  追いすがろうとする彼女たちの視線が、物理的な重みとなって背中に突き刺さる。


「すぐ戻る。……続きはそれからだ」


 なかば逃げ出すようにして執務室の重い扉を開け、廊下へと踏み出した。


 背後で扉が閉まる音が響く。  廊下を吹き抜ける潮風は、執務室の中に溜まっていた、あの甘ったるく粘りつくような空気とは対照的に、驚くほど冷ややかで鋭かった。


 大きく、深く、肺の奥までその空気を吸い込む。  肺胞のひとつひとつが冷えていく感覚に、ようやく理性が自分の輪郭を取り戻していくのが分かった。


 手すりに寄りかかり、夕闇が迫る海を眺める。  艦娘を兵器として見なければならない。深入りは禁物だ。  そう何度も反芻してきたはずの誓いが、あの二人の前ではどうしてこうも容易く揺らいでしまうのか。


 遠くの演習海域から戻ってきた艦娘たちの影が見える。  平穏なはずの鎮守府。だが、一度あの中に戻れば、またあの「重い愛」が私を待ち構えている。


 しばらく、こうして一人でいたい。  そう願って目を閉じた私の耳に、遠くから微かな、けれど確かな足音が聞こえてきた。


手すりを掴む指先に、一層力を込める。  鉄の冷たさが掌に伝わり、それがかつて海に沈んだ鋼鉄の記憶を呼び起こすようだった。


「……艦娘は、兵器だ」


 自分を律するために、あえて声に出して呟いた。  そう、彼女たちは強大な火力を備え、深海棲艦と戦うための存在。私はその運用を任された指揮官に過ぎない。余計な情は判断を狂わせる。命じる側も、命じられる側も、兵器として割り切るのがこの過酷な海での正解なのだ。


 だが、その言葉は、口にしたそばから虚しく夜風に霧散していった。


「……いや。嘘だな、僕は」


 自嘲気味に息を吐く。  私の中に浮かぶ彼女たちの姿は、無機質な鉄の塊などではない。  出撃前の緊張した面持ち、帰投した際に見せる安堵の笑顔。そして、先ほど執務室で私を包み込もうとした、あの重苦しいほどの熱を帯びた献身。


 それらすべてを知っていながら、どうして彼女たちを「兵器」などと呼べるだろうか。


 彼女たちは、生きている。  私と同じように、呼吸をし、想いを抱え、誰かのために在ろうとしている。


 もし彼女たちが単なる道具であったなら、あの迅鯨たちの視線をこれほどまでに「重い」と感じることもなかったはずだ。あの重さは、彼女たちの魂の重さそのものなのだ。


 一線を引かなければならない。  けれど、その線の向こう側にいるのは、私が守り、共に歩むべき「少女たち」だった。


「……僕に、その覚悟があるのか」


 再び問いかけた言葉に、答えは返ってこない。  ただ、背後から近づいてくる静かな足音が、その葛藤を終わらせようとするかのように近づいていた。


「……こんなところで、どうしたの? 提督。顔色が、あまり良くないみたいだけど」


 静かに夜の静寂を割ったのは、時雨の落ち着いた声だった。  隣には、どこか悪戯っぽく、けれど心配そうな笑みを浮かべた村雨も立っている。


「そうよ、提督。そんなところで一人で黄昏れちゃって。……もしかして、執務室から『避難』してきたのかしら?」


 村雨の言葉に、心臓が跳ねた。  彼女たちの持つ、独特の勘の鋭さ。特にこの二人は、鎮守府の空気の変化に敏感だ。私は慌てて視線を海へ戻し、努めて平静を装った。


「……いや、少し考え事をしていただけだ。二人とも、演習帰りか?」


「ええ、ちょうど今終わったところ。……ねえ、提督」


 時雨が歩み寄り、私の隣で手すりに手を掛けた。  彼女の視線は私を追わず、同じように遠い水平線を見つめている。


「無理は、しないで。……僕たちは、提督に必要とされるなら、なんだってする。兵器として戦うことも、一人の艦娘として寄り添うことも。……それは、きっとあの姉妹だって同じだと思うよ」


 時雨の言葉は、まるで私の心の内を見透かしたかのように穏やかで、鋭い。  彼女は、私が彼女たちを「兵器」と呼ぼうとして、呼べずにいる矛盾さえも包み込もうとしているようだった。


「あらあら。時雨ってば、ちょっと格好良すぎ。……でもね、提督? あんまり一人で抱え込みすぎると、あの子たちの『お世話』、もっと激しくなっちゃうわよ? いいの? 村雨的には、ちょっと見過ごせないかなー、なんて」


 村雨が少し距離を詰め、私の顔を覗き込む。  彼女たちの明るさは、先ほどまでの湿った重苦しさを一時的に忘れさせてくれる。けれど、同時に突きつけられるのだ。


 時雨の静かな覚悟。村雨の奔放な愛情。  やはり、彼女たちは「兵器」などではない。


「……わかっている。少し、休んだら戻るよ」


「……うん。戻る時は、僕たちも一緒に行こうか。少しは、空気が軽くなるかもしれないしね」


 時雨がふっと、小さく微笑んだ。  彼女たちの存在に救われながらも、私は改めて自覚する。この鎮守府にいる全員の人生を背負うことの重みを。


三人で並んで歩く廊下。時雨の静かな足音と、村雨の軽やかなステップが、夜の静寂に規則的なリズムを刻む。


その音に身を委ねながら、私の思考は再び、出口のない迷路へと入り込んでいた。


(このままで……本当に、後悔しないのか)


艦娘との間に一線を引く。それは指揮官としての正解だ。 情に流されず、常に最適解を導き出し、彼女たちを勝利へと導く。そのために、私は心を殺して「運用者」になろうとしてきた。


だが、今、隣を歩く二人の体温を感じる距離で、その正解は砂の城のように脆く崩れていく。


「提督? 何か、難しい顔してる。……村雨の可愛い顔を見て、リフレッシュしてもいいのよ?」


村雨が茶化すように私の顔を覗き込む。その瞳の奥には、冗談めかした言葉とは裏腹に、私を深く気遣う色が宿っていた。


「……村雨、困らせちゃダメだよ。提督は、きっと僕たちの知らないところで、ずっと戦っているんだから」


時雨がたしなめるように言う。その声は、どこまでも澄んでいた。


もし、私がこのまま彼女たちを「兵器」として扱い続け、心を閉ざしたまま日々を過ごしたとして……。 いつか、避けられない別れが来たとき、私は自分に誇れるだろうか。 「任務を全うした」という冷たい満足感だけで、失ったものの大きさに耐えられるのだろうか。


迅鯨たちの、あの息が詰まるような献身。 彼女たちは、傷つくことを恐れずに踏み込んできている。それに対して、私は「指揮官」という盾の後ろに隠れて、傷つかないための保身をしているだけではないのか。


「……ねえ、提督。そんなに怖い? 僕たちと、深く繋がることが」


時雨が、足を止めずに、前を向いたまま静かに問いかけてきた。 その言葉が、私の心の一番柔らかい部分に触れる。


「怖くなんて……」


言いかけて、言葉が詰まった。 怖いのだ。失うことが。壊れることが。そして、彼女たちの想いに応えられない自分自身が。


「後悔、か……」


独り言のように漏れた言葉に、二人は何も答えなかった。ただ、寄り添うように歩く速度を、私の歩調に合わせてくれた。


前方に、執務室の扉が見えてきた。 あの扉の向こうには、私の帰りを待つ迅鯨と長鯨がいる。


後悔しない生き方。それは、境界線を守ることなのか、それとも、勇気を持ってその線を踏み越えることなのか。 私は、重い扉のノブに手をかけた。


重い扉を押し開けるより先に、内側から吸い込まれるように扉が開いた。


 溢れ出した暖かな光の中に、二人の姿があった。


「おかえりなさい、提督。……少し、冷えてしまいましたね」


 迅鯨が、春の陽だまりのような微笑みを湛えてそこに立っていた。手には、私のために用意したであろう厚手のブランケットを抱えている。彼女の表情には、私が逃げるように部屋を出たことへの咎めも、時雨たちを連れて戻ったことへの驚きもなかった。ただ、戻ってきたという事実を慈しむような、圧倒的な包容力だけがあった。


「本当ですね、お姉様。提督、お耳が少し赤いです。……長鯨が、すぐにお身体を温めるものを用意しますね」


 長鯨もまた、柔らかな笑みを浮かべて私を迎え入れた。彼女たちの笑顔には、一点の曇りも、無理をしている気配もない。


 その「優しさ」が、かえって私の胸を締め付けた。  私が冷徹な指揮官として突き放そうとしても、彼女たちはそれを大きな愛で包み込み、無効化してしまう。


「……あ、ああ。すまない」


 絞り出した私の声に、隣にいた時雨と村雨が顔を見合わせた。


「……よかったね、提督。待っていてくれる人がいるっていうのは、素敵なことだよ」


「ふふ、お邪魔虫は退散しなきゃかしら? 迅鯨さん、長鯨さん、提督をよろしくね」


 村雨が茶目っ気たっぷりに手を振り、時雨が最後にもう一度、私の背中を軽く押すように見守ってから、二人は廊下の向こうへと消えていった。


 再び、私と姉妹だけの空間が戻ってくる。


「さあ、提督。中へ……。外の冷たい空気は、もうおしまいです」


 迅鯨が私の肩にブランケットをかけ、指先でそっと、上着に付いた夜露を払う。  彼女たちの笑顔は、どこまでも優しく、どこまでも深い。  この笑顔を「兵器」のものだと切り捨てることなど、今の私には到底できそうになかった。


 私は、誘われるままに、光に満ちた(そして、抗いがたいほどに重く甘い)執務室の中へと足を踏み入れた。


部屋の中は、先ほどまでの重苦しさが嘘のように、温かな茶の香りで満たされていた。


 迅鯨がテキパキと私の着替えを準備し、長鯨が絶妙な温度の茶を差し出す。その甲斐甲斐しい動き、時折見せ合う姉妹の目配せ、そして何より、私に向ける真っ直ぐな慈愛。


 椅子に深く腰掛け、湯気の向こう側にある彼女たちの笑顔を見つめる。


(……ああ、そうだ)


 理屈ではない。  この温もりを知ってしまった以上、もう自分を欺くことはできない。


(やっぱり僕には、君たちを「兵器」とは呼べないな……)


 それは指揮官としては、あるいは失格の告白なのかもしれない。  戦場に送り出すべき存在を、守りたい、愛おしいと感じてしまうことの危うさ。  けれど、その罪悪感すらも今は心地よく、私は差し出された茶碗の温かさを噛みしめるように両手で包み込んだ。


 外の海は、どこまでも深く、暗い。  けれど、この小さな部屋の灯りだけは、明日も彼女たちと共に守っていこう。  胸の中に灯った小さな決意は、夜風に冷えた体を、茶よりも深く温めてくれるようだった。

初めて艦これの小説を書いてみました。

余りクオリティが高いとは言えないのでそこを込みで温かい目で読んでいただけたら嬉しいです。

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