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イデアの義解  作者: 鴻江駿河
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第4話「釣れないねえ」

 二〇〇八年五月九日、午前七時半。赤間 祥(あかま しょう)は起床した。六畳一間の1K賃貸は、彼の職業にはあまり似つかわしくないオンボロさだった。布団から起き上がった祥は、頭をかきむしりながらキッチンに向かう。寝ぼけ眼でふらふらと鍋に火をかけ、冷凍ご飯を温める。


「ふぁ~あ」


 器に味噌汁を注ぎながらあくびを一発。ボサボサの黒髪に清潔感などない。築六十年のボロアパートのキッチンは、小さなガスコンロを一つ置けばまな板すら置く場所がなくなる。ダイニングテーブルすらまな板に占拠される始末だ。朝食を食べる場所は自ずと限られ、今ではパソコンのデスクで食べている。


「なんでこんなひでぇ物件に住んでるんだろ」


 無精髭の生える顎をさすりながら祥は呟く。このアパートは壁が薄いが、幸いなことに隣に人は住んでいない。だが、もし住んでいたらご近所トラブルが絶えないことだろう。


「はいいただきます」


 よれよれのTシャツを着た彼は、パッと見はまるで無職だ。パチンコ屋に居ても、競馬場で泣き崩れていても似合いそうだ。落ちぶれインディーズバンドのベーシストにも見える。

 朝食を食べ終わった彼は、特に着替えるでもなく携帯電話や財布など貴重品の類を小さめのショルダーバッグに入れ、十一年前のDAT式ポータブルオーディオプレーヤーとイヤホンを持って部屋を出る。ニッケル水素蓄電池を二本挿入し、ズボンのポケットに入れる。タンッタンッと軽快に鋼鉄の階段を降りると、掃除をしている六十過ぎの女性と出会う。


「いってきまーす」


 祥はその隣を軽々と通り過ぎる。


「気をつけてねー」


 女性が後ろから声をかけた。通路の途中に立て掛けてある自転車にまたがると、祥は爽快に立ちこぎしながら初台駅へと向かう。渋谷の閑静な朝の住宅街を抜け、今までの風景には合わない新国立劇場の前を通り過ぎる。低いながらも煌びやかな雰囲気のある新国立劇場の背景には春空に生える東京オペラシティタワーが聳え立っている。

 そこを過ぎればすぐが初台駅である。いかにも無職っぽい見た目をした祥は通勤者をかき分け、定期を使って改札を抜ける。京王新線に乗って、管弦調の曲を聞きながら市ヶ谷駅まで行く。市ヶ谷といえば、昨年庁から省へと格上げされた防衛省の市ヶ谷地区や、警視庁第五機動隊がいることで有名だ。彼はここで一旦降りたが、別にそのどちらかに勤務しているわけではない。ただの乗り換えだ。有楽町線に乗り換え、目的の駅へと向かう。

 常に地下しか見えない、暗い朝のメトロはひどく混雑していた。祥は両手を上げながら電車に揺られること、五分。桜田門駅で降車する。皇居や警視庁、国会議事堂などを近くに持つ、まさに国の中枢に最も近い駅である。今度は乗り換えではなく、正真正銘ここの駅に用事があるのだ。四番出口から外に出ると、そこにそびえ立つのは東京の治安の中枢、警視庁本部庁舎である。


「ふぅ」


 同じ出口から出てくるのはスーツ姿の立派な大人たちだが、祥はよれたTシャツにズボン、薄汚れた白のスニーカーにショルダーバッグという残念ないで立ちである。逆にものすごい目立っている。

 祥は正面玄関から堂々と警視庁に入る。警備の警察官に会釈をしながら通り過ぎる。入ってしばらくのところに立っている警察官が、祥を呼び止める。祥は驚きつつイヤホンを外した。


「落とし物センターは向こうですよ。行方不明者センターでしたらあちらです」


 祥は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに表情を崩すとズボンのポケットから何かを取り出した。それを見た警察官は居住まいを正すと、


「これは失礼をいたしました」


 と言った。


「なぁに、気にしないさ。二日に一回は呼び止められてる」


 寛容に言うと、祥は飄々(ひょうひょう)と立ち去る。大半の人が利用しようとするエレベーターを通り過ぎ、階段を登っていく。果たしてどれだけ登ったか、祥は扉を開けてその階へと入った。扉を一つ開けて中に入る。


「おはようござまーす」


 そのオフィスには人が五人しかいなかった。机は三十人分程度あるにもかかわらず、だ。


「おはよう」


 その五人からそれほど大きくない声で返事がある。その五人もスーツ姿で、祥はここでも目立っていた。祥はほとんどだれもいないことを全く気にせず、自分のデスクへと向かう。周囲の人が殺気立った雰囲気を醸し出しているのに、祥はかなり明るい。ここまで浮いた人間が職場に居たら仕事がしづらそうだ。


「うぃーす」


 祥に遅れること五分、今度はスーツを着た男が入ってきた。結構体が大きく、強そうな印象を受ける。全員がボソボソと答える。彼は祥と同じように、殆ど帰ってきていない挨拶を特に気にすることなく、祥の斜め後ろのデスクに腰を下ろす。


「おい、祥」


「んー? どうした権十郎(ごんじゅうろう)


 その彼、兜坂 権十郎とさかごんじゅうろうが今朝の新聞を祥に見せる。


「お前新聞読んだか?」


「節約中だ」


 祥は暗に読んでいないと伝える。


「そうか、これ見てくれ」


 権十郎は社会面にデカデカと載せられた記事を指差す。


「またどっかのアイドルの枕営業でもバレたのか」


 と冗談を言いながら祥はその記事を斜め読みする。


「ふんふん、吐血の症状を伴う体調不良が全国で一万人と」


「お前知ってたか?」


「テレビならここに来て二年目に食費の足しにしたよ」


「そいつぁ残念。じゃ、今知ったわけだ」


「その通り」


 祥は概要をつかんでから本文をじっくりと読む。権十郎は次から次へと新聞を取り出す。


「お前いくつ新聞取ってんだ?」


「これはそこのコンビニで買ったやつだ。取り扱ってないやつは頑張って探したぞ」


「お疲れさん」


 祥はその全てに目を通す。冷静に報道している新聞もあれば、有る事無い事書いて賑やかしている新聞もある。


「まあ、紙面を賑わすには面白い話題だわな」


 祥は言う。二日前の超新星爆発といい、新年度始まったばかりだというのにずいぶんと楽しい出来事が重なる。


「で、これがどうしたんだよ」


「どうもしねえよ。面白そうだったから共有しただけ」


 祥は呆れた表情をする。


「はあ? お前その程度で俺の時間取るなよ」


「別にいいだろ、面白い情報共有するくらい。それに、お前妹二人いただろ。両方とも大丈夫なのか?」


「あー……」


 祥は、それぞれ別の場所に住んでいる二人の妹のことを考える。


「大丈夫だろ、あいつらのことだし。体調不良になるようなヤワな妹じゃないよ」


「これがシスコンというやつか」


「絶大な信頼を寄せているだけだぞ」


 そう言うと、祥は立ち上がる。


「じゃ、ちょっくら仕事行ってくるわ」


「ういー頑張れよ」


 祥はそれに手を上げて応え、相変わらずだらしない格好のままオフィスをあとにした。扉のところにある札には、こう書かれている。


 公安総務課。








▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽








  昼を過ぎた頃、祥は一人公園でコンビニ弁当を食べていた。そこへ、スーツを着た権十郎がやってくる。公安の中ではそうは見えなかったが、外に出て見るとまるでヤクザだ。


「で、どうだった」


「どうだったとは?」


 急に訊いてきた権十郎に祥は真顔で驚く。


「妹二人は大丈夫なのかって」


「上の妹とは連絡がついた。吐血してたらしい」


「おめでとう、清掃業者でも呼んでやれ」


「もう自分で片付けたんだと」


「そりゃすごいや」


 権十郎も同じようにコンビニ弁当を広げる。


「下の妹の方は連絡がつかん。学校に携帯持っていけないからな」


「俺が調べた限りじゃ血の繋がりの影響は殆ど見当たらないらしい。完全ランダムらしい」


「ほえー」


 祥は割り箸を割り、レンチンしたばかりでまだ温かい白飯をつまむ。あまりこの話題に興味はなさそうだ。


「だから、心配する必要は殆どないぞ。安心したか」


「したね」


「お前、いつまでその貧乏生活を続ける気なんだ? ここに入ってから今年で四年目。十ヶ月の警察学校での生活を主席で卒業し、鳴り物入りでやってきた人間のする生活じゃねえぞ」


「全くだよ」


 祥はそれに同意する。


「俺はいつまで六畳プラスキッチンで風呂なし和式トイレの悲惨な生活を続けなきゃいけないんだ?」


「殉職でもすりゃ階級も給料も上がっていい部屋に住めるz……。え、風呂なし?」


「ないぞ、安アパートにも必ず風呂をつけるようにすべしって法律はないからな。基本的人権に含めてくれりゃいいのに」


 権十郎は箸を落とす。なんとか膝でキャッチしたが、衝撃のあまり固まっていた。


「……確かに、俺はお前からくっそ狭い部屋に住んでるって話は聞いてたよ。でも風呂なしは流石にねえだろ、どうしてんだ」


「近所に銭湯があるとこを選んだぞ。歩いて行って、ゆっくり温まって、フルーツ牛乳買って飲みながら買えるんだ。今の時期はそんな寒いわけじゃないし暑いわけでもないから最高だぞ」


「うーん違うな、そういうとこじゃない。お前公安が風呂なし和式トイレの安物件に住んでるなんてホシでも一般人でもどっちでも良いがバレてみろ、メンツが百トンプレス機波にぶっ潰されちまう」


 権十郎は必死に祥に言い聞かせるが、二十三歳の男は言うことを聞かない。


「俺に被害はない」


「ほざけ」


 権十郎は吐き捨てる。


「お前今号給いくつだ?」


「昨年手柄があったから昇給して十八だ。級は二級だな」


「となると、月給は二十四万くらいか? 手取りは二十万程度だろ。一人暮らしだから食費はそんなにかかんないし、電気代も大してかからんだろ」


「ああ」


 祥は聞き流している。最低限の情報だけピックアップして返答している。


「家賃倍くらいのやつ借りてもいいんじゃないか? 確か渋谷の地味なところに住んでるだろ」


「そうだぞ」


「俺が借りてる部屋は家賃が六万くらいで風呂トイレ一緒だけどちゃんと浴槽付きだぞ。五・五畳とキッチンだ」


「大家に恩がある」


「なんの恩があるんだよ」


 権十郎の言葉を無視して食べ続けている祥。


「それに、家賃倍でそれなら一生銭湯通ってたほうがマシだ」


「ケチくせえ」


 権十郎が悪態を吐くも、祥は気にしない様子で空になったプラスチックの容器を持って立ち上がる。


「俺には節約しなきゃいけない理由がある」


「うわあすげえ、かっこいい風だけどケチくさい」


「好きに言ってろ」


 祥は別れ際にそう言うと、ゴミ箱に弁当の容器と割り箸を捨てた。取り残された権十郎は、見た目のヤクザ感から誰も近くに寄ってこなかった。


「釣れないねえ」


 権十郎は今日も燦然と輝く二つの太陽を見上げて言った。

 さて日は沈んだ夜過ぎ、杉並区の桜上水駅近くにあるラーメン屋で、この店特有のかなりこってりした健康に悪いとんこつラーメン大盛りをすすった祥はポケットから携帯を取り出す。アドレス帳から目的の人物を探し出し、電話を掛ける。相手はワンコールで出た。


「やっほー」


 相手は明るい声で挨拶をする。


(みそぎ)か」


 祥は人名としては珍しい名前である、下の妹の名前を読んだ。


「元気か?」


「元気だよー」


 そう答える彼女は、現在中学一年生。茅ヶ崎市にある、祥たち兄妹の祖父母の家に住んでいる。御年七十を超える祖父母は携帯など新しいものにはかなり疎いので、禊の携帯代は祥が支払っている。小学四年生になった時点で携帯を与えられていた禊にとって、それはなくてはならないものだった。


「そうか、何事もなくてよかった」


「何事かあったの?」


「もちろん、ないのにこんな連絡はしない」


 こんな事を言っている祥だが、その実、週五で禊や祀と電話で話をしている。もちろん何事もない。連絡したくてしているのだ。公安なんて物騒な仕事をしているのに実は家族思いだなんてギャップ萌えもいいとこである。


「どうだ、楽器の調子は」


「抜群だよ、(あに)の融資で買った防音材で誰にも迷惑かけ図に深夜二時にバグパイプ鳴らせる」


 なんとなく、祥が金欠気味である理由がわかった気がする。妹二人と祖父母に対する金銭支援で自分にかけるカネがないのだろう。


「あんまり他人の迷惑になるようなことはするなよ」


「大丈夫大丈夫。壁一面に遮音材と防音材貼って、床に防音マット敷いて、窓に防音カーテンつけたから。ド深夜に歩き回って騒音測定もしたよ」


 祥は呆れたような表情をする。


「何だそのこだわり」


「赤間家の人間だからね~」


 禊は電話越しにも分かるほどの笑顔で言い放つ。赤間家の兄妹三人は、両親から受け継いだ個性がある。何かに対する異常なまでのこだわりや、音楽方面への熱心さ、そして黒髪と赤眼。これがあってこその赤間兄妹である。なお、禊の専門分野は管弦楽器で、一通り独学で演奏できるようになった。


「まあいいや。学校は楽しいか?」


「もう五十回くらい聞かれた気がするけど楽しいよ」


「そうか、よかった」


 そのあとしばらく他愛もない会話をした二人は、さよならを言って電話を切る。夜七時過ぎの駅前は、この時期のこの時間帯にしてはかなり明るかった。

 夜空には、未だ世間を賑わしてやまない超新星が、満月よりも明るく煌々と輝っていた。

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