恐怖のグスタフ・リガーレ公爵
私は今、恐ろしい程の緊張感の中で震える手を抑えるのに必死だった。
明るい日差しの午後。
真夏でも涼しい避暑地の別荘。
高級で重厚な家具と観葉植物が並べられたティールーム。
美味しいお茶、焼き立てのお菓子、優しい家族、大好きな女友達。
本来なら手放しの幸福感につつまれる状況で、たった一人の男が私を恐怖に落とし入れている。
(やばい、過呼吸になりそう・・・)
私はゆっくりと息を吐く事に集中する。
「ときに、アリアナ嬢。学園生活はいかがですかな?」
(はぐっ!)
急に話しかけられて息が止まりそうになる。私は急いでテーブルに置いてあった扇をサッと取り、
「たたた、大変楽しくやっております・・・」
口元を隠して引きつる顔をなんとかごまかした。
「それは、結構」
深いバリトンの落ち着いた声、たっぷりとした茶色の髪は完璧にセットされ、口ひげもきれいに整えられている。
高身長でスタイルも良く、理知的な目に笑みを浮かべ、上品な物腰と会話で皆を魅了する。
グスタフ・リガーレ公爵は誰が見ても完璧なイケおじ公爵だった。ただし、
(私は知ってるんだよ・・・この人の正体を・・・)
グスタフは優美な動きでお茶を飲みながら会話を続ける。
「学園には私の甥も通っているのですが少し残念な噂も耳にするのですよ」
「まぁ、残念な噂とは?」
母が興味深そうに聞き返した。
「どうも・・・、アリアナ嬢の婚約者殿が他の女性に目を奪われているなどと・・・。いやいや、これは余計な事でしたかな」
「まぁ!」
母が驚いた顔で私に体ごと顔を向けた。
「アリアナ、本当なの!?本当でしたら許されない事でしてよ」
「お、お母様・・・」
リリーと、グローシアが心配そうに顔を見合わせている。
「う、噂ですっ。ただの噂ですわっ!ディーン様に限って・・・ほほ・・そんな事は・・・」
声がワントーン上ずってしまう。
そんな私にグスタフは見事なウィンクをしながら、
「そうだねぇ、噂には尾ひれも背びれも胸びれもつくものだからねぇ、はっはっは」
(ひっ!こいつ、前に私が言ったのと同じことを・・・)
全身に悪寒が走る。
「では婚約者殿とは仲良くされているのですか?」
「ええ、ええ、それはもう!目いっぱい仲良くさせて頂いてます!」
口が曲がりそうな程の大嘘だが、ここは引く訳にはいかないのだ。
「そうですか。それは良い事ですね・・・」
(と言いながら目の奥で凄く残念そうにしているのが分かるのよ。こいつ私を諦めてない!)
そう、グスタフ・リガーレはゲームの最後でアリアナが結婚する事になる人物。
ロリコンおやじ、その人なのだ!
夏休みになって一緒に馬車で出発したリリー、グローシア、兄のクラーク、そして私は半日かかってコールリッジ領に到着した。
そして私達は本家の屋敷で一泊し、次の日には領の山側にある別荘へとやってきたのだ。
「なんて美しい場所なんでしょう・・・!」
リリーとグローシアは馬車を降りると、別荘の周りに広がる雄大に景色に目を輝かせ感嘆の溜息をついた。
辺りには広い牧場が広がり、後ろには高く雄大にそびえる山々がその頂きを雪で白く染めている。そして目の前には大きくて澄んだ湖がその山々を鏡のように映しているのだ。
「このような素晴らしい景色は見たことがありませんわ。ありがとうございます、アリアナ様!。こんな素敵な所へ招待して頂いて」
「喜んで貰って私も嬉しいですよ、うふふ」
と、余裕を見せながら答えた私だったが、正直私もこの美しい景色に心を奪われれていた。
(めっちゃ綺麗じゃん!。絵葉書かよ?。マジ最高なんだけど)
なぜなら私には事故前のアリアナの記憶が無いので、リリー達と同様ここに来るのは初めてなのだ。
(それにこんな立派な別荘で夏休みを過ごせるなんて・・・。アリアナになって本当に良かったかも~。めっちゃ楽しみ!)
別荘とは言えコールリッジ家の持ち物であるから、普通にお屋敷と言っていい規模なのだ。部屋数もたっぷりとあり、私達はそれぞれ一部屋ずつ寝室を使えた。
リリーはひたすら恐縮しており「こんな豪華なお部屋を使っていいのでしょうか?」と落ち着かない様子。使用人部屋を見て「ここに泊まります!」と言うのを必死に止めたぐらいだ。
(友人を使用人部屋に泊めるなんて、悪役令嬢過ぎる。そういうのは回避しておかないと・・・)
この世界ではどこに落とし穴があるのか分からない。
「1週間後にはミリア達も来る予定ですし、そうしたら湖のほとりでバーベキューをしましょうね」
そう言うとリリーとグローシアは「わぁ!」と声を上げた。
父と母は10日後には領都の屋敷に戻るので、そこからは私達だけになる。でも敏腕の執事と使用人達が居てくれるので心配は無い。
別荘から馬車で少し走ったら買い物の出来る街や、観光地もあるので色々と楽しめそうだ。
(学園では色々と気を使って大変だったのよねぇ。おまけに誘拐までされたしさ・・・。ここでは嫌な事は忘れてゆったりくつろぐぞ)
そんな風に過ごしていた夏休みの6日目の事だった。
明日はミリア達も合流だねと、リリー達と話していた時にそれは起こった。
綺麗な花を眺めながら庭で談笑していた私達だったが、急に別荘内のティールームに来るよう呼ばれたのである。
(あれ?もうミリア達が着いたのかな?)
一日早いけど、そうだったらうれしいぞ・・・なんてワクワクしながら部屋の扉をノックした。だが中に入るとそこには父と母、そして見知らぬ男性が笑いながら話に花を咲かせていたのだ。
(ん?)
私達は思わぬ状況にちょっと戸惑ってしまった。
(お客様・・・よね?私達も一緒で良いの?)
「ご歓談中、失礼致します」
そう言って礼をすると、
「ああ、これは美しいレディ達のお出ましだ」
男性は如才なくそう言って、立ち上がって私達の方へ歩いてきた。そして、優雅に礼をして、私の手をとり完璧なマナーでソファまでエスコートしてくれる。
恐ろしい事にその時の私は、まだこの男性の正体に気付いていなかったのである。




