前編
天上には、白い女神様が楽園にお住まいで。
その白い女神様は、白い色を1番愛しておられて、だから、女神様の庭園には純白の花のみが咲いているのだそうだ。
けれども時々、女神様は純白以外の花も見たくなって、そんな時は地上に白い花を落とすのだ。同時に、大事な花を守るために吐息で蝶をつくって。
そして、白い花は人間の女の子に宿り、蝶は人間の男の子に宿る。
二人は、成長して、出合い、運命の花を咲かせる。
純白の花は二人の恋によって色付く。
それが、花蝶の番。女神様の寵愛深い恋人たち。
子供でも知っている、おとぎ話。
なのにリリシアは、自分の運命の蝶である王太子アレックスから婚約破棄の宣言をうけていた。
「すまぬな、リリシア。私は、心から愛するマリーナをみつけたのだ」
言葉だけの謝罪。
アレックスの目は、リリシアを見下している。
場所は王宮の大広間。
春の大夜会のために、国中から有力貴族や重臣たち、華やかに装った夫人たちが集まっていた。玉座には国王陛下。その近くには父親である宰相の姿もあった。
驚愕のあまり誰も言葉を発しない。楽人たちも演奏を中断している。パーティーの最中であろうと、警戒した目で見張って等間隔に立つ近衛兵さえも、唖然としている。
聞き間違いか、と。
誰もが耳を疑った。
リリシアだけが運命をうけいれた。いや、とうに見限っていた。
「はい。婚約破棄を確かに承りました」
指の先まで美しいカーテシー。流れおちる銀の髪。リリシアの澄んだ翠の瞳の奥には、もはや揺るがない決意があった。
10年、婚約者だった。
だが、はじめて会った時から押しつけられた婚約者だと、アレックスはリリシアを嫌った。
周囲はいずれ成長すれば、アレックスの態度もかわるだろう、と楽観視していた。二人は花蝶の番だったから。
だがアレックスは信じなかった。リリシアには、花の印がなかったから。自分を懐柔するために周囲が嘘をついていると、ますます態度を硬化させた。
王子と、宰相を父親にもつ公爵家の娘である。明らかに政略結婚だ、と。
アレックスの冷たい視線。
リリシアの努力を嘲笑うかのように蔑ろにされる日々。
名前を呼ぶことさえも許されぬ10年に、リリシアがアレックスを諦めたのは、いつの頃だったか…。
だからリリシアの胸を深く切り刻み、散々に苦しめたアレックスがマリーナを愛した時は、うれしかった。
アレックスは誠実な質だ。
リリシアには嫌悪が先にたち、あきれるほどに冷たいが、リリシア以外には公明正大な態度で接し立派で聡明な王子だ。
だから、きっと。
きっと、
きっと、
リリシアを、王宮という豪華な檻から出してくれると思った。自分が愛するマリーナを婚約者にするためにーーリリシアに傷をつけるために。屈辱をあたえるために。
婚約破棄という形で。
リリシアは、くすりと笑った。
きっと、もうすぐ解放される。
きっと、陛下も父も封印をとく。
もはや、花蝶の番の運命をもどすには、それしか方法がないのだから。
「愚かなことを言うでない」
国王がアレックスをたしなめるが、アレックスはゆずらない。
金髪の美しい彫像のような王子は、ますます隣にいる可憐な容姿のマリーナの腰を引き寄せ、はなさない。
国王は、ため息をついた。
「封印を」
その声は懊悩に満ちてしゃがれていた。
「しかし、あれは左右一対となっているもの。封印を解除しますと、両手ともに!」
父親である宰相が抵抗するが国王の命令は絶対だ。ねばることもできなかった。
しぶしぶリリシアの前に立って、その両手をとった。長い呪文とともに、リリシアの体から何かが抜けていった。
同時にリリシアから甘く芳しい香りが、大広間に広がっていく。
それは、天上の香り。
まるで、慈雨のごとく芳香が体をつつみこむ。人々は至高の香りに感動のあまり愕然とした。
リリシアが、手のひらを上にして、まっすぐ前に腕をのばす。
手のひらの上には、白く輝く半透明な花の蕾があった。左右の手に一輪ずつ。
アレックスが右の蕾を凝視したまま、ゆっくり頭をふった。
「ありえない。花が、花が…」
だが、アレックスの胸にアザとなって眠っていた蝶は、すでに目覚めていた。運命の番である花のもとへアレックスからはなれて、ひらひらと飛び立つ。
リリシアの右手の蕾のもとへ。
蝶は蕾にキスをするように、まとわりつく。しかし蕾はかたく閉じたまま。
そこへ、別の蝶が。
国王が。父親が。王国貴族が危惧した通りに、左手の蕾に向かって一直線に飛んできた。
リリシアは双花持ちだったのだ。
左右どちらにも花があったために、封印された。王子の妃が双花では心配だ、と。
高く、高く、リリシアは左手を上げた。
左手の蕾に蝶がとまり、そして、ゆっくりと花びらが開いていく。
半透明の白い花びらは、淡い薄紅色をまとって、花ひらいていく。
悲鳴があがった。
「だめだ!咲かせるな!左手の花を咲かせるなっ!」
叫び声が破裂して、絶叫をあげたのは、誰かーー国王か、アレックスか。
だが、もう遅いのだ。
リリシアは、この瞬間を、ずっと待っていたのだから。