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四 宵の入りを知らせる星よ

「ねえ逢」

 水に濡れたところのない、きちんと乾いている髪が揺れた。こっちを向いて、垂れ下がる前髪を自分で払いのけることはない。

「逢は、苦しかった?」

 今なら訊けると思った。

「何が?」

「……僕たち、池に落ちたじゃん」

 ああ、そのこと。逢は僕にできる限り近づいて、二人の隙間をなくすようにぴったり抱き着いた。温度は感じられなかった。逢の匂いがする。夢ってにおいがするんだな。

「俺はさ」

 冷たい水の感覚を思い出しそうで、でもあの池の中とは違って今は逢の腕の中だから、すぐに自分の息が苦しかった記憶は遠退いた。

「一非に、苦しい思いをさせたのが、一番辛い」

 本当にごめん、と。

 こんなところで謝らなくたっていいのにな。それともこれは、自分の願望なのか。逢に謝ってほしいわけじゃない。そうじゃない。

「逢」

 逢の前髪を掻き分けて小さな星が閃く両目の不安げな眼差しに笑ってみせた。そんな顔を僕の夢の中でしないでほしい。欲しい言葉も一つだけだ。

「僕のこと好きって言って」

 視線が揺れた。

「一非」

「うん」

「大好き」

「僕もだよ」

 ずっとその言葉をくれたらそれだけでいい。満足とは言い難いけれど。だって、

「……あのさ、一非」

「何?」

 相変わらず逢の目の中には星が瞬いている。夜の魔法使いの目。逢は死んだはずなのに、今も僕と話している。

「俺のこと、ちゃんと呼んでね」

 それがどういう意味なのかわからず、今日も目が覚める。


        ❊


 囁さんは呼ぶと来てくれる。

 学校が終わった夕方に、呼ぶならそのくらいの時間に呼ぶよう言われていたのだ。昼間はあまり好きではないそうだ。それは夜の魔法使いという名前に由来するのかと言うと、そういうわけではないらしい。

「魔法というのは形を持たないようで持っているんだ」

 囁さんはいつものように、身に着けた金属のアクセサリーをシャンと鳴らしている。打ち合う繊細な音が好きだ。密やかに漣のように音が重なって、そこに囁さんがいることを示している。

「わたしの目に映っている世界はそれゆえに忙しない。昼の魔法使いではこうはならない。おそらくこれは夜の魔法使い特有のものだ」

 僕たちはベンチに座って話をしていた。取り壊しの噂が数年ある古いデパートの屋上庭園にある、白いペンキが丁寧に塗られた三人掛けのベンチ。デパートの中に入っている店舗には目新しいところがなく、客足も疎らで廃れていく印象はあるけれど、屋上庭園だけは手入れをしている人が気に入っているのかいつもきれいだった。隅の方によく知らないメーカーの、書いてある通りの味がするだけ十分な飲み物が売られる自動販売機もある。

 屋上を囲む高いフェンスに凭れて、空をぼうっと見上げている人がいた。花壇のブロックに腰掛けて新聞を読む人もいる。ベンチは一つだけではないのに、座っているのは僕と囁さんだけだ。

「それってどんな感じですか?」

「……少しだけなら、わかるようにしてやれるが」

「見てみたいです」

 囁さんの手が伸びて、僕の視界を覆う。肌には触れないぎりぎりの位置だった。

「目を閉じましょうか」

「そうしてくれ―〝ささめく世界を見せよう〟」

 囁さんが魔法を使うときの言葉は語り掛けるようだ。そこにある何かを動かすための言葉なのだと思う。ふっと空気が変わって囁さんの味方をするみたいだった。

「さあ、いいよ」

耐えられないと思ったらすぐに目を閉じるんだ、と囁さんの手が離れたので、そうっと瞼を持ち上げる。

あちこちに光の粒子が舞って、その一つが目の前で弾けた。

「うわっ」

 ちゃんと夕方のまだ明るい景色の中で、ごく小さな星が空間の至るところ、そこここに瞬く。光が多くてその陰にものや人が隠れて、自分が一人ぼっちになってしまったような、そう思ったらぎゅっと胸が締め付けられるような郷愁染みたものが襲って息苦しい。強く寂しいと思った。涙が出そうだ。

 囁さんが再び手の平で視界を遮って、今度はその体温を感じた。意外なほど温かい。

「もういいな」

 手が離れて、世界が明るくなる。星のない空間を貫く西日が眩しい。目の前にある花壇の白い花が夕暮れに色付いている。

「……囁さん?」

「ここにいるよ」

 丁度欲しい言葉のような気がした。瞬きをして囁さんを見る。

「囁さんの見えてる世界ですか?」

「そうだ」

 囁さんは足を組んで高くなった膝に頬杖をつく。ストロベリーブロンドの髪が波打ちながら肩から零れた。

「……光っているのが魔法?」

「そうだと思っている。あれらがわたしの標になって、魔法が使えるから」

「魔法のもとみたいな……?」

「魔法そのものだろう」

 あの光の粒の一つ一つが魔法そのもの、と考えると途方もない気がした。世界は魔法で満ちていた。逢もあの景色を見ていたのだろうか。

「あれをな、昼の魔法使いは自分の糧にするんだ」

「夜の魔法使いと同じように?」

「そうじゃない。わたしたちは―夜の魔法使いたちは、魔法を使う度に魔法に近付く」

 選ばれた言葉に一瞬ひやりとする。魔法に近付くという感覚はよくわからないけれど、それは人間じゃなくなるということと近いんじゃないか。

「だからきっと、魔法使いとしての終わりが魔法になることなんだと、そう感じている」

 咄嗟に、それじゃあ逢はどうなのかと不安が込み上げる。

 逢は死んだはずだ。池に溺れて。同時に藤谷の言葉を思い出す―耶的逢はまだ死んでいないかもしれない。

「そして昼の魔法使いの糧はあの光だ。魔法を使う度に供給しなければならない。今日日魔法が必要なときが滅多にない中、だからといってあっさり断ち切ることができるものじゃない。魔法に適応する人間が生まれれば、それを与えることで魔法使いとしての存在が安定することもある。器の余白が大きければ特に。英はそうだ」

 藤谷の深い傷跡が残る手の平を思い出す。藤谷の手も囁さんのように温かいのかもしれない。好さんと繋いでいた手。

「魔法がたくさん入るってことですか?」

 なんだか間抜けな言い方になってしまった。囁さんはそれを揶揄うことはしない。

「そういうことだな。魔法を多く受け入れられるから、それだけ大きな力が使えるし、同時に多くの魔法を吸収しなければならない」

 囁さんは淡々と続ける。

「そういう循環になっているんだ。昼の魔法使いは魔法を糧に生きる。夜の魔法使いは魔法に消える。きっといつか魔法が尽きるとき、魔法使いたちは本当にいなくなるんだろう」

「……それなら、夜の魔法使いを消してしまいたい昼の魔法使いは、わざわざ相手を消そうとしなくたっていいんじゃないですか?」

 そう言うと、誰かに何か聞いたのかいと囁さんは目を細めた。素直に藤谷に聞いたことを話す。

「一非は英と、ちゃんと話せるんだな」

 一通り話し終えると、囁さんが目を伏せた。

「夜の魔法使いは、死ぬ人間への餞を奪うんですか?」

 逢のことが頭にあって、ついそう聞いていた。

「それはな、建前だよ。夜の魔法使いを当然に糧とするための」

「建前ですか」

「餞なんて、何を指して言うんだろうな? 生死を彷徨うときに生者の声を聞くことを餞と言うのなら、生きられるなら、生きたいと思うのなら、生きてちゃんと言葉を交わす方がいいだろうに」

「死ぬならさくっと死んだ方が楽ですよね」

 ふらふら彷徨っていたのを見つけてもらって、生きる方を選んでおいてそう言ってしまった。囁さんの表情が特段変わることはなかったけれど。

「だがな、夜の魔法使いの口を利けなくするためには、何も考えず糧とするためには、まず聞く耳を塞がないとな」

 昼の魔法使いの矜持を保つためにも。

 ふうっと息を吐いて、囁さんはベンチに背を凭せ掛ける。夕日に赤っぽく熱を持ったような髪が風に揺れた。耳に揺れる大振りの飾りが、まだしぶとく残る夕陽を反射する。

「わたしは夜の魔法使いだから、いつか魔法になるのは構わないんだ。ただ、まだ生きられるうちに死にたくはない」

 それにと僕に顔を向ける。

「まだこれから生まれるかもしれない夜の魔法使いを、何も知らないうちに存在を失ってまで、誰かの糧にしたくはないんだよ」

 囁さんと見つめ合い、その瞳の中に星と、自分自身の影が映るのを眺めていた。

「囁さん」

「なんだい?」

「僕は魔法使いじゃないですよね」

 囁さんは何も言わずに立ち上がって、座る僕の前までやってくる。いつの間にか屋上庭園には、僕と囁さんの二人しかいない。そろそろ一番星も見えるだろう。

「どうして僕を弟子にするなんて言ったんですか」

 逆光になっても夜の魔法使いの瞳の星は閃いて、そこに魔法の存在を知らせる。

「囁さんは、」

 もしかすると、

「逢をまだ救おうとしているんですか」

 バサッと空気が羽音にざわめいた。

「救うなんて大層なこと言うじゃないか!」

 何かがぶつかる鈍い音がして、囁さんがその衝撃に耐えたのか呻いた。

囁さんの向こう、視界が遮られて姿は見えないけれどこの声は、ついこの間耳にしたばかりだ。

「馬鹿だなあ、そいつを庇ってどうなるの?」

 心底不愉快だとそんな声。

 ぱたぱたと雫が囁さんの足元に落ちた。何が起こっているのかわからない。

「囁さん、」

 囁さんの目に星が瞬く。

「〝―間もなく宵だ〟」

「〝―光が見える?〟」

 二人の声が重なった。

ギイイィィイイッとつんざくような鳴き声がこの世の終わりを知らせるみたいに響き渡る。がんがん頭の中で跳ね返る音に思わず耳を塞いだ。頭が痛い。血だ、と不意に落ち続ける液体の名前に気づく。

「やっぱうるさいわこいつ」

 至澄さんがうんざりしたように言うと、ぴたっと音が止んだ。乾いた弾ける音がして、小さな羽根が辺りに飛び散って消えた。

ていうかさあ、といかにもだるそうに語りかけながら、近付く足音がしている。囁さんは僕の前から動かない。

「そいつ、魚に食われたと思ってたんだけどな。違う?」

「ここにいるだろう」

「あの公園の池に一匹魔法のもの入れておいたの、壊したの囁でしょ。掃除用だったのに」

「無闇なことをするもんじゃない」

「弱いやつのためにいちいち出張るの面倒だしさあ」

 囁さんのすぐ後ろで足が止まる。

 僕はまだ音が鳴り続けているような頭にふらつきながら立ち上がろうとした。よろよろと腰を浮かせる。

「あのさあ囁、あたしは自己犠牲って最低だと思うわけ」

「〝―星の声が始まるだろう〟」

「なんであんたはいっつもあたしの話を聞こうとしないの?」

「〝夜は間もなく星の踊る場所に誘う、〟」

「……なんであたしに助けてって言わなかったの?」

 囁さんが言葉を紡ぎ終える前に、背後から押されて勢い良く倒れてきた。視界に髪が広がって、僕の左右に、ベンチに手を突きぶつかるのは抑えられた。僕も尻餅をつくみたいに再びベンチに座る格好になる。囁さんが覆っていた視界が開けて、暗い表情で立っている至澄さんと、囁さんの背中が血に染まっているのが見えるようになる。

「囁さん、背中、」

「……大丈夫だ」

「そんなわけないでしょう!」

 至澄さんがゆっくりと僕に視線を移す。

「本当にうるさい」

 昼の魔法使いの目には星が宿らない。

 囁さんが腕に力を入れて身を起き上がらせようとする。抉られたような傷口からはまだ血が流れ続けている。ちゃんと囁さんは生きている。

「〝―まだ朝陽がわからない?〟」

 水平に片腕を持ち上げて、その指先が揺らいで熱を持つ。またあの言葉だ。反射的に顔が引き攣るのがわかる。もう胸が痛い気がする。あれは嫌だ。

「囁さん、」

 どうしたらいい?

「逃げろ」

「い、嫌です」

 咄嗟に囁さんに腕を回して抱き締める格好になった。一人だけ逃げるなんて嫌だ。死なば諸共という言葉が浮かんでしまったけれど死んでしまっては意味がない。

「〝光は暗闇を裂き朝を迎える、歓喜のざわめき、生命の礎が目を覚ます〟」

 心臓が掴まれるような感覚。痛覚の全部が悲鳴を上げるみたいで呻き声が漏れる。やっぱりとてつもなく痛い!

「いやだ、」

 こんなのってない。夜の魔法使いがいることの何がいけないっていうんだ。痛い。嫌だ。

「―ゆたか、」

 いる。

 わかった。

 逢はたぶん死んだけれど、

「逢!」

 この痛みは逢がそこにいるからだ。

 僕の中、ずっとそばにいたんだ。

 逢は魔法になったんだろうか。魔法が逢なんだろうか。

夜の魔法使いの成れの果て。きっとそうだと信じてみるしかない。

どうか助けて欲しい。僕を。囁さんを。

「早く出てこい!」

 呼んだら来るって言ったじゃないか!


「―待ってたよ」


 熱を帯びた風を押し返す、空中に凍える息吹が生まれた。

 金色の粒子が逢の周りを浮遊している。纏う光が、逢がここにいるのだと存在を示している。

 言葉を止めて至澄さんが素早く距離を取った。

「逢」

 ふわっと風を孕んで、逢は僕たちと至澄さんの間に降り立った。顔をこちらに向けて、日没にくっきりと浮かぶ姿が微笑んだ。

「ちゃんと呼んだら会いに行くって言ったじゃん」

 風に逢の前髪が攫われて顔が露わになった。

「は……ちゃんとってなんだよ……!」

 痛みを押して叫んでしまった。

逢がいる。目の前に。涙が滲んで逢の姿がぼやけてしまう。はっきり目で捉えていたいのに。まったく泣くなんてさと言うその顔は笑っているのか、呆れているかもしれないけれど。

「囁さん」

 逢に呼ばれて囁さんが首を回した。息が、動きが辛そうだ。

「魔法ってどうやって使うんですか?」

 魔法そのものかもしれない逢が聞いた。

「君とはやり方が違うかもしれないが」

「まだやり方がわかりませんよ」

「魔法が力になるよう、促してやるんだ。言葉でも、なんだっていい」

「なるほど……」

 逢の目には星が閃いているだろう。夜の一番最初に輝く星だ。

 逢は頷きながら至澄さんの方を向く。

「〝―光が〟」

「あっちだ」

 至澄さんが言葉を紡ぐ前に、逢が魔法の行き先を指で示した。

「ぐ―うっ」

 苦しそうなうめき声がした。息が詰まったような。光の粒子が一所に集まって、標的である至澄さんを覆う。びゅうと風が鳴る。

「引いてくださいよ。囁さんを死なせたいんですか?」

 本当にそれを願っているんですか?

 逢がそうたずねてやがて、音を立てて吹いていた風が収まった。至澄さんの姿も消えていた。引いてくれたなと逢が言うのを聞いて、ようやく難が去ったのを知る。風で目が乾いて、いつの間にか涙も引っ込んでいた。

「一非、大丈夫?」

 いつもの逢の声だ。

「逢……」

 ほっとしたら力が抜けた。それでも囁さんから腕を離さずにいて、温かい血に手が触れてすぐに状況を思い出す。

「囁さん、血、」

「……いい、大丈夫だ、静かに……」

「大丈夫じゃないですってば!」

「休めば直る……そういうところは……」

 どういうところなんだそれは。慌てふためく僕を宥めるように、囁さんはようやくベンチに手を突いて身を支えるのをやめて、僕に凭れるように抱き締め返した。

「大丈夫だから……」

 そんなの信じられなくて、囁さんと逢を交互に見遣った。なんで二人とも落ち着いているんだろう。

 逢が囁さんのそばに寄って、背中の傷口に触れた。

「治してもいいですか?」

「……できるのか」

「たぶん」

 曖昧な返事に囁さんは肩を震わせた。こんなときに笑っている場合じゃない。

 逢の触れた指先に、少しずつ、慎重に光が集まっていく。蛍が集まるみたいな光景だった。実物は見たことがないけれど、おそらくこんなふうに蛍も集まるんだと思う。

「治ります」

 確信染みた逢の声だ。

 どういう仕組みかわからないけれど、傷口がじわじわと治っていく様子を見るのは不思議な感じだった。魔法で傷が治るのは当たり前のことなんだろうか。夜の魔法使いが、魔法に近付いているからそれで補えるんだろうか。

「一非」

 急に呼ばれて、反応が遅れた。

「会えて嬉しい」

 囁さんの傷があと少しで塞がる。こんなタイミングで言うことじゃないだろうと思う。それでも口にしてくれた言葉に、

「僕も嬉しい」

 そう返すしかないじゃないか。

 良かった、と逢は安心したようだった。

 何がいいんだかと憎まれ口を叩いてしまいそうになる。

「君らは仲がいいな……」

 ぼんやりとした口調で囁さんが言うのを聞きながら、囁さんの傷がきれいに治ってしまうのを見届けた。

 もうすっかり夜の空だ。フェンスに沿って設置された電燈の明かりも点る。そろそろ警備の人が見回りに来るかもしれない。ぐったりしている囁さんを支えながら、あまり働いていない頭でこれからどうしようかと考えていた。

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