心海のくじら
「心海のくじらだな」
正流が僕を見て言った。
生まれて初めて人と目が合った気がした。
僕は人ではないから、きっと永遠に人と目が合う事なんてないと思っていたのに。
*****
僕には手もなく足もなく、何も持たないのに意識だけがあった。
『われおもうゆえにわれあり』
そんな言葉をなぜか知っている。
だから何も持たない僕でも、とりあえず存在しているらしい。
特にやるべきことがない僕は、いつもフワフワしていた。
1つ1つを判別も出来ない感情に漂っていた。
時々流れてくる歪な感情から逃げたり、
暖かい感情に流されてみたりしながら、
人という生き物を感じていた。
誰も似たような悩みを持ち、
それでいて滑稽にも誰もが自分ばかりと思っている。
気まぐれに悩みを消してあげたりもしたが、
すぐに別の悩みがやって来る。
それで僕は気がついた。人には悩みが必要なのだと。
それから悩みを消すような気まぐれはおこさなくなった。
感情しかなかった場所に、
気づくと記号や文字が見えるようになった。
光も色もあって、僕は見る事ができる事を知った。
そこは今までいた場所とずいぶん様子が違う。
感情・文字・記号・画像に光と闇がぐちゃぐちゃに交じり合った場所。
あぁ、カオスだ。
僕は少しずつ、この世界の法則に気づき始めた。
丸や四角の枠の向こうに、それぞれの人の生活が見える。
新しく気づいた人の世界を僕は夢中になって覗き込んだ。
*****
「心海のくじらだな」
正流が僕を見て言った。
カオスを漂う僕に向けられた初めての言葉。
そして僕は初めて音が聞こえることを知った。
この四角の枠の向こうにはいつも正流がいる。
時々、尚武がいることもある。
尚武は僕がいても全く気付かない。
でもそれが普通の事で、僕に気づいてくれる正流は特別だ。
ひょろりと背の高い正流は、くたびれたオーバーサイズのコートを羽織って出かけていく。
「行ってくるわ」
言って僕に片手を上げた。
戻ってくると、僕の前に座って煙草に火をつける。長い指をカッコいいと思った。
無精ひげも、無秩序な長い髪も、銀縁の眼鏡も
「この人を探してるんだけど、知らない?」
正流が僕に1枚の写真を見せてくれた。
簡単だと思った。
この世界を自由に泳げる僕にとって人を1人見つける事なんて簡単な事だ。
だって僕は心海のくじらなのだから。
今思えば僕は浮かれていたのだと思う。
正流が探していた人はすぐに見つかった。
話が出来ない僕は文字を並べて、正流に伝えた。
「早いな」
正流は驚いていた。
「ありがとう。助かったよ」
正流は僕に感謝した。
僕は嬉しかった。
嬉しいと言う感情を知っていた。
そして嬉しいと思う自分が不思議だった。
なぜ、嬉しいのだろう?
しばらく考えてみたけれど、答えはまったくわからなかった。
僕はなぜ嬉しいと思ったのだろう?
正流に聞いてみた。
「・・・わからないな。俺も心底わからないよ」
そう呟いた時、正流はどこか遠くを見ているようだった。
正流の瞳が僕を見ていない。
不愉快だ。
「そうだ、こんどお前に会いに行くよ」
四角い枠の向こうから、正流が僕を見ていた。そんなことで不快感は簡単に消えてしまった。
*****
瞼を開けると、白い天井が見えた。
僕は生まれて20年も経っていたことを思いだした。
手足はあるが、動かすのはやけに億劫で、消毒液の匂いが不快だった。
「サ・・・」
最悪の気分だと言ったつもりが、音にならなかった。
瞼を閉じてからどのくらい時間がたっただろうか?
白い天井と、消毒液の匂いからは時間の変化を感じることは出来なかった。
こんど正流が会いに来る。
どうやって僕を見つけるつもりだろうか?
でもきっと正流は僕を見つけてしまうだろうな。
このベッドに横たわる貧相な僕を。
リハビリやってみようかな。
ご覧いただき、ありがとうございました。
短すぎてごめんなさい。
同じ世界観でぽつぽつと書いて行く予定です。
また、見て頂ければ幸いです。




