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元婚約者は絶望の底へ。――その幸運、未来からの借金ですよ?

 

「もう! レオったら、またこのパン、ちょっと焦げてるじゃない!」


「なっ、焦げてない! これは香ばしい焼き色っていうんだ!」


 焼きたてのパンを届けに来てくれた幼馴染のレオは、むきになって言い返す。

 そばかすの散った顔を真っ赤にするものだから、私は思わずくすりと笑ってしまった。


「それで、この素敵な『焼き色』のついたパンは私にくれるの?」

「……新作の木の実パン、試してもらおうと持ってきた」


 ぶすっとした顔で、彼は温かいパンを私に手渡してくれる。

 受け取ったパンからは、小麦と木の実の甘い香りが立ち上る。


 子供の頃から、ずっと変わらない。

 私が落ち込んでいる時も、嬉しい時も、レオは焼きたてパンを届けてくれる。


「ありがとう。後で感想、ちゃんと言うわね」

「ちゃんと聞かせろよな!」


 彼がパン屋へと帰っていく。

 こんな他愛のないやりとりが、私の日常。


◇◇◇◇



 私の名前はリナ。

 この街の片隅で、両親の遺した小さな家に暮らすしがない平民の娘。

 これからも、ずっとこんな日が続いていくんだと、何の疑いもなく信じていた。


 パンを家の中に置いた、次の瞬間。


 馬車が私の家の前で止まる。

 馬車の扉には、見たこともない貴族の紋章が輝いている。


「お前がリナか」


 馬車の扉が開き、現れたのは、氷のように冷たい瞳をした青年だった。



「俺はアルフレッド。この一帯を最近仕切っている子爵家の次期当主だ」


 青年――アルフレッドと名乗った子爵令息は、続けて信じられない言葉を口にした。


「お前には『触れる者を幸せにする能力』があるそうだな。俺のためにその能力を使え」


「……!」


 心臓が鷲掴みにされたように痛む。

 ある日、『神』から言い渡された謎の力。

 なぜ、彼がその秘密を。


「占い師に占わせたら、お前の名を出してな。……俺のためにその能力を使え。そうすれば、いずれお前を俺の妻の座に据えてやろう。平民のお前にとっては、またとない出世の機会だぞ」


 あまりにも傲慢で、一方的な物言いだった。


 貴族の妻。

 そんなものは望んでいない。

 私はただ、このささやかな日常が続けばいいだけなのに。


「……お待ちください、アルフレッド様」


 私は勇気を振り絞って口を開いた。


「この能力は、きっとあなたが思っているような、都合のいいものではありません。だから……考え直してください。私などに関わらない方が、あなたのためです」


 けれど、アルフレッド様は鼻で笑うだけだった。


「黙れ。平民の分際で俺に指図するな」


 アルフレッド様は苛立たしげに舌打ちすると、私の腕を乱暴に掴んだ。

 その力の強さに、私が身をよじって抵抗しようとした、その瞬間。


 乾いた音がして、私の頬に燃えるような痛みが走った。

 彼に、容赦なく殴られたのだ。


「っ……!」


 視界が揺れ、私はそのまま地面に倒れ込んだ。

 じんじんと痛む頬と、口の中に広がる鉄の味。

 そんな私を、彼は冷たい瞳で見下ろしている。


「いいか、お前には拒否権などない。お前は俺の道具だ。俺の言う通りにしていればいいんだ」



 恐怖で体が動かない。

 声も出ない。

 涙さえ、流すことを許されないような威圧感。

 逆らうことなど、到底できはしなかった。


 私はそのまま、彼の従者たちに両脇を抱えられ、罪人のように馬車へ乗せられる。


 馬車に乱暴に押し込まれ、扉が無情に閉められる。

 ガタン、と大きな音を立てて馬車が動き出した。


(いや……いやだ……!)


 暗い車内で一人、私は膝を抱えた。

 これからどうなってしまうのだろう。

 あの男の道具として、私は何をさせられるのだろう。

 絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。


 さっきもらったパン、食べ損なったな……


 焦げてるなんて悪態をついた、他愛のない会話。

 当たり前のように明日も続くと信じていた、穏やかな日常。

 そのすべてが、今、音を立てて崩れ去っていく。



◇◇◇◇



 子爵家の館は豪華絢爛だった。

 磨き上げられた大理石の床、壁にかけられた高価な絵画。

 けれど、私に与えられたのは、北向きの窓が一つある物置同然の薄暗い小部屋。

 ベッドと呼ぶには硬い寝台と、古びた机が一つ。


 食事は一日に一度、硬いパンと冷めたスープが運ばれてくるだけ。

 それすら、アルフレッド様の機嫌が悪い日には忘れられることもある。

 私はただ、この埃っぽい部屋の中で、彼に呼び出されるのを息を潜めて待つだけの毎日。


「リナ、来い」


 あの日から、彼は毎朝必ず私を呼びつけた。

 脅され、逆らうこともできない。

 私は震える手で彼の肩にそっと触れ、能力を発動させる。

 仄かな光が、アルフレッド様を覆う。


「よし。これでいい」


 彼は満足げに頷くと、さっさと私を部屋から追い出す。



 そして――私の能力は、すぐに恐ろしいほどの効果を発揮し始めた。



 アルフレッド様が着手した鉱山事業で、巨大な魔石の鉱脈が発見される。

 他国との交易は大成功を収め、子爵家には莫大な富がもたらされる。

 その功績は王家の耳にも届き、彼は若くして異例の出世を遂げた。

 夜会に顔を出せば、美しい貴族の令嬢たちが彼の周りに群がる。

 そして、うっとりとした瞳で彼を見つめた。


「ははは、すごい! やることなすこと、すべてが上手くいく!」


 彼は手に入れた幸運を謳歌していた。

 日に日に傲慢さを増していく彼を、私は部屋の隅から見つめることしかできない。

 彼は私を「幸運をもたらす道具」としか見ていなかった。




 そんなある日のことだった。

 いつものように冷たいスープを啜っていると、部屋の扉が控えめにノックされた。

 アルフレッド様かと思ったが、入ってきたのは見知らぬ使用人だった。


「パン屋からです。本日分のパンをお持ちしました」


 その言葉に、私は顔を上げた。

 使用人の後ろから、大きなパンの籠を抱えた青年がひょっこりと顔を出す。

 そばかすの散った、見覚えのある顔。


「……レオ!?」


「リナ……やっぱり……」


 それは、故郷のパン屋の息子、レオだった。

 彼は私のやつれた姿を見て、目を見開いている。

 その瞳には、驚きと、それから深い悲しみの色が浮かんでいた。


「君が貴族に連れていかれたと聞いて。……その顔の痣、どうしたんだ!?」


 彼は私の頬に残る痣に気づいた。


「リナ、酷い顔色だ。ちゃんと食べてるのか?」


 私は慌てて首を振る。

 ここで余計なことを話せば、彼にまで迷惑がかかってしまう。


「大丈夫、私は元気よ」


 無理に笑顔を作った。


 けれど、彼は私の嘘を見抜いていた。

 彼は籠の中から、いつもと違う温かいパンを取り出して私の手に握らせた。

 それは、私が昔から大好きだった、蜂蜜と木の実がたっぷり入ったパン。


「これ、こっそり持ってきたんだ。元気が出るから、ちゃんと食べるんだ」


「……ありがとう、レオ」


 涙がこぼれそうになるのを、必死で堪える。

 レオは「また来るから」とだけ言い残して部屋を出ていった。


 一人残された部屋で、私は握りしめたパンを見つめた。

 優しい甘い香りが、凍りついていた私の心をじんわりと溶かしていく。

 一口食べると、懐かしい味が口いっぱいに広がり、涙が後から後から溢れてきた。


(甘い。……おいしい)


 この日を境に、私の中に確かな希望の光が灯った。

 レオはそれからも、何度も私の元へ訪れる。

 そして、こっそり私の好きなパンを渡してくれた。


 それだけを支えに、私はこの地獄の日々を耐え抜こうと思えた。



◇◇◇◇



 幸せな時間は、永遠には続かなかった。

 私の幸せな時間ではなく、アルフレッド様の、だ。


 私が館に連れてこられてから、数年が経った頃。

 彼の絶対的だった幸運に、少しずつ陰りが見え始めたのだ。


 順調だった事業が、少しずつ傾き始める。

 新しい鉱山は見つからず、交易では些細なミスから大きな損失が続くようになった。

 王家からの覚えも次第に悪くなった。

 彼に群がっていた令嬢たちも、一人、また一人と離れていく。


「どうなっている! なぜだ!?」


 アルフレッド様は日に日に苛立ちを募らせていた。

 やることなすこと、すべてが上手くいっていた日々は過去のもの。

 運気はごく普通の人と同じレベルにまで落ちていた。


「おかしい……こんなはずでは……」


 彼は焦っていた。

 そして、高名な占い師を屋敷に呼びつけては喚き散らす。


「私の未来を占え! 再び幸運を掴む方法を教えろ!」


 しかし、占い師は水晶玉を覗き込み、静かに首を振るだけだった。


「子爵様……あなた様の未来には、暗い影しか見えませぬ。幸運の女神は、もうあなた様には微笑んでおられないようです」


「馬鹿を言え! この俺を見放すだと!? 金ならいくらでもくれてやる! 何とかしろ!」


「運命は、金では買えませぬ……」


 そう言って静かに立ち去る占い師に、彼はインク瓶を投げつけた。


 社交界でも、彼の立場は悪くなる一方らしい。

 かつて彼が嘲笑したライバルの伯爵令息が、大きな事業を成功させて称賛を浴びる。

 その祝賀パーティーで、アルフレッド様は隅の方で一人になる。

 苦虫を噛み潰したような顔でグラスを握りしめていた。


「アルフレッド殿、最近は羽振りが悪いようだね?」


 ライバルからの憐れむような言葉に、彼は顔を真っ赤にして会場を飛び出した。

 成功が当たり前だった男にとって、普通の日常すらも耐え難い屈辱だった。


 そして、その矛先は、当然のように私に向けられた。


「おい、リナ! お前の能力が弱まっているんじゃないのか!?」


 彼は私の部屋に怒鳴り込み、髪を掴んで引きずり倒した。

 その瞳は焦りと恐怖で濁り、もはや正気とは思えなかった。


「もっと、もっとだ! 俺にもっと幸運を寄越せ! この役立たずが!」


 激しい暴力が加えられる。

 けれど、いくら私を痛めつけても、彼の運気が上向くことはなかった。

 焦れば焦るほど、事態は悪化していくばかり。

 そのたびに、私への暴力はエスカレートしていった。


 そんな日々の中で、私の唯一の支えは、定期的にパンを届けに来てくれるレオの存在。

 彼は私の増えていく痣に、悲しそうに目を伏せる。

 ただ、いつもよりも少しだけ多く、温かいパンをこっそりと渡してくれた。


 その無言の優しさが、私の心を繋ぎとめていた。




 そしてついに、彼の堪忍袋の緒が切れた。

 大きな取引に失敗し、財産の多くを失った日のことだった。


「ちっ……所詮は平民の不完全な能力か。もうお前は用済みだ」


 アルフレッド様は、ゴミでも見るかのような目で私を蔑んだ。


「妻にするという約束? はっ、そんなもの、ただお前を従わせるための方便に決まっているだろう。とっとと出ていけ。二度と俺の前に姿を現すな」


 その言葉は、あまりにも冷酷で、身勝手だった。

 けれど、私の心は不思議なほど穏やかだった。

 彼の瞳の奥に、幸運を失った者の拭い去れない恐怖がこびりついているのが見えたから。


(やっと、この悪夢から解放される。そして……)


 私は静かに立ち上がると、彼に一礼した。


「分かりました。私も、そろそろ限界かなと思っていたので、ちょうどよかったです」


「……何?」


 私の意外な言葉に、アルフレッド様は一瞬、眉をひそめた。

 だけど、彼はもう私に興味を失っていた。

 私は着の身着のままで館から放り出された。


 数年ぶりに吸う外の空気は、少しだけ鉄の味がした。


 私は故郷の街へと、ゆっくりと、しかし確かな足取りで歩き出した。

 あの温かいパンの香りがする場所へ。



◇◇◇◇



 故郷の街に帰ると、私を迎えたのは同情ではなく、好奇と嘲笑の視線だった。


「あら、リナじゃないか。貴族様に捨てられたのかい?」

「傷物にされて出戻りなんて、みっともないねえ」


 噂はあっという間に広まっていた。

 それだけじゃない。

 私が持つという能力に、下心を持って近づいてくる者も少なくなかった。


「なあ、リナ。俺のことも幸せにしてくれよ」

「ちょっと触ってくれるだけでいいんだ。金なら払うからさ」


 私は人々を避け、息を潜めるようにして両親の遺した古い家に閉じこもった。

 心はすっかり擦り切れてしまっていた。

 そんな私の元に、毎日通ってきてくれた人がいた。


「リナ、大丈夫かい? 顔色が悪いよ」


 レオだった。

 彼は私の事情を何も聞かず、ただ毎日、焼きたてのパンをくれた。


「よかったら、これ食べて。元気が出るから」


 その温かさが、凍りついていた私の心をじんわりと溶かしていく。


 ある日、街の若者たちに「出戻り女め」と絡まれ、突き飛ばされた。

 私が地面にうずくまっていると、レオが私の前に立ちはだかってくれた。


「みっともない真似はやめろ!」


 彼の気迫に、若者たちは舌打ちをしながら去っていった。

 レオは汚れた私を優しく助け起こし、自分の店へと連れていってくれた。


「……ありがとう、レオ」

「気にするな。それより、うちの店、人手が足りなくて困ってるんだ。もしよかったら、手伝ってくれないか?」


 それは、私を気遣っての彼の優しさだと分かっていた。

 私は頷き、レオのパン屋を手伝うようになった。


 パン生地をこね、窯でパンを焼く。

 その香りに包まれていると、悪夢の日々が少しずつ癒されていくのを感じた。

 彼は私の過去を一切気にせず、一人の人間として私を見てくれた。


 そして、ある日のこと。

 仕事の帰り道で、夕日に照らされながら、レオは真剣な顔で私に言った。


「リナ。君がどんな過去を持っていても、僕には関係ない。君が持っているという『幸せにする能力』も、僕には要らないよ」


 彼はまっすぐに私を見つめて、言葉を続ける。


「自分の力で幸せになるし、僕が君を幸せにする。だから……僕と、一緒になってくれないか?」


 その言葉は、どんな宝石よりも、どんなドレスよりも、私の心を強く打った。

 自分のためではなく、私の幸せを願ってくれる人が、ここにいる。

 涙が、あとからあとから溢れてきた。


「……うん。ありがとう、レオ。私で、いいのなら」


 私は頷き、彼とささやかな交際を始めた。

 能力のことなど忘れて、パンを焼き、レオと笑い合う毎日。

 ようやく手に入れた、平凡で、かけがえのない、本物の幸せだった。



◇◇◇◇



 穏やかな日々は、しかし、またしても突然に破られた。

 ある日、店の扉が乱暴に蹴破られ、一人の男が怒鳴り込んできたのだ。


「リナ! どこだ、リナを出せ!」


 その変わり果てた姿に、私は一瞬、誰だか分からなかった。

 かつての輝きは見る影もない。

 服は汚れ、髪は乱れ、片目は痛々しい眼帯で覆われている。

 痩せこけた頬、虚ろな瞳。


 しかし、その声には聞き覚えがあった。


「アルフレッド……様……?」


「そうだ! お前のせいだぞ! お前がいなくなってから、何もかも上手くいかない!」


 彼は喚き散らした。

 事業は完全に倒産し、貴族の地位も剥奪される寸前。

 そればかりか頻繁に怪我をし、原因不明の病で体も動かなくなってきているらしい。


「何とかしろ! 今すぐ俺に触って、元に戻せ!」


 彼は私に掴みかかろうとする。

 レオが慌てて私の前に立ちはだかった。


「やめろ! リナに触るな!」


「どけ! 邪魔をするな!」


 アルフレッドがレオを突き飛ばし、私の腕を掴んだ、まさにその時だった。


「そこまでだ! アルフレッド=ラングトン!」


 店の外から、重々しい声が響いた。

 現れたのは、王家の紋章を掲げた騎士団だった。

 彼らはアルフレッドを取り囲む。


「王太子殿下に対する暗殺未遂の容疑で逮捕する! ご同行願おう!」


「なっ……!? ち、違う! 俺じゃない、何かの間違いだ! ハメられたんだ!」


 アルフレッドは必死に叫ぶが、騎士たちは容赦なく彼を拘束していく。


 ぞっとするほど冷たく、黒い歓喜が胸を襲う。



 ――そうだ、この日を待っていた。

 この男が築き上げた偽りの幸福がすべて崩れ去り、絶望の淵に沈むこの瞬間を。



 連行されていく彼のそばに、私はそっと近づき、耳元で囁いた。


「……あなたにだけ、教えてあげる」


 私の声に、彼は驚いて目を見開く。


「私の能力は、人を幸せにするものなんかじゃない。この能力をくれた神様は言ったわ。『その人の持つ幸運を、未来から前借りする能力だ』ってね」


「……な……に……?」


 彼の顔から、さっと血の気が引いていく。

 私は構わず、さらに言葉を続けた。


「あなたは人生の幸運を使い果たした。今あなたが味わっているのは、その反動。前借りした分、未来の不幸がまとめてやってきているだけよ」


 絶望に染まる彼の瞳を見つめ、私は静かに告げる。


「でも、そんな不幸も、一つだけ踏み倒す方法があるの」


「なんだ!!どうすればいい!」


 喚き散らして暴れる彼に、騎士団が拘束を強める。


 ――私は、彼を突き落とした。


「この能力の真実を告げられること。そうすれば、幸運の効果も、反動の不幸も、すべてが効果を失うそうよ」


 彼は、意表を突かれたような顔をしている。


「……私はあなたを今、救ってあげた。もう、手遅れかもしれないけど」


「あ……あ……」


 アルフレッドは声にならない悲鳴を上げ、そのまま騎士たちに引きずられていった。



 彼の運命がどうなったのか、私は知らない。

 ただ風の噂で、王都を引き回しの上、壮絶な拷問の末に処刑されたと聞いた。



◇◇◇◇



 私を虐げた男はもうこの世にいない。

 これからはレオと共に、穏やかな日々が続くと、そう信じていた。



 ……けれど、現実はそれほど甘くはなかった。


 アルフレッド様の事件は、この田舎町で最大のゴシップとなった。

 そして、その中心にいた私に向けられる視線は、同情よりも好奇の色が濃かった。


「あのリナさんに触ってもらうと、幸運が訪れるらしいわよ」

「いやいや、貴族を破滅させた疫病神だって話だ」


 心ない人は口々に言う。

 店の前を、ただ私を一目見ようと通り過ぎていく人々。

 夜中にこっそり店に侵入し、「少しでいい、幸運を分けてくれ」と不気味に囁く者まで現れた。


 レオはそんな連中を必死に追い払ってくれたけれど、私の心は休まらなかった。

 昼間は無理に笑顔を作っても、夜になると館での悪夢と、人々の好奇の目にうなされた。


「リナ……また、うなされていたよ」


 ある朝、心配そうに私の顔を覗き込むレオに、私はもう隠しきれなかった。


「ごめんなさい……この街にいると、どうしても思い出してしまう。みんなが私を見ている気がして……怖いの」


 私の涙を見て、レオは強く私を抱きしめた。

 そして、まるで決意したように、まっすぐに私の目を見て言った。


「……行こう、リナ」


「え……?」


「王都へ行こう。誰も僕たちのことを知らない場所で、ゼロから始めよう。君が心から笑える場所で、暮らしたいんだ」


 王都。

 我々の知らない場所。

 正直、怖いという気持ちがなかったわけではない。

 けれど、レオの真剣な瞳を見ていると、不思議と勇気が湧いてきた。

 彼と一緒なら、どこでだってやっていける。


「僕が、君の過去も、未来も、全部守る。だから、僕を信じてくれないか?」


「……うん。信じるわ、レオ」


 私は涙ながらに頷いた。

 彼の手が、私の手を強く、強く握り返してくれた。


 私たちは、この思い出と噂が染みついた故郷を捨てることを決めた。

 二人だけの、本当の幸せを掴むために。


◇◇◇◇


 レオがこつこつと貯めていた貯金をかき集めて、王都へと旅立った。


 王都は、想像していたよりもずっと大きく、人で溢れかえっていた。


 誰も私たちに興味を示さない。

 そのことが、これほどまでに心を軽くしてくれるなんて、思ってもみなかった。


 私たちは、活気ある下町に古びた小さな空き店舗を見つけた。

 最低限の道具を揃え、住居も兼ねたささやかなパン屋を開いた。


 店の名前は、「こもれびベーカリー」

 レオが名付けてくれた。

 辛い日々の中の、あの温かいパンのような、優しい光が差す場所にしたい、と。


 しかし、現実は厳しかった。

 王都には有名で美味しいパン屋がいくらでもある。

 開店して一週間、私たちの店を訪れる客はほとんどいなかった。


「……焦ることはないさ。僕たちのパンは、絶対に美味しいんだから」


 不安そうな私を、レオはいつも笑顔で励ましてくれた。


 私たちは諦めなかった。


 レオは夜を徹して、王都の人々の好みに合うような新しい生地を研究した。

 私は、木の実や素朴な果物を使った、どこか懐かしい味のパンを考案し続けた――


 転機は、思いがけない形で訪れた。

 王都の厳しい現実に、売れ残ったパンを前に二人で肩を落としていた。

 そんな夕暮れのこと。


「このまま捨てるのは、やっぱりできないわ」


 私の呟きに頷いたレオ。

 私たちは近くの孤児院の扉を叩いた。

 お腹を空かせた子供たちは、温かい木の実のパンを食べるごとに表情を輝かせていく。


「おいしい!」

「なんだか、心がぽかぽかする!」


 ――路地裏のパン屋さんに行くと、太陽みたいな味のパンがもらえる。


 そんな子供たちの他愛のない囁きが、街角で働く大人たちの耳に届く。

 やがて温もりを求める人々を、私たちの小さな店へと導いてくれることになる。

 意図せず届けた優しさが、私たちの未来を照らす、最初の光となったのだ。





 そして、一年後。


「お待たせいたしました!」


 私は笑顔で、お客様に焼きたてのパンを手渡す。

 今では朝から店の外まで行列ができるほどの人気店になっていた。

 特に、私が考案した木の実や果物を使った素朴なパンのシリーズは、店の看板商品だ。


「ここのパンを食べると、なんだか心が温かくなるんだよな」

「ええ、本当に。どんなに疲れていても、ここのパンを食べると、もう一日頑張ろうって思えるの」


 行列に並ぶ人々から聞こえてくる声に、私の胸は熱くなる。

 私の手は、もう誰かの幸運を前借りするためじゃない。

 この手で、目の前の人々に、ささやかだけど確かな幸せを届けている。

 その事実が、何よりも誇らしかった。


「リナ、少し休憩しないか?」


 店の奥から、小麦粉で顔を白くしたレオが、マグカップを二つ持って出てきた。

 彼の笑顔は、一年前と何も変わらない。


「ありがとう、レオ」


 私たちは店の片隅で、並んで外の行列を眺める。

 忙しいけれど、満たされた毎日。

 もう、悪夢にうなされることはない。



 レオと並んで、焼きたてのパンを包み込む手。

 あの日からずっと、私たちの幸せを一緒に焼き上げてきた。


 前借りした幸運なんていらない。


 この手で、目の前の小さな世界を温めていく。

 それが、私の本当の幸せだから。


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「そうだったのか!」ってなる一番おいしいネタをタイトルで初手からオープンにしちゃってるのちょっとだけもったいないかな。 でも面白かったです。
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