9月2日:乾聡子とご褒美の約束
乾聡子。神栄大学経済学部一年生
六月十四日生まれ。家族構成は両親と犬数百匹
建築デザイン会社「乾工房」の一人娘
掴みどころのない性格で、飄々とした立ち振る舞いで数多の人間を「色々な意味で」翻弄した過去を持つ
袮子家と共謀し、花籠雪霞の生まれ変わりである巽夏彦を殺し、二階堂鈴を真の神へと至らせるために襲撃を仕掛けたが、結果的には失敗といえる結果に落ち着いた
現在はとあるアパートの五階に袮子涼香と虎野舞花の三人で暮らしている
しかし、彼女だけはよく巽家に出没している。重症を負わせたのにも関わらず自分たちを許してくれた夏彦に懐いてよく遊びに来ているようだ
始まりの神ではないにせよ、獰猛な性質を持つ犬の神「含羞」をその身に宿し、高い機動力と戦闘力を有する今代の「戌の憑者神」
体を動かすことが好きなようで、裏稼業から解放された今は様々なスポーツに挑戦しているようだ
・・
9月2日
今日は僕の晴れ舞台でもあったり、するのかな
こういう場所は慣れないから、とても居心地が悪い
騒がしい会場から離れた静かな場所で、何度か深呼吸をして、心を整える
けれど心は落ち着いてくれない・・・どうしたものか
そうだ。電話をかけよう
本番前に、一番聞いて安心する人の声を聞いておこう
そうしたらきっと、僕は最善の状態で勝負に挑める・・・と思う
いや、望める。絶対にできる
と、いうわけで電話帳から彼の連絡先を出して電話をかけてみる
すると、その人物はワンコールで電話に出てくれた
『聡子。どうしたんだ電話かけてきて・・・今、三人前の人が挑戦中だろう?準備とか大丈夫なのか?』
「平気。夏彦、テレビ、見てくれてるの?」
『ああ。今日は現地組以外皆うちに来てサスケットを見ているぞ』
全員があの家に集まって、テレビの前に集合しているらしい
その光景を考えると笑いがこぼれて、同時に緊張の糸も解けていく
目の前にいなくても、すぐそこにいつもの日常があるような気がして・・・安心する
『現地に付き添えなくて申し訳ないけど・・・そっちは大丈夫か?』
「いい。今日はと立夏さんと絵未ちゃんが観客席に、付き添いは舞花がしてくれてる。舞花、明日も仕事あるのにサポートで奔走してくれてるから助かるよ」
『そっか。舞花にも頑張れと伝えておいてくれ』
「うん。ねえ、夏彦。涼香はどうしてる?ちゃんと寝てる?」
『安心しなさいなー・・・三十八度出てるけど聡子の活躍見たくてリビングに陣取ってるから』
僕の相棒でもある袮子涼香
本来なら舞花が今こなしていることを涼香がする予定だったのだが、昨日から熱を出してしまっており、申し訳ないけど舞花に代役を依頼することになった
「そこは全然安心できない。ちゃんと暖かくして寝てて」
『暑いからやだよぉ・・・今も汗ダラダラでもう一回お風呂入りたい気分だしー・・・』
「冷房つけてもらってるでしょ」
『毛布かぶればアツアツなんだよー?・・・聡子の鬼ぃ・・・帰ったら毛布の中に引きずり込んでやるぅ・・・!』
「それは勘弁してほしいね。でも、そこまで熱に浮かされた曖昧な視線で見られるのは悔しいよ。録画はもっと嫌。適度に暖かくして、少しずつ元気になりながら僕の活躍を最後まで今、ちゃんと見てて、涼香。絶対完走するからさ」
『・・・やだ、聡子かっこいい。惚れる』
「惚れても何も返せないよ・・・」
それに僕らは同性同士だよ
まあ、涼香のことは好きだけどそういう目線ではないと言うか・・・
それに僕は・・・
『聡子』
「な、何、夏彦」
まだ涼香が話すかな、と思ったら夏彦の声になったので、若干びっくりしてしまう
・・・急に変わらないでよ。びっくりするじゃん
『涼香と話し終わったみたいだから、俺が話し相手に戻ろうと思って。もう大丈夫そうか?出番もうすぐだろ?』
「う、うん・・・あ、あのさ夏彦」
『なんだ?』
「・・・一言、なんか頂戴」
『なんかってなんだよ』
「何でもいいから・・・!何でもいいから、一声かけてもらったら頑張れる気がするから!」
自分でもワガママを言っている自覚はある
それにもう彼は誰かのものだ。もう手が届かない場所にある
けど、僕にとって彼は恩人であり、大好きな人なのだ
兄がいれば・・・という話ではない。兄に、こんな複雑な感情は抱かない
名前を呼ばれる程度で、弾む心なんて抱かない
でも、慕うぐらいはいいじゃないか
恋慕は叶えられなくても、友達として、慕う程度ぐらいなら
彼の妻も、許してくれるはずだから
『わかった。じゃあ、聡子』
「うん」
『これが終わったら、鈴のご飯が待ってるぞ』
『今日は晴れの日ですからね!腕によりをかけて作りました!』
『私も手伝ったわよ!唐揚げとか、チキンとか・・・沢山用意してるんだから!貴方好きでしょ!?』
「好きだけど・・・その、帰ってくるの、多分十一時ぐらいになるよ?」
横から彼の妻と、彼の家に転がり込んだ居候の声がする
僕はのばらみたいな腹ペコモンスターじゃないし
・・・なんでこういう時に頑張れとか、そんな簡単な一言が言えないのかな、この人
そんな変な人を慕っている僕も、変なのかもしれないけど
『それぐらい待っててやるから。うち寄れよ、聡子』
「しょうがないな。ちゃんと待っててよ。それと、立夏さんが持って帰れるようにタッパー詰めの準備と、舞花も食べれるようにしておいてね。あと泊まるから!」
『はいはい。それも準備しておいてやるから・・・あ』
「どうしたの?」
ふと、彼の声が止まる
何かあったのか気になって声をかけると、少しだけ嬉しそうな声が電話越しから漏れた
『聡子、会場の方に今行けるか?』
「うん。行けるけど・・・」
これから駆け抜ける舞台の近くには、特設舞台が設置されている
そこで、MCがコースの紹介や解説を行っているらしい
「やはり、山吹さんを超える方はなかなか出てきませんね」
「番組開始時期から司会をやらせていただいているのですが、彼、常人を超えた動きをしていたのでかなり印象に残っています。純粋に脚力が凄まじかったと言うか」
「今夜は出ますかね。番組初期に築かれた山吹尊さんの大会レコードを破る存在が!」
「まさか第三回から一度も塗り替えられていない記録になるとは当時に我々も思っていませんでしたよ」
「まあ、その塗り替えた記録も山吹さん自身で作り上げたものですからね。そろそろこのレコードにも、誰かの名前を刻むことができたらなんて考えちゃいますよ」
山吹尊さん、たしか・・・夏彦の父親の名前
まさかこんなところで名前を聞くことになるなんて思っていなかった
それに、第一回・・・九十年代に行われた第一回サスケットにも参加して、大会レコードを刻んでいた人だったなんて
世間は、狭いな
「夏彦」
『ん?』
「知らなかったよ。夏彦のお父さん、出てたんだね」
『俺も今驚いているところだよ・・・しかも打ち破られてない大会レコードの保持者だったなんて・・・こういう番組全然見ないから初めて知ったや』
「ねえ、夏彦。僕がその大会レコードのどれかを超えられたら、ご褒美頂戴?」
『ご褒美?まあ、俺にできることならいいけど、できるのか?』
「やってやるよ。だからちゃんと見ててね。僕のかっこいいところ!」
一方的にそういった後、僕は会場に入る
もう緊張なんてしている場合じゃない
ご褒美がもらえるチャンスなんてそうそうないんだから
自分の出番はもうすぐ
スタッフさんに呼ばれて、何度か息を整える
欲で動くだめな子なんて思われたかな
それぐらいでいい。欲にまみれた動きをするのも悪くない
命令されて動くより、遥かに可愛らしいし、自分があるのだから
その後、僕は山吹尊が保持していた第一回目のレコードを破った
最初の最初のレコードだけど、破ったのには変わりない
約束通り僕は夏彦からご褒美という名のお出かけ権を貰って、彼と出かけることになるのだが・・・それは、もう少ししてからのお話になる