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一 輝くそれは夜にも冴える

 返事がないと思って(みよし)が振り返ると、つい先程まで隣を歩いていた(すぐる)は足を止め、カフェと美容院の間にある細い路地を見つめていた。何かに目を凝らしていて、それが傍からすれば睨んでいるようにも見て取れる上に、実際こういう顔をしたときの英の印象は怖いと判断される。すっと涼し気な目元もこれでは台無しだ。好は英の前に回り込んで彼の眉間を人差し指で付いた。

「……痛いな」

「そんなに力入れたつもりはなかったんだけどな。ごめんね」

「いや」

 英は好の空いた手を自分の左手で繋いだ。好はもう片方の手に空になったアイスコーヒーのカップを持ったままだった。小さくなった氷が溶けた液体の中で揺れる。

「見間違いかもしれないけど」

 うん、と好は英と視線を合わせようとする。頭一つ分英は背が高い。足元の石ころでも見るように下に下に向けられていた彼の視線がようやく持ち上がると、好の透き通ってみえる茶色の目と、それより琥珀色に近い英の目がようやくかち合った。

「たぶん、姉さんだった」

「お姉さんって……」

「数年前に家を出て行った姉さん。それと……見たことがあるやつが一緒に歩いてた」

「ふうん。どうする?」

「え」

 え、じゃないよと好は思った。意外なことを聞かれたように、きょとんとした顔になってしまった英を見て好は呆れた。

「追い掛けないの?」

「だって……いいのか?」

「何が駄目なの?」

 好は繋いでいた手に力を込めた。英は空いた手で向き合った好の髪に触れて、彼女の顔の横に垂れた黒髪を耳に掛けた。左耳に付けていたピアスが見えるようになる。その片割れを英も同じように左耳に付けている。

「英くんは慎重だよね」

「……臆病なだけだ」

「だったらわたしが連れてってあげようかな」

 好はぱっと向きを変えると英が見つめていた路地に足を踏み入れた。店舗の間に挟まれて、天気が良いのに影が落ちて暗くなっているそこはなんだか空気が湿っているようにも感じられる。反対側の通りがやけに明るく見えた。

 英は抵抗せずに好の後に続いて、彼女の手を絶対に離すまいと握りしめた。


        ❊


 太陽が頂点をとうに過ぎて、するとすぐに夕陽が迫ったまだ明るさの残る街中には、仕事帰りの人や学生の姿が見られる。隣を歩きながら僕は囁さんのことをなんと呼べば良いのだろうかと考えていた。自分が幽霊のような状態であることなんて気にしていなかった。弟子だからと師匠と呼ぶのはなんだか気恥ずかしい。

「囁さん」

「なんだ」

「どこに向かっているんでしょうか」

「君の病室に決まってるじゃないか」

囁さんが一歩足を動かす度に金属のアクセサリーがしゃらしゃら音を奏でて、一人でメロディのない音楽を響かせているみたいだと思った。

「もしかして今、囁さんって独り言を喋ってるように見えてるんですか?」

「まあそうだが、君は思った順に喋るんだな」

「ちゃんと何するんだろうとも思ってますよ」

「君を生き返らせるのさ」

 囁さんは立ち止まって、僕の目を見た。金色の、夕陽に景色が翳る中でもはっきり居場所を捉えられる目に覗かれる。

「そのままの身体じゃ魔法使いになれないからね」

 薄く口元が笑みを形作る。本当に、笑っているのかいないのかわからないくらい、ほんのひと匙どころか微かといっていいくらいの薄い笑みだ。

「……囁さんは、悪い魔法使いだと言っていましたよね」

「ああ」

「何をしたんですか」

「何も」

「何も?」

「そう。何もしていないよ。ただわたしが夜の魔法使いというだけでね、この世の宿痾を取り除かんとばかりに、躍起になって一部の魔法使いが襲いに来るのさ」

 ふ、っと溜息を吐いて見せて、それがとても困ったようには見えずに、この人は恐れるものなくここに立っているのだなというのがありありとわかる。傲慢に見えるわけではなかった。ただなんてことなく、仕方のないことってあるものだというように。

「世界の敵みたいじゃないですか」

 囁さんは驚いたように目を瞠って立ち止まり、それからけたけたと声を上げて笑い出した。

 そばを通りかかった人がびっくりして距離を取る。街中なのだ。囁さんが耳もとに手をやると、なんだそうかと納得したみたいな顔で去っていく。おそらく無線イヤホンで通話していたとでも思ったんだろう。案外独り言に見えても、それ程異質ではない光景なのかもしれないと思い直した。

「まあ……そんなようなものだが、大袈裟だ。そういうものではないんだよ」

「どういうことですか?」

「たとえばね、止まない雨はないし、明けない夜はないし、覚めない夢もないのと同じなんだ」

 再度同じ発言を繰り返す前に、ぐっと言葉を呑込んで考えてみる。

 止まない雨はないし、明けない夜はないし、覚めない夢もない。

「…………どういうことですか」

 夕陽がどんどん傾いて、街中の影は濃くなり、囁さんの瞳が夜を迎える時間に輝きを増す。昼間より光って見えるのはどういうわけだろう。

「わたしは、夜の魔法使いなんだ」

 少し風が出てきたのか、囁さんの髪が揺れる。きっと寒いだろうに、そろそろ立ち止まって話すのをやめて歩き出した方が良い気がする。今の僕には寒さがわからない。

「昼を迎えるには夜が必要だろう? 夜の魔法は必要なものなんだ。気に入るとか気に入らないとかの話じゃなくてね」

 だからしぶとくこうして、わたしは夜の魔法使いなんだよ。

 そう言って囁さんは機嫌が良さそうに歩き出した。僕の身体が横たわる病院へ。

 彼女に続いて僕も歩き出そうとしたときだった。

「囁!」

 聞き覚えのある声がしたが、誰の声なのかまでは思い出せない。鋭い呼び声だったので、咄嗟に振り向いてしまった。どうせ見えない―と、

「あ、金枝(かなえ)くんかな?」

 二人目の声に、記憶がばっと飛び出すみたいに、彼女の声は、

「……()()(もり)……さん……?」

 ふわっと柔らかい印象を持つ人だった。私服の高校で、彼女の格好はそれ程目立つわけではなかったけれど、目立つのは見知森さんの手を握っている彼だ。確か、名前は、

「ええと……誰だっけ?」

 同じ教室にいる人間の名前は辛うじて憶えていたけれど、他クラスにまでは記憶力が及ばなかった。授業で一緒になったことがあるはずだというのは思い出せる。

 彼は不快気に眉を顰めて、僕と囁さんを睨む。整った顔立ちがよく噂される人だったはずだ。なんとなく覚えている。

「英くんだよ」

「すぐるくん……?」

藤谷(ふじたに)英くん」

 見知森さんが繋いでいない方の手で、飲み物のカップを手にしたまま器用に隣の男を指差した。なんで僕とこんなに普通に会話しているんだろう。

「好」

「何? 英くん」

「なんであれと普通に話してるんだ?」

「え?」

「えじゃなくて」

 藤谷くんの眉間の皺が深くなる。

「どう見ても生きてる人間じゃないだろ」

 藤谷くんにも見えるんだなとか思うけどそれより、生きてる人間じゃない、と言われたのがちょっと胸に来た。幽霊みたいなものだけれどさ。囁さんは死んではいないと言ってくれたし。胸がちくちくするような気がする。

「入院中って先生が言ってたね」

「なら、」

「でも今ここにいるでしょ?」

 見知森さんは僕と視線を合わせる。何もおかしなことなんてないと、ここに存在を認めるように。

「金枝くん、元気だった?」

 当たり前に受け入れて、てらいなく聞いてくる。

 見知森さんはそういう人だ。

 彼女のことはちゃんと覚えていたのは、(ゆたか)とよく話していたのを見ていたからだ。僕もたまに話すことがあった。当たり障りないことだけだったけれど。

 ぼうっとしてしまったのか、見知森さんが近付いて、僕の目の前で手の平を振って意識を確かめる真似をしたのに気づいてびっくりした。

「金枝くん?」

「あ、うん、元気? だよ」

「それは良かった」

 にこにことしながら会話をしているけれど、囁さんより見知森さんの方が他人から変な目で見られていないか心配になる。視線をずらして藤谷くんの方を見ると、物凄く不機嫌な顔で見知森さんを見ていた。

「一非」

 囁さんが僕を引き寄せる。首に腕を巻かれ、マフラー越しにがっしり捕まると、

「あまりのんびりするものじゃない。行くぞ」

 ふっと視界が眩む。姉さん、と呼ぶ声が遠くに聞こえて、囁さんを姉と呼んだことに驚いている間に、目の前の景色が変わっていた。瞬きして、もう一度今の景色を見る。遠く空の端で、広がる雲の輪郭をじんわり橙に染めながら、西日ももうあとわずかになっていた。

「弟子」

「はい?」

 囁さんは背が高く、腕の中の僕を上から覗き込む格好で話し掛けてくる。

「不安定なところはないか?」

「強いて言えば身体ですかね」

「それは今から解決する。他には?」

 特にないですね、と答えると、そうかと頷いて首に巻いていた腕を離した。

「君の病室に行くぞ」

 屋上の扉に向かって歩く後姿が暗闇でちゃんと色付いている。金色で縁取りをしているみたいに輝いて見えるのは、本当にそうなのか、特別な人だと思っているからなのか。昼間の色彩がはっきり思い出せる。

「囁さん」

 呼び掛ければ囁さんは返事をしながら、ドアノブをがちゃがちゃと鳴らしている。当然鍵が掛かっている。

「さっきの、藤谷くんって、囁さんのきょうだいなんですか?」

「ああそうだ」

 案外あっさり認めて、囁さんは扉に「〝夜が来たよ〟」と耳打ちするように言葉を掛ける。するとかちゃりと軽い音がして扉が開く。なんて魔法使いに易しい扉だろう、こんなことにまで防犯意識は向いていない。

「藤谷くんも魔法使いなんですか?」

「そうだな。あれは昼の魔法使いだよ。よく覚えておくんだな」

「昼の魔法使いって……」

 囁さんをやっつけに来るとか言っていた、

「てっきり藤谷くんも囁さんと同じなのかと思いました」

 囁さんの後を追いながら話し掛ける。

「同じだったら今頃あの子もこの街から去っていたかもしれない」

「……囁さんは、この街にいなかったんですか?」

「いなかったよ」

「じゃあどうして今いるんですか?」

「言っただろう? 止まない雨はないし、明けない夜はないし、覚めない夢もないんだよ」

 こつこつと囁さんの靴音だけが、一緒に足首のアクセサリーも揺れ動いて、階段に、廊下に響く。夜の魔法使いが音を奏でていても、誰もそれに気づかないようだった。廊下はまだ電灯が点っているし、扉の閉まった病室からも灯りが漏れている。食器の鳴る音がして、今は夕食の時間なのだろう。まだ目覚めていない僕はこの病院で食事をしたことがないけれど、病院食って美味しいのだろうか。

「少し前に、ここにもう一人の夜の魔法使いが生まれようとしていた」

 囁さんの歩みが止まった。真っ白な壁に等間隔に並ぶスライド式のドアの一つ。僕の眠る病室だ。

「名前は知らない人間だったが、そういう気配だけは感じ取れたんだ。もっと早くに見つけてあげられたら良かった」

 ふ、と息を吐く。その音を拾うことができただけで、囁さんがどんな顔をしていたのかはわからなかった。

「君はその魔法使いの名前を知っていたはずだよ、一非」

「え?」

 産(、)まれると言うからてっきり赤ん坊のことかと思っていた。どうやら違うらしい。

「わたしと同じ夜の魔法使いの気配を追って、君を見つけたんだ」

 どきっとした。

 それに伴い察して、だから囁さんも、逢と同じで輝いて見えたんだと、

「……逢を、」

 僕は何を言いたいのだろう。

「全てを救い上げることはできないんだ。だからとりあえず、今できることをしようと思う」

 なんで僕を生き返らせる前にそんな話をしてしまうんだろう、囁さんという人は。

「開けるぞ」

 騒がしくないよう設計されていても、どうしたって扉を開くときは音がするものなんだなと思う。囁さんはそれでもそっと、中にいる人間に遠慮するように扉を開けた。僕しかいない部屋だけれど。

 夕陽の残りもすべて夜に呑まれて、カーテンの隙間から外の灯りが一筋入り込んでいる。機械のぽつぽつした点灯が、暗い部屋の中におもちゃみたいに光っていた。ベッドに近付いて、囁さんは目を閉じる僕の顔をまじまじと見つめる。

「死んだ人間はどこに行くと思う?」

 急にそんなことを言う。

「ここにいますけど」

「君はまだ死んじゃいない」

「……昼間の、魚のお腹の中とか」

「あれは夜の魔法を食うだけで、魔法使い自体を食うことはできないよ」

 だから違うよ、何を見たか知らないけど。

 暗にあの蠢く顔の中に逢がいないことを伝えていた。

「じゃあ、」

 肉体のない状態なのに、喉が渇いたみたいに感じる。変な感じだ。じわりと滲む安堵と、それなら逢はどうなってしまったのかという疑問が顔を出す。安心してしまい気持ちと、それは許されないんじゃないかという気持ちがない交ぜになる。

「君にはまだ先があって、それがない人間のために生きる必要もない。ただ、一非、君はわたしの弟子になることを了承しただろう?」

 しました、と掠れた声が自分の口から出る。

「―〝わたしは夜の魔法使い〟」

 空白に、一滴インクを落とすように言葉が始まる。

 シャン、と金属の打ち合う音が響いて、囁さんの指先が横になっている僕の心臓の辺りに添えられる。金色に輝いて、月の光を纏うような美しさだ。

 逢の目の中に見た金色が、星のように閃いたのを思い出す。

「〝一非〟」

 全身が見えないものに引っ張られる感覚。

「〝君の心臓、心の宿り、手は星を掬い、足は夜に浸る―これは君への呼び掛け、生者への呼応、耳は夜の声を拾い、目は暗闇に光を授け、わたしは返す声を乞う〟」

 囁さんが僕を見た。

 どうしたらいいんですか、と聞かなくてもわかった。何かに引っ張られるまま、僕は囁さんの手の上に自分の手を重ねる。

「囁さん」

「さあ起きるんだ。君はまだ生きている」

 間近に覗いた囁さんの瞳には星が躍るようだった。

 いくつも閃く光が夜の中に輝きを点す。それが目印となるように。わたしが目印だと、そう訴えるように。

 だから囁さんは夜の魔法使いなんだ―たぶん意識を失う直前に、そう思ったはずだ。

 気づけば白む朝に目を開けて、身体ってこんなに重かったっけとぼんやり病室の天井を眺めていた。


        ❊


 たとえば意中の相手の足音や声を耳が拾うように、その人の香りを鼻が捉えるように、自分が求めていた魔法の気配を魔法使いは感じられる。

「あーあ」

 自分から探しに行かなかったのは、向き合うのが怖かったからだ。特定の人間を求めてしまうことに。正しいと教えられてきたことがあって、時折本当にそうなのかと疑問が泡のように浮かんでくることに。

 もうやめてしまおうか。踏ん切りがつかない。考えたくないだけかもしれない。

「臭いな……」

 一度屈んで池の水面を眺めた。張り詰めたような寒気の中にも、魚の生臭さを捉えてしまってつい鼻白む。

 彼女が池に放してあった鯉がいなくなった。夜の魔法使いや、まだ夜の魔法使いではなくともその素養を持っている人間を駆除するために、街に仕掛けてあるものの一つだった。見た目がちょっとグロテスクで、とても昼の魔法使いが作ったものとは思えないなと、どうしてこんなものを自分が作れてしまうんだろうとよく考えている。

 魔法使いから魔法を取り除いたって、そうそう簡単には死なない。でも魔法使いから魔法を取り除くのはとても痛いことだ。おそらくそれは昼の魔法使いでも夜の魔法使いでも変わらないことだと、それは考えない方が自分のためだった。

 今でも思い出す。最後に見たときの、くっきりと輪郭が捉えられた横顔をいつまでも覚えている。覚えているから何度も何度も踏みつけて、二度と思い出さないように祈りを込めて、それでもその声や隣にいたときの匂いや、淡く纏っていた魔法の気配への執着は消えずに気づけば記憶が彼女の像を結ぶ。

 昼の魔法使いは立ち上がって、池に踵を返した。手に力が入らない気がして、上着のポケットに両手を突っ込む。無意識に長く息を吐いていて、それが白くなって冬の冷たい空気の中に溶けていく。

 もうとっくに死んだと期待していたのに。

 嘘だ。

 一人でふらっといなくなって、どこかで適当に生きた末。

 そんなわけない。勝手に死んではたまらない。

「……囁だな」

 夜の魔法使いはいなくていい。

 彼女はそう信じている。

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