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二 トワイライト、願って

 おそるおそる伸ばされた手をすぐに掴まえて、逃げてしまわないよう自分の両手で握りしめた。怖いのだと、思わずだろう漏れた言葉も逃がさないように。見つめた目の奥で一瞬閃くような光を見た気がした。朝でも夜でもくっきりと彼の輪郭を捉えることができて、それが世界のすべてのように感じていた。

 小さくて大きかった僕の世界のすべて。

 世界は広いというけどさ。

 ほんの少し前まで、僕の世界は彼がいることで十全だった。

 逢。

 会いたいな。

「俺だって会いたいよ」

 ……逢?

 両手の、握りしめていた片方を空けて、前髪に手を伸ばす。毛先に癖はあるけどさらさらして、触ると逢は目を細める。良い夢だなと思った。

「一緒にいるから」

 うん、と頷き返す。そうだったらどんなに良かっただろうか。

「大丈夫。一非が呼んでくれたら、すぐに」

 たくさん名前は呼んでいるのにな。

 額を寄せられる。

「一非」

 ごく近い距離で視線が交わった。夜空に星が生まれたときの、宵の始まりを納めたような目だ。このままキスでもできたらさ、

「大好きだ」


        ❊


「気に入らないんだよ」

 藤谷くんのあとを付いて来た見知森さんが「そういう言い方は良くないよ」と注意すれば、眉間に皺を寄せたまま青空を見上げて、彼は自分自身を落ち着かせるように息を吐く。今は学校の屋上に三人でいて、昼間気を張っていたのを休めるためにここに来たところを、僕を探していた藤谷くんとそれに付き合う見知森さんに見つかったのだ。……僕はもしかしたら藤谷くんのことをあまり好きじゃないのかもしれない。

「よりによってお前……なんで夜の魔法使いなんかに……」

 病院のベッドで目を覚ましたあと叔母に泣かれて、過保護が嫌で普段連絡をあまり取らないようにしている両親が押し掛けてきたのを宥めすかしたりした日々が過ぎ、順調に体調が回復して切り良く春から学校行くことになったのが気づけば高校三年の春だった。幽霊みたいに彷徨っていた期間を特別措置の補習で補って進級できるとは思っていなかった。

「囁さんって藤谷くんのお姉さんなんだね」

「くん付けすんな」

「なんで見知森さんはくん付けで良くて僕は駄目なの」

「好はいいんだよ俺の特別だから」

「藤谷って素直なんだね」

「うるっせお前話が逸れてるのわかってんのか? わざとか?」

「囁さんと似てるね藤谷」

「似て、」

 ない、と声が小さくなったと思ったら俯いてしまった。ついにはその場にしゃがみ込んでしまう。僕に背を向けて。

「そっとしておいてあげて」

 見知森さんが僕と藤谷の間に入った。なんなんだろう。

 わたしたちもちょっと座ろうか、と見知森さんはフェンスの方を向く。

「あそこ座りやすそうだね」

「藤谷ほっといていいの?」

「いーのいーの。自己嫌悪一周したら立てるからそれまで気にしないであげて」

 言って本当に藤谷のことをそのまま放って見知森さんはフェンスの方へ行ってしまい、僕も僕で藤谷の面倒を見てやることもないなと思い直して彼女の後を付いていく。

 まったくうららかな春で、昼間は暖かくて窓からの陽光に居眠りしそうになってしまったのに、夕方が迫るにつれて肌寒くなってくる。ジャージの袖の中に手を引っ込めて、見知森さんの隣に膝を抱えて座り込む。

 見知森さんは眼鏡を外すとシャツの胸ポケットにしまって、「睨んでたらごめんね」と一言謝る。気にしなくていいのにな。

「見えるの?」

「輪郭はぼんやりするけど見えるよ。それに英くんのことははっきりわかるからいいんだ」

 嬉しそうにそう惚気る。

「世界全部にピントが合わないみたいでも、英くんのことはちゃんとわかるんだよ」

 いいでしょう? と笑う。

 どきりとした。

「……見知森さんは、魔法使いって信じる?」

 変な聞き方だなと思いながらも、他にどう聞いたら良いのかわからなかった。もしかしたら藤谷が魔法使いだと知らないかもしれないし、もしそうだったなら藤谷が伝えていないことを勝手に知らせてしまうことになってしまうし。というかそもそも変な奴だと思われないだろうか?

「信じるよ。だって英くんも魔法使いだもん」

 足を伸ばして座る見知森さんは、スカートの上で手の平を閉じたり開いたりしながらなんでもないように言った。心配は杞憂だった。

「知ってるんだね」

「詳しくはないけどね。出会ったときに、英くんみたいな魔法使いっているんだなあって思ったよ」

 さあっと風が吹いて、目を細めた見知森さんの横顔を隠すように髪がなびく。横顔にきらりと光を反射するものが見えて、そういえばこの二人はピアスをしていたなと思い出した。普段構内で見掛けても、付けているんだくらいにしか認識していなかった。

「いいなあ……」

「え?」

「あ」

 慌てて意味もなく口を押さえた。

「あの……ピアス、お揃いなの?」

 見知森さんは自分の左耳に触れる。

「うん、お揃い。ほんとは両耳に付けたかったんだけどね、英くんも同じの付けるって言うから片方だけにしちゃったの」

「二人で両方の耳に付けても良かったんじゃない?」

「ふふっ。あのときはねー英くん今よりちょっと自暴自棄なところがあったから、あんまり自分の身体に何かするのさせたくなかったんだー」

「……ふうん」

 そうなんだ、とそこで会話を切ってまだ蹲っている藤谷の方を見た。自己嫌悪とか自暴自棄とか、遠くに見ていた分だと想像もつかなかった言葉が見知森さんの口から出て、藤谷のイメージが変わっていく。見た目の良さがあるせいか、藤谷は名前や噂が人の口に上ることが度々ある。顔は良いのに不機嫌そうなところが良いとか悪いとか、なんで見知森さんと付き合ってるんだろうとか、だいたいそんなことで人に構うなという内容だった。

 藤谷と見知森さんについての噂や印象をぼんやり振り返っていると、ようやくのろのろと藤谷が立ち上がる。ちょっと足元がふらついた。

「金枝くん」

「何?」

 呼ばれて向き直れば、見知森さんはにこにこしてこちらを見ていた。常に微笑んでいるような、穏やかな風体が見知森さんなんだなと改めて思う。

「わたしね、金枝くんの深く突っ込んで来ないところ、いいところだと思う」

「そ……お……?」

 びっくりした。そういうところが嫌だと言われたこともあったのに。

「逢くんにもそう言ったことあるんだけどね」

 息を呑んだ。身体が強張る。

「逢くんはそういうところがすごい嫌だって言ってた。人それぞれだね」

「…………見知森さん?」

 うん? と首を傾げる。

「今まさにそのこと思い出したよ……」

「だろうねえ」

 すごい肩がびくってなったよね、と。

「……わざと言った?」

「たまたま思い出しただけだけどね。明るい話がしたかったんだけど、ちょっと違ったかも」

「……うん」

「わたしは自分が死んだときに暗く話されるの嫌だなって思ってるんだけど、だからって良くなかったね。失敗」

 どうだろう。心臓が縮む心地にはなったけれど、嫌ではなかった。

「いい。いいよ。僕さ、そのあとじゃあ聞くけどって色々逢に聞いて、極端過ぎるって怒られたんだ」

「そうだったんだ」

 目に浮かぶね、と見知森さんはくすくす笑う。その笑い声につられて肩の力が抜けた。

「……逢さあ」

「うん」

「……いなくなっちゃったよ」

「……うん」

「死んだんだって」

「うん」

「……死んじゃった」

 葬儀は僕が入院している間に終わってしまったらしいし、それが終わったと思ったら逢の親はすぐに引っ越してしまって墓がどこなのかも聞きそびれてしまった。一応以前のクラスの担任にも聞いてみたけれど、彼の親の実家の墓に入れた以上のことはわからなかった。引っ越し先も濁されたらしくわからず仕舞いだ。こんなことってあるのかと、呆然とする僕に先生はごめんなと、とてもすまなさそうに謝った。僕や逢にも分け隔てなく接する先生で、逢が亡くなったことを知った次の日学校に来て目元が腫れていたと耳にしていて、病院で面会したとき心の底から良かったと涙ぐんだ人だ。十分だった。

「僕、逢の親の実家までは知らなくってさ」

 鼻をすすって、ちょっと泣きそうだなと意識した。今は泣きたいわけじゃない。

「逢のお墓、どこにあるんだろ」

「先生は逢くんの家の人から聞いてないの?」

「親の実家って言ってたけど。逢の骨はそこに納めたんだって」

「じゃあお墓参りに行きたいね」

 見知森さんがそう言ってくれて、そうだ、と気づく。

「行きたい」

「見つけてほしいよね、逢くんは」

「うん。なんで探しに来ないんだって絶対に怒る」

「じゃあ行かないと」

「見知森さんさ」

 よく逢と話している人だなと、逢が楽しそうに会話ができているのが嬉しくて。ちょっとだけ羨ましくて。

「見知森さんが逢と友だちでいてくれて良かった」

 今の誰? と聞いたとき、ちょっと迷って友だちだと面映ゆそうに答えた逢の顔が浮かぶ。

「わたし、逢くんに友だちって思ってもらえてた?」

「友だちだって教えてもらったよ」

「そっかあ。良かった。うん。良かった……」

 見知森さんは一度ぎゅっと目を瞑って、服の袖で目元を押さえた。

 お墓参り行こうね、ともう一度言うので、行こうと僕ももう一度答える。

「いやー……悲しくなっちゃった」

「なっちゃうよ。いいよ」

「難しいなあ」

「うん。たぶん僕も家に帰ってから泣く」

「お互い難儀だねー」

「ねー」

 ところでさ、と。

「僕も友だちってことでいい?」

 ばっと見知森さんは目元を覆っていたのを除けると僕としっかり目を合わせた。言ってみて恥ずかしかったので正直目を逸らしてしまいたかったけれど、ぐっとこらえる。

「もちろん」

「そう、良かった」

 良かった良かったと頷きながら徐々に顔を逸らした。とても恥ずかしい。

 そうこうしていると急に影が差す。藤谷だった。

「話は終わったか……?」

 なんでいちいち地の底から来たみたいな低い声で話し掛けてくるんだろうと見上げると、それでも先程より不機嫌そうな顔が少し和らいでいた。なんなんだ本当に。

「金枝一非」

 藤谷は僕の目の前にしゃがんで、僕の目を覗き込むみたいに視線を捉えた。

「お前は魔法使いでもなんでもなかったはずなのに、なんで急にそんなふうになったんだ」

 囁さんの瞳より濃い色合いが琥珀のようだった。濁りのない、透き通って静かな水面のような、囁さんとはまた違った印象の目の色。

「囁さんに生き返らせてもらったから……?」

 僕にはそれくらいしか考えつかなかったけれど、どうやらそれは見当違いだったらしく思いっきりはあ? と眉を顰められた。馬鹿にしている感じがないので素なんだろうなと思うけど、思うけれど、ちょっと傷付く。

「……見知森さんなんで藤谷と付き合ってるの?」

「英くんが好きだからだよ」

 見知森さんは眼鏡を再び掛けつつ言った。

 そうなんだろうな。そういうことじゃないんだけど。なんで付き合えてるのかって聞けば良かったな。話を逸らすなと藤谷が言う。

「俺が言ってるのは囁のことじゃない。お前がまだ今の状態になる前の話だ。今までお前から魔法使いらしい気配なんて感じたことがなかったのに、急に―」

 そこまで話して藤谷が黙る。ややあって、

耶的(やまと)逢だな?」

 自分自身に確認するようにそう呟いた。

「逢が何か関係あるの?」

 囁さんが、逢は夜の魔法使いになるところだったと言ってはいたけれど。

「……あるだろう? 耶的逢だ」

「逢が何?」

「まだ死んでいないかもしれない」

 は? と今度はこっちが言う番だった。

「……何言ってるの?」

「囁は何も言っていないのか?」

 さっきから他人みたいに囁さんを呼び捨てにしているのが気になるけれど、それに併せて逢が生きているだの言うから考えがぐらぐらする。

「囁は今どこにいる?」

 囁さんは。

「……囁さんは、」

「あんた囁がどこにいるのか知っているんだ?」

 知らない人間の声が頭上から割って入る。

 急に藤谷が僕の腕を引っ張って身体を前のめりに地面に倒した。

「いっ―たいな!」

 顔だけ藤谷に向けると、彼は見知森さんのことはしっかり腕の中に抱き締めていた。この扱いの差。もっと他にやり方があったんじゃ?

「や、久し振りだね英。君の姉貴はまだ生きているみたいだけど」

「今いてもいずれいなくなるだろ」

「うわ、そのはぐらかす話し振り大っ嫌い。お坊ちゃんが偉そうに」

「お前らみたいに乱暴じゃないんだよ」

「何言ってんの? ていうかそこに転がってんの、おかしいな、夜の魔法使いの気配がする」

 なんで? とフェンスの上に立っていた人物が大袈裟な身振りで僕を指で指し示す。芝居がかった仕草の見本みたいだ。頭の高い位置で長い髪を一つに結んで、肩から垂れた髪の束の先が広がらないようさらに結んである。顎のあたりに目立つ傷跡があるのに気づいて、思わず見つめてしまったことを相手に気づかれた。

 目を眇めその視線が刺さる。

「不躾だな、君はなんなんだ?」

「僕は、」

「嫌な子」

 言葉だけでも胸に刺さる。

「死ねとまでは思ってないんだけど、夜のままなら消えてくれる?」

 フェンスの上から体重がないみたいにふわりと降り立つ。

僕もいい加減立ち上がろうと身を起こした。頭を庇ったせいで打ち付けた腕や手の平が痛い。

「夜の魔法使いなんていたところでさ……いなくたっていいってのに」

 片手を地面と水平に挙げた。指先から熱が生まれたように、温かな風が生まれて吹きつける。

「〝―まだ朝陽がわからない?〟」

「逃げるぞ」

 藤谷が僕の腕を引っ張る。今度は逃げるために。

「英くん」

「ごめん好、走って」

 わかったっと言うなり見知森さんは走り出して、足が速いんだなと場違いなことを思った。遅れて僕も藤谷に腕を引かれながら走る。先にドアノブに手を掛けた見知森さんが、僕たちが逃げ込めるよう屋上の扉を押さえている。

「〝光は暗闇を裂き朝を迎える、歓喜のざわめき、生命の礎が目を覚ます、暁はここより過ぎて静寂に落ちた〟」

「―ひっ」

 急に心臓を掴まれたみたいに胸が痛んだ。皮膚の下で針が至る所に刺さったような痛みに熱が伴って身体の全部が痛くて、さっきからなんでこんな痛いことばっかり!

 あまりに痛くて辛くて涙が出てきた。少しでも動くだけで物凄く痛いのに藤谷は腕を離さないし逃げなきゃいけない、痛い、すごく、嫌だ、誰か―

「ささやきさん、」

 囁さんは、

「―至澄(しずみ)

 呼んでくれたらそこに行けると言っていた。

「来たな! ささや―」

「〝手を伸ばせ夜の者〟」

 足を止めた。藤谷も立ち止まる。

 シャン、と金属の重なりに音が生まれる。

「〝誘いは星から〟」

 藤谷に掴まれていた方の腕が解放された。言われるがまま反対の手で囁さんに手を伸ばす。囁さんが僕の手を掴んだ。涙がぼろぼろ零れる。苦しい。逢と二人で池に落ちたときでさえこんなに苦しくなかった。

「〝足を浸す夜はここに、わたしが夜だ、導きに()れ〟」

 身体中を刺しつくそうとしていた痛みがふっと止む。それでもまだ痛んだ感覚は残ったままで息が詰まった。解放されたい。

「大丈夫だよ。わたしがわかるかい?」

「さ、さやきさ、」

「そう。よく呼んだ」

 労わるように頬に触れられる。力が抜けて膝を付く。急に汗がいっぺんに出てくる。熱い。苦しい。咳が出た。吐きそうだ。

「人の弟子に手を出すな」

 囁さんは彼女が至澄と呼んだ長髪の、ゆっくり憎々しげに表情を変えるその人に向き直る。

「あたしが呼んでも来ないってのに」

「君にわたしは必要ないからな」

「……なんだそれ」

 なんだそれ、ともう一度呟く。

「……あんた弟子なんて取るんだ?」

「そういうこともあるのさ」

「必要があったってこと?」

「その通り」

「ふうん……」

 至澄さんは―そう呼ぶのもなんだか変な感じがする―両手を後ろに回して、考える素振りをした。地面を見つめて、それから囁さんと目を合わせる。

「夜の魔法使いが増えるのはよくない」

「増やすとか増やさないとかの話じゃないよ」

「わっかんないな」

「至澄は昔からそうだね」

「だってあんたは間違ってるよ。夜の魔法使いなんていなくていいんだ」

「それは君たちの決めることじゃない」

「決めるってわけじゃなくてさ、そういうものなんだって。あんたこそ昔っから変わらないおかしな奴だ」

「そのおかしいのがいないと、助けられるものも助けられないんだよ」

「いい奴のつもり?」

「そういうつもりはない」

「あたしのことはなんにも見てくれないじゃんね、囁はさ」

 囁さんがこつりと片足の爪先を鳴らす。小さな音が生まれて、小さな金の星が生まれる。

「至澄、」

「あんたが何したいのか全っ然わかんない」

「至澄」

「助けるって何を助けるわけ? だって、」

 そこに続く言葉は呑み込まれた。

「〝夜においで、まだ日が眠っていない〟」

「囁!」

「……またな」

 会うことがあればと言ったのは聞き取れたのだろうか。

 至澄さんの影から夜が生まれてあっという間に呑み込まれた。しんと屋上は静まり返り、囁さんの溜息が聞こえた。

「……囁さん」

「大丈夫かい? 調子が良くないだろう」

「はい……」

 全身の力が抜けたように、今度こそぐったりと屋上に寝そべった。襲ってくるものが何もないという安心感。とてつもない疲労感。

 そこに降って来る藤谷の声。

「……生きてるか?」

 そんな不機嫌そうに聞かないでほしい。生きてちゃ悪いみたいだ。

 どうにか片手を上げて振ってみたけど、それだけのことがすごく疲れる。視界も霞んできた。横に誰かが座り込む気配がする。

「寝たら?」

 逢の声がした。そんなことあるわけないのに。

「逢……」

「おやすみ」

 そう言われたらなんだかもういいやという気持ちになって、意識を手放した。


        ❊


 三人の視線が、突然現れた人物に集まった。

 傍らに目を閉じて横になった一非がいて、苦しそうに呻いていたのもじきに落ち着いた寝息に変わる。胡坐をかいて横にいた彼は一非の手をずっと握っていた。一非のことしか見ていない。

「逢くん?」

 真っ先に口を開いたのは好だった。呆然とした声に呼ばれて逢は振り返る。傍目に前髪が鬱陶しそうな長さで、けれど逢自身は気にしていなかった。気にならなかった。何よりそれで一非が前髪をかき分けて顔を覗き込もうとするのが、されるのが好きだった。

「好さん」

 好は英に制止されるのをやんわり拒んで近付くと、逢の隣にしゃがむ。

「本当に逢くん?」

「そう。すぐに消えるけど」

「そうなんだ」

「好さんって本当に物怖じしないね」

 逢は再び一非に目を戻した。既に身体が半透明になっている。そのまま薄暗くなってきた景色に溶け込むように。

「囁さんでしたっけ」

 顔を上げずに、声だけで確認する。囁はそうだと返事をして、弟子とその手を握る逢の姿を見つめている。

「一非は大丈夫そうですか?」

 何が、とは言わない。それでも囁は何か察したようで、

「おそらく」

「ならいいです」

 また会うときにはよろしくお願いします、と言い残して、握っていた一非の手をそっと離すと逢の姿は消えた。それを見送って、寒さを感じる夕暮れに好が身震いした。このまま一非を屋上に寝かせたままだと風邪をひいてしまう。

「英」

 囁が呼び掛けると、英は身を強張らせた。ただ視線だけを囁に向けて、唾を飲み込む。

「一非を家まで送ってやってくれるか?」

 言われなくとも、英はそうするつもりだった。さんざん痛めつけられて気を失った人間を無視して立ち去るような性格ではない。ただ、そういうことではなくて、もっと別の話がしたかった。

 なんで自分を置いて出て行って、別の誰かにお節介を働いているのかとか。

「……どこにいるんだ」

 辛うじて声を絞り出してそう言った。

「なんで俺が呼んでも来てくれないんだ」

 つい先程、至澄が言ったのと同じことを問い掛けているのに気づいても、口から出てしまっては遅い。わかりきった答えしか返らないのに。

「英にはわたしは、」

「姉さん」

 そう呼んでしまうと同時に息が詰まりそうなほど胸が締め付けられた。

 囁が続けようとした言葉が行き場を失った。二人とも何も言えなくなってしまった。

 一非の横に膝を付いてその様子を眺めていた好が、さてどうしようと頭を悩ます。とりあえず。

「囁さん」

 そう呼んでいいですよね、と好は言葉を続ける。

「また会いに来てくださいね」

「君は」

「好です。英くんの恋人です」

「恋人」

「お願いです。また会いに来てください」

 懇願というより強制的な響きがあった。そう言わないと、この機会を逃すと次がきっとずっと先になるだろうという直感。

「……その機会があれば」

「ありますよ。待ってます」

「そう」

 それならそうなんだろう、と囁も姿を消す。ふっと瞬きをした間に。手を振る暇なんてないくらい。

 好はさすがに溜息を吐いた。きょうだい揃ってまったくもう、と思いながら、それでも英が一踏み出したのは偉いしその一歩を数歩百歩と続けさせたいと思うのだ。好は英がちゃんと自分で進める人だと信じている。だから一緒にいようと決めた。

「英くん、金枝くん運ぶの手伝って」

 突っ立ったままの恋人を呼ぶ。英ははっとして駆け寄った。

「大丈夫だよ、英くん」

「……そうだといいな」

 ぐったり横になっている一非の上半身を起き上がらせて、脇の下に腕を差し入れせーのでどうにか立ち上がる。どうしても好の側がふらついたが、二人で屋上から一非を運び出す。ほとんど英が支えているようなものだった。

「明けない夜はないって言うでしょ」

「自明の理だろ」

「英くんはロマンがないねえ」

「ロマンじゃどうにもならねえよ」

「なるときだってあるよ」

「ふうん?」

 いつもの調子で話しながら、屋上からの階段を下りてすぐの教室に入ると一非を床に寝かせる。まだ教室の鍵は閉まっていなかった。

「先生呼んでこよう」

「何て言うんだ?」

「うーん……倒れてたの見つけましたでいいんじゃないかな?」

「それくらいしか言えないよな……」

 英は特段教師に嘘を付くことには困った顔をしない。

「というかね、金枝くんこのままで大丈夫? 病院に連れていくとか……」

 ようやく好が当然の心配を口にする。それについては大丈夫だと英が答えた。

「魔法を剥がされそうになったショックで倒れただけだ。休めば落ち着く。医者に見せてどうにかなるもんじゃない」

「……すごく、痛そうだった」

 そりゃあな、と。

「生きたまま骨を抜き出されるようなもんだからな」

 それはすごく痛い、と好は想像して顔が歪んだ。とにかく先生を呼んでくると言って英と一非を残して教室を出て行く。

 残された英は一非を一瞥して、窓の外を見遣る。橙色がまだ残っているものの、日が落ちた途端すぐに外は夜を迎える。春と言えども日が短い。

「バーカ」

 誰にともなく、影の濃い教室で悪態を吐く。

 来る夜に忍ばせるように。

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