中編
カーテンの隙間から朝日が漏れ出し強制的に目覚めへと導かれる。
いつもならしばらく布団で微睡んでいるところだが、さっさとベッドから出て身なりを整える。鏡を見ようとして、やめた。
今日は朝から先生に会ってもう一度話そう。話したところでどうしようもないことはわかっていたが、じっとしていることもできない。
病室を出て一番、俺を病院に連れてきた警官と鉢合わせた。
「あ、やあ。健二く…いや、失礼。具合はどうだい?」
「おはようございます。朝早くからお疲れ様です。体の調子はだいぶいいです」
「そうかい。それは良かった。無理せずにね」
「ありがとうございます」
他愛ない受け答えの間じゅう警官には作り物のような笑みが張り付いていた。
警官と別れ、隣の病室へ入ると、朝早いというのに1人警官が待機していた。自分のことながらご苦労様だ。
「おはようございます。あの、昨日話した先生と会いたいのですが今大丈夫ですか?」
昨日は見なかった顔の警官だったが、さっきの警官と同じ作り笑いをしていた。俺の頭がおかしいことは周知のことのようだ。
「ああ、おはよう。相談か何かかい?出来るかどうか聞いてみよう。ちょっと待ってくれ」
そう言って警官は無線に向かって何やら話し始めた。
「大丈夫だそうだ。後に別口で患者がいるそうだから、今すぐ来て欲しいとのことだ。じゃあ、行こうか」
警官は立ち上がって、俺を連れていこうとする。
「昨日と同じ部屋ですよね?俺一人で行けるので大丈夫です」
扉の前に立って警官が先導するのをやんわりと防ぐ。
「いやしかし…」
「本当に大丈夫です。お願いします、一人で行かせて下さい」
俺の懇願に折れたのか、俺を刺激してはいけないという心理が働いたのか、警官は俺を一人で向かわせてくれた。
別に警官に聞かれるとまずい話をしようと思ったわけではない。正直、笑顔で優しい警官が気持ち悪くて一人になりたかったのだ。胃の奥がムカムカする。
一人廊下を進むと、ふと視界に見知った顔が横切る。
「…父さん、母さん」
思わず呼んでしまいそうになったが、両親の顔を見て言葉が出なかった。
二人ともやつれていて、常に俯いている。たった一日だけで両親の姿はガラリと変わっていた。
刑事と共に病室に入って行くのを見て、俺も慌ててその病室の前までつけていった。
入ろうかどうしようか躊躇って、意を決して病室のドアに手を掛ける。
その途端、
「健二!?健二だよね!」
突然の呼びかけに、心臓が飛び跳ねた。ドアに掛けていた手を急いでしまう。
「健二!良かった、大丈夫なの?」
「おう健二!元気そうじゃねえか」
声を掛けてきたのは友美に優也だった。二人とも健二の友達であり、俺の友達でもある。
「あ、ああ…え、えっと」
あまりに突然のことに頭が追いついていかず、まともに喋ることも出来なかった。
「だいじょぶか?俺たち、お前が事件に巻き込まれて入院することになったって聞いてすっ飛んで来たんだぞ!」
「ほんっっと心配させて!ほら、未紀!あんたが一番心配してたんだから、そんなとこに突っ立ってないで早く抱きついちゃいなって」
友美に背中を押されて俺の目の前に出てきた顔に、俺の心臓はさっきよりも数倍跳ね上がった。
「健二、本当に大丈夫?無理してない?」
俺の顔を覗き込むように首を傾げる未紀。サラサラな黒髪が顔の横に流れ、綺麗な瞳が俺の目を一直線で結ぶ。たまらず俺は顔を背けてしまった。
「だ、大丈夫。べ、別に、体の何処が悪いってわけじゃないからさ。一応入院って感じでさ」
多分今が一番体の調子がおかしいであろう。心臓ははち切れんばかりに脈打っている。
それと同時に警官達にも感じていた気持ち悪さもこみ上げてくる。
「そっか…。良かった。ほんとに、良かった」
未紀の目が少し潤んでいる。そんなに健二のことが心配だったのか。それも当然か。
未紀は健二の彼女なのだから。
「相変わらずお熱いねっ!良かった良かった」
お調子者の優也は俺と未紀を見てニヤニヤしている。
「この調子なら、アイツも直目え覚ますだろ」
「そうよね、意識不明で面会謝絶だなんて言われるからビックリしたけど、健二がこうなんだもの、その内目覚ますかも!」
「そうだよね…」
俺のことを心配してくれていた事は嬉しかったが、素直には喜べない。
「健二も早く退院しろよな!健二がいねえと張り合いないんだよな~」
優也が健二の肩を叩いて笑う。胃がムカムカする。
しばらく他愛もない話をしていたが、誰も核心に触れるようなことはしなかった。優しいだけの会話が続く。
「あんまり立ち話してちゃ怒られちゃうかな。病室まで行こうとしてたんだけどね、元気な姿見れたから今日は帰ろっか」
会話が途切れたタイミングを見計らって友美がいつもの明るい口調で皆に言う。胃がムカムカする。
「またお見舞いくるね。欲しいものあったら言ってね」
未紀が健二の手を優しく握ってくる。やわらかな手から体温が伝わってきた。耐えられないほどの痛みが襲ってくる。
「なあ、俺、オカシクないか?」
なんとかこの痛みから逃れたくて、目の前の未紀に、優也に、友美に言葉をぶつけた。
誰か一人でもいいから、俺の望む答えを言って欲しかった。そうしてくれれば、俺は…。
「おいおい、大丈夫なんじゃねぇのかよ。オカシイとこなんてどこもないって。なあ?」
その言葉に友美はうんうんと頭を大きく縦に振る。
「なっ。だから弱気になんなって。良く寝りゃいいんだよ、寝りゃ」
優也の軽口に友美も笑い、その後少し雑談をして3人は健二に手を振って別れた。
未紀だけが、俺の問いかけを聞いてから一回も笑っていなかったが、そんな事を気にしていられないほど気持ち悪さが込み上げ、胸が苦しかった。「じゃあ」と手を振って別れるまで立っていられたのが奇跡に思える。
目をつぶってうずくまってしまいたかった。でもそれ以上に誰かに見つけて欲しかった。
逃げるように、助けを求めるように、俺の両親が入っていった病室の扉をじっと見つめた。俺に残された道は、一つしかないのかもしれない。
廊下の曲がり角から看護師の人が話す声が聞こえる。躊躇う時間は無い。俺は病室の扉に手を掛けた。
ガラっと音を立てて扉を一気に開け、最初に目に入ったのは驚いた顔の刑事。無視して進む。
次に目に入ったのはベッドの横に並んだ両親。入ってきた俺に気づいて顔を向けてきた。
最後に目に入ったのは沢山のチューブやら医療機器やらに囲まれて眠り姫のごとくベッドに横たわっている自分の体だった。
「父さん、母さん」
俯いて言う。両親の顔は、見れなかった。
静かな一瞬が過ぎた。沈黙が肩にのしかかる。
「父さん、母さん」
両親から反応が返ってこなかったのが不安になって、沈黙に耐えられなくなって、今度は顔をあげてしまった。
「…健二くんかい?」
沈黙は無かった。二度目の俺の呼びかけに、父さんが反応する。隣にいる母さんは俯いたままだ。
「身体の具合はどうだい?健二くんは無事で良かった」
そう言って、目尻と口元の皺をより深くする父さん。口調と表情の割に雰囲気がどこか冷たい。
「あの…大丈夫です。すみません。何でもないです。突然すみません。失礼しました」
口と身体が勝手に動いてスムーズに病室から出る。頭の中は父さんが何を言ったか考えないように必死だった。
後を追って刑事が出てきたのに気づくと、自然早足になる。呼びかけられていることに気づいてはいる。だから気づかないふりじゃなく、思いっきり拒んでみた。要は、走って逃げた。
そういえばまた病院で走ってしまった。看護師さんに怒られるなあ、とか思いながら自分の病室まで駆け抜ける。乱暴にドアを開けるが中には誰もいない。個室で良かった。
枕に顔をうずめて、布団を頭までかぶる。目をつぶると、深い暗闇と自分の呼吸、廊下を歩く沢山の足音が聞こえる。昼間の病院は意外と騒々しい。
しばらくしてから刑事と医師が病室までやってきたが、布団から顔も出さずに、なんでもないと言って追い返してしまった。
さっきから頭が鈍く痛い。脳裏をチラリと視線がよぎっては鈍い痛みを残していく。眠く無かったはずなのだが、次第に頭がぼんやりとして俺は眠りについた。現実から逃げるかのように。
――追われている。俺は暗闇の中を全力で走る。追われている。質量のある暗闇が、俺の背中に迫っている。あれは何だっただろうか。追い付かれたら、どうなるのだろうか。後ろを振り返った俺はギョッとした。暗闇から、ヌウッと黒い手が伸びてきている。今にも背中を掴まれそうだった。振り切ろうとするが、走り続けた足にそんな力はもう残っていなかった。それどころか、足がもつれて前のめりにスッ転んだ。ヤバイ、と思う暇も無かった。背中を思い切り引っ張られ、前のめりだった体制から一気に後ろに尻餅をつく形になってしまう。引きずり込まれないよう手に足に力を入れるが叶わない。黒い手を払いのけようとしても、すり抜けてしまい触れることすら出来ない。ズルズルと暗闇に身体が埋まっていく。暗闇よりもさらに深い闇に覆われた身体は、もはや輪郭を持っていなかった。唯一見えたのは、刺さるような視線を送るあの目…
「…っ!」
勢い良く起き上がり、辺りを見回す。暗闇に包まれているが、見覚えのあるものだった。
「…最悪」
病室のベッドの上。息も荒く、背中が汗でぐっしょりと濡れている。いかにも悪夢からの目覚めといった体だ。
水を飲もうと冷蔵庫へ向かい、壁にかかっている鏡に俺の姿が映った。暗い影のように映るのは、健二の身体。
手を握り、力いっぱい打ち付けると、パリンと軽い音を立てて鏡は簡単に割れてしまった。右手が痛み、一筋血が流れる。ひびが入って三つになった鏡には、三人の健二が映っていた。
自分の姿さえ見なければ、健二の姿を見ずに済む。病院に来てからずっと見ないようにしていたのだが、それも無駄みたいだ。どうしたって健二は俺の前に現れる。何時だって、何処へだって。俺は健二から逃れられない。
責めるようなまなざしを向けてくる健二たちに、俺はとうとう耐えきれなくなってしまった。
病室の扉をそっと開け、廊下に出てみると果ての見えない暗闇が続いている。昼間とは打って変わって静まりかえる病院。幽霊の類が出てもおかしくない雰囲気。
巡回の看護師に見つからないように慎重に廊下を進む。ペタペタという足音が気になってスリッパは脱いでしまった。昼間と同じルートを辿り、目的の病室の前まで辿着いた。そっとドアを開ける。医療機器に囲まれたベッドを見ると、ドアを閉めることも忍び足で行くことも忘れて駆け込んだ。暗闇が迫っている。
周りに巡らされたチューブを避け、横たわる自分の身体を真上から覗き込む。機器の動く鈍い機械音だけが響いている。
昼間に見た様子と変わっている訳が無いのだが、暗いからか余計寝ているだけのように見えた。自分の寝顔を見るなんて、初めてだ。見たことの無い自分に、違和感しか覚えない。確かに自分の身体だが、自分では無いような感覚。
そっと肩を掴み、ゆすってみる。子供を揺り起こす母親のように。掴んだ肩は、ほんのりと温かい。この身体が生きていることを感じさせた。しかし、何度揺すっても起きる気配は無い。
いつからか、目をつぶり祈るように肩を掴んでいた。腕を通して肩を通して意識が自分の身体に帰ることを想像しつつ。
カタンと音がして、ふと我にかえった。無意識に掴む力と揺する速度が増していたらしい。ベッドの揺れで点滴チューブが動き、金属がぶつかる軽い音をたてた。
「なあ、お前は誰だ」
ぽつり、と自分の身体に言葉を降らす。
「眠っているだけのお前は誰だ」
「お前が俺なのか。どうして身体だけのお前が、誰からも俺だと認められてる。俺が自分を主張しても、わかってもらえないのに。友だちにも、親にも、…好きな人にも。お前なんて、只の抜け殻なのに」
つぶやきは、次第に慟哭となり、身体を濡らしていく。
「返してくれ。俺を返してくれよ。返せ。返せ!返せよ!」
言葉は大雨を降らし、俺はその雨に打ちひしがれた。ついに夢の中の暗闇に囚われてしまった。昼間見た両親の顔が思い浮かぶ。父も母も同じ目をしていた。鋭く、突き刺すようなあの視線。どうしてお前だけが助かったのだと、責める視線。俯いて、顔の見えなかった母さんから一瞬だけ見えたのが、その視線だった。父さんのいたわるような笑顔の中に見えたのも、その視線だった。あのとき俺に刺さりいまだに痛みを増していく。
呪いをかけられた俺は、もう自分が何者なのかわからない。同じ人物は2人いらない。眠っている身体が自分の本体ならば、俺はもう暗闇に囚われ続けるしかない。
「俺は誰だ?俺は誰だ?お前が俺なら俺は誰だ?」
外は、降り出した雨が次第に強くなり窓ガラスに激しくぶつかっている。ザアザアと音を立てる雨につられて顔をあげると、窓に映った健二と目が合った。俺も健二も、目を合わせたまま離せなかった。
殺したはずの相手が生きている。生きて俺の前に立っている。死んだのは俺だった。健二は、生きている。身体を返せと窓に映る健二が言った。俺は、従うしかない。
「俺は、健二か」
ザアザアと雨が降っている。窓に映る健二はいなくなっていた。
次で完結です。どうぞお付き合いください。