その声が何かの始まり
「その声が何かの始まり」 更夜編
小百合と初めて顔を合わせた時、彼女は声を出せない状態だった。
抱えている病に大きいものはないが、その時それとは別に、心因性失声症を患っていた。
声を出すことは出来ないが、聞く分にも何ら問題ない、ストレスが原因とされる病だ。
その日も彼女は、目に映る限りは元気そうに振舞っていた。
「・・・小百合、もう日が暮れると寒いから、部屋に入った方がいいぞ。」
彼女は振り返って頷いて見せた。
縁側の障子を二人で両側から閉めたのち、小百合は思い出したように、棚から取り出したメモにさらさらと何かを書き、俺に手招きして見せた。
「ん・・・?誕生日?10月1日だ。」
俺が答えると、小百合は明らかに残念そうに表情が曇った。
その頃はもう12月に入っていた。
「誕生日がどうかしたのか?」
小百合はメモを走らせ「何で教えてくれなかったの」と、眉を寄せて見せてきた。
「何で・・・と言われても・・・聞かれなければ教えないだろう・・・。」
彼女はため息をついて、また一生懸命ペンを走らせる。
「プレゼントを考えてたの・・・?ふ・・・誕生日聞く前にか?何がいいって言われてもなぁ・・・。」
わくわくした目を向けられて、正直返答に困った。
「・・・ほしいものはないが、願うことなら、小百合に健康になってほしいな。」
俺の言葉に彼女は、少し思案して、小さく頷いて見せた。
小百合の診察はいつも、週に一度程度で、診察の後はそんな風に他愛ない雑談をしていた。
そして決まって俺が帰る頃、「今日もお疲れ様」などと一言書かれたメモと、菓子を俺のポケットに入れてくるのだった。
ある日、仕事を終えて屋敷に戻った際、たまたま小百合の部屋の近くを通ると、何やら怒鳴り声が聞こえてきたので、彼女の部屋へ向かった。
いつもの侍女たちがおろおろとしながら部屋を眺めており、俺の存在に気付くと、彼らは顔を青くして口頭礼をした。
部屋に入ると、そこでは、中年の男が小百合に怒鳴りつけていた。
今にも手を出さん勢いだったため、俺は男の肩を掴んだ。
「おい、やめろ。病人に向かってなんだ」
男は振り返ると、俺の存在を知っていたのか顔を強張らせて黙った。
小百合は俯いたまま体を震わせている。
ばつが悪そうにどもる男に、俺は鎌をかけることにした。
「小百合の父親か?ろくに見舞いに来ない奴が娘に怒鳴り散らしている様子を見るに、彼女の失声症の原因はあんただな。なんだ、自分が原因で病気を患っている娘が、跡継ぎとして使えないだの言い出す気か?」
そう言って睨みつけると、男はやっと口を開いた。
「この・・・ガキが・・・!当主だと思っていい気になりおって!」
その時震えていた小百合が咄嗟に顔を上げた。
狼狽えていた使用人達も動こうとしたので、俺は黙って手を挙げて制止した。
「誰に向かって口を利く、この無礼者が。今の言葉を謝罪しろとは言わん、代わりに当主の命をくれてやる、今後一切、島咲家の敷居を跨ぐことは許さん。」
男は口を開けたまま何やら言いたげだったが、俺が侍女たちに視線を送ると、そのまま外に連れていかれた。
男の存在が遠くに消えて行ったのを確認して、膝をつき小百合と視線を合わせた。
「肩書ってのは、こういう時に便利なもんだな・・・」
俺が苦笑すると、小百合は顔をゆがめて必死に声を絞り出そうとした。
声にならなくとも、それが謝罪の意だとわかった。
「大丈夫だ。詳しい事情も知らずに追い返してしまったが・・・自分を傷つけるだけの言葉に、耳を貸さなくていい。」
静かに小百合の肩に手を置くと、彼女はすがるように俺に抱き着いた。
胸の中に顔をうずめた彼女は、微かな声を形にしようとしていた。
そして顔を上げ、微笑んで言った。
「更夜・・・・。だい・・・すき。」
それが、初めて聞いた小百合の声だった。