第1話「いってきます」
「君は、目に見えるものすべてが真実だと思うかい?」
少女は問いかける。
「そうじゃないのか?」
少年はそう答える。
「じゃあ、これは何?」
少女は机の上に置かれているぶ厚めの本を持ち上げ、少年に見せる。
「それは……本だろ。N13のEのゼロから一〇〇に正規化したうちの一つだ」
「その通り、これは本だ」
少女は本を置く。机の上には本が数冊、それとオイルランプが設置されている。この部屋の証明はその一つだけ、机の周り以外は真っ暗で何も見えない。
「だが、君はこれが“本”だという認識があるからこそ、本だと言えるのだろう?」
「はぁ」
少年は少女が言っていることがよくわからず、口をぽかんと開ける。
「もし、本という存在を認識していない人間がこれを見たら何だと思う?」
少年はしばし考えてから答える。
「……虚無」
「その通り、それがなにか認識できない」
少女は本を机に置く。
「私達が見ているものは、殆どの場合認識の範疇にすぎない。自分が知らないものは、それが何であるか理解できない」
少年は黙っている。
「つまり、目に映るモノは元々なんでもなく、人間の認知という強固な同調圧力のもとに“それである”という認識を得ることで何かになるんじゃないだろうか」
「そんなバカな、と言いたい」
「好きに言えばいいさ」
少年の反論らしきものを少女は受け流した。
「もし」
少女は少年の瞳をじっと見る。
「その認知を、認識を曲げれたら、“それ”は自在に姿を変えるかもしれないね」
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ピピピピピピピピピ──────
春眠暁を覚えず、というのは有名な漢文の一節だが、残念なことに東の窓から容赦なく朝日が叩き込まれるこの部屋では全く意味をなさない言葉だった。淡いオレンジの陽光は白い壁に反射して無駄に増幅され、ベッドで眠る少女の眼球を直撃していた。
「……んぁ」
少女が握りしめた左手で、ナイトテーブルの上に置かれたデジタル電波目覚まし時計の上部を叩いた。途端に電子音が消える。少女はそのまま目覚まし時計をつかみ、布団の中に引きずり込む。布団の中で寝ぼけ眼のままバックライトをつけた目覚まし時計の時刻を読み取る。午前五時五十分。高校生が起きるにしてはずいぶんと早い時間だ。
少女は構わず起き上がる。まだ肌寒い春先にも関わらず、少女は黒の甚平を着て眠っていたようだ。薄い毛布を払いのけ、腹筋を使って起き上がる。寝室はあまり広くなく、三帖しかない。横幅一帖、縦幅一・五帖の中にベッドとナイトテーブルが置かれており、かなり狭い。元々ウォークインクローゼットとして設計されたと思ったほうがまだ納得のいく広さだ。というか確実にそうだろう。彼女がここを寝室として利用しているだけのことだ。
少女は窓の外には一瞥もくれず、ふすまを開ける。開けた先はキッチンだ。家族で住むには少々手狭な気がするキッチンだ。一人暮らしの大学生が住む家賃四~五万円のアパートについているような小さいI字型のキッチンに、それほど大きくないツードア冷蔵庫。ほとんど食器が入っていない食器棚の陰には折り畳みの机がひっそりと置かれている。
少女は冷凍庫からラップに包まれた冷凍ご飯を取り出し、冷蔵庫の上に置かれた電子レンジに放り込む。
「あ」
少女は慌てて電子レンジの「止」ボタンを押し、冷凍ご飯を取り出す。隣の食器棚から茶碗を取り出して冷凍ご飯をそれに乗せ、再度レンチンする。使い古された電気ケトルでお湯を沸かす間、味噌汁を温めている間に冷蔵庫の塩鮭を一切れグリルに入れた。お湯が出来上がった頃合いにちょうどレンジも作業を終える。
レンジから茶碗を取り出し、ラップを解いて茶碗の中に解凍されたご飯を入れる。汁椀を取ってインスタントの味噌汁を一食分投入し、お湯を注ぐ。机と椅子を広げ、その上にご飯と味噌汁を置いたとき、ピーッと音がしてグリルが調理を終えたことを知らせる。少し持ち上げながら引いて開けると、サーモンピンクからオレンジ色っぽい色に変わった鮭が出てくる。脂の滴るそれを青い模様が付いた白の皿に盛りつける。これで朝食は完成らしい。止め忘れていたIHの火を止め、席に着く。
ずいぶんと寂しい朝食の席だった。折りたたみ式の小さな机の上にランチョンマットを置き、フローリングに直に座って食べる。白飯は一週間前に炊いて冷凍したもの、味噌汁もインスタント。食事に関して唯一贅沢と呼べそうなものが鮭しかない。だが、これが彼女の生活にとって最も適した朝食である。時間をできるだけ消費しない方法でもあるし、近所の激安スーパーで買っているために食費がかなり抑えられている。
「いただきます」
少女は無言で食べ進める。一週間も冷凍されていた白飯はお世辞にもうまいとはいえない。味噌汁はインスタントとは言え十分な味がある。味噌汁の方は、伊達に何年も時間のない朝の人間の味方をしてきただけのことはある、といった感じだった。鮭は言わずもがな、美味しい。少女は沈黙のまま箸を運び続ける。鮭のみをほぐすとそれを白飯に乗せて食べる。それをひとくち食べたら次は味噌汁。理想的といえば理想的な食べ方で朝食を黙々と食べ進める。朝のキッチンに箸と食器の音だけが響いた。
「ごちそうさまでした」
十分もせず少女は朝食を食べ終わる。食器を流しに持っていき、洗う。透明な泡が静かすぎるキッチンを漂う。洗剤で若干荒れかけた手にハンドクリームを塗る。あまり、高校生らしさを感じない朝だ。親の陰はどこにもない。
少女は三帖の寝殿に戻ると、壁にかけられた制服を下ろす。一般的なセーラー服だ。彼女があくまで女子高校生であることが感じられる。制服の胸の部分にA,Matsuriと刺繍がされている。赤間 祀はパジャマと化している甚平を脱ぎ、制服に着替える。制服の内側に入ったセミロングの髪を手で外に出す。特にゴムでまとめるようなこともせず、制服の隣にかかっているカバンを取る。時刻は午前七時を回る。
祀はキッチンに戻ったあと、右側にある襖を開けて隣の部屋に入った。その部屋は寝室として活用している部屋から直通ではいけないのでキッチンを経由しなければならない。部屋にはL字型の机が一台、さらに折りたたみの扉がついた収納が二つある。机と収納の間に片開きのガラス戸がついていて、そこからベランダに出られるようになっている。机の上にはモニターが二枚とラップトップが一台、机の下にデスクトップPCが一台置かれている。モニターの周囲には色々と機材が置かれている。祀はそちらにあまり注意を払わず、右手の収納を開ける。四枚折戸を開けた先には、少量の私服と教科書類が入った本棚が現れる。彼女はそこから今日必要な文の教科書とノートを取り、カバンに入れる。持つだけ持っているがろくに使っていない携帯をこっそり追加した裏ポケットに入れる。本来持ち込みは許可されていないが、ぱっと見修理痕にしか見えない裏ポケットに隠せばらくらく持ち込める。もっと楽な方法もあったが、祀は好奇心からこの方法を取った。
教科書をカバンに入れればそれで準備は完了、と思ったがそうでもないらしい。更に隣の収納も開ける。そこはまた違った雰囲気のある収納だった。上着ではなくギターが五本ほど下がっており、その下に鍵盤楽器が三つ並び、更にそのひとつ下の床にマルチエフェクターとギター・シンセサイザーが置かれている。その横の隙間に折りたたみのスタンドやケース、ケーブルなど小物の類とケースに包まれた小さめのエレキギターが一本置かれている。ずいぶんと音楽的だ。さっきの朝食と比べるとお金がかかっているようにみえる。
祀はソフトのギターケースを一つ取る。中に収まっている小型のエレキギターをちらっと確認し、すぐに仕舞う。床に直置きされている黄金色のマルチエフェクターもソフトケースに入れ、カバンの隣に置く。標準ジャックのヘッドフォンをカバンの中に入れる。これでようやく準備が整ったらしい。祀は立ち上がる。
ギターを背中に背負い、カバンとエフェクターは片手にまとめて持つ。キッチンへ向かう襖とは別の襖を開けて玄関へゆく。玄関ホールには家の中の様々な部屋へ向かう扉がある。玄関横のほとんど利用されない靴箱の上には写真立てが二つと位牌と線香立てが置かれている。蓮華が添えられた小さな仏壇には、笑顔の男女の写真が飾られている。まだ若い。祀は靴を履いて家の鍵を持つと、その二人に手を合わせた。
「いってきます」
祀は二人にそう語りかけ、家を出た。
階段を降り、歩いて南側の駐輪場へ向かう。ここから彼女が通う高校までは自転車でせいぜい五分程度でかなり近い。祀は黒いママチャリの前かごにカバンを入れ、リアキャリアにエフェクターを固定する。サイドスタンドを蹴り上げ、鍵を使って車輪のロックを解除する。駐輪場には後ろから突っ込んでいるので、その場で乗って漕ぎ出す。車の来ない隙を狙い、道を横断して反対車線の歩道へ行き着く。
まず向かう際は、彼女のバイト先でもある目と鼻の先のコンビニ。朝の出勤を急ぐ車が起こす風を浴びながら上り坂気味の道を走り、数十秒でコンビニにたどり着く。コンビニには今日のお昼ごはんを買いに来たサラリーマンや、朝食を買うトラックの運転手などで賑わっていた。祀は裏口から中に入った。
「おはようございます」
「おーう、おはよう」
暇そうな声で応じたのは五十半ばの店長である。丸メガネをかけた、若干白髪の目立つ、胸ポケットに家族写真を入れてそうなタイプの男だ。
「弁当もらっていきますね」
「はいよ~」
かなり軽い会話だった。祀は机の上に置かれていた賞味期限ギリギリの弁当を取ってカバンに入れる。
「今日ってシフト入ってたっけ」
「水曜日は定休日です」
「あー……」
店長は目をこすりながら思い出そうとするように天井を睨む。
「そういやそうだったな。ほんじゃま、明日からまた頼むわ」
「わかりました」
祀は言うだけ言うと、さっさと立ち去る。時刻は七時半を回る。此処から先の道は結構平坦だ。通学路の中で最もきついと言えるのは間違いなくアパートを出てからコンビニまでの上り坂だ。防災倉庫を通り過ぎると右に曲がるカーブに差し掛かる。しばらく道なりに走り、車のディーラーと学習塾がある交差点を右に曲がる。基本的に曲がる場所も少ないし方向も一定なので道のりを覚えるのに苦労はしない。
横断歩道を渡ったところにある東側の門から構内に入る。時間が早いこともあって、部活の朝練で来ている生徒を除けば人の姿は殆どない。駐輪場にもあまり自転車の姿はなかった。自転車から降りてスタンドも下ろし、前輪と後輪にロックを掛ける。玄関から階段を上がって教室にたどり着くまでに、人どころか猫一匹ともすれ違うことがなかった。そもそも、校内で猫とすれ違ったらちょっとした問題に発展しそうだ。祀は過去に一度授業中に犬が入ってくる事案に出会い、何度も鳥が突っ込んできた過去があるが、猫は見たことがなかった。
「え」
その過去は、たった今塗り替えられた。教卓の上に真顔で猫が鎮座しているのだ。しかも、三毛猫などのような一般的に想像されるような猫ではなく、ブリティッシュショートヘアである。
(……?なんで?)
祀は首を傾げた。一年生の教室は三階に位置している。ここまで上がってこようと思ったら階段を登る他に手段がないはずだ。そもそも、ブリティッシュショートヘアが野良猫になるという状況が、祀にはよくわからなかった。彼女の知識では、野良猫は黒猫か白猫か三毛猫と相場が決まっているのだ。そのため、ブリティッシュショートヘアはちょっとどころじゃない違和感のもとであった。
彼女は猫に近づく。猫は目をパチクリとさせ、さっと教卓を降りる。
「あっ」
祀は追いかけようとする。だが猫は逃げ足が速く、さっと階段を下って消えていった。教室は祀一人になる。
「はぁ……」
祀は一人ため息を付き、自分の机に向かう。彼女の机は一番右列の真ん中である。赤間という名字であるから、出席番号順に並べるとどうしても一番右列の前の席になってしまうのが祀の常であった。彼女は机の上にカバンを置くと、ギターとエフェクター、あとカバンの中にしまってあるヘッドフォンを持って何処かへと向かう。
てくてくと歩き、渡り廊下をわたり、空き教室の一つに入る。長いこと使われていない雰囲気が強い教室で、床には教壇の上にはホコリが積もっている。どうやらかつては存在したが現在は消えてしまった部活の部室だったようだが、その後活用方法が見つからないまま放置されていたらしい。その証拠のように、教室の扉の上に付けられたプレートは空だった。
祀は背負っているギターを下ろす。ケースを開けて中のギターを取り出した。メタリックな輝きを放つ銀色のボディが出てくる。軽量化のためかボディの左側全体と右上部の出っ張りが反対側まで空いており、格子状になっている。ソフトケースから取り出したマルチエフェクターに配線をしていく。コンセントから電源コードを生やし、ギターからシールドケーブルをINPUTに挿し、ヘッドフォンのプラグを直にPHONES端子に挿す。これで準備は整った。
祀はストラップをかける。開放弦を鳴らしてチューニングがイカれていないかを確認している。三弦のチューニングを調整し、レギュラーチューニングにする。ヘッドホンを付け、演奏の準備を整える。ナンバー・ペダルを足で押して、過去に作った音色を呼び出す。ワウペダルを足で踏み込み、エフェクターの音量を上げた。軽く指で音を鳴らし、目的の音が出ることを確認する。
祀は弦に指を添え、瞳を閉じて脳内に刻み込まれたTAB譜を呼び起こす。スカートのポケットに入れていたアルミのピックを右手に持ち、弦を弾く。
彼女は自分の世界へと沈み込んでいった。
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