エピソード15 眠れない夜
「う、うわ・・・！」
手にサバイバルナイフを持った男が伊織に突進してくる。獲物が叫ぶ声がした、それに反応したのだ。全く軌道の読めない動きでナイフを振り回しながら迫ってくる。伊織は恐怖で足が硬直して動けない。人間は本当の恐怖を感じたらこうも動けないのか。狂乱の男は背を向けて逃げたスーツの中年男にナイフを突き立てる。ナイフを引き抜くとアスファルトに赤い飛沫が飛び散った。周囲の悲鳴が絶叫に変わる。すぐ側にいた客引きの若い女に斬りかかり、腕の肉を裂いた。白い肌が血で濡れる。血の色と悲鳴に興奮したのか、男は獣のような雄叫びを上げた。
狂気の目が伊織の方を向いた。近くの女があげた一際甲高い悲鳴に反応したようだ。その目は何も捉えていない。伊織に向かって一直線に男が飛びかかってきた。もうダメだ、と伊織は目を細めた。血に塗れた刃渡り20㎝はあるナイフが伊織の体を貫こうとした瞬間、何者かに手を強く握られたかと思うとそのまま体ごと遠心力で振り回された。まるで社交ダンスを踊るように急に手を引っ張られて胸の中に引き寄せられた。一瞬のことだったが、スローモーションのように感じた。
「瑛さん・・・」
曹瑛の腕に守られるようにして何とか立っていた。恐怖で足がすくんで、筋肉が痙攣している。後ろを振り返ると、男がアスファルトの上に突っ伏していた。ナイフは手から離れた場所に落ちている。通行人のひとりがそれを蹴飛ばして狂人から引き離した。瞬間、通りは興奮の叫びで溢れた。警察と救急車だ、と怒号が聞こえる。ここぞとばかりにスマホで動画を撮る若者たちは、SNSへの投稿を我先にと競っている。
「帰ろう」
曹瑛はまだ呆然としたままの伊織の手を引いて人だかりを離れた。路地の影から黒服の男が騒ぎの様子をじっと観察している。狂気の男はピクリとも動かない。伊織は自分の手を引いた曹瑛の姿を捉えたとき、ナイフを持って突進してきた男を難なく交わし、その手が一瞬男の首に触れたのを見た。何が起きたか周囲の人もわからなかったのではないか。男が勢いを失って倒れたのはきっとそのせいだ。伊織は自分を支える曹瑛を見上げた。平然とした表情に脂汗ひとつかいていない。あんたは一体何者なんだよ、それは声に出すことはできなかった。
曹瑛に引きずられるようにしてマンションの部屋に帰ってきた。部屋に戻った瞬間、伊織は全身の力が抜けて床にペたんと座り込んだ。一気に背中に汗が噴き出す。口の中はカラカラだ。痙攣するように体が震えている。今、遅れてきた恐怖に全身が戦いていた。
「シャワーでも浴びて寝ろ」
曹瑛の冷静な声が遠くに聞こえる。曹叡はコートをハンガーに掛け、タバコを取り出した。火をつけようとしたが、伊織が動かないのを見かねてその腕を持って強引に立たせた。
「シャワー使うか、寝るか、どっちかにしろ」
伊織の目は涙ににじんでいた。蒼白だった表情にだんだんと赤味がさしてきた。そして曹瑛をじっと睨みつけている。
「俺、殺されかけましたよ今！こんな目に遭ったの30年以上生きてきて今日が初めてですよ！ちなみに、あんなチンピラにケンカをふっかけられたのも！」
伊織は曹瑛に詰め寄った。
「俺を囮にこんなことさせるなんて、俺を雇ったのはそういう目的だったんですか！」
「囮といったのはお前だろう、俺にはそんなつもりはない」
「・・・ホントに死ぬかと思った・・・」
「守ってやっただろ、大丈夫だ、生きてる」
曹瑛は伊織の背を抱いて背中をポンポンと軽く叩いた。その声がことのほか優しくて、伊織は曹瑛の顔を見上げた。意外にも、少し困った顔をしていた。これ以上伊織の泣き言に付き合いたくないと思ったのか、曹瑛はソファに腰掛けタバコに火をつけた。
「・・・シャワー、先にどうぞ」
伊織はこんなときまで気を遣う自分がおかしかった。曹瑛は煙を吐き出す。
「今吸い始めたばかりだ、先に使え」
曹瑛はこう言い出すと聞かない。それに全身汗まみれだ、早く洗い流したかった。客より先にバスルームを使うのは気が引けるが、伊織はその言葉に甘えることにした。
「ありがとうございます」
温かい湯に打たれて少し気分が落ち着いた。曹瑛はソファでタブレットを操作している。
「お前はもう寝ろ、・・・床で寝るなよ」
「なんでベッド使わないんですか？」
伊織は素朴な疑問をぶつけた。
「ソファが好きなんだ」
それ以上何も聞けない答えだった。伊織は諦めてベッドに横になった。ふとんをかぶって体を丸めた。あの男の虚ろな目、血に濡れたナイフ、叫び声がフラッシュバックする。恐怖に全身が支配された感覚。自分の体が動かせないあの感覚。そして無差別に向けられた殺意。それは殺意ですら無かったのかもしれない。破壊の衝動と言うべきか。何の罪もない人が無残に傷つけられていく、それを何もできない無力感。今日のおじさんは生きているだろうか？また知らず涙が流れた。
曹瑛は一体何者なんだろうか。あの中でただ一人冷静だった。あんな危険なドラッグを手に入れたいのか？観光ではなく本当にそれが目的なら、これ以上関わるのは危険すぎる。今日の出来事の映像と感情が洪水のように襲ってきて脳がフル回転している。伊織は何度も寝返りをうちながら眠れずにいた。枕元に置いたスマホを見ると午前2時。口の中が緊張で乾いている。冷蔵庫にあったミネラルウォーターを飲もうと起き上がった。リビングはダウンライトになっている。曹瑛はもう眠ったのだろうか。キッチンに行こうとしてソファを横目で見ると人影があった。曹瑛だ。まだ起きている。机には鈍く光るナイフの列。それもぱっと見るからに20本はある。
「瑛さん何それ・・・」
「伊織・・・起きたのか」
