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前編

 ――気がつけば、俺の目の前に俺が倒れているのが見えた。


 段々と肌寒くなってきた十月の初め、俺は地元の駅前で、もうすぐ来るだろう友人を待っていた。

 健二との待ち合わせ時間は十四時ジャスト。今は十三時五十分。あと十分。上着の襟をいじりながら、辺りを見回しては足元を見る動作を繰り返す。

 何度目に見回した時だろうか、視界の端に健二の姿をとらえた。十四時ジャスト。健二らしい。

 健二と合流して、目的地の映画館へと向かう。二つ隣の駅まで行けば大きな映画館があるのだが、今日は地元の小さな映画館でなければ駄目だ。いや、その映画館へ向かうまでの近道として細い路地を通らなければ駄目なのだ。

 俺は、今日、健二を殺す。


 二日前に計画して、今日が実行日。俺は、健二を殺すつもりで映画に誘った。

 横を歩く健二は、そんなことは露知らず笑顔で話しかけてくる。俺は平然とその話に相槌を打ちながら、頭の中では路地に入ってからの行動を何遍も繰り返していた。

 こっちの方が近道だよ、と健二に言って路地に入る。健二は俺の後ろをついてきている。入った路地には期待通り人気が無かった。よし、順調にいっている。

 路地の中程で俺は突然立ち止まった。隣を歩いていた健二も自然足を止める。

 どうした、と健二がこちらを向くのに構わず俺は肩に提げていたトートバックの中に手を入れる。すぐに求めていたものが手にあたる。それを掴み、ゆっくりとバックから引き出す。横にいる健二には体の影になってそれがまだ見えていない。気分でも悪いのか、と聞いてくる。

 柄をしっかりと握りしめる手にじわりと汗が滲んだ。

「健二」

 はっきりと名前を呼ぶ。反応した健二と俺の視線が交差した瞬間、俺は健二の腹に深々と出刃包丁を突き立てた。

 やった、と思った途端、視界がグルリと回り、俺の意識は暗闇へと沈んでいった。


 どれくらい立ち尽くしていただろうか。意識を取り戻した俺を待っていた現実は、殺人者としてのそれではなく、全くもって理解不能のものだった。俺にとって、というより普通の人間には到底理解できるようなことではないのだ。

 目の前に倒れているのは間違いなく俺自身。まるで人形かのように全く生気が無い。

 そう、俺が倒れているのだ。では、倒れた俺を見ているのは誰だ?もちろん俺だ。倒れているのも俺、それを見ているのも俺。どういうことだか全くわからない。考え込む俺の視界に、気になるものが映った。

 ゆっくりと自分の右手を目の前にかざしてみる。俺の目には、馴染みのない手が映った。記憶している自分の手よりも大きな手が俺の意思で動く。まるで他人の手を動かしているような、妙な感覚。足元を見ても、体のどの部分を見ても自分のものとは思えない。

 二日酔いに似た気持ち悪さがこみ上げてくる。悪夢のような予想が、どうか外れていて欲しい。

 飛びつくようにビルの窓ガラスに顔を寄せる。予想は当たり、今にも倒れそうなほど顔を青くした健二が俺を見つめていた。

 俺の顔に触れると、ガラスに映った健二も顔に触れる。俺が顔を近づけると健二も顔を近づける。俺と全く同じ動作が返ってくる。当たり前だ。ガラスに映った自分の顔を見ているのだから。

 つまりは、俺は健二だということ。

 意外にパニックに陥ることはなかった。あまりに信じられない状況が皮肉にもパニックに陥ることを忘れさせ、一時的に感情を麻痺させた。

 ともかく俺は、倒れた俺に駆け寄り脈をとってみる。手首に指をあて、血管を探る。思ったよりもしっかりとした脈動が指に伝わり、自然と詰めていた息をふっと吐き出した。俺の体は生きているらしい。

 生きているとなればずいぶんと簡単な気がしてくる。後は自分の体に戻ればいいだけだ。漫画のように頭をぶつけて意識を飛ばせば戻れるだろうか。何か、念じれば戻れるだろうか。それともただ、時間が経つのを待てば戻るのだろうか。俺は、眠った俺の体の横でぶつぶつと呟きながら体に戻る瞬間を考えながらも待っていた。

 数十分があっという間に経過した。が、俺の意識は俺の体に帰れずに、健二の体に居座ったままだ。元に戻るどころか、健二の体に馴染んできたような感じさえする。少し前まで感じていた気持ち悪さがいつの間にか消え、握った右手に自分のものではないといった違和感は無くなっていた。もし、このまま戻れなかったら…。

「どうしたんですか!?」

 暗い思考をかき消すような突然の呼び掛けに、びくっと体を震わせて俺は振り向く。通りに立っていたのは一人のサラリーマン風の男。

 いくら通りの少ない路地を選んだからといって全く人が通らないというわけではなかった。三十代前半といったところの男がつかつかと俺に近づいてくる。

「大丈夫ですか!?どうしたんですか!?」

 やたら大声なその男に気圧されて、俺は何も言えずに立ち尽くす。

 そんな俺の姿を見て怪しんだのか、事の大きさを察したのか、男はスーツの懐から携帯電話を取り出して一一九番に電話をかける。どうもそのあと一一〇番にも電話をしたようだ。ほどなくして救急車とパトカーのやかましいサイレンが耳に届いた。

 最初、パトカーで警察署に連れて行かれると思ったのだが、どうも違うようだった。

 やってきた警官にサラリーマンは見たままを説明し、促されて俺もこうなるまでを説明した。勿論、殺そうとしたことは言わずに。持っていた包丁も、刺したはずの傷も、跡形も無く消えていた。俺が殺人を犯したという証拠は、何一つ見当たらなかった。

 話を聞くと警官はみるみる困惑顔となり無線で連絡をとった。そのやり取りで、俺は一旦病院へと運び込まれ診察とカウンセリングのようなものを受けることになったと告げられる。

 生まれて初めて救急車に乗せられ、訳もわからないうちに病院へと運びこまれた。

 連れ込まれた病院で身体検査を行い、身元確認を行う。医師から聞かれたことにスムーズに受け答えをする。

 それから、どう話すべきか迷っていた身体の入れ替わりのことについても話してしまった。一人で悩む恐怖に負けてしまった。医師ならば、何か解決法を考えだしてくれるのではないかと期待してしまった。

 精神科の医師は、俺の話を紳士的に聞いてくれた。普通なら信じられないような話をしているのに、医師の目は優しく、安心できるものだった。

「もう一度聞きます、あなたの名前を教えてください」

 先生が優しい声で俺に聞いてくる。俺は至極丁寧にはっきりと自分の名前を告げる。

 その後も医師の質問をいくつか受け答えし、警官からの事情聴取にも答え、廊下でまたなにやら話し出した警官と医師達の会話をうすぼんやりと聞いて、最終的に俺は両親のいる個室へと向かうことになった。

 どうも刑事らしい人達が言うに、現場の状況及び被害者の状態、俺の状態を見る限り俺も被害者であると認識されたらしい。それこそ、通報を受けてすぐは俺は被害者というより被疑者として見られていたようだが。

 病院の長い廊下を刑事の後をついて進み、案内された病室のドアを開けるとそこには警官と、両親がいた。

 母親が目に涙を溜めて俺に抱きついてくる。よかった、よかった、と繰り返し、俺の顔を見て大丈夫?と涙を流す。父親も椅子に座りつつもしきりに頷いている。多分、とても心配をかけたのだろう。棒立ちの俺の周りで感動のシーンが繰り広げられている。本来その中心人物たる俺には、まるでテレビドラマを見るかのように自分には関係のないことに思えた。何故かって、ここに居るのは健二の両親で、俺は健二ではないからだ。

 健二だったらよかったのに。

 移り変わったと理解した瞬間よりも明確な焦りが俺の中に突然広がった。警官に事情を聞かれ、医師に質問され、両親に心配されていたのは健二であって俺ではなかった。違う。俺は、健二ではない。俺は、俺だ。身体は健二でも、思考は健二ではない。

 母親に握られていた手を乱暴に振りほどき、大きく息を吸った。

「俺は、健二じゃない。すみません。俺は、健二じゃないんです」

 なんとか声を絞り出して、俺は健二ではないことをその場にいる全員に伝える。はっきりと言うつもりが、俺の喉からは震えた声しか出なかった。全身が小刻みに震えている。

 もちろんそれだけで俺が健二ではないことをわかってもらえるとは思わない。次々と湧きあがる不安を消すために、健二では知り得ないような俺のことを必死に話した。

 十分ほど話しただろうか。聞いていた警官達が目配せをし、俺の肩に手を置いて話しを止めた。詳しいことは別室で聞きたいと言われ、不思議な表情をした健二の両親を片目で見つつ病室を連れ出された。

 どうしてこうなったのか本当に調べてもらえるのだろうか。戻る方法を考えてもらえるのだろうか。何とかなるんじゃないだろうかという気がする一方、不安は確実に俺の中で大きくなっていた。

 刑事に連れられた部屋は、最初に診察を受けた場所だった。常ににこやかな表情をした医師に椅子を勧められ、先生の対面に座る。

 話してごらん、と言う先生の言葉を受けて俺は、俺が健二ではないことをひたすら説明した。信じてもらえるまで話すしかない。こんな状態で一人でいるのは嫌だ。話し続ける俺の言葉を、否定することも遮ることもせずただ頷いて聞いてくれるその姿勢に次第に落ち着きを取り戻した。

 興奮のあまり前傾姿勢になっていた俺を落ち着かせ、

「今日はこれ位にしましょうか。疲れたでしょうから、今日はゆっくり休みなさい」

 医師は俺に優しくそう言って、何か書類に書き込み始めた。だが、ここで終わりにするわけにはいかない。どうにか元に戻る方法を考えてもらわなくては不安が収まらない。

 そもそも、俺が健二ではないということは伝わったのだろうか?

「先生、俺はまだ疲れていません。お願いします、信じて下さい。俺は健二じゃないんです。どうにか俺の体に戻る方法を考えて下さい。俺は、どうしたらいいんですか」

 言う内にまたどんどん不安が大きくなる。先生に向かって身を乗り出していた。

「大丈夫ですよ、私はあなたの言う事を信じます。信じられないようなことですが、あなたがそこまで言うのなら本当のことなのでしょう。ですが、今考えたからといってすぐに解決方法が見つかるとは思えません。不安でしょうが、今日は休んで下さい。無理をして体を壊してしまっては元も子もありませんよ」

 にこやかな顔でかけられた優しい言葉に、俺は思わず泣きそうになった。

 膨らんでいた不安が一気に萎むのを感じる。健二ではない、俺を見て先生が微笑んでいる。安堵感が胸に広がった。

 翌日以降本格的に調査をすることを約束し、俺は入院という形で病室を用意してもらえることとなった。

 健二の親御さんには事件のショックで混乱しているので数日間入院させるとだけ説明されているらしい。

 あてがわれた病室のベッドに横たわり、白い天井をなんとなしに眺める。先生には疲れていないと言ったが、これだけのことがあって疲れていないはずがない。体が泥になったかのようにベッドに沈んでいく。このまま寝てしまおうと思ったが、生理現象がそれを止めた。

 そういえば、ずっとトイレに行ってない。意識してしまったからだろうか、ジリジリと尿意が迫ってきた。億劫だからと無視できるレベルではない。しぶしぶベッドから這い出て、トイレを探しに病室を出る。

 夜の病院の廊下は静かで、人の姿が見当たらない。時折誰かが早足で過ぎて行く音がするが、何処から来て、何処へ行くのか姿は見えない。

 確か、隣の病室で刑事の人が待機していると言っていた。何かあったら言って下さいとも。トイレに行く報告はした方がいいのだろうか。いや、そこまではいいだろう。

 診察を受けた部屋の近くにトイレがあったことを思い出して、右へと進路を変える。電灯で照らし出されているはずの廊下の奥に暗闇がわだかまっている。そこへ向かうように俺は廊下を歩いていった。

 部屋の前に差し掛かったところでふと足が止まった。先生と多分刑事の人達が、何やら俺の事を話しているらしい。思いのほか静かな廊下に俺の名前が漏れていた。

 トイレに行きたい衝動を押さえてまで盗み聞きをすることでもないかもしれないが、どうしても俺の足は扉の前から動かなかった。


「――いや、困りましたな」

「やはり、被害者があの状態では詳しく事情を聞くことも難しいですか」

「重度の統合失調症だと思われます。警官の話や彼自信の話では、彼は被害者の健二くんだと完全に思い込んでいますね。今の状態で彼から無理に事件の事を聞くことは医師として許す訳にはいきません」

「親御さんと会わせてみても駄目でしたな。治る見込みは?」

「事件のショックによる一時的なものでしょうが、精神的なものですからいつ回復するかはなんとも。回復を早めたいのなら無理に思い出させようとしたり、刺激を与えないようにすることです。今必要なのは、彼を安心させてあげることですから」

「…仕方ないですな。当面は彼に事件のことを聞くことは控えるか」

「難しい事件になりそうですね」


 中から聞こえる話し声が頭の中に響き渡る。

 気づいたら俺は走り出していた。気づいたら俺は病室に駆け込んでいた。気づいたら俺はベッドの上で仰向けになっていた。

 息が苦しい。酸素を求めて肺が動く。どれだけ呼吸をしようと息苦しさは消えない。

 自分が何を聞いたのか考えたくない。

 結局、俺が話したことは何一つ信じてもらえていなかった。それどころか、俺は病気だと思われたようだ。

 当たり前の反応なのだが、一度信じてもらえた安堵感が裏切られたショックが大きい。

 暑くもないのに汗がだらだらと垂れる。それなのに体全体が震えている。

「俺は頭がオカシクなった健二か…」

 現実から逃げるように俺の意識は暗闇へと吸い込まれていった。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

短編小説をあげるつもりが、書き終わってみるとかなり長くなってしまったので連載での掲載となりました。

短くまとめるのは難しいですね。


よければ続きも御覧ください。

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