六 その場所に烟る
結果から言えば、重貫も結婚相手の知らないと答えた。
他の捜査も進展は無く、類似の事件もすでに解決しているものばかりだった。こうなると、捜査対象をさらに広げて県内全域か、あるいは全国まで広げるか、という議論が上の方で行われていたらしい。
行き詰まった空気が、捜査本部に重く立ち込めていた。
あたしも、特にこれといった成果もない上に楡松警部に振り回されて、疲れでぐったりしていた。
時間だけが無情に進み、すでに時計は夜の二十三時を指していた。
報告書を書きあげて放心していると、顔見知りの鑑識官が報告書を片手に立っていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ、これ頼まれていたノートの報告書」
現場で見つかったノートについて、鑑定結果が出たので、持ってきてくれたのだった。
「全部白紙ですか」
ざっと目を通すと、特に注目する点もないように見えたが、読み進むと妙なことが書いてあった。
「筆跡痕?」
鑑識官は警部の椅子に座ると、のんびりした調子で説明してくれた。
「うん、正確な復元は、水に濡れてるからちょっと無理」
見つけた時には、もうベッコベコだったしなあ。
「でも白紙なんですよね」
「白紙なんだよね、鉛筆で書いて消したみたいな感じがするね」
「変ですね」
「だろ? 警部の持ち込む遺留品は、変なのが多くていいね」
鑑識官は嬉しそうにニコニコと笑った。
そういう考え方もありなの?
あたしは鑑識官を見ながら、実はウチの署変人が多いのでは? という疑念を浮かび上がらせていた。
「で、警部は?」
「ちょっと前に帰りましたよ、今日は息抜きしたい、とか急に言って」
「へえ、あの人でもそんなことあるんだ」
そう言うと、鑑識官は、じゃあお疲れと言いながら帰って行った。
その後ろ姿を見ながら、そうか楡松警部でも息抜きするなら、あたしだって少しぐらいはいいのでは。と言う考えが、頭をもたげた。
大体、警部の相手するだけでも、すごい疲れるのに。警部だけ息抜きとかズルくない?
「よし!」
あたしは、手早く残りの仕事を片付けると署を後にした。
車をアパートの駐車場に入れると、そのまま目的地に向かった。
大通りを曲がって少し狭い道を少し歩くと、『プラム』とカタカナで書かれた看板に、が見えてきた。可愛いプラムのイラストが添えてある看板の店に入ると、カランと鈴が鳴った。
店主曰く、魔除けの鈴だそうだが、そのご加護はいかほどか。あたしには、ご利益はないようだ。
「あら、環じゃない」
今どき髪をワンレングスした派手な女性が、声を掛けた。
「あらって、何? ご挨拶じゃない?」
「えー、あの子と別れてから、初めてじゃない?」
「初めてなら何?」
あたしは、ムッとしながら真ん中のスツールに腰掛けた。
カウンターしかない狭い店内には、あたし以外には客はいない。
「グラッパ、ロックで」
「飲みすぎないでね」
一言多い店主は、七海という。名字なのか名前なのかわからない。しかも年齢を知っている人もいない、謎だらけの美貌の持ち主だ。
「落ち着いたの?」
赤いワンピースの彼女は、透明な液体に満たされたコップを置く。
「あたりまえでしょ、もう三ヶ月も前だよ」
「じゃなくて、仕事」
七海はあたしが刑事だと知っている。何せ警官になってから、ずっとこの店に通っているのだからそれも当然だ。
「ああ、全然。全然わかんないよ」
あたしは強い酒を一口飲むと、ため息をついた。
「大変ね」
「人ごとだと思って」
「まあねえ」
そう言って、彼女はくすくす笑う。
あたしは無言でグラッパを飲み干すと、コップを置いた。
「おかわり」
「飲みすぎないでね」
七海は新しい酒を出すと、横に水の入ったコップを置いた。
「サービス」
「そりゃどうも」
むすっとしながら、あたしは水を一口飲んだ。
「サービスと言えば、新しい子が来たの」
「何? 風俗でも始めたの? 客引き?」
「違うって」
そう言うと、七海はカウンター越しに顔を寄せてきた。
「あの端っこにいるお客さん、今日初めてなの」
「へー」
少し、興味が湧いたので続きを促した。
「さっきまで来てた若い娘がさ、声かけて行ったんだけど、塩対応で」
「間違って来たんじゃない? あのお客さん」
「ちゃんとどんな店か聞いてきたし、間違いないって」
あたしはそっと、その客を盗み見た。
背丈はあまりないが、強い癖毛のようだ。薄暗い店内では良く見えない。
「あんた好みの、エスっけの強そうな人よ」
「好みねえ」
幸いというかシングルはシングルだし、ここはオトモダチを増やす意味でも、声をかけるぐらいいいよね。
あたしはそう考えると、手元の酒を飲み干した。
「フレンチハイボールを一つ」
「はいはい」
やけにニヤニヤしながら、七海は注文の品をカウンターに置いた。
「しっかりね」
ほんとに一言多いな。
「こんばんわ、お一人ですかぁ?」
一オクターブ高めの声で、話しかける。
「一人ならなんだ、何か問題でもあるか?」
なんか聞き覚えのある声がした。
「……何、してんすか?」
「き、君こそ」
そこには上司、楡松明希警部がいた。
「ナンパ待ちっすか?」
「君こそ、ナンパか?」
あたしは、隣のスツールに座るとフレンチハイボールを一気に飲み干した。
「隣に座る許可を出した覚えは無いぞ」
「いちいち警部の許可がいるんですかぁ?」
あたしたちは、しばらく見つめあった。というか、睨み合った。
「君はここの常連なのか」
「そうですが、何か」
プイッと、警部の方から目を逸らした。
「ここが、どんな場所か知っているのか?」
「ビアン向けのバーですよ」
ここは、プラムは女性同性愛者専用のバー。
七海の魔除けの鈴の霊験のおかげなのか、男性の客が入ってくる事は今まで一回もない。
「じゃあ、なんだ君もそうなのか?」
「ええ、警部も」
「ああ、そうだ」
なんとなく、二人とも黙り込んだ。
「あらあら、もうカップル成立?」
「違う」
ニコニコしながら近寄ってきた七海に、警部は速攻で否定した。
「上司なの、この人」
「あら、お巡りさんなんですか?」
あたしたちの関係とかぜんぜん意に介さず、七海は警部に話しかけた。
「関根君は身分を明かしているのか?」
「そうなんですよ、ほらこの子が付き合ってる子とかには、教えないとアレなんで」
アレってなんだよ。
「ああ、パートナーとも来ていたんだな」
「なんすか、身上調査っすか」
あたしは、三杯目のグラッパを注文した。
「飲み過ぎじゃないか?」
「大丈夫です、これくらい」
警部にまで、飲み過ぎって言われた。
「大変でしょこの子? なんか堅苦しいことばかり言うし、最近別れたばかりで荒れてるし」
「三ヶ月前ですー、最近じゃありません」
七海はあたしの抗議を聞こえないふりをして、ベラベラ話はじめた。
「バンドマンの女の子と同棲してたんですよ、もうベタ惚れだったのに、相手が都会に行っちゃって」
「え、未成年?」
七海の説明が雑すぎて、完全に警部がドッ引いて行く。
「何その言い方、完全に犯罪者じゃん。あの娘がハタチは超えてから、あたしは出会ってます」
「そうなんだ、ああ、それで……部屋が……」
さすがの警部も、情報量が多いのかいつものキレがなくなってきた。
「部屋がって……えー、もう連れ込んでるの?」
「色々あって、泊まってるだけ!」
今度は、七海が変な勘違いをした。
「そうなの? つまんないわね」
「やめて、もう!」
このままだと、この店に来てからの恋愛遍歴を上司に全部バラされそうだ。
「あ、この前のノートの鑑定結果、警部が帰った後に来てました」
とりあえず、当たり障りがなさそうな仕事の話をした。
「え? あ、そうか。何か出たか?」
「何かを書いた跡はあるそうですよ、消しゴムで消したみたいに消えてるらしいです」
「消えてる、か」
こうやって、仕事の話を入れておけば七海も口を挟めまい。
「あら、警部さんなの? 偉いじゃない」
「……楡松、楡松明希だ。階級で呼ばれるのは、その、困る」
一瞬で七海が口を挟んできた。あたしの作戦は、ぜんぜん意味がなかった。
「楡松明希さん、明希ちゃんね」
「『ちゃん』は、ちょっと」
「んじゃあ、明希さんね」
さすがに警部が困惑して、苦情を申しでた。
あたしだって、『ちゃん』は辛い。
「しかし、意外よね。職場で出会いがあるなんて」
「そりゃ、出会いっちゃいるけど、出会ってるだけだし」
またなんか、七海が変なことを言い出す雰囲気を出した。
「大体、あたしたちみたいなのは左利きぐらいはいるんだから、部署に何人もいても、おかしくないじゃん」
「そうだけどさ、オフィスラヴって憧れない」
「全然」
七海に合わせていると、楡松警部と付きあってることにされそうだ。
「け、楡松さん、そろそろ帰りましょう」
本人が嫌がっているのに、あたしが階級で呼ぶ訳にもいかない。とりあえずこの場は退散しないと、七海が何を言い出すか分からない。
「ああ」
何か、気になることでもあるのか、警部は生返事で答えた。
「あ、すいません、気がつかなくて。あたしだけ先に帰っても、いいですけど……」
もしかしたら、警部は待ち合わせなのかもしれない。念のために先に帰ることも提案した。
「気が……つかない?」
「楡松さん?」
警部はそう呟くと、あたしを見た。
「関根君、すぐに行こう」
「行くって? どこです?」
「有掘の家だ、住所はわかるな」
警部はスツールから降りると、店から出ようとした。
「あの、警部」
「なんだ?」
「あたしたちお酒飲んでますよ」
警部は、キョトンとした顔で立ち止まった。
「車、どうします?」
「タクシーで行くぞ!」
ヤケクソみたいに叫ぶ警部の声を聞いて、七海がタクシーを呼んでいるのが見えた。
マジかよ。
あたしは、若干酔った頭を抱えるのだった。