エピソード3 無愛想にもほどがある
モノレールの狭いボックス席に中国人「観光客」の男と対面に座る。男はサングラスのまま窓の外をじっと眺めている。組んだ足の上に組んだ手を置いているのだが、黒い皮のグローブをしている。ちょっと歩くと汗がにじむような陽気だ。地元中国ではまだ寒かったのだろうか。コートも黒、中に着ているスーツも黒で、白い開襟シャツの中には金色のネックレスチェーンが見えた。都心からバスツアーで行く観光地などで黒シャツ、黒いスラックス、金のネックレスなんておっさん観光客はよく見かけるが、そういうのともまた違う雰囲気がした。30代半ばといったところだろうか。相手は何もしゃべらない。日本のことでも聞いてくれたらいいのに。伊織は居心地の悪さに絶えきれず、とりあえず話かけてみることにした。
「お名前は何というのですか?」
伊織は目の前の男にややゆっくりめに話した。中国語を使わなくてもいいだろう、あなたのお名前は?くらいのフレーズは覚えているが、それ以外はすっかり忘れてしまった。
「名前など、どうでもいい」
きれいな日本語でとんでもない返事が返ってきた。この海外からのお客が日本語の意味が分かって返事をしているのか理解に苦しんだ。しかし、先ほどから口数は少ないものの、彼の使う日本語のイントネーションは完璧で、とても意味を間違えてしゃべっているとは思えなかった。伊織は言葉につまった。名前も教えてくれないなんて、一体何なんだよ。それにどう呼べばいいんだ。
「好きなように呼べばいい」
「・・・え?」
思ったことを見透かしたような返事に、伊織は口が半開きになった。しかし、ここで自分もへそを曲げて日本の印象を悪くしたくはない。そう考えてしまうところは伊織の人の好さだった。
「今日から観光のお手伝いをさせていただきます、宮野伊織です」
男は窓から目線を外して伊織を一瞥した。そのまま目線を外さずじっと見ている。この人はレスポンスが無い人なんだ、勤めていた広告代理店の新規開拓の営業のときにはこのくらいの仕打ちはよくあることだった。伊織はそう気分を切り替えて、たとえアルバイトでも自分の仕事は全うしようと決めた。
「俺は、広告代理店で、えっと、まあ広告の仕事を請け負う会社で営業マンをしていました。訳あって辞めることになったので、ちょうど今時間があって・・・プロの観光ガイドとかそういうんじゃないんです」
男は表情を変えずに伊織をじっと見つめている。
「実家、あ、えっと故郷は別のところなんです。東京には就職で上京して、8年は住んでいるんですが、実はそんなに詳しくなくて」
反応がない。やっぱりつらい。相手の反応がなさ過ぎて、伊織の声はだんだん小さくなっていく。
「未だに急いでると山手線を逆に乗っちゃう・・・」
何を言っているんだ。伊織ははたと気がつき、口ごもった。これから案内してもらう人間がそんな状態では相手が不安になりはしないか。バカ正直すぎるんだ、とよく元上司に言われた。多少の嘘は方便なんだよと。それでも、騙したり後から失望されるよりは良いとつい欠点を並べてしまう。今日の自分を見て、他の人間に変えてくれと言われてもその方がこの人にもいいかもしれない、と思い始めた。
「俺よりは詳しい」
伊織の沈黙を破って男が口を開いた。え、今フォローしてくれたのか。伊織は驚いてハッと顔を上げた。男は表情がない。愛想という概念がないのだろうか。しかし反応があったことに嬉しくなって、顔が紅潮しているのが自分でもわかった。
「どういうところに行きたいですか?」
ちゃんと話を聞いているなら、と伊織は質問してみた。
「都心を見学したい。できれば公共機関で、それから後は考える」
会話が成立した。伊織はそれだけでまた嬉しくなった。男はまだ窓の外を眺め始めた。しかし、行きたいところも考えていないなんて、観光を楽しみにしている雰囲気ではない。本当の用件は買い付けか何かだろうか。あれこれ考えているうちに、モノレールは終点の浜松町に着いた。
「ここからJRに乗り換えます。山手線といいます」
混雑する切符売り場で切符を購入するためにお金を投入しようとして、伊織は考えた。公共機関でいろいろ行きたいと思っているなら、交通ICカードを購入した方が便利だろう。Suicaを購入し、1万円分チャージした。経費はいくらかかっても良いと聞いているので何度もチャージせずに済むよう多めに入金した。男は少し離れたところに立ち、路線図をじっと見上げている。
「東京の路線図は複雑でしょう、俺はまだ慣れません」
男はそれに答えない。
「はい、これ交通系カードです。改札にタッチして使えます」
伊織はペンギンのイラストがついた緑のICカードを男に渡した。黒い手袋のまま男がICカードを受け取る。ペンギンのデザインをしばらく見つめて、コートの胸ポケットにICカードをしまった。そのまま前を歩き始めた伊織は気がつかなかったが、男の口元がほんの少しだけ緩んでいた。