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後編

 昨日の夜、騒ぎを聞きつけた看護師に俺は保護され、そのまま一晩看護師の観察下に置かれていた。前々から懸念されていた精神疾患による混乱として処理されたらしい。しばらくは観察と称して監視されるようだ。もっとも、病室で発見されカウンセリングを受け、刑事から事情聴取を受けた頃には俺はすっかり健二として「まとも」になっていた。

 ごはんを食べる時も、トイレに行く時も、何をするにも看護師が付いてきたが、それも気にならない。

 健二だと思い込みさえすれば、今の環境は思ったよりも良いものだ。もっと早くに受け入れていれば良かったとすら思える。

 ――殺人というリスクを犯してでも手に入れたかったものがこうも簡単に手に入ってしまうのだから。

 病室には、俺と看護師の他に見舞いに来た未紀がいた。持ってきたりんごを器用に剥いている。俺の状態が安定しているからか、居づらさからか、看護師は静かに廊下へ出ていった。願っても叶わなかった、未紀と二人きりの空間が図らずもでき、嬉しかった。


 明るく気がきく健二と、大人しいが優しく真っ直ぐな未紀とは小さい頃からの友だち、幼なじみといった仲だ。何をするにもいつも3人でつるんでいた。小学校も中学校も高校さえも同じ所に通った。高校に関しては、俺は自分の学力より1つも2つも上の学校だったが、離れたくない一心でひたすらに勉強した。未紀は応援してくれたし、勉強だって教えてくれた。一緒の高校に行こうねと笑いかけてくれた。そのうちに未紀に惹かれるようになったのも必然だった。

 健二はその性格と外見からよく女子にモテていた。それでも健二は彼女をつくらなかった。一度、どうしてと聞いたことがある。その時は、好きな子とじゃなきゃ付き合いたくないからと言われた。じゃあ好きな子はいるのかと聞きたかったが、聞けなかった。

 その頃から俺は健二に対して親しみと共に劣等感を感じていた。健二はいいやつだ。誰が見ても。健二は目立つ奴だった。自然と周りには沢山の人が集まる。

 俺はといえば、それにくっついて目立ふりをしているだけ。出来た友だちは、大抵が健二繋がりで知り合った人だった。それでも健二に負けたくなくて、未紀に告白しようと決意していた。――決意した次の日に、未紀から健二と付き合うことになったと聞くまでは。

 はにかみながらそう報告する未紀の横顔は、幸せそうだった。幼なじみで、何でも一緒だった3人は、その瞬間崩れてしまった。俺だけのけ者にされた。健二に聞いても、付き合うことになったと言うだけだった。その顔は、未紀と同じ表情をしていた。

 許せなかった。未紀までも持っていくなんて、ずるい。なにも言わないなんて、ずるい。一番の親友だと思っていたのに。

 激情が身体を渦巻き、俺を凶行に走らせた。健二とまともに勝負しても負けることは明らか。ならばどうすればいいのか。ふと、健二がいなくなれば、健二を殺してしまえば、勝負をしなくて済むと思ってしまった。――あの時俺は、どうかしていた。


 可愛らしいうさぎ型にカットされたりんごを皿に乗せて未紀が差し出してきた。笑顔で受け取り、一つ手に取りかじる。

「うん、おいしい。うさぎ型に切られてるの初めて食べた。可愛いね」

 なるべく健二らしくいることを心がけて、笑顔で言う。心がけずとも、未紀に対しては自然と笑顔になるけれど。

「…健二、りんご好きだよね。この時期になるといっつもりんご食べたいって言うし。なのに自分じゃ皮も剥けないし」

 未紀の澄んだ瞳に映るのは健二の姿だけど、俺はそれでも満足だった。

「食べたくなったら、未紀ちゃんが剥いてくれるんだろ?」

 今ならその瞳を真っ直ぐと見返すことができる。

 未紀は一度にっこりと笑い、立ち上がり、

「しょうがないなあ。また、りんご持ってくるね」

 そう言って帰り支度を始めた。もう少し二人でいたくて、引き止めようとしたがいい言葉が思いつかない。

 またね、と言ってドアを開けようとした未紀の手を掴むのが俺の出来る精一杯だった。

 振り返った未紀の顔は、今まで見たことのない笑顔を浮かべている。

「ごめんね、今日はちょっと寄っただけなんだ。またすぐ来るから」

 そっと手を離されて、未紀はドアの向こうに消えていった。残された俺は、それでも手に残る未紀の感触を何時までも確かめているだけだった。


 健二になりきることは、俺にとってそう難しいことではなかった。幼少時からずっと一緒だったのだ。健二と過ごした時間は他の誰よりも長い。知らない事のほうが少ないくらいだ。

 健二の両親は共働き、兄弟もいないとなれば問題なく家族にも馴染めた。友だちが引っ切り無しに見舞いに来た二日間、完璧に健二でいられた。カウンセリングもしっかりこなし、一時の混乱から回復した様を演じきった。あれから毎日お見舞いに来る未紀とも、沢山話すことができた。

 そうして、健二となった俺に、これからも警察での事情聴取を受けることを前提に退院の許可がおりたのが一日前。身辺整理も終わり、迎えに来る両親を病室で待っていた。

 元俺の身体の容態は何ら変わらず、原因不明の昏睡状態だと耳にしたが、そんなことは今となってはどうでもいい。健二となった今のほうが、ずっといいに決まっている。あの身体にはもう戻るつもりは無いと、目をつぶる。戻りたくとも戻れない。

 コンコン、とドアをノックする音に顔をあげ、どうぞと返事をする。ドアを開けて入ってきたのは、未紀だった。

「退院おめでとう。今、時間大丈夫?」

 未紀がそう言いながら俺の隣に座る。スカートの裾をいじりながらこちらを向く未紀。可愛らしい花柄ワンピースが似合っていた。

「ありがと。ようやく退院できるよ。窮屈な病室生活ともおさらば!」

 勢いよく背伸びをしながら未紀を横目で見ると、想像よりも固い表情が浮かんでいた。

「どうしたの?何かあった?」

 未紀の表情に得も言えぬ不安がよぎる。いつしか感じたあの視線が今は未紀から発せられているような感覚に背筋がゾッとした。

「健二」

 つぶやいて、未紀が横から抱きついてきた。左腕にあたる胸も、うずめられた髪の毛も、何もかもが柔らかく、未紀のいい匂いが鼻をかすめる。

 その一瞬で心臓が破裂するほど痛み、全身に血液が物凄い速さで巡る。しかし身体は硬直してまったく動こうとしない。思考も硬直してしまったのか、目の前がぐるぐる回る。

 ずっとこうしていたかった。

「あなたは誰?」

 だから、未紀が勢い良く俺を突き放したことも、その言葉の意味もとっさにはわからなかった。

「本当に健二?健二なの?何度もそんなこと有り得ないって思った。でも、健二じゃないって感じは拭えないの。おかしいよね。おかしいこと言ってるってことはわかってる。けど…」

 真っ直ぐな瞳に射られて、俺は今度こそ硬直してしまった。なぜどうして未紀だけに。

「な、にを言ってるんだよ…。俺は、健二だ」

 もっと何か言おうとして、何も言えなかった。

「ねえ、健二なら、このワンピース似合ってるねって言ってくれたよね。健二と一緒に選んだこのワンピース、着るたびに可愛い似合ってるって言ってくれたよね。わたしから抱きついたら、いっつも笑いながら抱きしめてくれたよね」

 未紀の瞳からは透明な涙が幾粒も流れ落ちている。ああ、綺麗だな。

「りんごのうさぎだって、いつもわたしが作ってあげてた。忘れちゃったの?わたしのことだけ忘れちゃったの?」

 そうだ。事件のせいで記憶障害が出ていることにしてしまえばいい。そうすれば、俺は健二のフリを続けられる。

「あ、あのさ、未紀ちゃん、」

「未紀ちゃんなんて呼ばないでっ!なんでいつもみたいに未紀って呼んでくれないの?話し方も、話すことも、健二みたいで健二じゃない。ずっと違和感が拭えない。わたし何か怒らせるようなことした?なんでそんな態度とるの?いつもの健二に戻ってよ…」

 泣きじゃくる未紀を目の前に、ただ呆然とするしかなかった。

「あなたは誰?」

 誰だと聞かれても、俺には答えるべき答えが無い。

 俺の知らない健二は、沢山いた。その全てを把握することも、その全てを騙しきることも無理だ。俺の知らない健二を知っている人にとって、俺は健二ではなくなってしまう。所詮フリでしか健二でいられない。

「俺は…」

 誰だ?

「ごめん」

 俯いて、そう一言言い残して未紀は足早に病室を出ていってしまった。俺を一人残して。


 晴れていれば、陰鬱な雰囲気のつきまとう病院の中で一番晴れやかな場所になるだろう屋上は、今はそれを助長するかのように雨の降り出しそうな曇天が一面に広がっている。

 屋上には簡単に出てこれた。忍び足も、嘘もつかずにただ引かれるまま歩いたら屋上に出る扉の前に立っていた。開いている気がしてドアノブをひねってみたら、簡単に開いた。屋上に辿り着くよう仕向けられているようだ。

 普通のものより幾分高めの柵から下を見下ろすように乗り出すと、吸い込まれるような錯覚に囚われる。

 俺は一体何者なのか。誰にもわからないだろう。俺にだってわかるわけがない。俺は誰だ。健二でもない俺は誰だ。何者でもなくなってしまった。それは死とどう違うだろう。

 柵を握る力が徐々に強くなる。乗り出した身体が下へ下へと傾いていく。

 突然、強い風が背中を押して、バランスを崩し、

――ドッ

 屋上の床に尻もちをついた。

 落ちると思った瞬間、慌てて身を引いていた。冷や汗が頬をつたう。

 死んでしまおうと思っていたはずなのに、いざ死にそうになると怖くて死ねなかった。臆病な俺は、死ぬことすらできない。

 呪いだった。犯した罪に呪いという形で罰が下った。気付いたときにはもう遅い。俺は呪いにかかったまま何者でもないまま生きるしかない。

 膝を抱えうずくまり、俺は現実を見ることを諦めた。


「死ななかったな」

 高層ビル屋上の柵に座り、足を投げ出しながらスーツ姿の男がぞんざいに言った。その視線の先には病院が広がり、屋上までもが確認できる。

「どっちにしろ、近いうちにぶっ壊れるか死ぬかだろうがな」

 サラリーマン風のその男は、長い脚を思い切り前に振り、何事もなく空中に着地した。

「お前はこれでよかったのか?ま、聞いてもしょうがないが」

 振り向きざまに柵に腰かけるもう一人の男―少年に声をかける。

「俺としては死んだ気でいるんで、その後身体がどうなろうとどうでもいいですよ。家族や友人には申し訳ないですけどね」

 健二は目を細めながら病院を眺める。

「あなたが約束を守ってさえくれればそれで」

「わかっている。これでも約束は守る男だ」

 サラリーマン風の男は、大仰に胸を叩いた。

 健二が死んだ直後、この男は現れた。誰もいなかったはずの路地に湧き出すように。そして、健二と契約を結んだ。一方は己の研究のために。一方は己の心残りのために。

「正直、びっくりどころじゃなかったですよ。殺されるは目の前に悪魔が現れるはで。悪魔と契約なんて話持ち掛けられて、殺された衝撃とか吹っ飛んじゃいましたね」

 契約とは、死後の健二の身体を好きに使わせるかわりに、誰か一人の元に化けて出させてもらうといったものだ。

 健二はこれから未紀の元へ最後の言葉を残しに行く。

「あーあ。まさか殺されるとはね」

「お前を見てると、殺されたことをたいして恨んでなさそうに見えるのだが」

「そんなこともないですよ。僕の輝かしい未来と、未紀を奪ったんですから。でも、死んじゃってるんじゃ、なんにも出来ないじゃないですか。ああ、生き返る契約とか無かったんですか?特殊能力で世界を壊すとかと引換に」

 おちゃらけたように言うが、その顔は真剣そのものだった。

「それは無理。悪魔にゃ蘇生の力は備わっていない。大天使様あたりに頼みな」

 目に見えてがっくりする健二の肩に手を置き、複雑な呪文を空中に描き始める。

「そろそろお前も時間切れだ。これ以上は俺様の力をもってしても強制的にあの世へ送還されちまう」

 健二の周りに光の文字が螺旋を描く。

「死んだ実感ないなあ。死ぬってなんですかね」

「それは500年生きてきた俺様にもわからん」

 光の文字は輝きを増し、健二の身体がうすぼんやりとしてくる。

「じゃあ、生きるってなんですかね」

 言った途端、光の粒となった健二は文字に引きつられ空の彼方へと消えていった。上手くいっていればそのまま未紀の元へと辿り着くはずだ。

「そんなことは、生きているうちに考えろ」

 サラリーマン風の悪魔がこぼした言葉は、風と共に流れていった。


「面白い研究結果が手に入った」

 健二が去った後の空で一人、悪魔が自分の研究テーマである人間についてレポートをまとめていた。

「『人間の自己構築工程について』っと」

 空中に文字を書き連ねてゆく。文字は辺り一面の空に広がっていた。

「人間てのはつくづく面白いな。自己を構成する最重要項目は自己意識でも、身体でもなく、他者による認識か。なるほどなるほど、悪魔にはわからん心理だ」

 ペンをはしらせる手の動きは止まらない。

「自己を決定づけるのはいつだって自分自身でしかないということを、彼らは知らないのかね。うむ、こういった考え方自体が悪魔らしいということなのか。うーむ、これは悪魔側の研究も進めるべきだな…」

 手を止め考えまた書き、といった動きを何度か繰り返し、出来上がったらしいそれを光の束にまとめ、鞄に詰め込む。

「うっし、帰るか」

 腰をたたきながら立ち上がり、右腕を高々と掲げる。

 パチンッ

 大きく指を鳴らし、その瞬間悪魔の姿は掻き消えた。


 ついに誰も居なくなった空は、待っていたかのように大粒の涙を流し、地面に模様をつけていった。


ここまでお付き合い頂きありがとうございます。

これにて完結です。




実は悪魔のくだりを書きたくて前部分をうんうんと作り出した作品だったりします。


アイデンティティ問題と言いますか、自己認識とはなんぞやということを自分なりに考えた今のところの結論を吐き出した次第です。

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