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プロローグ 悪い魔法使いと出会う

 池が凍るほどではない寒さの月曜日だ。

 自分以外人の見当たらない正午近くの時間帯。マフラーに口元まで顔を埋めて、僕は公園の地面にしゃがみ込み池を眺めている。寄って来た鯉と目が合った気がして、それでなんとなくじっと見ていた。黒い鱗が冬の日差しにてらてらと反射して、黄色やら水色やらのわずかの色合いを生み出している。魚の目ってどうしてあんなにぽとっと落ちそうなんだろう。焼いたら白く濁って水分が飛んでやっぱりぽとっと落ちそうで。上下の瞼で上手く目玉を落とさないように囲んでいるから、なかなか取れはしないけれど。

「やあ」

 女の人の声だった。まさか君が喋ったの? と鯉に視線で訴えると、池の反対側へ泳いで行ってしまった。この公園は広い。その敷地にある池も広い。教室を簡単に沈められて、でも学校は沈められないくらいの広さ。

「聞こえてるかい?」

 同じ声だった。

 池の中に向いていた視線を持ち上げると、水面から突き出た木の杭の上に立つ人と目が合った。狭い面積に両足とも乗っているのに驚いた。

「すごい」

 思わず声が出た。女の人が微笑んだように見えた。そばかすの散った肌に、金色に輝いて見えた瞳が今朝見た目玉焼きを思い出す。半熟なのは作った人間の好みで、僕はちゃんと最後まで火を通したものが好きだった。

「すごい?」

「はい」

「突然現れたことに驚くとかはしないんだな」

 そういえばそうだな、と言われてようやく気付いた。

 鳥が杭の上で羽を休めるように女の人も器用に杭の上にしゃがんでみせた。動いた拍子にストロベリーブロンドの髪がふわふわと揺れる。波打つように癖がついていて、それが腰まであるのでよく目立つ。

「君は何しているんだい」

 彼女は膝に頬杖を付いて訊ねた。

「池を眺めてます」

「暇なのかい」

「暇……そうですね。こんな身体なので」

 僕は自分の手を空に翳した。薄っすら雲が透けて、手の平を流れて行く。吐いた息は白くならないし、おかげで眼鏡も曇らない……と思ったけれど、いつもはあるのに今は掛けていないのだった。

「まだ死んじゃいないだろう」

「もうすぐ死ぬんじゃないですかね」

「死を願っている?」

 そういうわけじゃない。

 そう答えようと思ったけれど、言葉が喉に詰まって出てこなかった。だってこのまま死んだらまた会えるかもしれないし。なんで今ここにいるのが自分だけなんだろう。一緒に池に沈んだはずなのに。水の中で目が合った瞬間相手のことだけしか見えなくなって、生きることを手放した。

 でも、そうだ、生きたいと思った気も―

「弟子をね、探していたんだよ」

 口をぽかんと開けたきり答えない僕を見つめて彼女は喋る。

「そしたら丁度いい塩梅のが一人でうろついているじゃないか。まだぎりぎり死んでいないし。先がある。君が望むんならね。どうだい?」

 どうだい、とは。

 そもそも弟子ってなんの。

「なる? ならない?」

 具体的なことを言わずに答えを促す。彼女の弟子になるかならないか。ぎりぎり死んでいない、というのはもしかすると、答えによっては生きるかこのままかの選択にも繋がってしまうのかなって思ったり。

 答えを急がせるわけでもなく、彼女はじっと金色の瞳で僕を見ている。じっと見つめ合っていると引き込まれそう。人と目を合わせるのは久し振りな気がした。これはどちらかが根負けするまで続くんだろうか。

 この人の弟子になる。弟子になって生きる。生きるのかな。このままの状態でも弟子になれるのかもしれないけれど。もしくは弟子にならず、いつか身体が衰弱して死ぬのを待つ。病院のベットの上で日に日に衰えて行く自分の身体。素材が良さそうには思えない簡素で質素で清潔である病院着を着せられていた。心臓はまだ動いている。身体の脇に力なく置かれた手に手を重ねた叔母や両親の姿を見て、悪いことをしたなあと思うこと以外の感想が特になかった。現実感がなく、入院着と同じかそれ以上にぺらぺらの気持ち。

 間を持て余しているのか、彼女は耳に付けた大振りのピアスを弄る。細かな装飾に透明な石がいくつか嵌り、何かに似ているなあと思って家の仏壇に下がる飾りを思い出した。きっともっとおしゃれなものなんだろうけれど俗な喩えしか浮かばない。

 よく見れば足首にもじゃらじゃらとアクセサリーを付けていた。歩くとき重くないのだろうか。

「どう? 決められそう?」

 我に返った。

「なります」

 咄嗟にそう口にしていた。口にしてからびっくりした。僕は生きたいと思っていたのかな。

 じゃあそうしよう、と彼女が鳥が飛び立つ準備をするように立ち上がる。それにつられて僕も腰を上げて、ふと見た池から先程の鯉が顔を出していた。ぱくぱくと口を動かしている。


「うそつき」


 え、と身体が固まった。

黒い鯉はなおも話す。

「嘘ついたな。一緒ならいいって。死んでもいいって。ここは暗くて寂しいのに。ああ可哀想」

 ぱくぱくと。

「死んだら一緒になれる」

 ばしゃんっと鯉が宙に跳ねて、見る間に空が翳った。鱗を飛び散らせてその下の肉が露わになった。うぞうぞと青黒い血管の下を人の顔が蠢いているのが見えてしまった、いくつもいくつも、黒い眼が大きい、鯉が大きくなった、ぱっくりと開いた口の向こうにぐちゃぐちゃになった肉があって、

「―わたしの弟子だぞ」

 目の前に迫った鯉の顔が弾けた。魚の肉片が飛び散る。驚いて尻餅をついた僕の身体に黒々とした血液が降りかかる。

「戒めだ―〝夜の胎に還るんだ〟」

 キン、と金属が打ち合ったときのような音が空気を振動させた。

 金色の輪が地面に生まれる。輪の中に影が生まれて鯉をばくんと飲み込んだ。まるでそれが生き物みたいに。ごりゅ、と飲み込んだ音がして。

「……そっか」

 彼は死んだのか。

 影が地面の中に沈んでしまうと金粉を振り撒きながら輪が小さくなって、ぱちっと最後に小さく爆ぜるような音をさせて消えた。あとには黒い液体に塗れた僕と、池の杭から岸へ跳んで移った彼女だけ残る。

「酷い有様。避けなかったな」

 彼女は服の袖で適当に僕の顔を拭った。……なんで触れるんだろう。

「……腰が抜けてしまって」

「ははっ、なんだそれ。まだ生き返っていないのに」

 延ばされた手を取った。やっぱり触れる。

「わたしはささやきだ」

「ささやき?」

「そう。それがわたしの名前」

「僕は……一非ひとひです。一人に非ずでひとひ」

「そりゃいいね」

 今度こそ立ち上る。彼女の方が背が高いのはヒールのせいだと思う。ピンと伸ばした背筋に立ち姿が堂々としている。

「ところで僕はなんの弟子になったんですか」

 んん? と彼女は一度首を傾げて、そうか言ってなかったかと頷いた。指揮者が四拍子を刻んだみたいな動きだった。

「魔法使いの弟子」

 そんな曲があったと思う。

「囁さんは魔法使いなんですか」

「ああ、そうだとも」

 彼女は告げる。目に星が宿った。

「わたしは悪い魔法使いなんだ」

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