喜緑色の閃光
「妹に会ってくれないか」
だし巻き卵を口に含んだ瞬間そう告げられた。あれか、もう食っちまったから頼み聞いてくれるよなってやつか。珍しく「学食じゃなくて校外の店で食おう、おごるから」と言われた時からそんな気はしていたが。
「和久って妹いたんだ」
目の前の友人、工藤和久とは大学からの付き合いだ。今は十月だから、ちょうど半年くらいだろうか。和久が実家生なのは知っていたけど、家族の話題が上がることがなかったから妹がいるとは思ってもみなかった。
「高二なんだけど、最近ふさぎ込んでてさ。高校以外のいろんな人と関わったほうがいいと思うし、お前ならちょうどいいかなって」
普通にそう話す和久を見て思わず苦笑を浮かべてしまう。こいつは本当に俺を適任だと思っているのだろうか。面白味のある人間ではないぞ俺。
しかし前金を貰っている以上、イエスと言うしかない。
「別にいいよ。和久の実家ってここからどれくらいなの」
「電車で四十分くらい。たまに自転車で来るけど、その時は一時間くらいかかったかな」
「じゃあ今週の金曜に電車で。五限ないし、次の日休みだし」
「さんきゅ。電車賃は、また何かおごるから」
少し冷めてしまった炊き込みご飯を口に運ぶ。和久もみそ汁を口に含んだ。そちらはまだ湯気が立っている。眼鏡が曇ってしまいそうだから、もう少ししてからみそ汁を飲もう。
隠れ家的な定食屋。大学から歩いて十分もかかるけど、落ち着いていて良い店だな。今日は三限ないし、ゆっくり食べよう。一人暮らしでは絶対作らない煮物があることが少し嬉しかった。
昼食を食べ終え大学に戻ってきたのは三限が始まった頃。次の授業は四限で、それまで来週締め切りの英語の課題を進めることにした。和久は空きコマでサークルの練習をするみたいだ。一応軽音部のベース担当である。
図書室の勉強用スペースに座り筆記具を出す。英語で書いた文章を前に出て発表しなくてはならないから、スペルミスがないようにしなければ。
内容はハワイの紹介文。英語圏の国ならどこを紹介してもいいとなっているが、変にマイナーな国を調べるよりも鉄板な国のほうが拙い説明でもわかってもらえるだろう。
サーフィンやロミロミ、映画祭。ハイビスカスにフラダンス、それからロコモコ。
挙げ出したらきりがないだろう。確か父さんは仕事でハワイに行ったことがあると言っていたし、アドバイス貰おうかな。
とりあえずそれぞれの要素に簡単な説明文をつける。高校の時から英語は苦手なほうだったから言い回しは単調になるだろうけど、変なことは書いていないはずだ。
――それにしても和久の妹ってどんな子なんだろう。俺にも中三の弟がいるが、性別が変われば関係もだいぶ変わるのだろう。俺のほうは仲のいい兄弟だと近所で評判だったけど、殴り合いの喧嘩はなくとも言い合いは結構した。妹相手だとどんな感じで喧嘩するのだろう。そもそも喧嘩なんてするのだろうか。
字面だと「兄弟」と「兄妹」の違いなのに、俺と和久は違う「兄」をやっているんだと思うと不思議だった。
あっという間に金曜日になり、四限の授業が終わった。いつもとは反対方向の列車に乗って、和久の家に向かう。妹は今日部活があるそうだが、俺たちが家に到着する頃には帰宅しているみたいだ。そうなると文化部なのだろうか。ついこの前まで自分もそうだったのに、高校時代が遠い昔のように感じる。
「……あ、あと三駅だよ」
隣で舟をこいでいた和久がようやく覚醒した。片道四十分を毎日のように乗っていると、自然と自分の駅の手前で起きられるようになるのだろうか。
「和久。俺は妹さんに会って何をしたらいいんだ」
「特に何も。話し相手になってくれたら助かるな。最近コミュニケーション取ろうとしたらウザがられちゃって」
……本当に大丈夫なのだろうか。
そうこうしているうちに目的の駅に着く。和久の家は駅から十分ほど歩いた先にある一軒家だった。両親は共働きで、夜遅くまで帰ってこない日も多いらしい。
「俺、本当に家に上がってもいいんだよな」
「いいって別に。妹とお前が二人っきりになるわけじゃないんだし」
別にそれだけを気にしてるわけじゃないんだけど。年下の女の子という未知の生物にどう関わったらいいのかわからないのは本当だけどさ。
話しているうちに部屋の前まで着いてしまった。ドアノブにつけられているプレートには「日和」と書いてある。妹は日和ちゃんっていうのか。
「日和。前に話してた友だち連れてきたぞ。入っていいか」
「――断っても、どうせ入るのでしょう」
小さくも凛とした声が部屋から聞こえた。声から細かい感情を読み取ることは苦手だが、この声はどこかに諦めを含んでいる感じがする。
「ごめいさつー。じゃあドア開けるぞ」
キイ、とドアが開く音に思わずごくんと喉を鳴らしてしまう。ああ、どうか当たりのきつい子ではありませんように――。
部屋の中にいたのは、無表情な顔でこちらをじっと見つめてくる少女だった。和久の顔面偏差値が高いのは知っていたが、妹までそうだとは。
「なんだ、思ってたより普通じゃない。かっこいい人って聞いてたのに、なんか残念」
「なーに言ってんだ日和。かっこいいだろ。ほら、眼鏡外したら特に」
……日和ちゃんよ、君の基準を俺に当てはめるのはやめろ。そして和久、勝手に眼鏡を外すな。お前の黄色に光る眼がうっとうしい。眼鏡を返せ。
「それで、おにーさんの名前は?」
「……瀬戸良弥」
眼鏡を取り返し、日和ちゃんに自己紹介をする。一応漢字もわかるように空書きもした。字面だけだと、違う人のように思われてしまうから。
「瀬戸、よしやさん?」
「そう。『りょうや』と読み間違えられるけど『よしや』。よろしくね日和ちゃん」
そう言って手を差し出すと、一瞬きょとんとした顔をした。それもすぐに消え、さっきまでと同じ無表情な目が俺を貫く。
「よろしくお願いします、おにーさん」
握手した手から伝わる温度は、どことなくひんやりとしていた。
それからしばらく和久と日和ちゃんと三人で話をした。内容は天気のこととか、最近の芸能ニュースのこととか。面白いわけでも、面白くないわけでもない、そんな会話。日和ちゃんが口を開くことは少なかったが、途中で抜けることもなく最後まで聞いてくれた。
「ごめん兄貴、私トイレに行ってくる。ついでに飲み物持ってくるわ」
そう言って彼女が退室したのは、一時間くらい経ってからだった。
「なあ和久。こんな感じで良いのか」
正直世間話をしていただけ。彼女のためになっているのかわからない。けれども和久は、別にいいんだよと言う風に笑う。
「多分あいつ喜んでると思うよ。本当に嫌な時はすぐその場から離れるし」
「ふさぎ込んでるんだっけ。いつもあんな無表情なの」
驚くほど彼女は無表情だった。感情の起伏が表情に表れないというか、ずっと人形と話している感じがしたというか。
「いや、ふさぎ込む前から無表情だぞ。昔は豊かだったと思うんだけど。反抗期……とかかな。いつのまにか兄貴って呼び方になってたし」
「そう……なのかね」
兄である和久にわからなかったら俺にわかるはずがない。
「ふさぎ込んでるって感じたのは、最近学校を休む日が増えたからなんだよな。もともと体調崩しやすいんだけど、ちょっと多く感じて」
「ふうん……ま、ぼちぼちやっていけばいいんじゃない」
「……そうだな。ありがとな、良弥」
時計を見たら十八時半。帰るころには二十時になる。さっき飲み物を持ってくると言っていたし、それを飲んだら帰ろう。
「兄貴。ドア開けて」
先ほどと同じ凛とした声がドアの向こうから響く。開かれたドアから入ってきた彼女は、湯気の立つマグカップを三つトレイに乗せていた。
「ブラックコーヒーですけど、よかったら」
どうも、と言いマグカップを受け取る。むわっとした湯気がレンズを襲い、一瞬で白くなった。
「あはは、真っ白だな良弥」
「うるさい」
けれども飲むたびに真っ白になるのはうっとうしい。
「飲む間だけでも眼鏡外せよ」
「――はいはい、そーするよ」
「おにーさんって、視力悪いんですか」
今日初めての、日和ちゃんからの質問だった。
「そんなに悪くないよ。かけなくても日常生活に支障はないくらいかな。まあ、乱視が少しあるからかけたほうがいいんだけど」
半分本当で、半分嘘。本音を言うと、ずっとかけていたい。
「そうなんですか。うちは代々視力が悪いので、おにーさんが羨ましいです」
そう言ってコーヒーを飲む彼女の眼は、赤と青の二層で光っていた。
ああ、そんな色に光るんだ。
どうしようもない気持ちが喉に詰まった気がして、コーヒーを流しこんだ。飲み終えた後に再びかけた眼鏡が、静かに俺をなだめてくれたような気がした。
家に着いたのは二十時を回った頃だった。初めて一人暮らしが少し寂しく感じた。
「とりあえず風呂に入ろ」
湯船に浸かる気分でもないし、シャワーでいいか。さっさと入ろう。
支度をしながら、この土日のうちにしておかなければいけないことを思い出す。洗剤を買わなくちゃいけないとか、来週提出の課題のこととか。
「――そういや父さんにハワイのこと聞くの、忘れてたな」
父さんはカメラマンをしていて、よく海外に出かける。確か今の時期はイギリスにいると言っていた。時差から考えると、今の時間は仕事中だろう。明日の昼頃に電話をかけてみるべきか。
コックをひねり、シャワーを浴びる。目を閉じると、ふっと一時間前の光景が浮かんだ。
晩飯食ってけばいいのに、という和久の申し出を断り、工藤家を出て三人で駅まで歩いた。
「また時間がある時に妹と会ってくれると助かる。あ、でも俺がいない時に内緒で会われるのはちょっと……。基本的に、二人が恋仲にならないならお兄ちゃんは許すんだけど、やっぱり二人きりは……」
シスコン全開の言葉を残して和久は駅の改札まで見送ってくれた。隣にいた日和ちゃんは「馬鹿なの」とだけ言った。きっとその眼は赤く光っていただろう。そんな二人に苦笑しながら別れた。
「……」
シャワーを止め、曇ってしまった鏡を手でぬぐい見えるようにした。
鏡に映る自分の眼は真っ黒だ。
正確には真っ黒ではなくブラウンらしいが、目に見える色は黒に近い。いつ見ても、何度見てもこの色。
「外しても、この色なんだよなぁ」
他の人は、四色に光るのに。その色が見えているのは、きっと俺だけなんだろうけど。
昔から他人の眼が黒以外の色に光って見えていた。たぶん感情とリンクしてその色は変わっていく。
喜んでいる時は緑色。
怒っている時は赤色。
哀しい時は青色。
楽しい時は黄色。
感情にはもっと複雑で細かいものがあると思うけど、すべての元をたどればこの四つの、喜怒哀楽に当てはまるだろう。
その「感情がわかってしまう」ことが、どうしても嫌だった。
人が隠した気持ちを、盗むような行為をしている自分。そんな自分が気持ち悪いと思った。
小学生の時、一度ふざけて父さんの眼鏡をかけたことがある。そうしたら変化する色が見えなくなったから、中学の時に頼み込んで眼鏡を買ってもらった。似合わないと弟は言ったけど、かける直前の眼が緑だったからたぶん素直に褒めるのが恥ずかしかったのだろう。
そのツンデレを嬉しいと思うよりも、弟の「似合わない」という言葉だけを受け取れなかった自分自身が嫌に思えた。
――本当はさっきの日和ちゃんの色も、和久の色も、本当は見るべきではなかったのに。
鏡に映った自分を見ると、髪先からポタポタと水滴が垂れていた。前髪の奥にある眼の色がただの黒なのが、ひどく憎たらしく思えた。
それからも金曜日は工藤家にお邪魔することになった。毎週毎週お邪魔するのは日和ちゃんに悪いだろうと思ったけど、意外にも三人で話すことを楽しみにしてくれているみたいだ。話す内容はいつも世間話で、日和ちゃん自身のことは一か月経った今でもいまいちわからないことが多い。
ブーッ、ブーッ。
講義中だからマナーモードにしていた携帯が鳴る。講師のほうをちらと見ると板書に集中していてこちらを向く気配はない。
メールが一件、和久から。そういえばこの授業あいつ取ってなかったっけ。
〈日和がお前のメアド知りたいって言ってるんだけど、教えてもいいか?〉
い、い、よ……と。返信を返し板書を書き写すことに集中する。書くのが早い人だから、数秒でもかなり進んでいた。
そういえばメアド知らなかったな。話している最中、たまに彼女はガラケーを触っていたが、和久というシスコンの前では連絡先を聞きづらかった。
講義が終わったと同時にまた着信が入る。今度は知らないアドレスで、おそらく日和ちゃんだ。
〈急にごめんなさい。日和です。登録お願いします〉
よ、ろ、し……まで打ったところでもう一件届く。何だよ。
〈おにーさん、近いうちに空いてる日ありますか? うちの兄貴と一緒じゃない日で〉
「は?」
意味がわからない。そこまで日和ちゃんが心を開いてくれている覚えがないんだが。
「でも、断る理由もないんだよな」
兄である和久には言いづらいこともあるのかもしれない。とりあえず金曜日以外だと水曜日、つまり明日だと送った。その日は四限までだが、和久は軽音部の練習日なので帰宅するのは遅い日だし。
「とりあえず、次の授業は和久と一緒の授業だからバレないようにしないと」
机の上を片し次の教室に向かう。教室に向かう途中で届いたメールには、明日の夕方、大学と工藤家の中間にある駅で待ち合わせようとあった。
「やっほ、おにーさん」
待ち合わせの五分前だけど、日和ちゃんはもう待ち合わせ場所に着いていた。
「……日和ちゃん、その格好は」
てっきり制服だと思っていたけど、彼女の恰好は黄色のパーカーと黒のショートパンツ、あまり荷物が入ってなさそうなショルダーバッグ。
今は平日の夕方で、学校がある日。彼女の高校はこの駅から大学方向へ二駅というところにあるらしく、おそらく一度家に戻って着替える時間はない。ロッカーに預けてきた可能性もあるけど、たぶん……。
「今日は学校休んだので」
「やっぱりか……」
体調を崩しやすいとは聞いていたけど、おそらく今回のはさぼりだろう。俺との約束が原因で休んだんじゃないことを祈ろう。
「じゃあ行きましょうか。駅から五分のところに、長居しても怒られない喫茶店があるの」
「はいはい」
とりあえず今はこの子のペースに乗せられておこう。
喫茶店はいわゆる純喫茶というやつで、若い世代の客は少なく落ち着いた雰囲気が心地よかった。この兄妹は落ち着いた雰囲気の店を探すのが得意だな。
暖房が効いているし、値段も手ごろということで、コーヒーとアイスクリームを二つずつ注文した。
「それで、何か話したいことがあるから呼んだんじゃないの」
注文したものが来る前にさわりの部分だけでも聞いておきたい。ふう、と彼女は息を吐いて、俺の目を見た。
「ごめんなさい。うちの兄貴には知られたくない話を聞いてほしくて」
「和久に知られたくないって、恋愛とか?」
「恋愛では悩んでいるけれど、そういうのじゃないの。分類的に……人間関係かしら。簡単に言うと、私学校でハブられているの」
いつものように凛とした声が淡々と告げる。相変わらずの無表情で、どこからもその奥の表情は読み取ることが出来ない。
「――だから、学校もよく休んだりしているの?」
かけるべき言葉がわからなくて、出てきた言葉はこれだった。
「お恥ずかしながら。まあ、持病持ちなので体調不良が三割、行きたくないからが七割くらいかしら」
「普通そこは逆じゃないのか」
「まあまあ――あ、アイスクリームが来ましたよ。食べながら話しましょう」
はあ、と思わずため息をこぼしてしまう。兄である和久に相談せず、数か月前に知り合い、両手の指の数にも満たない程度しか話したことのない俺に相談するって、それだけ兄に知られたくないのだろうか。
アイスクリームはシンプルなバニラ味だがとても美味しい。おそらくハから始まる高いアイスよりも断然。
「それと、『おにーさんに話さなきゃいけない』ってことは特にないの。ただ話を聞いてほしかっただけ。兄貴の前でじゃ話せないどうでもいいこと、とかね」
「和久なら『どうでもいいこと』とかでも聞いてくれそうだけど」
「兄貴は肯定か擁護しかしないもの。ある種の侮辱よ、あんなの」
そういうものなんだろうか。俺と俺の弟だったら割と何でも言いあっていたけど、男女となると言えないこともあるのだろうか。
「――気になってたんだけど、日和ちゃんって喋り方が女子高生っぽくないよね。別にちゃんとした敬語を使えってことじゃないんだけど、なんか大人びているというか」
「ああ、母の口調がうつっているんだと思います」
「お母さんの?」
「ええ。会社員だけど、副業で小説も書いているの。普段から小説みたいな喋り方をしていたから、きっと自然とうつったのね」
「そうなんだ。結構好きだよ、その口調。和久よりも大人びて頭よさそうに思える」
「うちの兄貴、高校時代は学年一位キープしてたんですけどね――一応、あれでも」
一応、あれでも、という言い方が嫌に大げさで思わず笑ってしまった。日和ちゃんも少しおかしそうに目を細め、アイスクリームをすくった。
それからも一時間ほど「どうでもいいこと」を話した。
風呂はシャワー派か湯舟派か、朝食はごはん派かパン派か、みたいな二択について話したり。
別に必要ないんじゃないかと思う科目は何かとか、世界で一番美しいと思うものは何か、みたいな自由に意見を言える話をしたり。
目の前で溶けていくアイスクリームに意識が行き、コーヒーがすっかり冷めてしまうくらいまで話した。
「あ、もう六時ですね」
日和ちゃんの声で気が付くくらいには、話し込んでいた。
「そろそろ解散しようか。流石にそろそろ帰ってなかったらやばいんじゃないの」
「そうですね。万が一兄貴と鉢合わせになったら面倒だし、出ましょうか」
日和ちゃんの分も支払い、店を出た。出たころにはすっかり暗くなっていて、それと反対に多くの店がクリスマスに向けての電飾で眩しかった。まだ十二月に入ったところだが、世間というものはすっかり年末のことに注目している。
「おにーさんって、年末年始は実家に帰るんですか」
駅の改札をくぐったところでそう声をかけられた。お互いの乗る駅は違っていて、エレベーターを昇る手前のここでお別れだ。
「そのつもりだよ。ちょっとしか帰れないけど、帰れる時には帰りたいし」
そう伝えると日和ちゃんは少し目を伏せた。
「どうしたの」
そう声をかけると彼女はパッと顔を上げて、いつもの無表情を少し崩してうっすらと微笑んだ。
「ううん、何でもない。今日はありがとう、おにーさん」
彼女がエレベーターを上がっていった後も、俺はその場から動けなかった。
今日は自分たちとはどこか遠いように感じる世間話とは違って、お互いの意見や考えていることについて話し合えた。でも結局踏み込んだところまでは何も話さなかった。恋愛で悩んでいることも、人間関係――兄に話したくない、ハブられているということも。
今日の密会は彼女にとって有意義なものだったのだろうか。さっきの目を伏せたことは、何かを言い出す前の心の準備だったのではないだろうか。
ふと最初に会った時の、赤と青の二層に光っていた彼女の眼を思い出す。
彼女は本当に微笑みたかったのだろうか。
そう頭の中でつぶやいてしまって、ひどい自己嫌悪が押し寄せる。
眼鏡をかけた眼で見たものだけを受け入れなければいけない。それが普通の人が見て、受け入れる感情なのだから。
彼女が表示した「微笑んだ」こと以外の感情を勝手に推測して、隠したはずの感情を盗もうとしてはいけないのだ。
水曜日の密会は和久にはバレなかったようで、二日後の金曜日の三人で会う時はいつも通りの世間話をした。
それから帰省まで同じような時間が流れ、実家に帰り年が明けた。
「そういや良弥、英語の発表はうまくいったのか」
ようやく仕事が休みになり帰ってきた父さんとは、俺が下宿先へ戻る前日に会えた。
「ああ、助かったよ。でもグリーンフラッシュの話は英語では説明しづらかったからカットしたよ」
「それは悪かったな、長く話しちまって。父さんの中でハワイと言えば、やっぱりグリーンフラッシュだからなあ。一度しか撮れたことないが、やっぱりあの景色が一番好きだ」
グリーンフラッシュ。太陽は完全に沈む直前、もしくは昇った直後に一瞬起こる現象。一瞬だけ、緑色の光が輝いて見える珍しい現象。ハワイやグアムでは、見たものは幸せになれるという言い伝えがあるらしい。
「まあ、発表が成功したんだったらよかったわ。この調子で授業頑張れよ」
「ほーい」
話を聞いた時に送ってきた写真で初めてグリーンフラッシュを見た。肉眼で見ることは一生ないだろうけど、自分の中での世界で一番美しいものはきっとこれなんだろうな、と漠然と思ったことをふと思い出した。
短い冬休みはあっという間に終わり大学が再開した。
金曜日ではないがお土産を渡したいから家にお邪魔してもいいか、と和久に確認を取ると断られた。どうやらお母さんが数日前にインフルにかかり、今も家で休んでいるらしい。
「じゃあ渡しといて。ちょっと多いけど」
「あんがと。でも、こんなに買わなくてもよかったのに」
「家族みんなで食べてもらう用のお菓子と、お前が欲しいって言ってたご当地ゆるキャラのキーホルダー。あと、黄色の袋は日和ちゃんに渡しといて」
日和ちゃんのは何となく似合いそうだな、と思って買ってしまった緑色の髪飾り。弟が生意気にも彼女に買うとか言って付き合わされた店で買った。一応雑誌に載るような有名な店で、通販をしていないそうだからある意味レアなのだろう。
「りょーかい。日和にまでありがとな。何かわかんねえけど、女の子へのプレゼント買うのって大変だったろ」
「プレゼントじゃない。お土産。あと、お前のためのキーホルダーが一番買うのに苦労したってこと覚えとけよ」
まったく人気のないキャラだから本当に苦労した。以前三人で話した時に悪趣味だって日和ちゃんは言っていたから、二つ入りのペアキーホルダーを買わなくてよかったと思う。
家に帰ってから、日和ちゃんからお礼のメールが届いた。結構派手だから学校にはつけていけないだろうけど、気に入ってもらえてよかった。
最近どう、と返信するとすぐに返事が返ってきた。
〈ぼちぼちです。母がインフルエンザにかかったのでしばらくうちに来ないほうがいいですよ。また外で、兄貴に内緒で会いましょう〉
今度こそ込み入った話ができることを期待して、いいよと送った。
日程は来週の日曜日で、前と同じ喫茶店で待ち合わせることにした。ちょうどその日は和久が軽音部で遠出をしてライブを見に行く予定があるそうで、見つかる可能性は限りなく低いからだ。
来週の日曜を楽しみにして、メール画面を閉じた。
日曜日は小雨が降っていて、傘を差すか差さないか迷うような天気だった。今回は駅で待ち合わせではないので、十五分前に喫茶店に着いていれば大丈夫だろう――と思ったけれど、日和ちゃんはすでに喫茶店で待っていた。俺が遅いわけじゃない、彼女が早すぎるんだ。たぶん。
「明けましておめでとうございます、おにーさん」
「今年もよろしくね、日和ちゃん」
簡単に新年のあいさつを済ませ、メニュー表を見る。
「日和ちゃんは昼ご飯食べてきたの?」
「いいえ。待ち合わせは一時だったし、ここで食べる予定だったのだけど。おにーさんは違うの?」
「ううん、俺も食べてないよ。確認しただけ」
ナポリタンやオムライスなどが軽食の欄に書かれている。どれにしようかな、と悩んでいると「ホットサンド二つとコーヒー二つ」と日和ちゃんに勝手に注文されてしまった。いや、食べられないものないからいいんだけどね。
「ここのホットサンド、すごく美味しいの。勝手に頼んでごめんなさい」
「そうなんだ。別にいいよ」
ホットサンドはできるまで時間がかかるので、先にコーヒーを運んでもらった。
「それで、今日は何について話そうか」
「今日は――恋愛相談しても、いいかしら」
その言葉に思わずむせかけた。今日も「どうでもいいこと」を話すと思っていたから、そんな踏み込んだところを話してくれるなんて思ってもみなかった。
「好きな人、いるんだ」
恋愛で悩んでいるとは前に聞いていたのに、思わずそう返してしまう。
「はい。同じクラスの子なんですけど」
ホットサンドがくるまで、その想い人の話を聞いた。
同じ図書委員会に所属していて、委員会中は話すことがあるということ。
ハブられる前は、何度か一緒にお昼を食べたことがあるということ。
無表情でいることに嫌な顔をせず接してくれたこと。
笑った顔がすごく可愛いこと。
いつもと同じ淡々と、凛とした声が語ってくれたそれからは、本当に楽しそうなことが伝わってきた。きっと彼女の眼は黄色に光っているのだろう。
「日和ちゃんはその彼のことが本当に好きなんだね」
「……ええ。好きですよ」
もやがかかったかのように、彼女の声は一瞬うわずった。
「告白しよう、とか考えてるの?」
「……それは全然。想っているだけでいいというか」
「日和ちゃんの行動力から考えたら、言う予定だと思ったけどな」
「嫌ですねえ、そんな簡単に言えたら苦労しませんよ。おにーさんは言えるんですか」
「……言えずに好きな人が転校した過去は持っています」
中二の時だけど。それ以来恋なんてしてない枯れたやつですけど。
「――とりあえずホットサンド食べようか」
到着したプレートから、出来立ての香ばしいにおいが鼻をくすぐってくる。美味しいものを食べて空気を換えよう。少しずつだけど、確実に何かが重たくなってきていた。
ホットサンドをある程度食べたところで、話を再開する。
「そういえば日和ちゃん、ハブられてるって言っていたけどそれは大丈夫なの」
「ええ。なんとか。平気とまでは言えませんけど、ハブられているのはクラスの中だけですし、部活の人や委員会の時に好きな人と話せるだけで幸せです」
「……それならいいんだけど」
きっと理由は聞いたらいけないんだろうな。彼女にとって瀬戸良弥という人間は、好きな人の話はしても、それ以上を話すまでの仲ではないのだろう。
「おに―さんは、そういう経験ありますか」
「え?」
「恋愛で悩んだこととか、人間関係で困ったこととか」
本当に突然でフォークを落としかけた。
目の前の彼女は本当に真剣な顔でこちらを見ている。汗で滑ったフォークをしっかりと握りなおし、呼吸を整えた。
「残念ながらあまりないよ。恋愛は淡い気持ちなだけで日和ちゃんほど悩んでいないし、人間関係もそこまで苦労していない。どちらかと言えば――周りよりも自分自身が嫌になることのほうが多いかな」
「自分自身が、ですか?」
日和ちゃんは静かにフォークを置いて、目線を合わせてきた。彼女の琴線にふれた理由が何となくわかってしまって、再び自分自身に嫌気がさした。
「うん。でもそれは考えすぎの範囲に入ることだし、俺にしか適用しないことなんだと思う。だからもし日和ちゃんが考えていることを『自分自身のせいなんじゃないか』って思っても、それは考えすぎだと思って蹴っ飛ばしていいからね」
「……はい」
ホットサンドをじっと見るように頭を下げ、上目遣いで彼女の顔をうかがう。レンズから外れた視界で見えた彼女の眼は、あの時と同じ赤と青の二層で光っていた。
窓から外を見ると、傘を差した人が急ぎ足で歩いている姿がよく見えた。きっと雨が強くなったのだろう。すっかり冷めたコーヒーを飲み干した。
寝る前に日和ちゃんからメールが何通か届いた。
まずは今日のお詫びのメール。〈雰囲気悪くしてしまってごめんなさい〉だなんて、日和ちゃんが謝ることではないのに。
その次は無表情でいることの理由が書かれているメール。なんてことはない、単に感情を表すのが苦手だからということだった。
〈昔から人前でどんな顔をしたらいいかわからなかったんです。空気が読めないと言われ、どんな表情でいるのが正解なのかわからなくなって。それで感情をセーブする練習をし続けたら、本当に顔に出なくなってしまって。ぎこちない表情を浮かべるのだったらいっそのこと無表情でいようと、もう開き直ってます〉
その無表情から感情を盗んでごめん、と零れた声は静かに落ちた。
最後のメールは、兄である和久に言えない理由が書かれたメールだった。〈私と違って感情豊かで人気者の兄貴に何を相談しても無駄な気がして〉だなんて、ひどいことを言うけど、それは相談することを逃げた言い訳にしか取れなかった。
いったい彼女はどうしたいのだろう。どうして俺には話そうとしてくれたのだろう。
今日踏んでしまった彼女の地雷がどこだったのか思い出す。おそらくは好きな人に対するコメントと、自分自身のくだりだろう。
次会う時は金曜日で、和久と三人一緒の日。この話をすることは無理だろう。この密会がお互いにとっていいものであったらと、思っていた時の自分をぶん殴りたい気持ちに駆られた。
結果からいうと、金曜日に日和ちゃんに会うことはなかった。
「あいつさ、修学旅行が二月に入ってすぐにあるから、それまでに模試や補講が金曜日の放課後に詰め込まれるみたいで忙しいって」
修学旅行が終わるまで会えないだろう、と和久から告げられた時は少しほっとしてしまった。金曜日以外に会おうと思えば会えるのだろうが、今は会わないほうがいい気がする。
「修学旅行どこだっけ」
「北海道だってさ。たかがスキーしに行くだけなのになあ」
「そうだな。俺の時もスキー三昧の日程だったけど、長野だった」
講義が始まる前の雑談。講師は遅れていて、もう授業開始時刻から二分も過ぎている。
「日和のこと、よろしくな」
「は?」
それは兄であるお前に向けて、俺が言うセリフだろ。
「あいつさ、お前と話してるとイキイキしてるんだよ。やっぱ血のつながってない他人だから言えることもあるんだろうなって」
「――和久のこと、ただのシスコンだと思ってた」
「妹が幸せでいられるよう支えるシスコンだよ俺は。でも、お前が義弟になるのは許さないからな」
「はいはい」
日和ちゃん。きっと君が考えている以上に、世界は生きやすいよ。
そうこうしているうちに、あっという間に二月になり、修学旅行もおそらく終わっていた。大学も後期試験が近づいてきている。
三月から大学は休みになるがおそらく実家に帰ることになる。弟の中学校卒業からの高校受験おめでとうを祝わなきゃいけないし。まだ受かるかわからないが。その前に追い込みの手伝いがあるだろうな。
だから今年度中に日和ちゃんに会うチャンスはだんだんと減ってきている。頑張ってあと二回ほどだろうか。
修学旅行どうだった、とメールを送ると一日経ってからメールがきた。〈楽しかったですよ〉という文面からは何の感情も読み取れず、文字コミュニケーションの難しさを知った。今時のトークアプリではなく普通のイーメールだから通話はできない。彼女がガラケーユーザーなのが惜しい。
和久に探りを入れるのも怪しまれるし、でも本人に聞くのはもっと無理だし。仲直りではないけど、それに近い距離の戻し方を考えている日々。
「……とりあえず試験勉強するか」
落ちたら追試がしんどいし。そう言い訳をして机に向かった。
「日和? 最近は合唱コンクールの練習ばっかしてるぞ。あいつ今週は無理みたいだから来週あたり来いよ。試験勉強ちょっとさぼっても良弥なら大丈夫だろ」
結局和久に聞くことにしたけど、思っていたよりあっさりと答えてくれた。こういった質問は普通の範囲内で、変に意識しているのは俺だけなのか。
「そうなんだ。合唱コンクールっていつあるの」
「三月入ってすぐだって。卒業式とか期末考査とか終わってからだって言ってた」
「へえ。日和ちゃんって歌うまいの」
「いや、あいつ致命的な音痴だから口パクしてるんじゃねえかな。でも家では頑張って練習してる。部屋で歌ってるのすごい聞こえてくるし」
その光景を想像して少し微笑ましくなった。当事者や関係者じゃないし、誰が音痴でもそんなに気にしない。でも自分が学生の時に、ひどい音痴のクラスメイトがいたらちょっと敬遠してしまうかも。
好きな人が同じクラスだと言っていたから、音痴だとばれないよう口パクしているのだろうか。それとも頑張って練習して、聞けるくらいのレベルまで高めようとしているのだろうか。
「――そっか。『頑張って』って伝えといて」
「りょーかい。俺らもまたカラオケ行こうな」
「おう」
来週日和ちゃんと会う。その時にちゃんといつも通りでいられるように頑張ろう。
約束の二日前、つまりは水曜日の朝は晴れで風はあまり吹いてい
なかった。
和久は珍しく自転車で来ていた。一時間ほどかかると言っていたのによく来るなと思う。理由を聞くと途中まで日和ちゃんと一緒に登校したらしい。相当嫌がられたらしいが本人は満足げだった。
「そういや今日四限なくなったけど、和久はその時間どうすんの」
「軽音行こうかなって思ってるけど。二月の末に学内ライブあるし」
「そっか」
図書館で勉強する予定だったから誘おうと思ったけど、部活があるなら仕方がない。
「あ、今日って三限の時に集金あったよな確か」
「うそ。いくらだっけ。今日ほとんど財布に入れてきてないのに」
思い返せば先週くらいに連絡があった気がするような。すっかり忘れていた。いつもと違う財布だから銀行のカードもない。帰りの電車賃が足りたらいいけど。
そう言うと和久は良い笑顔を向けてきた。
「足りなかったら貸してやるよ」
「金を?」
「自転車」
「遠慮するわ」
いるようになったらいつでも言えよ、とケラケラ笑いながら言われたが聞き流す。でも交通費を節約できるし、自転車通学も検討したほうがいいのかもしれない。いつも駐輪場の横を通って教室に行くからタイムロスはないだろうし。
ふと日和ちゃんにメールを送りたくなった。金曜に会う前に一度会っておきたい気持ちもあったけど、単純に「今日休講になってちょっと暇」みたいなどうでもいいメールを送りたくなった。授業中だから返事はすぐには来ないだろうけど、忘れないうちに送っておきたい。
「とりあえず教室行こうぜ。テストだしいい席取っときたい」
「だな」
今日のテストは一、二限で三限はテストをしない講義。四限は休みになったから図書館で勉強。頭の中で今日の予定を整理。日和ちゃんの予定が空いていたらいいのにな、なんて。歩きながらメールを送信したら「歩きスマホ成敗」と和久にチョップされたが画面は見られなくてほっとした。
返信を見たのはちょうどトイレに行った時だった。
〈そうなんですか。私のほうは放課後に予定あるので密会はできませんね。好きな人が放課後の歌の練習に参加するそうなので、頑張って私も参加してみようと思うんです。運がよければ教えてもらえますし〉
今回のメールからは嬉しいという感情が伝わってきた気がした。今日和ちゃんはどんな顔をしてメールを打っているのだろう。少しでも口元が緩んでいたらいいな。
頑張ってね、と送ろうとして指が止まる。
何かが引っ掛かった。数秒考え、もう一度メールを見返したけど至って普通の文章。そこから数十秒考え、とりあえず送りかけていたメールを送信する。
「――未来視とか千里眼とかだったらよかったのに」
それもそれで自己嫌悪するのだろうけど。
眼鏡を外し鏡に映る眼をじっと見る。苦笑を浮かべているつもりなのに眼だけは無表情で、ただただ黒い色がじっと見つめ返すだけだった。
集金のお金は足りていて、家に帰る電車賃ちょうどが財布に残った。昼は学食専用のプリペイドカードがあったからなんとかなった。
今日の授業は全部終わり、なくなった四限を利用して勉強する。家に帰ってしまうとだらけてしまいそうで、ある程度人の目がある図書館は勉強に最適だった。
十七時のサイレンがかすかに聞こえる。そろそろ帰ろうか、と席を片し外に出た。まだ完全に日は落ちていないため明るく、春が近づいてきていることが感じられる。風とツンとした空気だけがまだ冬であると主張していた。
あくびをしたら白い息がうっすらと上がった。昨日も遅くまでテスト対策したし、電車で寝てしまうかもしれない。缶コーヒーでも飲んでから帰ろう――と思ったところでさびしい財布を思い出す。うん、寝過ごさないようにしないと。
ブーッ、ブーッ、とマナーモードにしていた携帯が短く鳴る。おそらく日和ちゃんからのメールだろう。
〈だめでした〉
たったそれだけのメールが届いた。
急激に背筋が凍ったような感覚が走った。それにつられるように頭が冷えていき、あの違和感の正体と最悪の可能性が導き出される。
「――っ」
急いで和久に電話をかける。部活中だけど、気付いてくれ。
「もしもしどしたー」
三コールでつながった。
「あのさ、やっぱ自転車借りていいか」
えっ、という声が小さく聞こえる。それから少し考え込むようなうなり声が耳に届く。そりゃそうだ、帰りの電車賃残ったと一緒に確認して喜んだんだから。
「――いいぜ。朝会ったから俺の自転車の位置わかるだろ。鍵つけっぱだと思うからそのまま乗ってけ」
「――ありがとう」
電話を切る前に任せたぞ、と聞こえた気がするが空耳だろう。そうじゃないと彼女がちょっとかわいそうで、良かったなって思う。
自転車置き場に行くとすぐに和久の自転車が目に入った。鍵は言われた通りつけっぱなしで、不用心だと文句を言いたいが軽音部の練習場所まで鍵を取りに行かなくてよかったとも思ってしまう。今度から気をつけろということだな、たぶん。
〈今から行くから嫌じゃなかったら待ってて〉
それだけを送り返し、自転車にまたがる。ずいぶんと久しぶりの自転車は自分の持っていたものよりも高く、少々こぎづらかった。
ゆっくりと日は落ちていく。ハア、ハアと息が上がる。通ったことのない道を走り抜けていく。立ちこぎは辛いけど、スピードはぐんぐんと上がっていく。
『簡単に言うと、私学校でハブられているの』
いくら無表情でも、日和ちゃんがハブられているのはなんかおかしいし理不尽だと思っていた。
『二人で一緒にご飯を食べたこともあるのよ。片手で数えるくらいだったけど、笑った顔がすごく可愛くて今でも覚えてるわ』
付き合っていないのが不思議に思うくらいだいぶ親しい関係だなと、その時は何も思わなかった。
《好きな人が放課後の歌の練習に参加するそうなので、頑張って私も参加してみようと思うんです。運がよければ教えてもらえますし》
男声パートと女声パートは違うはずだ。この教えてもらう相手が好きな人以外の可能性はきっと低い。
『……ええ。好きですよ』
このもやがかかったように一瞬上ずった声で答えた原因はきっと「その彼のことが」と俺が言ったからだ。
そうなると、きっと彼女がハブられている理由は――。
そんなの、酷すぎるじゃないか。
彼女はきっといつだって、苦しみながら過ごしていたのに。
『シャワーって脳が溶けるみたいで、なんか嫌い』
同じ感覚を持っていたけど、そこから感じることは違っていた。
『私はご飯派なのに、私以外の家族がパン派なので毎朝パンを食べるはめになってます』
俺も実家にいる時は、パン派じゃないのに毎朝パンだった。
『間違いなく数学。微積とか、意味が分からないわ』
俺も数学だった。でも、解くのは得意だったし好きだった。
『世界で一番美しいと思えるものは――そうね、コーヒーの湯気が上がっているところ。自分でも不思議だけど、温かいことが伝わるようで好き』
そう言った時の彼女からは本当に好きだということが伝わって、少し湯気もいいなって思わされた。俺にとっての世界で一番美しいと思えるものは――。
ガシャン、と大きく音が立ったと同時に身体が思いっきり吹っ飛ばされる。視界がうっすらぼやけて、ほんの少しだけど吐き気がする。頬のあたりが痛くて手のひらがすりむいている。それでようやく転倒したのだと理解した。
それでも、行かないと。
自転車にもう一度乗りペダルを踏みこむ。かごが少し曲がっていたが、罪悪感を感じる余裕はなかった。
一度も通ったことがない道。それでも携帯のアプリというものは親切でルートを音声で教え続けてくれる。イヤホンをしていないから機械的な女性の声が周りに駄々洩れだが、人ひとり通らない道、道、道。
和久の家まで自転車で一時間。彼女の高校はそれよりずっと手前だから、全速力でこいだらあと数分で着くはずだ。
急げ、急げ、急げ。
どうしてだか、彼女が泣いている気がするんだ。
日和ちゃんの通っている学校の前まで来た。校門の中までは入れないから、近くの道に出ていてくれているだろうか。待っててとは伝えたけど、この辺のことはほとんど何も知らないから思い当たる場所がない。日は沈みかけていて暗く、顔の判別がすぐにできない。どこだ、どこだ。
「よし、やさん」
聴きなれた声だがいつものように凛としておらず、初めて頼りない声が聞こえた。
「よしやさ、おにーさん、どうして」
学校を出て少し先の細いあぜ道に彼女は立っていた。
「日和ちゃん」
「おにーさんの馬鹿、怪我してまで来ることないでしょう」
怒った口調で俺を見る日和ちゃんの顔はいつもと同じ無表情に近いもの。うっすらと目に涙を浮かべているのはイレギュラーだけど、それ以上に違うのは、眼鏡をかけているのに眼の色が黒じゃないこと。ああ、落車した衝撃で眼鏡のレンズが外れたのか。
夕日が落ちる寸前の、青に近い黒と赤のコントラストが美しい空。逆光の中、彼女の髪や服は暖色系の光に当てられている。
世界は赤色。そう言えるようなくらい、視界に入る世界は赤に近い色でできている。
その中で異彩を放つ、日和ちゃんの眼。
緑に光る眼。
グリーンフラッシュだ。思わずそうこぼしてしまいそうなくらい、目の前の光景は幻想的で、暗くなっていく赤い世界と対照的に、涙の効果もあって緑色に眼がキラキラと輝いている。
――綺麗だね。
眼の色から感情を読み取ることは、自分が一番嫌悪していたことだったはずなのに、盗むっていう負のイメージだったはずなのに、そう思ってしまって、どうしたらいいかわからなくて、そう言おうとしたけど。
上手く笑えずに泣いてしまった。