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心海のくじら

作者: 深緑
掲載日:2023/03/13

心海しんかいのくじらだな」

正流まさるが僕を見て言った。



生まれて初めて人と目が合った気がした。

僕は人ではないから、きっと永遠に人と目が合う事なんてないと思っていたのに。


*****


僕には手もなく足もなく、何も持たないのに意識だけがあった。

『われおもうゆえにわれあり』

そんな言葉をなぜか知っている。

だから何も持たない僕でも、とりあえず存在しているらしい。



特にやるべきことがない僕は、いつもフワフワしていた。

1つ1つを判別も出来ない感情に漂っていた。

時々流れてくる歪な感情から逃げたり、

暖かい感情に流されてみたりしながら、

人という生き物を感じていた。

誰も似たような悩みを持ち、

それでいて滑稽こっけいにも誰もが自分ばかりと思っている。

気まぐれに悩みを消してあげたりもしたが、

すぐに別の悩みがやって来る。

それで僕は気がついた。人には悩みが必要なのだと。

それから悩みを消すような気まぐれはおこさなくなった。



感情しかなかった場所に、

気づくと記号や文字が見えるようになった。

光も色もあって、僕は見る事ができる事を知った。

そこは今までいた場所とずいぶん様子が違う。

感情・文字・記号・画像に光と闇がぐちゃぐちゃに交じり合った場所。

あぁ、カオスだ。



僕は少しずつ、この世界の法則に気づき始めた。

丸や四角の枠の向こうに、それぞれの人の生活が見える。

新しく気づいた人の世界を僕は夢中になって覗き込んだ。


*****


「心海のくじらだな」

正流が僕を見て言った。

カオスを漂う僕に向けられた初めての言葉。

そして僕は初めて音が聞こえることを知った。


この四角の枠の向こうにはいつも正流がいる。

時々、尚武しょうぶがいることもある。

尚武は僕がいても全く気付かない。

でもそれが普通の事で、僕に気づいてくれる正流は特別だ。


ひょろりと背の高い正流は、くたびれたオーバーサイズのコートを羽織って出かけていく。

「行ってくるわ」

言って僕に片手を上げた。


戻ってくると、僕の前に座って煙草に火をつける。長い指をカッコいいと思った。

無精ひげも、無秩序な長い髪も、銀縁の眼鏡も



「この人を探してるんだけど、知らない?」

正流が僕に1枚の写真を見せてくれた。

簡単だと思った。

この世界を自由に泳げる僕にとって人を1人見つける事なんて簡単な事だ。

だって僕は心海のくじらなのだから。


今思えば僕は浮かれていたのだと思う。



正流が探していた人はすぐに見つかった。

話が出来ない僕は文字を並べて、正流に伝えた。

「早いな」

正流は驚いていた。

「ありがとう。助かったよ」

正流は僕に感謝した。


僕は嬉しかった。

嬉しいと言う感情を知っていた。

そして嬉しいと思う自分が不思議だった。


なぜ、嬉しいのだろう?


しばらく考えてみたけれど、答えはまったくわからなかった。

僕はなぜ嬉しいと思ったのだろう?

正流に聞いてみた。

「・・・わからないな。俺も心底わからないよ」

そう呟いた時、正流はどこか遠くを見ているようだった。

正流の瞳が僕を見ていない。


不愉快だ。



「そうだ、こんどお前に会いに行くよ」

四角い枠の向こうから、正流が僕を見ていた。そんなことで不快感は簡単に消えてしまった。



*****



瞼を開けると、白い天井が見えた。

僕は生まれて20年も経っていたことを思いだした。

手足はあるが、動かすのはやけに億劫で、消毒液の匂いが不快だった。

「サ・・・」

最悪の気分だと言ったつもりが、音にならなかった。


瞼を閉じてからどのくらい時間がたっただろうか?

白い天井と、消毒液の匂いからは時間の変化を感じることは出来なかった。


こんど正流が会いに来る。

どうやって僕を見つけるつもりだろうか?

でもきっと正流は僕を見つけてしまうだろうな。


このベッドに横たわる貧相な僕を。


リハビリやってみようかな。


ご覧いただき、ありがとうございました。

短すぎてごめんなさい。

同じ世界観でぽつぽつと書いて行く予定です。

また、見て頂ければ幸いです。

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