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三 見えないもののあるところは

 土曜日。今日は雨だった。

 傘を閉じてファミレスの中に入ると、既に見知森さんと藤谷がテーブルについていた。壁際の席で、二人は向かい合って座っている。先に藤谷が僕に気づいて、いつもの不機嫌な顔で軽く手招きした。そんなに嫌われてはいないのかな、と昨日のことを思い出す。気に入らないって言われたなあ。

 見知森さんも入り口を振り向くと手を振ってくれた。

「英くんの隣行くね」

 空いた二人掛けの席に腰を下ろして、滑らないよう気を付けながらビニールのカバーに入れた傘を椅子に立て掛けた。藤谷の傘にもぶつけないようにする。見知森さんの傘は見当たらないから、おそらく折り畳みのものか藤谷と一緒の傘に入って来たのか。

「えっと……昨日はありがとう」

 見知森さんは気にしないでと、

「本当に今日出掛けて大丈夫だった? 無理してない?」

「してないよ。それより話したいと思ったし」

 自分が気を失ったあと、気が付いたら叔母の運転する車の中だった。学校で倒れてしまったところを見知森さんと藤谷が見つけたという体で、教師から保護者に連絡が行ったそうだ。念のため病院に行くかと聞かれたけれど、だいぶ気分も楽になっていたからそれは断った。

 それから見知森さんの連絡先が書かれたメモを渡されて、

「男の子と女の子がいたけどお友だち?」

「……うん、そう」

 見知森さんはそれでいいけど、藤谷のことは何て言ったらいいんだろう。友だちだって言ったら嫌な顔をされるだろうか。

「へえそう、あなた友だちいたんだねえ」

 けらけらと叔母さんは笑う。彼氏だけで十分みたいな顔してたのにさ、と言うので後部座席に横になりながら運転席を蹴った。足を引っ込めて、また狭い空間に猫みたいに縮こまる。

「連絡してあげなよ」

「わかってる」

「夜ご飯、食べれそう?」

「食べる。お腹空いた」

「大変よろしい」

 叔母のところにいて、深刻になり過ぎない空気が好きだった。

 メモに書かれた連絡先から見知森さんに、目が覚めたことと身体も大丈夫だということを伝えると、休日に会えないかと提案された。もちろん藤谷も一緒だった。そして迎えたのが今日この場。

 見知森さんがテーブルの脇に除けていたファミレスのメニューを広げる。丁度そこに僕の分の水が運ばれて来て、あとで注文を伺いますとお店の人は去って行った。天気のせいかもうじき正午だというのに店内は空いていた。

「お前さ」

 見知森さんが何より先にデザートのページを見ているのが気になる。

「自分に何が起こったかわかってるか?」

 言いながらさりげなく藤谷がメニューを捲ってパスタのページにする。

「なんか、すっごい痛いことされたってことしかわかってない」

 目に入ったハンバーグ定食が美味しそうだった。

「注文してからその話しよ?」

 お店の人困っちゃうよ、という鶴の一声で昨日の話はいったん中断される。パスタとハンバーグ定食と和風定食。一緒に選んだ飲み物は食後にお願いする。デザートは注文されなかった。

「それじゃあ昨日の話ね」

 見知森さんが切り出した。

「金枝一非、」

「英くんなんでわざわざフルネームで呼ぶの?」

「それ僕も気になってた」

 藤谷は眉を顰めた。話が進まないとかなんとか考えていそうな顔だ。

「……金枝」

「一非でいいよ」

「じゃあわたしも一非くんって呼ぼうかな」

「いいよ好さん」

「ありがとう一非くん」

「話を進めてもいいか?」

 僕と好さんは黙る。藤谷は水を一口飲んで話し出す。

「まず昨日の話からにするぞ。金枝に魔法を使おうとしたのは至澄だ。あいつは昼の魔法使い」

 下の名前で呼んでくれないんだと口にするのは我慢した。逢がいたら褒めてくれるところだ。いないけどさ。そんなことを不意に考えると、たまに泣きそうな気持になった。

「至澄みたいな昼の魔法使いたちは、夜の魔法使いなんていなければいいと思っている」

 それが囁さんを襲うような魔法使いなんだろう。何もしなくても夜の魔法使いだというだけで邪険にされるみたいだけれど、

「なんでいなければいいってなるわけ?」

「夜の魔法使いが魔法に近いからだ」

「よくわかんないんだけど」

 そうだな、と藤谷は少し考えて、

「魔法使いが魔法を使うためには、そのもとになる魔法が必要なんだ」

 僕は怪訝な顔になってしまったかもしれない。藤谷自身も上手く言えていないと思ったのか、難しい顔で言葉を手繰り寄せて説明しようとしてくれる。

「……魔法を使うっていうのは、魔法を生み出すんじゃなくて……何かをするために、この世界にある魔法と呼ばれるものを動かして行うことを指すんだ」

 なんとなくわかるような。

「つまりだな……酸素を吸って二酸化炭素を吐き出して、これを呼吸って言うだろ。魔法を動かして、魔法によって何かをすることを魔法を使うって言うんだ」

「ああ……なんとなくわかったかも」

 全部を魔法と呼ぶからわかりづらいだけだ。でもどれも藤谷たち魔法使いにとっては魔法と呼ぶしかないものなんだろう……たぶん。

「その魔法に近いっていうのは」

「それは一般に……魔法使いたちの間では、夜の魔法使いは最後に魔法になると言われているからだ」

「最後にって?」

「死んだら灰じゃなくて魔法になるってことだ」

 逢の姿が頭の隅に浮かんだ。

「最後に魔法になってしまうなら、魔法使いとして存在していてもしょうがない。さっさと魔法にして昼の魔法使いの糧にしてしまえばいいっていうのが、一部の昼の魔法使いの考え方なんだ」

「……それは、乱暴じゃない?」

「乱暴だ。それで夜の魔法使いになったやつを消そうなんて、いいわけないだろ」

「だってそれって、殺すってことじゃないの?」

「そう思わない奴らもいるんだよ」

「おかしいよ」

「おかしいんだよ。ただ夜の魔法使いを魔法に変えるだけって主張で、夜の魔法使いはおとなしく昼の魔法使いの糧になればいいってことだ」

 やっぱりおかしいと思う。世界の敵どころか餌だった。なんで囁さんはそれがなんでもないことみたいに、気にしている素振りがなかったんだろう。まさかそれが当然だなんて思っていないはずだ。

「まあでも、今じゃほとんどいないけどな」

「え?」

「夜の魔法使いを消してしまえばいいと思っているやつなんか」

 たぶん至澄も、家のことがなければさ、と。

「家?」

「そういう環境で育ったってことだ。うちも祖父の代はそんな感じだった。それが至澄のところは、今も続いてるって話だ」

「今は、変わっていってるってこと?」

「色々あったんだよ。魔法使いにも」

 藤谷が溜息を吐いた。

 魔法使いも面倒くさいよね、と好さんが頬杖を付く。藤谷は苦笑した。好さん相手だと笑えるんだなと、僕は二人を眺める。

「……至澄は、夜の魔法使いはいなくなるべきだと思っている。それでお前から無理矢理魔法を引き剥がそうとした」

「引き剥がす? そんなことできるの?」

「できる。ただ魔法がどれだけその人間と交わっているかで、引き剥がしたあとの結果が異なる」

 嫌な前置きだ。

「まだ魔法を宿したばかりなら、多少苦しんでも魔法が使えない人間になるだけだ」

「多少どころじゃなく痛かったよ」

「長く魔法を宿していた場合は、身体から魂が抜かれるようなもんだから死ぬ」

 藤谷はあっさりそう言った。

 死ぬ。

 心臓を直接掴まれたような感覚をまざまざと思い出して、じんわり身体中が痛むような心地は気のせいだ。わかっているけど、少し変な汗が出てきそうになった。手汗が滲む気がして、手の平を膝の上に擦り付ける。

「僕は死なないはずだったんだよね?」

「おそらく」

 たぶんじゃなくてそうだと断言してほしかった。

「僕のことはそうだとして、至澄さんは、囁さんを消してしまいたかったってこと?」

 囁さんと、お互いに知り合いみたいだった。昔から知っているみたいな。

「そうなんだろう。でも……至澄は夜の魔法使いというより、囁に固執しているように見える」

 囁さん。

 囁さんは夜の魔法使いで、僕を弟子にしたわけだから、僕の師匠ということになる。

 僕が病院で目を覚ましてからしばらくは囁さんに会わなかった。タイミングもあるんだろう。退院して家に帰って数日してから、ようやく囁さんは姿を現した。僕を弟子に誘っておいて、もう会いに来ないんじゃないか、本当は夢か何かだったんじゃないかと思いかけた頃だった。

 幽霊でも見たような顔じゃないか、と言われたのを覚えている。

「囁さんは、至澄さんみたいな魔法使いがいるから逃げてるのかな」

「逃げてる?」

 藤谷が眉を顰めた。

「違うの?」

「…………わからない」

 だって住んでいた街を出て行くほどだ。

「囁さんって不思議な人なんだね」

 他人事みたいに好さんが言った。

「好さんは囁さんと話した?」

「うーん……ほんのちょっとお願いしただけかな」

「お願い?」

「また会いに来てくださいって」

 僕はぽかんと間の抜けた顔になっていたと思う。会いに来てほしいって、なかなか人に言えるものじゃない。

「囁さん、自分が必要じゃない人のところには現れないみたいな言い方してて」

「そう、だね」

 事実、囁さんは僕に声を掛ける前に逢のことを探していた。夜の魔法使いになったはずの人を。

「なんとなくね、やりたいことはわかるんだけど」

 考え込むように好さんは唇に人差し指を当てる。

「それだけで人間が生きていくには、他を切り捨て過ぎだと思う」

 そういうふうにわたしは感じたんだよね。それでもまだはっきりした考えではないようで、好さんの考える表情は変わらなかった。

「囁の……やりたいことってなんだ?」

 藤谷が恐る恐る訊ねる。聞くのが怖いくせに、聞かずにはいられないみたいだった。

「たぶんね、」

 好さんが言いかけたところに良い匂いが漂ってきて、お待たせしましたと料理が運ばれてくる。話が再び途切れた。僕と藤谷の分が先に来て、もう一往復して好さんの前に和風定食が置かれた。温かい料理を前にして、お腹が空いていたことが思い出される。わあ、と揚がったばかりだろう魚のフライを見て嬉しそうに好さんは割り箸を割った。いただきますの声につられて、藤谷も僕もそれぞれ割り箸とフォークを持つ。

「やっぱりさっきのなしね」

 好さんが言うと、藤谷はえっと声を上げて固まったあと、のろのろとパスタをフォークに巻き付けだした。ただフォークを回転させているだけにも見える。

「囁さんは人助けがしたいんだと思ってた」

 逢の気配を辿って僕に行き着いたわけだし。夜の魔法使いが世界の敵みたいだと言ったら笑っていたけれど、本当は、夜の魔法使いを敵視する昼の魔法使いから、これからも生まれるかもしれない夜の魔法使いを守りたいのかもしれない。

 添えられたナイフとフォークを使わずに割り箸でハンバーグを切り分けながら、僕もなんとなくで言ってみた。口に出してみると、そうなんじゃないかなという気持ちと、やっぱりどこか違うような気もしておかしな気分だ。

「そうかもしれないね。一非くんの言う通りなのかも。でも、英くんはちゃんと囁さんに聞いた方がいいと思うな」

 魚のフライを齧り、ご飯も咀嚼し、味噌汁にも箸を付けながらおいしそうに好さんが食事をする横で、藤谷は心ここにあらずといった様子で、パスタを巻いていたフォークも動きが止まっている。藤谷も藤谷でなんで囁さんのことになると挙動がおかしくなってしまうのだろうか。

「藤谷?」

 ああ、と細く返事をすると、フォークに一口分きれいにパスタを巻き付けてようやく食べ始める。噛んでいるんだろうがとてもゆっくりで、半分も食べないうちに皿が冷め切ってしまうんじゃないか?

 呆れながらも僕も自分の目の前にある料理を食べ出す。ほとんどソースの味みたいなものだったけど、味が付いていればだいたいおいしいと感じる。自分でも思うが味覚が適当なのだ。逢は好奇心旺盛でも食べ物の好き嫌いが多かったなと、ご飯の少し柔らかいのを口の中に感じながら思い出した。

 じわじわと、逢のいた日々が逢のいなくなってしまった日々に顔を覗かせる。

 口の中でまだ料理を噛み砕きながら、噎せそうになる。


        ❊


 冬の、ましてや水の中は肌に突き刺さる冷たさで。水があんなに痛いなんて思わなかった。

「嫌いになるって」

 目を合わせることなく、逢はそう言った。夕方は一瞬で、二人並んで公園のベンチに座っていたら気づけば夜だった。辺りは暗く、電灯が光を放って僕と逢の影が地面にできる。時折ジョギングや犬の散歩をしていた人もいたけれど、それもいなくなった頃。たぶん夕食の時間だろう、お腹が空いたなと思っていた頃合いだ。

 嫌いとか、そんな言葉を口に出されたことにむっとして、僕は逢の指に自分の指を絡めた。

「そういうこと言われるのは嫌だな」

「嫌いになってくれていいのに」

「言い方がずるい」

「ずるい?」

「僕のことばっかり」

「何それ」

「逢がどう思ってるか言ってない」

 ぎゅっと手に力を入れて握る。そうすると身を引こうとするからもう腕にしがみついてみた。最初に歩み寄って来たのは逢だった。それを、今になって嫌いになってもいいなんて。

「ずるいのは一非だ」

「どこがさ」

「いつも俺のこと見てる」

「当たり前でしょ」

「当たり前なんかない」

「努力してるんだよ逢のこと好きだからさ」

 逢は立ち上がろうとする。僕が離すまいと腕にしがみついていたから、それを無理矢理引き剥がしたいけど力が入れられないようで、何がしたいんだか全然わからなかった。逢の方が背も高ければ力も強いから、僕を振り解くなんて簡単なのに。

逢は僕のことが好きだ。それは事実だし顔を見ればわかるし態度でわかるんだ。

 でもだからって言葉で突き放そうとされるとすごく悲しかった。

「逢、」

「嫌なんだ」

 突き放すようで、それは自分が恐れているものを取り払いたいみたいな声だったから、絶対ここで離れてたまるかと思った。投げられる言葉が苦しいけれど、そんなのあとで謝らせてやる。僕だって傷つくんだぞ。それもわかってるだろうに逢は自分も僕も傷つくようなことばかり言う。

 逢の長い前髪が、彼の星の光る目を隠している。いつからだったろうか。星空みたいなきらきらしさではなくて、濃紺の空に一番星を見つけたような光が生まれていた。逢の感情の起伏に合わせて輝きが変化して、それが当たり前みたいに僕は受け入れていたから、そのために逢が何に苦しんでいるのか気づけなかった。好かれている確信はいつだってあるのに馬鹿みたいだ。

「何が嫌なの」

「……一非さ」

 力なく、逢は諦めたようにベンチにまた腰を下ろす。

「おかしいと思わないじゃん」

「何を?」

「俺の目」

「ちょっときれいなだけでしょ」

「そうじゃなくてさ」

 そうじゃなくて、と逢は泣きそうな声で呟く。

「……一非はさ、聞かないよね」

「言いたくないこともあるでしょ。無理に聞かないよ」

「それもそれで、いいときもあるかもしれないけど……でもさ」

 逢はちょっと躊躇ってから、

「無理矢理聞いてほしいときもあるんだよ」

 頭を殴られたみたいたっだ。

 なんだそれ。

 なんなんだ。

 余程ぽかんと間抜けな顔をしていたらしく、ようやく逢が笑った。苦笑だったけど。

「一非のそういうとこ、たまに嫌いだよ」

 胸を抉られるみたいだった。

 嫌いって。

「なんだよそれ」

「怒った?」

「……怒るよ」

 ははっと逢は乾いた笑い方をする。それが気に障るのを僕はぐっと堪えたつもりだったけれど、顔には出ていたらしく逢はおかしそうに口元をゆがめる。何面白がってるんだ。

「逢」

「聞いてよ、一非」

「……どうしたの」

 自分でもなかなか低い声が出たと思う。

「あのさ」

「うん」

「俺、人間じゃなくなるのかもしれない」

 冗談みたいな言い方だった。けれど逢はおそらく真剣だ。言ったあと唇をぎゅっと結んで、僕が何を言うのか待っている。なんて言ったらいいんだ。笑い飛ばしたいような、でもそれは違うんじゃないかという気がする。

「逢、」

「どうしたらいい? 一非」

「どうしたらって……」

 そんなの僕にもわからない。全然わからなかった。

 緊張を緩めるように逢は息を吐く。そうする今も、きっと前髪に隠れた逢の目には星が躍っている。僕はそれを恐れることもなくそういうものだと受け入れていたけれど、逢は不安でしょうがなかったわけだ。星が宿ったのは前兆だった。逢が自分自身に異変を感じることの。

 相手が逃げないよう取り付いていた腕の力を緩めて、片手を伸ばして逢の長い前髪に触れる。嫌がらずじっとしていて、覗き込んだ星の瞬く瞳と視線が合わさる。

「一非」

 泣きそうな、助けを求めて訴える目だった。

 ずっと言わずにそういう目ばかりして、大丈夫だと安心してほしくて触れて傍にいたけれど、それだけでは駄目だったのだという。言葉に表して受け止めることも必要だった。

「……ずっと不安だったよ。自分がどうなってるのか見るのが怖くて、なるべく見えないように髪も伸ばしてたし。最近おかしいんだ。ずっと耳鳴りがしてるときもあるし、視界がおかしくなるし」

 そう言ってとうとう本当に泣き出してしまった。ぽろぽろと、涙が零れ落ちて静かに逢は泣く。

「一非のさ、」

 すん、と洟をすすって、

「一非の目に映ってるときだけは、まあいいかって、一非がじっと見ていてくれるのはいいんだ。一非の中にいるみたいで、安心するから」

 逢は目を逸らさなかった。だから僕も泣いている逢を見つめていて、結局僕はどうしたらいいんだとも思うし、逢の言葉に喜んでいいのかわからず戸惑っていた。

なんだよもう。というか逢を不安にしている何かってなんなんだとか、風邪とかじゃなくて体調がおかしいとか、それは病院に行って解決しないことなのか。そいういうものではなさそうだから困っているのか。

 逢、と呼んだら顔を近づけて来て額を合わせて擦り付けてくる。ちょっと力を入れているのか痛い。自分の掛けていた眼鏡が邪魔なので外して、落ち着くまで好きにさせる方が良いのかなと思っていると、ぼやける視界の中でも逢の輪郭が鮮明になる。淡い金色の鱗粉を纏っているみたいに。目を閉じられない。

 不意に逢が身体を離して、自分の身を見下ろした。途端に顔色が変わる。

「逢、大丈夫だ」

 抱き締めようとして躱されて。こういうときに素早くて、捕まえる前に逃げられてしまう。

「待って!」

 止めようとしたけど逢は立ち上がるなり、ベンチから直進してすぐの池の方に走って行った。面に映る姿を見た。

「逢、待てってば」

 追いついて手を握ろうと指先に触れた途端弾かれる。静電気が奔ったみたいな痛みがあった。冬だからだろうかと暢気に驚いたけれど、逢の認識は違った。

「やっぱり駄目だ」

「何が駄目なんだよ」

「もう嫌だ」

 やっぱり助けてって目をしてるっていうのに。

「一非に触りたくない」

 は? っと声に出てしまったのがまずかったんだと思う。

「もう会わない」

「落ち着いて逢」

「駄目なんだ、一非を傷付けたくない」

「ねえ聞いてる?」

 ばしゃん、と池で何か跳ねる音がした。

 逢がびくりと肩を震わせる。逢の気が逸れた瞬間腕を伸ばした。捕まえた、と思ったら身じろぎされてバランスを崩して、池に落ちるのがスローモーションみたいで。

 ごぼっと水が口の中に入り、池の冷たさにびっくりしてパニックになった。身体が重い。逢にしがみつこうとしてしまう。それは駄目だと腕を離す。意外と池が深いことを知った、足が底に付かない。息をしないと。違う。まだ水の中だ。苦しい。逢が身を寄せる。腕を掴まれ、浮き上がろうとする。底が暗い。何かおかしい。魚が泳いでいる。鯉だ。

 ひとひ、と逢に呼ばれた気がした。

 逢を見る。暗い中でも目印みたいな金色。口を閉じる。苦しい。水面が遠い。池がこんなに深いわけがない。どんどん落ちていく。気が遠くなりそうだった。このまま沈むのか。池の底。逢が一緒なら別にいいなという気持ちがあった。そんなわけない。生きていないと。

 視界が霞む。鯉と目が合う。

 ひとひ、と呼ばれた気がする。

 そこで水の中の記憶は終わっている。


        ❊


 キ、と皿をフォークで引っ掻く音がした。

「囁は、」

 藤谷がやっと呟くように言った。食事をする手が止まってしまっていた。まだ皿には半分以上パスタは残っていて、それをじっと見つめている。藤谷がのろのろとしている間に僕と好さんは当り障りない会話をしながら食事を終えて、食後の飲み物を待っているところだ。結局好さんはデザートも頼んだ。

「俺の、姉だ」

「知ってる」

 うん、と好さんも頷く。

「俺がまだ小学生の頃、囁は夜の魔法使いになった」

 なった、ということは、魔法使いというのは後天的なものなんだろうか。

「魔法使いになるってどういうこと?」

 皿を見つめて話していた藤谷はゆるゆると頭をもたげる。

「囁から聞いていないんだな?」

「うん。僕は囁さんの弟子になるってことだけ」

「……じゃあやっぱり、お前は魔法使いじゃない」

 それならどうして囁さんは、僕に弟子にならないかなんて言ったんだ。魔法使いとは何か教えよう、弟子だから、とは言っていたけれど。弟子だから、という部分が引っ掛かってはいたけれど。そういう言い回しをする人なだけかと思っていたけれど。

「何か根拠があるの?」

 雨が窓を打つ。単調に、強まることも弱まることもなく、ほぼ一定のリズムで降り続いていた。

「金枝は囁に会ったとき、同類だという気配はしたのか? 今俺といて、魔法の帯びる気配がするか?」

「何か特別な感じがするかってこと?」

「まあ……そうだな」

「……特にないね」

 もうそのことだけで僕が魔法使いではないと明示されたようなものだった。それでショックを受けるかと思えばそんなこともない。

 僕は―自分が魔法使いであるかどうかに、興味がないんだ。

 ただ囁さんがせっかく弟子にすると言ってくれたのにな、という気持ちはあった。生き返らせ損じゃないのか?

「魔法使いなのはお前じゃない。耶的逢だ」

「……逢は、」

「ああ。死んだんだろう。それはもう覆ることはない」

 覆らない、なんて言い方。

「金枝が今生きているのは、たまたまそれだけの生命力があっただけの話だ。何かがお前が死なないよう、身体と魂を繋ぎ止めていた。器が中身をちゃんと受け入れるように維持していた奴がいた。それを囁が、きちんと器に中身を納めただけのことだ」

「だけって言うけどさ……」

 魔法使いってなんでもできるのか。

「魔法使いにはできないことがある。それは当たり前に、魔法が使えない人間にもできないことだ」

 紅茶とアイスコーヒー、それからベリーのちょこんと載った小さなチョコレートのケーキが運ばれてきた。藤谷は水だけでいいようで、こんなに食べないのにどうして僕より大きく育つんだろうと思ってしまった。そんなの藤谷にだってわからないことだ。

「昼の魔法使いは、死んだものを生き返らせることはできない。昼の魔法は今生きている人間への祝福だと言われることもある」

 俺たちの定義だ、と。

「大仰だねえ」

 好さんは一口ケーキを掬うと藤谷に向けた。

「それで英くんは幸せになれてる?」

 藤谷は好さんのことを見つめている。

幸せって。そういうことを考えて好さんは生きているんだなと僕は驚いていた。幸福を感じる瞬間というのはあるけれど、それをわざわざ自分に問うことがなかった。幸せを感じるより、物事が自分に対して良いことなのか悪いことなのを見定めるのに精一杯だ。見えているものを図るときの、その軸の違い。

「……俺は」

 とうとうフォークを皿において、手をテーブルの下、おそらく膝に載せて俯いてしまった。それでも好さんがケーキ食べる? と一口差し出すと顔を上げた。現金だな。

 飲み込むのを待って、

「夜の魔法使いは?」

「夜の魔法使いも、死んだものを生き返らせることはできない。ただ、」

 言葉を選ぶような間があった。

「まだ、死んでいなければ……つまり意識不明の状態だな。魂と身体が繋がっていれば、それを戻すことはできる」

「僕みたいに?」

「ああ。それを生き返らせるとも言える。だから夜の魔法使いは、死ぬ人間への餞を奪うのだと言われる」

なんだか急に話が拗れたような。

「昔の魔法使いの言うことだ」

「それでまた、消してしまえばいいってことになるわけ?」

「そうなんだろうな」

 藤谷はそう言ってグラスの残りの水を飲み干した。静かにテーブルにグラスを置くのを見て、囁さんは会う度音を響かせているなと二人に反対の印象を持つ。

「魔法使いって別になりたいものでもないね」

 自分が今どんな顔をしているのか、たぶん不愉快なのが滲んだ目つきになっているし、口もともへの字になっているような気がする。

 藤谷は一瞬きょとんとした顔で、それから情けない顔になった。

「本当にな」

 どこかほっとしている響きだった。

 藤谷と話すのは前回もその前も中途半端だったので、今日が初めてまともに会話をしている気がする。魔法使いについてという、おおよそ高校生の話題になるのかよくわからにものについてだけれど。でも、それが藤谷の日常には今までずっと当たり前にあったんだろうなとか、自分にとっては常にそこにあるものが世間的にはそうでないときなかなか口を開けないよなとか、違う人間でも共通するところがあったりすることを知ってしまうと、藤谷のことを好きだなと思った。気持ちって変わるものだ。

「……魔法使いになるということについて」

 藤谷は手を差し出す。その手の平を見るともう塞がっているとはいえ、見るからに痛そうなが切り傷があった。ずっと昔にできたもののように見える、とても紙だとかの薄いもので切ったようでない……そう、たとえば―

「これは昔ナイフで切られた傷だ」

「切られたって」

 なんでもないように言うものだから、こっちの顔が余計に強張ってしまう。

「ここに魔法を埋め込んだんだ」

「埋め込むって……魔法って何?」

 もともとわかっていないけれど、もっとわからなくなってしまった。

「魔法は、魔法使いの糧だ。力の大きさは大小さまざま、昼の魔法使いに継承される魔法を受け入れるためには相性もある。俺の場合は手の平に受け継いだんだ、祖母の魔法を」

 五歳のときにここに埋めて、それが身体を巡って馴染んで魔法使いになったんだ。

 そう静かに言う藤谷の開いた手の平を見つめる。なんだか魔法も物理的だなというのと、正直なところ、そんなことのために小さな子どもだった藤谷の手を切りつけた人間に対する嫌悪。

 それじゃあ逢や囁さんは?

 思ったのが顔に出たのか、藤谷はすぐにその話をする。

「囁の場合は―そもそも囁は、魔法使いになるつもりがなかったんだ。そうしたらある日、囁の目の中に不思議な光が宿った」

 逢の目に、星の光のように閃いた輝きを思い出す。

「それからしばらく身体が不安定になって、安定した頃に囁が言ったんだ。うるさくて見えないって」

 しばらくしたらちゃんと見えてると言っていたそうだ。

「囁さんは何を見てるんだろうね」

 好さんはグラスに挿していたストローでコーヒーをかき混ぜる。半分ほどもう飲んでいて、四角い氷がぶつかり合う音がする。

「大切なものは目に見えないとかそういう……」

「そういうのか?」

「ごめん今のなし」

 藤谷は姿勢を正して息を吐き出すと、再びフォークを持って食事に戻ろうとする。すっかり冷めているだろうに食べるあたり偉いのか食い意地が張っているのか。残すつもりがないのは好ましいところだった。でもチョコレートケーキのあとにって味が混ざって大変そうな気がする。

「星の王子様だっけ」

「そうだったと思う」

 昔読んだなあと好さんは懐かしむ。

 今度は僕が溜息を吐いた。恥ずかしさを紛らわすために。

「囁さん、言ったんだ」

 藤谷と好さんの視線が僕に向く。

「止まない雨はないし、明けない夜はないし、覚めない夢もないんだって」

 それは囁さんにとって大事なことのようだった。

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