二 煮え切らない会議
「おはようございます」
翌朝、放火殺人事件として署内に捜査本部が立ち上がった。
事件当日は深夜まで、報告を書いたり、機捜の報告を受けたりとほとんど休む暇もなかった。とはいえ少しは休みたかったので、一度家に帰って仮眠を取ると、疲れを引きずりながらなんとか出勤した。
刑事部屋に泊まり込んだ同僚も少なくなく、ずうずうしくも、あたしの席で眠り込んでいる輩までいた。
件の主は、頭から毛布をかぶっていてまるで蝶の蛹のようになっていた。
「おはようございます」
あたしは、無慈悲に毛布を剥ぎ取ると、不法占拠の主を起こしにかかった。
「あ、おはよう」
なに、この好みの美少女。
色白で張りのある素肌、そして寝起きのせいか少し憂いを秘めたような瞳。長いまつ毛とバランスの取れた眉。それでいて、どことなく冷たい印象を与える唇。
そしてかなり強めの天然パーマ。あたし好みの美少女が、毛布の下から忽然と現れた。
「なんだ関根君か」
美少女は、モゾモゾと手を伸ばすと大きめの黒縁メガネをかけた。
「お、はようございます。楡松警部」
メガネをかけると、一瞬で魔法が解けて、美少女はたちまち楡松警部になった。
あれは、呪いのメガネか何かに違いない。
「警部、申し訳ないのですが、そこは私の席です」
「ああ、すまない」
楡松警部は、素直に隣にある自分の席に移動した。
寝起きだから、拍子抜けするほど素直なんだろうか。
「すまないな、なにせ机の上がこんなものだから」
そう指さす先には、書類やらなにやら色々なものは積み重なっている。
整理が下手なのか?
「警部も泊まりですか?」
「ああ、そんなところだ」
楡松警部は眠気を振り払うように、頭を振りながら立ち上がった。
「ちょっと、顔を洗ってくる」
警部はそういうと、刑事部屋を出ていった。
この頃はまだ歳を聞いたことはないけど、少なくと職場のデスクで明かすのは良くないよね。
あたしが心配することじゃないけど、いちおう女子だし、良ければ今日は家まで送って行こうか?
そう思いながら、コーヒーを淹れると昨晩提出した資料を読み返した。
被害者は市内の会社に務める女性、香取澄子。今のところ、反社的な勢力とのつながりは警察の記録にはない。
機捜からは、昨晩の火事の野次馬に前科のある人物はいないが、大学時代の友人を名乗る男がいたと報告を受けている。
それ以外の詳細な情報は、今日の捜査会議で説明があるはずだ。
「関根君、タオルか何かあるかね?」
報告書の内容などを再確認していたところに、濡れた猫みたいな声で楡松警部が話しかけてきた。
「ありますけど……ってびしょびしょじゃないですか!」
振り返ると、なぜかメガネまでびしょびしょにした警部が立っていた。
「うっかり、タオルを持って行くのを忘れた」
うっかりじゃねえよ。
「大丈夫ですか? メガネも外してください」
あたしはカバンから、ハンドタオルを取り出すと警部の顔を拭った。
「ああ、すまない」
「子供じゃないんですから、気をつけください」
このままメガネ外してくれたら、もう少し仕事にもハリが出るのに。
あたしはそう思いながら、忌々しいメガネもついでに拭った。
「ああ、ありがとう助かった」
あたしからメガネを受け取りながら、警部は椅子に座った。
「捜査会議は、すぐかな?」
「あと五分後です、そろそろ向かった方がいいですね」
「わかった、報告は任せる」
メガネを掛け直すと、警部は立ち上がった。
「承知しました」
あたしも資料を手に取ると、立ち上がった。
「被害者は三十一歳だったな」
「そうですが?」
「結婚式を計画するには、おかしくない歳だな」
「まあ……そうですね」
警部が何が言いたいのかわからないまま、あたしは相槌を打った。
「そんなに歳が離れてはいないが、仕事のせいか、あまりその手の話はよくわからなくてな」
三十代前半なんだ、警部。
「はあ?」
まあ、あたしもその手の話はわかんないけど。
「相手の写真の一つもないのは、最近の傾向なのかね」
「スマホがありますから、一概にそうは言えないかもしれませんが」
会議室に入りながら、あたしは答えた。
「まあ、その辺はすぐにわかるか」
警部にしては、珍しく煮え切らない態度で席についた。
会議室には、ほとんどの捜査関係者がすでに顔を揃えていた。その中には、署長や刑事課長の姿も見えた。
時間になると、堅苦しい署長の訓示があり、引き続いて刑事課長から事件の概要が伝えられた。
概ね、あたしたちが知っている以上のことはなかった。その中でも目新しいのは、喉の索状痕と煙を吸った形跡がなく脳出血や心臓発作などの形跡がないことから、司法解剖で殺人と断定されたことぐらいだった。
続けて、鑑識から現場の状況から指紋等の遺留物の採取は難しいとの報告があった。
まあ、これも聞いていた通りだ。
「火元は数箇所で、一番大きな箇所は台所のフライパンと見られます」
フライパンが火元というのは想定外だった。
「おそらくフライパンにサラダ油を入れて、火にかけたものと思われます」
「料理の途中だったんじゃないの?」
鑑識の報告に、質問ともヤジともつかない声が飛んだ。
「そこは、何とも言えないです。ただ、他の部屋の数箇所からも、食用油と推定される油分が検出されています」
食用油とは、意外すぎる事実だ。
「おそらく、食用油を使って放火したと推定されます」
困惑した空気が、会議室に流れた。
その空気を察したのか、報告していた鑑識官も困惑したように付け加えた。
「もちろん、食用油が発火する温度は比較的高いので放火には向きませんが」
鑑識は、引き続き残されたノートなどの遺留品を分析すると言って、報告を終わった。
なんか、忘れてるような。
あたしが、そう首を捻っていると楡松警部が質問した。
「パソコンやスマホの方はどうなっている?」
そう言われた鑑識官は、慌てて答えた。
「確保できていません。ええっと、消防と協力しましたが、それらしい物は今のところ見つかっていません」
「持ち去られたのか?」
「それを調べるのは、我々だ」
警部がさらに質問を重ねると、刑事課長が間髪入れずに答えた。
警部は少しイラっとしたような表情をしたが、大人しく座り直した。
引き続き機捜とあたしから、初動捜査の報告を行った。
他の参加者にとっても、目新しい事実はなく特段質問もなく報告は終わった。
「当面は現場にあったメールの文面、これを中心に怨恨の線で関係者に聞き込みを行う」 指紋の一つも見つからないので、ここは地道に聞き込みしかないようだ。
それぞれに担当が振られ、あたし達は学生時代の友人の担当となった。
「早期解決に向けて、万全を期すように」
署長の訓示で会議は解散となった。
ぞろぞろと同僚達が会議室を後にする中、楡松警部は考え込むように椅子に座り込んでいた。
「警部?」
「雑な事件だな、気に入らないよ」
やけに不機嫌そうに、警部は答えた。
「人が一人死んで、一人しか駆けつけていない、なぜだ?」
「……知らないとか? ですかね」
警部は無言であたしを見た。普段あまり見たことない、険しい目つきであたしはすっかり怯んでしまった。
「あ、あの、名乗り出れない理由があるとか」
「いずれにせよ、相手の責任だな」
ようやく、あたしから目を逸らすと、楡松警部は立ち上がった。
「行こう、関根君。朝食をすませたら大学時代の友人とやらに会いに行くぞ」
後で知ったことだが、楡松明希警部はこの時怒っていた。
結婚式を控えた女性のパートナーが名乗りでない、その無責任さを怒っていたのだ。
彼女はそういう人なのだ。