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オスカービルの猟犬 ≪イリーガル≫ バイト探偵は今日も仮面を被る≫

作者: 弐兎月 冬夜

 赤い煉瓦塀の門から出た初老の男は、ゆっくりと空を見上げた。

 薄曇りの空は日差しが弱く、所々に厚い雲の壁が出来ていた。

「もしかすると降るかもしれない。」とでも考えているのだろうか・・。どうしたものかと後ろを振り返ったが、少しばかり首を横に振ると、男はそのままブラブラと歩み始めた。


 煉瓦塀が切れると少しばかりの坂になっていて、数人の若者とすれ違った。目で追うと視界の中に派手な幅広帽子を被った女性が後ろにいるのに気づく。

 その女性は少しばかり女性ではないような感じの女性だった。割と細身の体つきで、大きな花柄のワンピースが似合っている。けれどどこか違和感を感じる。そんな姿だった。

 恐らくはゲイだろうと男は思った。

 その女性はスマホを片手に、大きなトートバッグをぶら下げている。そしてスマホに没頭している様子だった・・。



 俺の今日の仕事は尾行である。

普段の尾行なら、決してこんなことはしないのだけど、今日は特別だ。

 それにしても、俺はつくづく男だと自分で思う。

女装するのは2度目だけど、一度目の時は最初はワクワクしていたのに、いざ女装してみると、なぜか気持ちが萎えて行くのを感じた。やっぱり俺には向いてない。多分2度とやることは無いだろう。・・・そう思っていたのだけど、これには訳がある。


 今回の仕事は、いつもの探偵社の仕事(バイト)ではない。

社長の紹介で回された尾行専門の同業者さんのバイトなのだ。

 アプローチしてきた男の名は犬塚さんといい、その名の通りジャーマンシェパードのような犬顔の男だった。彼の言う通り、派手な服装で来て欲しいと言われたところを見ると、ターゲットは尾行されていることに気づいているのだろう。明らかに俺は(デコイ)である。


 それならいっそ・・・と、

 俺は女装する事にした。


 派手な帽子に薄手のサングラス。そしてマスクをしている俺は、明らかに異様だ。一応大きめのトートバッグには着替えを入れてある。指示には無いが、どこかで変装を解かなければならない事態になるかもしれないからだ。

 ターゲットの男は初老の紳士。だが、服装はラフで、チェックのシャツに白のニットのベストを着ていて、ズボンもカーキのチノパンを履いていた。靴も安物のスニーカーで、ちょっと散歩に出たというような感じである。

 男の顔は見えないが、しばらくすると尻のポケットから出した赤いキャップを短く刈り込まれたゴマシオ頭に被る。交差点で立ち止まると、自然に後ろを振り返った。

 俺はスマホを見ながら歩きつつ、ふと何かを検索してる素振りで立ち止まる。これもNGには違いないが、慌てて電柱の陰に隠れるほど俺は愚かではない。あざとく向けてはいないものの、実際には男の動画を撮りつづけているから察知されないようにしているつもりだ。


 ただ・・男にはお見通しだったかもしれない。


 男は信号が青に変わるとごく自然に横断歩道を歩き出した。

ひょっとして()()が入るかもと思ったが、今のところその様子はない。後ろからは男の表情はつかめないが、もしかしたら俺の拙い尾行を笑っているかもしれない。

 やがて駅に入ると、環状線のホームにやってきた。

(ここかな?)

 俺の手にうっすらを汗が滲む。あまり近づかないように別のゲートの前に並ぶが、男が気になる。何度もそっちを見ようと顔を動かしたい衝動に駆られるが、ここはじっと我慢する。

 ホームに電車が入って来て、ドアが開く。俺はスマホをしまってふと見ると、男は列から外れて入っていく人々を見送っている。

 (やっぱり、ここか。。)


 点検である。

 何の映画か忘れたけど、こうして尾行者の有無を確認するヤツがあったな。しかし、俺が残る訳にはいかない。仮に(デコイ)だとしても、残ってどうなるというのだ。刑事物のドラマなら追いかけっこが始まるのだろうけれど、そんな事をする意味などない。

 (マジで危ないし。)

 俺はそのまま電車に乗ると、男の方を見ずに吊り輪につかまった。

 電車が動き出して間もなく、インカムに犬塚さんの声が入った。

「上出来だ。次の駅で降りて指示を待て。」

 言葉は短いが、ひとまず俺の仕事は終わったようだ。


 標的の男(マルタイ)は電車を見送ると、何事も無かったかのようにホームの階段を上り始めた。そして階段を上り始めたのを見届けたようにジャーマンシェパードのような顔をしたサラリーマン風の男がベンチから立ち上がった。

 赤いキャップを付けた男は階段を登りきると、右に折れた。改札口の方向だ。しかし犬塚は慌てない。歩調を変えることなく同じように男を追う。数メートル先に赤いキャップを被った男がいるのを見つけてホッと小さくため息をつく。もしここで見失っても、駅の出入り口には別の仲間が待機しているので何とかなるだろうが、ここで振り切られる訳にはいかない。

 赤いキャップの男は他のホームには行かずに、そのまま改札を出ると、一度も振り返ることなくトイレの中へと入って行った。犬塚はトイレの入り口が見える位置にあるベンチに腰を下ろし、スーツケースに仕込んだカメラを何気なくその方向に向ける。

「マルタイはトイレに入った。」

「そのまま定点で監視。一応顔認証をかけておく。油断するな。」

「了解。」

 司令塔からの指示でカメラを向けたままにし、犬塚はポケットからメモ帳を取り出して何かを書き始めた。しかし目はトイレの入り口から目を離さない。司令塔は今頃トイレの構造を調べているだろう。だが、見たところ構内の中にあるトイレは他に出口がありそうもない。窓も無いはずである。何人かの人々が出入りしたが、司令塔からの指示は無かった。随時顔認証をかけているから、変装しても無駄である。

 今の顔認証システムは一昔前のモノとは格段に性能が違う。たとえ顔をほとんど隠した状態でも、高確率で識別する。

 ・・・しかし・・。

 20分が経過した。

それなのに赤いキャップの男はトイレから出てくる気配はない。

 さすがの犬塚も少しだけ焦りを感じ始めていた。

「どうする? トイレに入るか?」

「待て。もう少し様子を見る。」

 司令塔も同じように焦っているのか、声に不機嫌さが滲んでいた。


 更に10分が経過して、司令塔は犬塚にトイレに入るように命じた。

犬塚はメモ帳をしまうとスーツケースを片手にトイレに入る。男子用のトイレには小便器が3つと個室が二つ。そして用具入れのドアがある。思った通り他に出口は無く、窓も無い。

 犬塚は小用を足している一人の男を確認したが、他に人の気配は無かった。気持ちは焦っているが、悟られぬように個室のドアを見る。2つのドアは空いていて、どちらにも人はいないらしい。犬塚は一つのドアを開けて中を覗き、人がいないのを確認すると、もう一つのドアを開けて中に入る。勿論用を足す為では無い。紙オムツは外しにくいからだ。

 小用を足していた男が出るのを音で確認すると、犬塚は個室から出る。まさかとは思うが用具入れのドアを開けてみる。

 サスペンスドラマなら死体が出てくるところだが、そこには用具以外の何もなかった。


 

「佐藤君。今日はありがとう。今日はこれで終わりだ。ギャラの件は後ほど連絡する。」

 犬塚さんとは別の声が、インカムに届いた。

俺は既に服装を変えてスタンバっていたのだけれど、正直ホッとした。尾行は心身ともに疲れる。緊張を緩められないからだ。

 ともかく、自分の役割は終えた。

結果が少し気になっているものの、それは後日教えてくれるかもしれない。

 俺はそのまま別の電車に乗り、帰途へと着いた。



  ********



 ― 数日後 ―

 俺は犬塚さんとは違うあの声の主からの電話を受け取った。

ギャラを払うので、指定の場所まで来て欲しいとの事だ。本当は社長を通してギャラを貰うつもりだったのだけど、なぜか向こうは俺に直接アクセスしたい感じで、それは断られた。そこで今時何だが、俺は現金を希望した。口座を教えると、本名が分かってしまうからだ。

 幸い、今日の俺は暇である。了承した旨を伝えると、のんびりとソファーから立ち上がった。

 ふと見ると、柚葉に強制的に買わされた公演のチケットが1枚、目に入る。

「そういや、今日か・・。」

 もし気が向いたら行ってもいいかな。くらいの気持ちでジャケットの内ポケットにそのチケットを入れる。俺はもう演劇の世界からは足を洗ったし、特に観たいと言う気持ちも沸いてはいない。

 けれど、それが後で役に立ったのである。


 尾行専門の探偵業。

正式には<セブン・ポインター>という会社だ。そこの社長とうちの社長は古くからの知り合いらしい。今回の仕事に俺が行く理由はただ・・他のメンバーが忙しかったから・・みたいだ。

 このセブン・ポインターという会社は知る人ぞ知るという会社で、尾行については業界では有名らしい。聞くところによるとスタッフは僅か7人。少数精鋭主義らしいが、その為か素行調査とかは一切やらず、ターゲットの尾行と監視のみを請け負う。料金はお高いが、ターゲットに知られることなく、その正確無比な報告から、裏の社会や警察などからも依頼があるそうだ。(倫理的にどうかととも思うけれど・・)


 俺は、指定された駅前の小さな公園のベンチに座っていた。

周りには小さな子供を遊ばせている親子連れが二組。公園の垣根からは行きかう人々が見渡せる。まだ午前中だし、薄曇りの天気は暑くも無く、寒くも無い。のんびりと過ごすにはいい一日かもしれない。

 俺はスマホで地図を見ていた。柚葉の公演の場所がちょっと分かりにくい場所にあるらしく、行くかどうかは別にして、もし行くなら迷子はごめんだからだ。

 すると、突然目の前に人が立つ気配がして、顔を上げた。


  全身から汗が噴き出そうになった。

  わずかに腰が浮きかける。


「ねえ、君。君は僕に会ったことがあるよね。」

 少しばかりしゃがれた声の男は、俺が尾行していた男だったのだ。


 男はあの時とは別人のように、紺色のスーツに身を包み、サラリーマンのような風体である。逆光に見る男の顔はニコニコと笑っている。そして目だけがやたら冷たく光っている。

    ()()()()()()()()()()()()


 俺は・・・・


 泣いた!

 涙を止めどなく流して顔をくしゃくしゃにする。


「せば、父っちゃ、助げでけれ! とーぎょーっのすとはつめでーなばっかしだーっできいでだども、ありがてえこっちゃ。なあなあ父ちゃ、んだばおすえでけれ。すもちたざわっちゅうどさいぎでえども、電車もどっからどー乗ったらええがわがらねくてよ、ずごくにほどげちゃこのごどだべ!」

 男は一瞬ギョッとして、少し引いた。

(いける!)

 出鱈目には違いないが、これは日本3大(?)難解方言の一つ、最強の津軽弁だ!(いや、津軽の人が聞いたら違ってるはずだけど・・)

 高校の時に青森〇×高校の松山君と気が合って一晩中語り合ったあの日は決して無駄ではなかった!


 津軽弁はフランス語に似ている。そして、早口! 他の地域の人間にはマジで外国語に聞こえる。出鱈目ならフランス語も中国語もマネは出来る。だが、相手がもしバイリンガルなら一発でバレるだろう。(バイリンガルでなくとも多分外国語はアウト)

 唯一の欠点は、相手が津軽の人だった場合だけである。

「い・・いや・・その。」

 柚葉のチケットを見せて、行先を訪ねる。

 ようやく相手も察したらしい。

「下北沢なら・・そうだなあ。あ、君、そこに、交番があるから、そ、そこで聞くといいんじゃないかな・・。」

 男は這う這うの体で逃げ出した。

俺は心の中で・・(ヨッシャ!)とガッツポーズ。

 ビビったが、とにかく追い払う事には成功した。


  しかし・・

 しかしだ。万が一、相手がまだ不信感を残していたら・・・。

 女装の上に、マスクまでしていた俺を、あの男は一発で見抜いた。生きている顔認証システムのようなヤツだ。


 小考の末、俺は田舎から出てきて、友達の演劇公演を見に行く()()()()()を演じ続ける事にした。

 交番に行き、津軽弁もどきでお巡りさんと会話し、駅へと向かう。

 セブン・ポインターの人には申し訳ないが、それは後日何とでもなるだろう。こちらからは連絡できないのだから仕方がない。

 最寄駅から下北沢へと向かう。

 知らない素振りを続けているものの、何となく視線を感じる。

(ヤバイ・・な。)

 相手は見えないが、ほぼ確実に尾行されている・・と感じる。

これが杞憂ならいいが、万一本当に尾行されていて、ネグラを突き止められると非常に危ない。セブンポインターに迷惑がかかることは無い(多分)だろうが、こっちの身が危ない。そういう事を感じさせる雰囲気を持った男だった。


 俺は下北沢で降り、アーリーというライブハウスを目指す。

地下にある小さいライブハウスで、時には演劇にも貸すらしい。今日の演目は柚葉たちのオリジナルらしく、ライブハウス客席の中央に平台と箱足で舞台を組み、舞台をパーテンションで仕切って左右からの階段で舞台に降りる構造になっていた。階段と平台の舞台には灰色のパンチカーペットで化粧されているいたってシンプルな舞台である。幾つか箱足が無造作に置かれているのは、それを椅子代わりなどに使用するのだろう。客席は舞台の周りに扇状に配置されていた。

 おそらくキャパから見て50席。入りはまあまあと言った所だろう。ほとんどが劇団関係者の友人たちと思われた。

 俺はコーラのカップを持って、一番後ろの背後に壁がある席を選んで座った。

 更にここなら入り口が見えるし、薄暗いとはいえ他の客の顔も見える。

さすがにここでは粘りつくような視線は消えた。ただ、このライブハウスには他の出口は無さそうに見える。出口を張っていれば、いいと判断したのか?

 演劇の時間はおよそ1時間半。30分の休憩を挟んで2度目の公演があるらしい。その間に相手が諦めてくれればいいが・・・


 芝居の内容は結構単純な恋愛物だった。

出演者は5人だが、細かく登場人物を分けてある。

   で・・

 正直つまらなかった。

 さすがに5人のキャストで13人の登場人物を演じ切るのは無理がある。オリジナルの脚本にありがちな余計なキャストも混じっていた。これならアテ書きで半分程度の登場人物にしてしまった方がずっといい。柚葉も含めて、役者は一生懸命だけど、たぶんやりすぎ。恐らく終わった後の達成感は高いだろうけれど、役者の満足度に客の満足度が比例するとは限らない。こうなると役者の熱気が客を巻き込めるかどうかによるが・・・少なくとも俺には物足りなかった。

 演出も若いのだろう。(うわっ、年寄り臭っ!)

音楽を多用しすぎるきらいがある。BGMが必ず入るのは映画やテレビの影響が濃いからだが、演劇のようなライブには無意味なBGMはかえって邪魔になるものなのだ。


 柚葉は俺に気づいたようだが、俺は楽屋に回らず、他の客と一緒にライブハウスを出た。

 少し辺りを見回しながら、ブラブラと歩く。

 目についた喫茶店に入って、コーヒーを頼み、窓際の席で表を観察するが、目につくような場所に尾行者がいる筈もない。とはいえ、不安のような物はいまだにぬぐえずにいた。

 いや・・いた。

路地の影にスマホだけが見えた。

(まだあきらめてなかったのか・・・・。)

 あの男かどうかは確認できなかったが、こちらが尾行に気づいている事を相手に悟られる訳にはいかなかった。俺は大きくため息をついて、覚悟を決めた。


 下北沢から電車に乗って東京駅に向かい、青森行きの新幹線の切符を買うとそのまま乗り込む。

 さすがに新幹線までは来ないだろう。

 こんどこそ振り切れるはず。


 相手は見えない。新幹線に相手が乗ったのかどうかはこちらも確認できなかった。それでも俺は終点の青森駅まで乗り、そこで降りた。

 もうすでに夜になっている。

 足早に改札に向かう人たちもまばらだった。

さすがにもう視線は感じない。ようやくホッとして改札口へ向かう。


 さて、これからどうしようか?

 人もまばらだが、俺の財布もほぼ空である。

行く当てもなく、尾行を振り切る為だけに青森まで来てしまった。とりあえずスマホはあるので、なんとかホテルには泊まれるだろう。けど・・その費用も抑えたいとダメもとで松山君に電話してみると、彼は現在大阪に就職していて、コテコテの関西弁になっていた。もっともあまりにご無沙汰をしていたおかげで俺を思い出すのに時間がかかったけどね。


 近くにあったビジネスホテルにはなんとか泊まることが出来て、俺はチェックインを済ますと町に出た。とにかく、緊張がゆるんで腹が減っていた。考えてみると、今日口にしたのはコーヒーとコーラだけである。

「そうだ。店を探そう。」

 俺は松重さんの決め台詞を口に出すと、アーケード街を歩き出した。

 アーケード街は割と静かだ。地方都市とは言え、東京とは人間の数が圧倒的に違う。海辺の街のせいかやはり寿司屋が目立つような気がするけど、今は寿司の気分じゃない。食堂の青い暖簾が目に入り俺は迷わず中へと入った。


 その食堂は人がまばらだった。ラーメンをすすっている酔客が数人。俺は窓辺のテーブルに座ってメニューを開く。

 けっこうリーズナブルな店だなと思っていると、高級そうなスーツに身を包んだ紳士が店に入って来た。一瞬、緊張したけど、あの男ではなかった。

 その紳士は小柄で、鼻が低く、眼がギョロっとしていて、フレンチブルドックを想起させるような顔立ちをしていた。

 その紳士は静かに店内を見回すと、迷わず俺のいる席の方に向かって来た。

 そして、俺の前で立ち止まる。

(あの男じゃないが・・・仲間か!? 青森までやって来たのに振り切れなかったのか!!)

 俺は再び緊張した。


 その紳士は帽子を脱いで軽く会釈するとこう言った。 

「相席。いいかね。」

 相手が何者であれ、断れる状況ではなかった。

俺はコクリと肯くと、その紳士は俺の向かい側に座って呼び鈴のボタンを押す。店員がやって来くるとその紳士はメニューも見ずに・・

「僕は辛醤油ラーメンの極太麺。大盛りでね。君は何にする?」

「お・・僕も同じものを。」

「あいよー。辛醤油、極太大盛り2丁ね。」

 店員が去ると、紳士はお冷を半分ほど飲み、低い声で笑いだした。

「いやあ、傑作だったね、佐藤君。」

 この人はコロコロと笑う。思い出し笑いが止まらないようだ。

「・・・あなた・・いったい誰ですか?」

「あっははは・・・すまん、すまん。警戒させてしまったようだね。だけど心配しないでくれたまえ。僕はセブン・ポインターの犬童と言います。」

 そう言うと、紳士は名刺を一枚出して見せてくれた。

 驚いたことに代表取締役となっていた。


「君には悪いが、ヤツと君のやり取りからずっと君たちを尾行()けていた。君は実に面白いね。あれは傑作だった!

 犬童氏は残りの水を飲み干すと、今度は真剣な眼差しで俺を見る。

「君には感謝に堪えない。君のお陰でヤツの根城がつかめた。」

 聞けば、あのやり取りを見たのは偶然で、そこから仲間を招集し、急遽ヤツを尾行したのだという。やはりあの男は俺をずっと尾行していたらしい。

「流石にヤツは大宮で降りたがね。すぐにとんぼ返りをしてくれたお陰で助かったよ。」

 まさか新幹線にまで乗っているとは俺も思わなかった。

「ヤツも急だったからね。一人で尾行していたよ。お陰で自分の周囲にはあまり気を使っていなかったようでね。こちらはかなり楽だった。」

 俺の尾行に注意を払っていたお陰で、自分の尾行には気が付かなかったという訳か。

「さて、約束のギャラを払う前に、君に一つ相談したい。」

 そういうと犬童氏はノートパソコンを取り出し、あの日の尾行の動画を俺に見せてくれた。

「君はどう思うかね?」

「どういう意味ですか?」

「そうさなあ。失敗の原因というやつだ。」

 俺は犬童氏の顔をじっと見る。

ニコニコした犬童氏の顔は子供のように無邪気だ。しかし目は笑っていない。

「あの・・」と言いかけた時、店員がラーメンを持ってきた。

「まあ、喰おうか。僕もずっと食べてなくてね。」

 言うが早いか、割り箸を僕に1本取ってくれ、自分の割り箸を割ると、いきなり大量の麵を頬張った。

 俺も腹は減っている。本当なら松重さんのように心の中でモノローグしつつ、ラーメンを掻っ込むところだが、もやしから少しずつ口にする。すでに動画はトイレの入り口をずっと固定で捉えている。恐らく犬塚氏がトイレに入るまでは動かないだろう。

 俺は確認の為に自分のスマホを取り出した。


 あの日、俺があの男を尾行していた時に撮影していた動画はまだ残っていて、それをラーメンをすすりながら観る。

(やっぱりか・・)

 俺が半分ほど食べたところでパチンと音がした。

 犬童氏が食べ終わって両手を合わせて<ご馳走様>をした音である。

「済まなかったね。僕は早飯が特技でね。家内にはよく叱られるんだ。」

 そういうとまた犬童氏はコロコロと笑う。

「君はゆっくり食べてくれ。」


 実は俺も早飯は得意である。

 演出をやっていた時は、本番前に余裕など無かったからだ。役者と一緒に飯を食っても、舞台装置が組みあがった舞台に行き、点検しつつ舞台から客席を見た。

 俺は本番前のこの時間が一番好きだった。

シンと静まり返った客席に座る見ず知らずの人たちの喜怒哀楽が見えるようで楽しかった。


「あの・・本当はもう突き止めてるんですよね、失敗の原因は。」

 俺はそう言って、麺をすする。

「ふふん・・。」

 犬童氏はバツが悪そうに口角を上げた。

「まあね。僕は僕なりに思う所はある。ただ、他の人の意見を聞いてみたいのさ。」

「それが、俺ですか?」

「君の事は夏彦(うちの社長)から色々聞いててね。僕が興味を持ったんだよ。反対する者もいたが、前の仕事で君をバイトとして使ったのはそういう理由さ。」

(だとしたら、失敗の原因を俺に押し付ける人もいたか・・・)


 俺は食べ終えたラーメンのスープを一気に飲み干す。

 体中が熱くなる。

 やっぱりラーメンはスープを全部飲み干さなきゃ!

  減塩なんて知った事か!!


「3人ですね。」

「え?」

 俺は飲み終えた丼をテーブルに置いた。

「おそらく、犬塚さんが階段を上っている時、同じ格好をした別人が隣のホームの階段で入れ替わった。マルタイはそのままホームへ降り、犬塚さんはマルタイと変わった人物を尾行した。そしてトイレの中で待っていた仲間の着替えで服装を変え、トイレから堂々と出て行った。俺ならそう考えます。」

 思えば、簡単なトリックだった。ただ単に人が入れ替わるだけだが、こっちの出方を知っている上で、絶妙なタイミングで仕掛けている。


 犬童氏のギョロっとした目が細くなった。

「ほう。ならばその根拠は?」

「歩き方が違います。」

俺は自分で撮影していた動画を見せた。

「よく気が・・・」

 犬童氏は言葉を止めると、代わりにこう言った。

「なるほど。これからは顔認証だけでなく、歩行認証も用意しておかなきゃな。」

 そう言うと、犬童氏はニッコリを笑い、セカンドバックから封筒を出して俺のどんぶりの隣に置いた。そして、分厚い長財布を取り出し、無造作に諭吉の束をその封筒に上乗せした。

「ちょっと待ってください。ギャラには多すぎます。」

「なーに、謎解きのお礼だよ。それに、今日は君のお陰で奴の尾行に成功した。君は(デコイ)として十分すぎるほどに活躍したんだ。受け取っておいてくれたまえ。」

 そう言うと、俺の返事も待たずに犬童氏は立ち上った。

「あ、そうそう。もしよかったら今度事務所に訪ねて来るといい。僕は馬琴の八犬伝が好きでね。君がいれば八犬士が完成する。」

 ただ一度きりのバイトにとっては破格の申し出である。

「一つ聞いてもいいですか?」

「給料の事かね?」

「いえ、あのマルタイはいったい何者だったんです? 捕らえるんですか?」

 犬童氏のギョロ目が細くなった。

それでも笑顔を残している。

「バカ言っちゃいかんよ、()()()()()()。獲物を見つけ、静かにそっと見守るだけだ。その後の事は我々の関知する事ではないのさ。」

 犬童氏はそう言うと、テーブルに置かれた明細書をさりげなく取ると、そのままレジの方に向かって歩き出さだした。

 「じゃあ、また会おう。」

 犬童氏はそう言うと、無邪気そうに首を傾げ、いたずらっ子のように笑うと、にんまりと笑った。


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