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イデアの義解  作者: 鴻江駿河
3/6

第3話「お大事に」

「─────ッ!」


 祀は跳ねるように起き上がる。今まさに、春眠をぶち破るほどの悪寒が背筋を走っていった。何かとんでもなく恐ろしいものを見た後のように、冷や汗が止まらない。頭がふらふらする。春先だし熱でも出しただろうか、あるいはナウなヤングにバカウケな五月病とか。足元がはっきりしない。視界がブレる。呼吸が荒い。なんとか立ち上がった祀は壁伝いに襖を開け、六畳間に向かう。携帯をそこに置いているので、学校に連絡するにはこの状態で歩くしかない。だが、祀の体力は異常なほど消耗していた。六畳間に入る襖に手をかけたときには、歩く気力すら失われていた。

 なんとか力を入れて襖を開けようとした時だった。何かが猛烈な勢いで食道を逆流してきた。もし風邪のたぐいなら吐いてもおかしくない。祀は慌てて口に手を持っていった。


「グェヴォ」


 祀は吐く。指の隙間から溢れた吐瀉物がこぼれて床に落ちる。一瞬身体が楽になったので、急いでシンクへ向かう。手を洗おうとした時、その手についているのが吐瀉物ではないことに気がついた。


「──────────ッ!」


 祀は慌てて吐いた場所を振り返った。そこには、なかなか日常生活で見ない量の血液が、雨上がりの駐車場みたいに溜まっていた。ふと自分の手を見ると、血が滴っている。甚平(じんべい)も真っ赤に染まっていた。


「……どーすんのこれ」


 その衝撃的な光景を前にしても、祀の反応はその一言だけだった。







▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽







 まあ、反応が鈍いというか、熱から判断力が低下していたというべきかもしれない。少なくとも、制服に血がつかなかっただけマシだと言えそうだ。血で汚れた甚平はすぐに脱いで脱衣所で洗った。ある程度は落ちたものの、完全には落ちなかった。表が一部黒く染まってしまったが、まあ問題なさそうだと鼻を近づけたら血の匂いがだいぶきつかった。脱衣所からリビングに戻ると、ムワッと強烈な鉄の香りがした。


「えー」


 祀はその血溜まりをどうしようかと考える。祀は、使うお金を極限まで削減するため新聞は取っていない。タオルの枚数もそれほど多くないから、それで拭き取ることもできない。一旦甚平を干そうと思い、フラフラとした足取りで六畳間からベランダに出る。時刻は六時半、いつもなら朝食も食べ終わる頃合だが、今日の祀にそんな暇はない。ボーっとしたまま干そうとして、バランスを崩す。


「あー、ダメだ」


 祀は必死に柵を掴んで立ち上がる。今の祀にとって真っ直ぐ立つのは意外と難しいことだった。柵を支えにしながら、甚平をハンガーにかけて物干し竿に吊るすことに成功した。


「よし……ふぅ」


 吐いた直後は少し楽になったが、今はまた気分が悪くなっている。正直なところ、胃液と昨日の晩御飯を吐く程度ならまだ問題にならない。だが、これが胃液ではなく血だとだいぶ気分が重くなる。


「何パーセントくらい吐いたんだろ」


 人間は体内の血液を二十パーセント失えば出血性ショック、三十パーセントを失えば生命に危機がコンニチワするわけだが、一般的な人間は失った血液量を体感するすべを学んでいない。それは祀とて同様である。今ダイニングに広がっている血液が一体何デシリットルで、その量によって自身の体にどんな影響が出るのか、何も知らないのである。

 ともかく、この血をなんとかしないといけない。甚平を脱いで現状全裸の祀は適当なズボンとシャツを着て、血を掃除するものを求めて一旦外に出た。


「おお」


 外に出た瞬間、外に居た男性と目が合った。


「どうも店長……」


 祀はその男のことを店長と呼んだ。どうやら、バイト先の店長のようだ。同じとこに住んでたのか。


「今日シフト入ってますけどバイト行けそうにありません。休みます」


「お、そうか。体調不良か? 」


「あーはい」


「じゃあ休め。変にこじらせても大変だからな」


 祀は、店長が手に新聞の束を持っていることに気がつく。これ幸い、と思って声をかけた。


「その新聞、捨てるんですか?」


「ん? ああ、捨てるよ。今日燃えるゴミの日でしょ」


「あー……」


 完全に忘れていた、というか血を吐いた勢いでその情報を脳内から吐き出していたらしい。しかし、これは祀にとって幸いなことであった。新聞であれば血液くらい余裕で吸ってくれるだろう。なにしろ、雨が降って靴が濡れたときに中に突っ込んで放置し、寝て起きれば靴が乾いているほどの吸水力なのだから。


「その新聞、もらっていいですか?」


「え? これゴミだよ」


 店長は驚いていた。そりゃそうだろう、ゴミの日にちょうど出そうとしていた新聞の束を欲しがる変人はなかなか居ない。


「うち、新聞契約してないので……。靴濡れたときとかに」


「あー!」


 店長は合点が行ったような表情をする。祀はかなりいい言い訳を思いついたと内心ガッツポーズをしていた。


「それならいいよ、あげる」


「ああ、ありがとうございます」


 店長は祀に新聞の束を手渡した。合計二ヶ月分の新聞がぎっちりと縛られている二束の新聞を両手に持った祀はなんとか笑顔を浮かべようとするが、吐血して三十分ちょっとしか経っていない身としては無理があった。その無理は店長にもしかと届いたようだ。


「しっかりと休みなさい、シフトはなんとかしておくから」


「わかりました」


「あとで色々扉にかけとくね」


「ありがとうございます」


 店長は階段を降りてコンビニへと向かおうとしたが、途中で立ち止まって祀の方を振り返った。


「もし吐いたりしたら連絡してね、なんとかするよ。僕大家だから」


「あ」


 へへ、と引きつった笑顔を浮かべ、祀は部屋の中に戻る。扉を閉めるやいなや倒れ込んだ。気分的にも体力的にも、あまり長い時間立って話すことが出来ない状態だったのに無理して店長と会話したため、かなり疲労が溜まったのだ。祀はなんとか立ち上がろうという努力をしながら足を引きずりつつ、キッチンばさみを取りに行く。よりによって普通のハサミを六畳間においてきてしまったので、今の状態では取りに行くことなど叶わない。キッチンばさみでビニル紐を切、新聞を一日分取り出す。それを雑に展開すると、まだ床に溜まっている血のところに向かって投げつけた。


「……よし」


 祀はシンクを支えに立ち上がる。新聞を何枚も血溜まりに投げつけ、処理をしようと試みる。キッチンにはかなりきつい鉄の匂いが充満してきていた。まかり間違って他の住人が顔を出そうものなら殺人現場と勘違いされそうだ。キッチンに吊るしてあったゴム手袋を装着して、ゴミ袋を持って血の滲みた新聞を回収する。体のバランスを崩しそうになりながら、集めて袋に詰めていく。下の層の新聞は完全に真っ赤になっていて、持ち上げると血がポタポタと垂れてきた。『可能なら家で見たくない光景ランキング』ナンバーワンを飾ることだろう。


「よし」


 とりあえず全部回収した。使ったゴミ袋は市の一番でかい家庭用ゴミ袋、四十五リットルだったわけだが無事に満杯になってしまった。少しでも圧縮しようとビニールの上から足で踏んだところじわっと血が滲んでかなり嫌だったのでやめた。


「どうしよ」


 血はまだまだ残っている。これは長期戦になりそうだ。実際、半月分くらいの新聞を使って飛び散った分も含めて拭き取り、とりあえず液体は消え去った。床に滲みた分はどうしようもないので、後でどうにかする方法を考える。祀は無事血を除去することに成功したわけだが、一方で手持ちの四十五リットルゴミ袋をすべて使い果たしてしまった。血で濡れたこのゴム手袋ももう使えない。そして、祀は考えた。


「このゴミ袋どうしよう……」


 血に濡れた新聞紙と、そこに溜まっている血液がかなりの禍々しさを発していて猟奇殺人の現場のような雰囲気を醸し出しているゴミ袋の処理に祀は困っていた。このままゴミに出せば制服さんのおせっかいになることは間違いない。多分特待生を解除されるだろう。


「まあいいや」


 このとき、祀の思考力は全身のだるさ等々の症状によって極限まで低下していた。それをどことなく認知していた祀の脳がストップサインを出したため、これの処理は後で考えることにした。もともと血溜まりがあったところをまたいで六畳間へと向かい、机の上の充電器に刺さっている携帯を取り上げる。


「学校の番号……学校の……」


 祀はアドレス帳を開いて目的の番号を探し出す。といっても、記録されているのは中学校時代の同級生数名や家族親戚、高校の数名の人間くらいで、すぐに見つかるものと思われた。


「どれだっけ」


 祀は、名前を設定していなかった。思索を巡らせてどれなのか当てようとしたが、結局ノートパソコンを開いて公式サイトに飛ぶハメになった。そこに記載された番号に電話をかけると、すぐにつながった。


「はい浜松月宮高等学校学生課です」


 落ち着いた女性の声が聞こえた。


「ああどうも、一年A組の赤間 祀(あかま まつり)です。体調不良で……うわっ、やすみます」


 立ったまま話していた祀だが、無事膝から崩れ落ちるように倒れかけた。なんとか机をつかんで無事だったが、慌てて「休みます」が早口になってしまった。伝わったかどうか心配したが無事伝わったようで、


「わかりました。お大事になさってください」


 という答えが帰ってきた。


「はいどうも」


 祀は雑に答えて電話を切った。


「お大事にして治るならいいけどな」


 吐き捨てるように祀は言った。祀は携帯をポケットに仕舞うと、部屋の片隅に放置されている空っぽのゴミ箱を持って寝室へと戻った。ゴミ箱は万が一また吐くようなことがあればその時のため、携帯は誰かが連絡してきたときのためである。吐血なんて一日一回もすればもう十分だが、お気持ちだけでなんとかならないのが現実というものである。

 さて、いざ横になった祀。三十分程度目を閉じてじっとしていたが、ふと目を開いた。


(あれ……。暇だな)


 祀は思い切り時間を持て余している。体調が悪い時はしっかりと眠るのが最適解なのだが、これまで大して体調を崩したことのない祀にとって今回のこれは未経験の出来事なのだ。それ故、本来横になっているべき長い時間をどう使えばいいのかイマイチ理解できていなかった。そう、暇なのである。


「なにやろう」


 祀の体は勝手に立ち上がると、六畳間の方へと向かった。ほぼ無意識と言える行動だった。小学生から五年間作曲をし続けた少女の頭には、こんなときでも音楽のことしかなかった。朦朧とした意識の中収納からデジタルシンセサイザーを取り出し、慣れた手付きでパソコンに接続する。DAWで新規のプロジェクトを立ち上げ、録音を始める。この少女、ヘッドフォンもせずに鍵盤を叩き始めたが大丈夫だろうか。それではどんな音が出ているのか一切わからないと思うのだが……。

 まあ、彼女はかなり好き勝手に音楽を作り始めてしまった。その体調で曲作って果たしてまともなものが出来上がるのだろうか。シンセサイザーに関しては一切詳しくないので、彼女がボタンやらつまみやらバーやらをいじっていても何が起きているのかさっぱりわからない。祀はなんの迷いもなく打ち込んでいく。彼女の耳には何が聞こえているのだろうか。


 さて、数時間が経過して昼前になった。彼女は未だに真顔で打ち込み続けていた。現時点で、トラック数は二十を越えている上に四十五分近くもある超長曲になっていた。ヴィヴァルディの『四季』を春夏秋冬全部やったのよりも長い曲である。ドラムトラックだけで十個ある。ヴォコーダートラックやらなんやら、かなりごちゃごちゃとした曲に見える。聴かずに作曲している作曲者ですら、どんな曲かさっぱりわからない。完全に勘で作曲していた。


「おーい」


 玄関の方から声が聞こえた。店長兼大家が、ポスト越しに声をかけていた。祀は作曲モードから一気に戻される。


「ドアノブに食料とかかけとくからな、食べろよ」


「あーはい、ありがとうございます」


 祀は出せる限りの大きな声でそう応えた。実際には小さい声だったが、とりあえず店長には聞こえたらしく、


「お大事にな」


 とだけ返して去っていった。祀はのそっと立ち上がり、玄関へと向かう。開けて反対側を覗けばドアノブにパンパンのビニール袋がかかっている。中を覗けばスポーツドリンクや薬類、食料が入っていた。ありがたく頂戴しつつ、祀は昼食の準備を始める。基本的に体調が悪い時の食事といえばお粥がセオリーだが、祀はお粥が大嫌いである。あんなぐちゃぐちゃに半分液体化した米を食うなど人の為す技ではない、とか言ってる。というか、純粋にお粥を食べると祀は吐くのだ。

 祀は鍋の中に水を注ぐ。それをコンロに置くと冷蔵庫から白菜・もやし・人参等々野菜を取り出し、鍋に火をかけながら具材を刻んでいく。鍋の煮立つ音とまな板と包丁の鳴るコンコンという音だけが聞こえる。さて、彼女が作っているのはうどんである。彼女はお粥が嫌いすぎて体調不良のときに食べるものといえばこれしか知らない。

 祀は鍋の中に目分量でめんつゆを注ぎ、切った野菜を入れる。冷凍庫から冷凍うどんを取り出して解凍もせずに鍋にぶち込む。これで完成、十分以内に作る体調不良のときのためのそこそこ食べやすいうどん。入れる野菜は正直味がバッティングしなくて食えれば何でも問題ない。


「いただきます」


 祀はそれを台所で立ったまま食べる。この体調で机出したりなど、ちゃんとした食事をとる準備をするのは億劫だ。じゃあなぜ自炊するのは面倒じゃないのかと訊かれれば、それは自炊したいからだろう。今や、自炊は祀にとって趣味みたいになっている。音楽と違って全然こだわらないけど。

 ずるずると音を立ててうどんを啜る。冷凍うどんと言えどそこはうどん、喉越しはいいものだった。この食べやすさから選んでいるのだが、あまり理解を得られたことはない。温かいうどんは朝からの頭痛と疲労で満ちた体によくしみた。


「おいしかった」


 祀は食べ終えて食器を洗うと、またすぐに作曲に戻っていく。最終的に、その曲は百二十トラック四十五分の長曲となった。なお、祀は一切聴いていない。

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